『清良記』の成立と宇和島藩
三間史談会 松本 敏幸
これまで七年間、毎月『清良記』の勉強会を主宰してきましたが、新型ウイルス感染拡大のため、今年三月に予定されていた『清良記シンポジウム』が未定の延期となったうえ、三間史談会の活動も全く停止していたところでしたので、機関誌『泉』に寄稿させていただけることになり感謝しております。
今回は宇和島伊達文化保存会が所蔵している『櫻田家所蔵記録 下』より、『清良記』に関する連書状なるものを紹介させていただきたく思います。この連書状は大正時代に既に稿本となっていたものですが、平成十七年十月号の『伊豫史談』三三九号に紹介されていましたので、その部分を転載し、私の知りうる範囲で解説をしてみたいと思います。
宇和島伊達文化保存会蔵「櫻田家所蔵記録 下」より
『清良記』に関する連書状
清良記と申書ハ三間宮ノ下村水也と申者慶安三年ゟ作立其以後四年目ニ清書仕廻、頓而水也相果、今年迄十年ニ罷成候由、水也弟高串村庄屋甚右衛門右之通申候、尤甚右ヱ衛門並三間屋市兵衛なと打寄仕申候事
(中略)
猶十郎右衛門口上ニ可被申候、恐惶謹言
十月廿一日
古谷九太夫判
櫻田主水
病気無判形御氣遣成義ニてハ無之候
鈴木仲右衛門判
櫻田監物殿様
櫻田数馬様
小原三左衛門様
まず「清良記と申書ハ三間宮ノ下村水也と申者」という文から『清良記』の作者が水也であること、「慶安三年ゟ作立其以後四年目ニ清書仕廻」という文から慶安三年(一六五〇)に編集され始めた『清良記』が四年目の承応二年(一六五三)に完成したということが分かります。「頓而」は「やがて」と読みますが『清良記』が完成して間もなく水也が亡くなっていることが分かります。水也は土居の一族で三嶋神社の神主だったことが分かっていますが、水也の宝篋印塔を守る宮野下土居家の位牌には「月心了水居士 承応三年八月十七日 水也」と命日が刻まれているそうです。
ところで承応二年(一六五三)といえば、宇和島藩では世継ぎであった二男宗時が早世し、山家清兵衛の祟りを恐れた秀宗公が伊吹八幡神社に相談し、御霊屋(おたまや)とか児玉明神と呼ばれていた小社を山頼和霊神社として正式な神社に登録した年でもありました。山家清兵衛公頼が元和六年(一六二〇)に亡くなって三十三回忌の年でした。
また「今年迄十年ニ罷成候由」という文からは連書状の書かれた年が萬治二年(一六五九)であることが分かるのですが、この頃の宇和島藩は前年の明暦四年(一六五八)に藩主秀宗公が亡くなり、前々年の明暦三年(一六五七)には家督が三男宗利に譲られただけでなく、宇和島藩から吉田藩が分治されて五男宗純が初代吉田藩主になるという大きな事件が起きた最中でした。そして、三間は吉田藩になりますが、五年目の寛文元年(一六六一)には既に清良神社が建築されており、清良公が寛永六年(一六二九)に亡くなって、やはり三十三回忌の年でした。
その後の文からは、連書状の内容が水也の弟にあたる高串村庄屋の甚右衛門と三間屋市兵衛によって語られた内容であることが分かりますが、宇和島藩の『清良記』に対する関心の高さが伺えると思います。当時の三間は既に吉田藩だった訳ですが、水也の弟が庄屋を勤める高串村が宇和島藩だったこともあり、宇和島藩側からも『清良記』に対する調査が行われたのだと思います。このように考えると『清良記』は戦国時代を舞台とした軍記物語ではありますが、江戸時代になって伊達の治世で誕生した伊達文化の一つだということが分かります。
余談「山家清兵衛公頼没四〇〇年に想う」
~櫻田玄蕃基親は悪人だったのか~
ところで余談ではありますが、和霊騒動で悪人とされた櫻田玄蕃基親は、清良公が亡くなった三年後の寛永九年(一六三二)に亡くなっています。これはまた山家清兵衛公頼が亡くなってから十二年後のことで、玄蕃は清兵衛の祟りで亡くなったとは言われてきましたが、祟りというには少し年数が経ち過ぎではないかという気がします。今回紹介した連書状に名前のある櫻田監物は実は玄蕃の娘婿に当たり、玄蕃が亡くなった後の櫻田家本家を継いで宇和島藩の筆頭家老になっています。もし玄蕃が本当に悪人であったなら、清兵衛が亡くなった後に玄蕃も監物も筆頭家老などになれるものでしょうか。故に玄蕃が和霊騒動の悪人となったのは、清兵衛を殺めてしまった秀宗公の名誉を守らんが為に、自ら引き受けた悪役だったのではないかという気がするのです。監物を娘婿に迎え男の子のいなかった玄蕃でしたが、亡くなった年にやっと男の子に恵まれます。それが数馬でした。櫻田家代々の墓所も清兵衛を供養する金剛山大龍寺の和霊廟すぐ隣の敷地にあります。玄蕃は清兵衛に寄り添っていたのではないでしょうか。
おわり