☐『清良記』を紐解く会より January 2018


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 平成二十九年十二月十八日、伊井景三会長、安岡賢司理事、岡本裕之会員の四名で、竹葉秀雄先生のご命日『醒庵忌』に出席して参りました。主催は「ひの心を継ぐ会」の皆さんです。又、この日に合わせて竹葉秀雄先生の著書『土居清良』が復刻刊行され、一同歓喜に沸いた会となりました。

 ひの心を継ぐ会では、毎月第二金曜日の夜七時から九時に松山城東麓に位置する大和塾(元和光幼稚園)で『土居清良』の勉強会が行われます。三間も負けないようにしっかりと

『清良記』について学んで参りましょう。

責・三


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# by kiyoyoshinoiori | 2017-12-22 12:46 | 竹葉秀雄先生

☐『清良記』を紐解く会より

 昨年十二月に松浦郁郎先生発行の『清良記』を通読・解説が終了してから一年が経ちました。今年は一月から三間町指定有形文化財の古文書『清良記』の判読・翻刻をして参りましたが、作業をする中に先駆け全文翻刻をされた松浦郁郎先生のご苦労と功績の大きさを感じた次第です。

 新年からは『三間町誌』の勉強をしながら、『清良記』が紹介されている部分の確認作業を致します。各自『三間町誌』『清良記』をご持参下さい。

 また、十二月には竹葉秀雄先生(三間町名誉町民)が昭和十年に著された名著『土居清良』が復刻・発行されます。清良公に感銘を受けた竹葉秀雄先生が、その精神を余す所なく語っており、併せて勉強して参りたい所存です。


☐『竹葉秀雄先生』所縁の地をゆく

 十一月十日、松山から来た青年三名を、竹葉秀雄先生所縁の地にご案内しました。お名前は三浦夏南(こなん)さん、三浦颯(そう)さん、三浦杏奈(あんな)さん。この三浦さん達は竹葉秀雄先生の「ひ」の心を後世に継承・発展させたいと、「ひの心を継ぐ会」をつくられました。竹葉先生の名著『土居清良』も、この会から復刻・発行されることになります。




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 道の駅「みま」で待ち合わせ、先ず向かったのが「窓峠」です。「窓峠」は『清良記』にも亀甲正著『竹葉家』にも登場する場所ですが、真下には旧宇和島鉄道のトンネルがあり、鉄道敷線に奔走した今西幹一郎や河野虎尾らは、竹葉秀雄先生の伯父に当ります。(写真①、②、③)



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 三間小学校には、竹葉秀雄先生が揮毫した「ひ」碑があります。これは、昭和四十二年度PTAと今西寛一校長が建立した明治百年記念碑でしたが、三間町が宇和島市と合併する機会に松本が再建立させたものです。その経緯は勉強会にてお話します。(写真④)


 宮野下の三嶋神社には、竹葉家・三間村塾から譲り受けた大太鼓「雷(いかづち)」があります。これは大横綱双葉山が三間村塾に寄贈しています。(写真⑤)

 竹葉家の墓所は竹葉牧場の奥にあります。左右の石燈籠には左手に「河野氏」、右手に「竹葉氏」とあります。(写真⑥)



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 竹葉家はかつて松下村塾を模範にした「三間村塾」という私塾でした。それは昭和三年頃から、竹葉先生の仁徳に惹かれた青年達が竹葉家に集まって、古事記や論語を勉強するうちに自然に塾となったもので、剣道、柔道、弓道、相撲などの武道も行われていましたが、昭和九年には「神道夢想流杖道」が正式武道となっています。竹葉家前の記念碑は、安岡正篤先生の筆によります。(写真⑦)


 三間中学校の和室には、竹葉秀雄先生の揮毫「明明徳」と双葉山の揮毫「剛健」が飾られています。この言葉は東洋思想「大学」からの出典で、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り」から来ていますが、三間高等学校にある創立二十周年記念碑にも「明徳を明らかにす」と揮毫されており、竹葉秀雄先生の人柄や信念が分かります。(写真⑧、⑨)



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 午後からは、土居中の土居家に伺わせていただきました。そこで見せていただいたのは、土居清良公の「御胸板薬師如来十二神」と土居系図「土居氏一統系傳」です。(写真⑩、⑪、⑫)

 その後、三間町から鬼北町へ向かい、まず深田の河野家、そして好藤公民館を訪ねました。旧深田村庄屋の末裔で、旧好藤村初代村長となったのが、竹葉秀雄先生の母方の祖父「河野通倫」です。

日露戦争では竹葉先生の父・秀資が戦死する不幸が起こりますが、幼い竹葉先生を守り教育したのが、母と祖母、そして深田の河野家でした。(写真⑬)

 次に向かった愛治小学校には、校訓「愛人治心(あいじんちしん)」の碑があります。この揮毫は安岡正篤先生から贈られた物です。(写真⑭、⑮)


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 そして、最後に訪ねたのが松浦健(たけし)先生です。健先生は三間中学校校歌を作曲しておられ、アコーディオンを演奏して一緒に校歌を歌って下さいました。また、訪問の為に三浦さん達も校歌の練習をしてきて下さっており、健先生にも奥様にも大変喜んでいただけました。そして、作曲に纏わる竹葉秀雄先生とのエピソードを伺いました。(写真⑯、⑰)


☐あとがき

 竹葉秀雄先生の『土居清良』の復刻・発行、そして三浦さん達との交流を持てた事は、本当に嬉しい事です。私は三間中学生時代に杖道クラブに所属しており、中学卒業から十年目に上甲一男先生と再会し「三間杖道会」と「愛媛県師友会ひの会」に入会していました。しかし、「ひの会」は二代目近藤美佐子会長が平成二十四年に亡くなられた後、翌年解散となります。その時の私の考えは、
「ひの会」が解散しようがしまいが、三間は何も変わる事はなく、難しい話は松山の先生方に任せて、私は三間で守るべきものを守ろうという思いでした。その一つが『清良記』の研究です。

今回の『土居清良』の復刻・発行は竹葉秀雄先生の命日「醒庵忌」に合わせて発行する為、少し拙速だったようにも思いましたが、今後のテキストにも加えさせていただき、三間も松山に負けぬよう切磋琢磨し、大いに勉強させていただこうと思います。

文責/三間史談会・松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2017-11-29 12:49 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より


 清良記を紐解く活動は、今年の正月から宇和島市指定有形文化財「清良記三間土居旧本・巻第二十三」の翻刻を行ってきましたが、来年からは趣向を変え、三間町誌に見る『清良記』の紹介記事を確認しながら、『町誌』と『清良記』をダブルで勉強して参りたいと思います。

 尚、翻刻作業は有志で継続しますので、御志のある方は是非名乗りを上げていただければと思います。


☐「西南四国歴史文化研究会主催 梼原町研修」に参加して

 十月一日、予土交流会という事で梼原町に行って参りましたが、無医村の僻地で人口減少と高齢化率四十%超に悩んでいた筈の梼原町が、郷土の歴史と伝統文化を守りつつ、様々な国のモデル事業を牽引する自治体として復活しているという報告を耳にして大変感動致しました。

 ごみの収集は住民が行い、廃棄物を出さない燃料サイクルを実現。全ての住宅には無料の光ケーブルが引かれ、高齢者住宅と図書館を兼ね備えた施設にはドクターヘリが発着できます。

 そのような梼原町には古来より受け継ぐ津野山神楽があり、「壌一期(つちいちご)」という祈願がされていて、この世の続く限り継承せねばという強い思いがあるのだそうです。



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三間史談会主催「岡本家研修」を実施


 十月八日、三間町迫目の旧庄屋・岡本家の研修を実施することが出来ました。これは昨年の「美沼の里・産業文化まつり」をきっかけに岡本裕之氏が三間史談会に入会した事で実現した訳ですが、裕之氏が家の歴史に関心を寄せるようになったのは、木下博民先生が『岡本家の矜恃』を発刊して下さったからだといいます。

 又、池本覺先生は東京在住の岡本健氏(裕之氏伯父)と岡本家系図について発表された経緯があり、今回は特に詳しい解説を担当して下さいました。又、今回の研修で一番大きな苦労をされたのが武田利康先生でした。武田先生は岡本家庭園の測量をして下さいましたが、夏の盛りに何度も足を運んで下さり、立派な平面図と鑑賞を発表して下さいました。



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竹葉秀雄著『土居清良』の復刻について

 久松定武県政で県教育委員長を三期十二年勤められ、三間町名誉町民となった竹葉秀雄先生は、昭和十年に『土居清良』という本を著しています。これは『清良記』の解説書で、かつて三間史談会でも、故二宮虎雄先生の解説で、第二土曜日の午前に勉強をしておりましたが、この本が復刻・刊行されるという計画が進んでいます。

 中心的に動かれているのは、大森城登山でご一緒した北増穂の二宮敬和氏です。現在、二宮氏は竹葉秀雄先生の教えを勉強する「ひの心を継ぐ会」の顧問をしておられて、刊行するのは、この「ひの心を継ぐ会」からという事になります。そういう私も会員で、十月十六日には原稿の直しを手伝わせていただきましたが、現在、松山で勉強しているのは二十歳前後の若者達が中心で、今尚竹葉秀雄先生の威光が輝いている事を感じて大変な感銘を受けています。


三間三嶋神社の秋祭り

 台風一過。十月二十三日は晴天に恵まれて、無事に秋の祭礼が執り行われました。

 三間三嶋神社は、天平十年三月二十三日、伊予国主河野玉澄によって大山祇神社から勧請された三島大明神で、三間・鬼北にある神社では最も古い歴史を有しています。中世の三嶋神社は『清良記』に度々登場し、著者「水也」は三嶋神社の神官であったといいます。近代では郷社に列せられ、地域の尊崇を集める由緒ある神社です。これからも秋の祭礼がずっと続いて欲しいと思います。



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文 責・三 間 史 談 会 松 本 敏 幸



      


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# by kiyoyoshinoiori | 2017-10-25 13:10 | 郷土史

 『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を立てたように東西に細長く在る。三間町誌には「西城」「中城」「下城」からなる三連城として紹介しているが、標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。比高差は約三五㍍で、中程に旧庄屋岡本家が居を構えている。

 一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されているが、岡本城よりも多く登場していながら全く有名になっていない。その『迫目城』ではない、そのユニークな名前の数々を紹介しておきたい。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここでは、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側の山という事が分かるだけであったが、「鼡の尾」という例え方は、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更に続く「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。この名前は、「下城」の麓を流れる三間川に架かる「蜂の巣橋」として今も残っている。なぜそのような名前なのかは不明だが、『清良記』にある名前として、これからも大切にして行けたらと思う。
(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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# by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36 | 清良記

はじめに


愛媛県宇和島市三間町出身で、清良記研究をしている松本と申します。この度は縁あって土佐史談会に寄稿させていただきました。私の研究主題は「岡本合戦の年数」についてです。清良記は軍記である為、批判的に解読する必要がありますが、岡本合戦時、領主の土居清良は三十六歳。合戦後に岡本城の城代となり、江戸時代には土居中村庄屋にもなる土居良伯(真吉新左衛門)は二十三歳。そして後に三間郷社三嶋神社の神主となり清良記を著す事になる土居水也(真吉水也)は十代。岡本合戦では大叔父の土居似水が討死しており、供養もあれば年数に勘違いがあるとは考えにくいのですが、清良記の岡本合戦の年数は、著された時から天正九年。しかし、それを教えてはいけないという、暗黙のルールが三間の郷土史を支配してきました。私はそれに異を唱え、郷土三間の枠を超えて同志を募って来ました。岡本合戦の年数は、高知の旁にとっても大切な筈。どうか一緒に研究していただけたらと思います。



「土佐史料に見る岡本合戦の年数批判」


松 本 敏 幸


岡本合戦が登場する最も古い文献は元親記。しかし、そこには年数の記述がなく、長元物語にもない。ところが江戸中期の土佐軍記には天正七年の記述がある一方、同時代の土佐物語は天正九年を記述している。結局、このような混乱は、元親記に年数の記述がなかった為であるが、なぜ土佐軍記は七年とし、土佐物語は九年としたのか、その理由を明確にする必要がある。


江戸中期には戦国時代の研究が盛んに行われたが、捏造や改竄も行われた。土佐国編年記事略には各文献を併記しながら岡本合戦の年数批判をしているが、その根拠となる文献は見当たらない。佐竹系図も久礼村常賢寺蔵佐竹系図は七年であるが、蠧簡集佐竹系図は九年である。最終的に龍澤寺俊派の六年の文書に名前のある山内俊光が、高岡郡多郷村加茂社の棟札では七年から親光となっている事を上げているが、到底年数を裏付ける根拠とは言えず、ただ分かるのは「何も分からない」という事だけである。


ところが土佐軍記の記述は拡大し続けて至る所に増殖を見る。遂には伊予河野家の文献が採用。それを、伊豫史談の古老が定説とした事から、愛媛県編年史は勿論、三間町まで土佐史料を用いて岡本合戦を語る始末となる。高知の旁にも怒りを覚えてもらいたいのは、愛媛県編年史に紹介されている土佐国編年紀事略の引用が、天正七年説の揺るがない根拠となるように細工されている事である。これは編集に深く関わり、また影響を与えた伊豫史談の古老に負う産物であろうが、二箇所の引用を前後入れ替えて張り合わせ、天正八年の時点で岡本合戦の年数について確認があった文書であるかのような印象を持たせている。これは宇和島市立図書館を通し、高知県立図書館から前田和男校訂『土佐国編年紀事略』を借りて、初めて分かった事であった。


しかし、ここまでして伊豫史談の古老達は清良記の天正九年の記述を抹殺したかったのであろうか。河野家の文献が七年であった事が動機であろうか。その留目を刺したと思しきが、愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号の「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」という言葉である。故に、私は怒りを覚え、誰に憎まれようともこの宣伝をやめない。本当に清良記の誤りは明白だと言えるのか?ならば天正七年は本当に正しいのか?本当に明白だとまで言えないのであれば、愛媛県立歴史文化博物館は文書を取り下げて謝罪しなくてはならない。


もう少し土佐史料を批判しなくてはならないが、先に述べたように清良記の岡本合戦の年数は天正九年であり内容は豊富。元親記は年数がなく記事は簡素であるが、二書の間に矛盾はない。故に矛盾は長元物語に始まり、土佐軍記によって拡大される。矛盾は内容だけではなく、地理的な面から言ってもおかしいが、軍記は多かれ少なかれ創作である。ここでは元親記に話題を戻す。



「元親記上

久武兄内蔵助打(討)死之事付(けたり)

   内蔵助有馬湯治之事

 去程に、この内蔵助(久武親信)と云う者は、家老頭、武篇(辺)才覚、旁比類無き者にてありしなり。之に依り豫洲中郡より南伊豫分の軍代を申付けらる。先ず豫洲何原州(河原淵)の城主一覚・西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無(成)城主共内蔵助旗下へ降参す。斯りける処に、南伊与美間(三間)郷の内、城数五つあり。その内岡本と云ふ城、手合する者ありて、忍び入りて之を取る。内蔵助この城へ人数を差籠むべしとて、懸助け候処、残りの城より取出て合戦す。爰にて内蔵助打果てたり。その後は前の内蔵助の跡(後)を弟彦七(親直)に云付けられ、又内蔵助になされしなり。次に右の内蔵助、先年有馬湯治に上り、三七日入る。折節太閤様筑前殿と申せし時、御湯治なされ、内蔵助御相湯に入申す。(中略)この内蔵助と云ひし者は、万事に案深き者にて、元親卿󠄁も耻られ候ひて、残りの老どもよりは挨拶各別なりし者なり。」

(山本大校注『四国史料集』)



元親記の岡本合戦は上巻の最後に登場するが、久武内蔵助の存在を大きくした上で、過去に秀吉に会ったという話を添えている。この並びは、中巻の最後が内蔵助の弔い合戦と秀吉の軍門に下る話で終わるのに似ていて印象を重ねる。そして下巻に向かう気持ちを整えるのであろう。元親記の並びは年数順ではなく、意図して並べてある事に気付く。元親記に登場する南伊予攻めは、岡本合戦・三滝合戦・弔い合戦の順だが、清良記では、三滝合戦・岡本合戦・弔い合戦である。となると三滝合戦に登場する内蔵助が兄か弟かが気になるが、清良記では当然兄。長元物語以後の史料では弟となっているが、元親記は兄とも弟とも記述がない。その答えになるか知れないが、土佐国編年紀事略に弟内蔵助は天正十二年秋に伊予国軍代となったとある。もとより岡本合戦の次の合戦が弔いとなるのが自然であろう。三滝合戦は八年が定説となっている。その前が岡本合戦であれば七年となり、後であれば九年となる。ここに一先ずの決着を見る。



以上



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追伸、第八回「長宗我部フェス」から早や一月が経とうとしていますが、なかなか筆が進まず没稿が増えるばかりです。何事も簡単ではありませんが、精いっぱい自分の人生を生きるという事をしたいと思うています。皆様の応援をよろしくお願いいたします。松本


写真は、愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する清良神社。参道の石段の上にある二の鳥居から望む境内。













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# by kiyoyoshinoiori | 2017-06-12 23:06 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん