『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を置いたように東西に細長く在り、三間町誌では「西城」「中城」「下城」からなる三連の城として紹介されており、その標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されている。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事より

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (松浦郁郎校訂)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここで分かる事は、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側という事が分かるだけであるが、「ねずみの尾」という例えは、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事より

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (松浦郁郎校訂)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事より

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (松浦郁郎校訂)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更にある「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。その名前は今も「下城」から下った三間川に架かる「蜂の巣橋」に残っており、なぜそのような名前が付けられたかは不明だが、歴史ある名前として、これからも大切にしたいと思う。(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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# by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36

はじめに


愛媛県宇和島市三間町出身で、清良記研究をしている松本と申します。この度は縁あって土佐史談会に寄稿させていただきました。私の研究主題は「岡本合戦の年数」についてです。清良記は軍記である為、批判的に解読する必要がありますが、岡本合戦時、領主の土居清良は三十六歳。合戦後に岡本城の城代となり、江戸時代には土居中村庄屋にもなる土居良伯(真吉新左衛門)は二十三歳。そして後に三間郷社三嶋神社の神主となり清良記を著す事になる土居水也(真吉水也)は十代。岡本合戦では大叔父の土居似水が討死しており、供養もあれば年数に勘違いがあるとは考えにくいのですが、清良記の岡本合戦の年数は、著された時から天正九年。しかし、それを教えてはいけないという、暗黙のルールが三間の郷土史を支配してきました。私はそれに異を唱え、郷土三間の枠を超えて同志を募って来ました。岡本合戦の年数は、高知の旁にとっても大切な筈。どうか一緒に研究していただけたらと思います。



「土佐史料に見る岡本合戦の年数批判」


松 本 敏 幸


岡本合戦が登場する最も古い文献は元親記。しかし、そこには年数の記述がなく、長元物語にもない。ところが江戸中期の土佐軍記には天正七年の記述がある一方、同時代の土佐物語は天正九年を記述している。結局、このような混乱は、元親記に年数の記述がなかった為であるが、なぜ土佐軍記は七年とし、土佐物語は九年としたのか、その理由を明確にする必要がある。


江戸中期には戦国時代の研究が盛んに行われたが、捏造や改竄も行われた。土佐国編年記事略には各文献を併記しながら岡本合戦の年数批判をしているが、その根拠となる文献は見当たらない。佐竹系図も久礼村常賢寺蔵佐竹系図は七年であるが、蠧簡集佐竹系図は九年である。最終的に龍澤寺俊派の六年の文書に名前のある山内俊光が、高岡郡多郷村加茂社の棟札では七年から親光となっている事を上げているが、到底年数を裏付ける根拠とは言えず、ただ分かるのは「何も分からない」という事だけである。


ところが土佐軍記の記述は拡大し続けて至る所に増殖を見る。遂には伊予河野家の文献が採用。それを、伊豫史談の古老が定説とした事から、愛媛県編年史は勿論、三間町まで土佐史料を用いて岡本合戦を語る始末となる。高知の旁にも怒りを覚えてもらいたいのは、愛媛県編年史に紹介されている土佐国編年紀事略の引用が、天正七年説の揺るがない根拠となるように細工されている事である。これは編集に深く関わり、また影響を与えた伊豫史談の古老に負う産物であろうが、二箇所の引用を前後入れ替えて張り合わせ、天正八年の時点で岡本合戦の年数について確認があった文書であるかのような印象を持たせている。これは宇和島市立図書館を通し、高知県立図書館から前田和男校訂『土佐国編年紀事略』を借りて、初めて分かった事であった。


しかし、ここまでして伊豫史談の古老達は清良記の天正九年の記述を抹殺したかったのであろうか。河野家の文献が七年であった事が動機であろうか。その留目を刺したと思しきが、愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号の「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」という言葉である。故に、私は怒りを覚え、誰に憎まれようともこの宣伝をやめない。本当に清良記の誤りは明白だと言えるのか?ならば天正七年は本当に正しいのか?本当に明白だとまで言えないのであれば、愛媛県立歴史文化博物館は文書を取り下げて謝罪しなくてはならない。


もう少し土佐史料を批判しなくてはならないが、先に述べたように清良記の岡本合戦の年数は天正九年であり内容は豊富。元親記は年数がなく記事は簡素であるが、二書の間に矛盾はない。故に矛盾は長元物語に始まり、土佐軍記によって拡大される。矛盾は内容だけではなく、地理的な面から言ってもおかしいが、軍記は多かれ少なかれ創作である。ここでは元親記に話題を戻す。



「元親記上

久武兄内蔵助打(討)死之事付(けたり)

   内蔵助有馬湯治之事

 去程に、この内蔵助(久武親信)と云う者は、家老頭、武篇(辺)才覚、旁比類無き者にてありしなり。之に依り豫洲中郡より南伊豫分の軍代を申付けらる。先ず豫洲何原州(河原淵)の城主一覚・西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無(成)城主共内蔵助旗下へ降参す。斯りける処に、南伊与美間(三間)郷の内、城数五つあり。その内岡本と云ふ城、手合する者ありて、忍び入りて之を取る。内蔵助この城へ人数を差籠むべしとて、懸助け候処、残りの城より取出て合戦す。爰にて内蔵助打果てたり。その後は前の内蔵助の跡(後)を弟彦七(親直)に云付けられ、又内蔵助になされしなり。次に右の内蔵助、先年有馬湯治に上り、三七日入る。折節太閤様筑前殿と申せし時、御湯治なされ、内蔵助御相湯に入申す。(中略)この内蔵助と云ひし者は、万事に案深き者にて、元親卿󠄁も耻られ候ひて、残りの老どもよりは挨拶各別なりし者なり。」

(山本大校注『四国史料集』)



元親記の岡本合戦は上巻の最後に登場するが、久武内蔵助の存在を大きくした上で、過去に秀吉に会ったという話を添えている。この並びは、中巻の最後が内蔵助の弔い合戦と秀吉の軍門に下る話で終わるのに似ていて印象を重ねる。そして下巻に向かう気持ちを整えるのであろう。元親記の並びは年数順ではなく、意図して並べてある事に気付く。元親記に登場する南伊予攻めは、岡本合戦・三滝合戦・弔い合戦の順だが、清良記では、三滝合戦・岡本合戦・弔い合戦である。となると三滝合戦に登場する内蔵助が兄か弟かが気になるが、清良記では当然兄。長元物語以後の史料では弟となっているが、元親記は兄とも弟とも記述がない。その答えになるか知れないが、土佐国編年紀事略に弟内蔵助は天正十二年秋に伊予国軍代となったとある。もとより岡本合戦の次の合戦が弔いとなるのが自然であろう。三滝合戦は八年が定説となっている。その前が岡本合戦であれば七年となり、後であれば九年となる。ここに一先ずの決着を見る。



以上



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追伸、第八回「長宗我部フェス」から早や一月が経とうとしていますが、なかなか筆が進まず没稿が増えるばかりです。何事も簡単ではありませんが、精いっぱい自分の人生を生きるという事をしたいと思うています。皆様の応援をよろしくお願いいたします。松本


写真は、愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する清良神社。参道の石段の上にある二の鳥居から望む境内。













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# by kiyoyoshinoiori | 2017-06-12 23:06 | 郷土史

□ 論文「岡本合戦の年数問題」について

 西南四国歴史文化研究会の機関紙「よど」17号に掲載した論文「岡本合戦の年数問題」を当ブログにて公開します。論旨を明確にし多岐に渡らせない配慮をしています。今後は土佐史料批判に特化した論文を発表していく予定です。管理者(松本敏幸)




 以下、「岡本合戦の年数問題」原稿より




『岡本合戦の年数問題』

                                   三 間 支 部 松本 敏 幸


はじめに


 平成二十七年度の総会、『天正期宇和郡の政治情勢と戦国領主たち』と題して石野弥栄氏が「岡本合戦前後の宇和郡内の政治情勢」を語るとの案内をいただき、大変緊張して会場に向かいました。岡本合戦とは、天正年間に三間の『岡本城』(現宇和島市三間町土居垣内)を舞台にして起きた、三間の土居氏と土佐の長宗我部氏との合戦ですが、年数に諸説あり理解に混乱が生じていました。そして、天正七年が定説とされたことで、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白だと言われ、三間町の郷土史学習でも『清良記』を用いて岡本合戦を紹介することがなくなっていました。問題は年数が何年なのかということではなく、貴重な郷土の宝物だと思われていた『清良記』が、実は信頼できない文書だと軽んじられたことにあったのではないかと思います。しかし、『清良記』が軍記物語であっても全てが作り話で片付けられるでしょうか。岡本合戦に関しては、これまで定説だと言われてきた天正七年説こそ、よく検証していただけたらと思います。



 第一章 清良記に見る岡本合戦


岡本合戦は、『清良記』によれば天正九年五月二十三日の夜とされています。


『巻二十三

一、岡本合戦の事

天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ

登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月

二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛

宕講の勤めあり。

かかりける所に、松宗の遠見番一人走り帰りて申しけるは、

岡本の城、宵より異なる体に聞こえ候。西藤右衛門を通正討たるる

か、藤右衛門心がわりなど仕候か

と、申しければ、清良聞きて、その異なるさまはいかにと尋ぬるに

まず二、三の丸はいかにもしずまりて、本丸には火どもあまた所にと

もし、笑声なども聞こえけれども、また恐れたるようにもありて鳴り

はしずまらず候はいかさま不審なるようすに候

と、申しければ、清良つくづくと案ぜられて、

さては藤右衛門を討つにはあらず。必定土佐方の者を引き入れした

ると覚ゆるぞ。当番の侍ども走り向かって見よ

と、ありければ、

承り候

とて、川添喜左衛門、土居右衛門、同大炊助かれこれ二十七騎、物

の具ひしひしとかためて、使い番には土居小次郎、同弥次郎。走り着

きてこれを見れば、案に違わず元親勢百騎ばかり本丸へ引き入れて、

草ずりのまま食事最中とぞ見えし。

 西は三の丸に出て警固して居たりしが、元来、彼臆病にてや、なまじ

いなる事を仕出かし、末々までいかがあらんずらんと、今は案じわず

らいたる体にて、太刀をつえにつきて居たるところへ、川添つつと近

づき寄り

 ご辺はかかる大事仕出かし給い、命を的にかける天魔の所為なるべ

し、急ぎ土居へ参りて陳じ申されよ。しからずば、ただ今それがし、

ご辺が首をはねて持参すべし

 と、気色をかえておどしければ、西は元来思案して居たりけれが、

川添の言葉を聞いてうれしく思い

ともかくも頼み入る間、清良のご前、ご自分に任せ置く

 とて、大森へまかり出たりける。

              (『清良記松浦郁郎校訂』三一六頁より)


「月待ち」は、勢至菩薩の化身である下弦の月を拝む講で、毎月二十三夜に行われます。下弦の月は深夜に昇ってくるので、それまでは深い暗闇となります。「愛宕講」は、火伏の神である愛宕権現を拝む講で、毎月二十四日が縁日とされていました。大森城の本丸には、その権現堂があったとされていますが、六間を「ろくま」と読むにしても、「ろっけん」と読むにしても、大きな建物があったことがうかがえます。本丸は、東西に八十六メートル、南北に十三メートルあり、広さは十分かもしれません。

さて、『清良記』では、岡本城への土佐勢の侵入を不意打ちとは伝えていません。岡本の城代西藤右衛門は巻十五にも名前が登場しますが、一条に人質に出されていた息子の竹森を清良に取り戻してもらった縁があり、土居との関係は良かったと思われます。それで岡本城の異変に逸早く気付くことができたのでしょう。『清良記』では、岡本の城主中野通正が土佐勢を引き入れたと伝えています。

そして、合戦となります。本丸に籠るのが土佐勢百余騎。本丸を奪還しようと攻めるのが、土居二十七騎と加番七十余騎です。この加番衆は、巻二十二に記事になっている、天正九年三月初め、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川に五百余騎さし置かれた、元親の加番の武士に対抗する為、清良が西園寺殿に要請して中野と深田に置き込ませていた有馬、板島、熊崎からの加番衆です。

また、鉄砲は土居だけが持っていたのではありません。土佐も当然持っており、三間勢も二十人が負傷します。土佐勢を三十八人討ち取り、土佐方の玉薬が切れたところで、「夜明けなば城に火をかけて、一人も残らず焼き殺せ」と言う者がいましたが、それを制したのは清良でした。


『大事の前の小事にかかわらうことなかれ。たとえ後より土佐勢何万騎寄せ来るといへども、元親が領内三ヶ国の武士なるべし。日本を引き請けて戦うとも、謀をもって勝つことは戦の習い、元親が者ども攀会を働くとも何程のことかあるべき。打ち破らんことは掌の内なり。』 (『清良記松浦郁郎校訂』三一七頁より)


 その後、六節では、岡本城本丸の捕虜六十八人は無事土佐へ送り返されており、中村の為松城主吉良左京進(元親の弟)からは返礼もあったといいます。



第二章 清良記を用いない郷土史学習


 このように『清良記』の岡本合戦は非常におもしろいのです。それなのに三間の町誌や郷土史学習は、『清良記』の岡本合戦を全く紹介してきませんでした。平成六年発行『三間町誌』には、「土居清良にとって最大の合戦」(一五五頁)、「『清良記』最大の大勝利を挙げた合戦として有名」(一九四頁)と書きながら、具体的な戦略の説明は『清良記』の内容ではありません。また、平成二年発行の『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』では、資料No.3「清良記」とした上で、全く別物の内容を紹介していますが、この間違いは、昭和三十九年に発行された『三間町誌(岡本千戈編)』の岡本合戦の記事を『清良記』の内容と誤解したことによるのかもしれません。多くの人は古文書を手に取って読むことはできません。町誌は身近なテキストですが、『清良記』の内容を紹介しているのか、別の史料の内容を紹介しているのかを明記していない為に誤解が広がってしまったのではないかと思われます。しかし、そもそも、どうして『清良記』の内容が紹介できなかったのでしょうか。これは深刻な問題と言わざるを得ません。

それが『岡本合戦の年数問題』です。

『清良記松浦郁郎校訂』の四三九頁には、「土居式部大輔清良年譜」が収録されていますが、巻二十三の岡本合戦が、巻二十二より前の天正七年の枠に記載されています。しかし、なぜそうなのかという理由は書かれていません。じつは、この年譜は『土居清良公三百五十年祭記念誌』からの転載なのですが、そちらの四五頁に理由が書かれています。つまり、「清良公の生涯における最大の激戦であった岡本、橘合戦は、清良記では天正九年と記述されているが、今日では他の史料によって、天正七年が定説になっているので、この年譜もそれに順じた。」という理由でした。

 平成二十七年三月に発行された『新宇和島の自然と文化(二)』一四七頁には、「三間の中世の城跡」として岡本城跡が紹介されています。頁に限りがあり十分な説明ができなかったと伺っていますが、『清良記』の内容が紹介されました。

 

「『清良記』によると、天正九年五月二三日、河野道正、長曽(宗)我部元親に通じ、土佐軍の侍大将虎之介をはじめ百騎ばかり岡本城に引き入れる。土居清良ただちに城山に攻め上がり奪回する。「岡本合戦」

 翌二四日朝、長曽(宗)我部勢七〇〇〇騎に対し無勢の清良は知略により迎撃追撃して大勝利をあげた。世にこれを「橘合戦」と呼び有名である。」

               (『新宇和島の自然と文化(二)』一四八頁より)


 『清良記』での長宗我部勢は三千八百余騎。ここだけ他の史料によっていますが、ここまで紹介していただけたことは大変な感動でした。しかし、年譜と同様に「清良記には岡本・橘合戦は天正九年となっているが、天正七年が定説である。」という但し書き付きになっているのでした。



 第三章 定説とされた天正七年の根拠


 では、愈々、定説とされた天正七年の根拠について、一つ一つ検証をしてみたいと思います。先ずは、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号』です。その六七頁には、「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白である。」と書かれています。執筆者は石野弥栄氏。本文に付されている註⑿を確認すると「久延彦「岡本合戦の年月に就いて」(『伊予史談』一一三号、昭和十八年)、『愛媛県史』古代・中世第四章。『愛媛県史』資料編古代・中世二二三五~二二三七号。」とありました。それらも全て確認しましたが、『愛媛県史』古代・中世第四章の執筆者は石野氏自身でした。そこには何の説明もなく、天正七年の頁に岡本合戦らしき記事を書き、括弧書きで資料編の文書番号を付けていますが、資料編を確認すると、どの文書にも年数の記述はなく、編者が(天正七カ)と註を付けているに過ぎませんでした。つまり、『愛媛県史』は天正七年説の根拠にはなりません。指摘の根拠が説明されてないのですから、これでは久延彦氏の指摘だけが根拠と思われても仕方がないように思います。

 次に、久延彦氏の指摘ですが、久氏は、「この戦の年月に就いては従来異説があって適従するところを知らない」としながら、何年説が正しいかを検討しなければならないと、一つ目に紹介した『西園寺公広より緒方與次兵衛へ与えた感状』を以て、直ちに「この文書によって天正七年が正しいことが証される。」と結論づけています。しかし、この感状は本当に当時の物なのでしょうか。


    『猶々子々孫々迄及揚名如此候已上

今度中野通政実子之男末並西両人企謀反土州衆引籠岡本之城切

取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被ㇾ仕候に付、豊州土

州従両国取懸候砌及加勢、□□所□海陸対当家、数度之忠節候

間、ほうびとして知行十貫分可差遣候請取次第也可有言上者也

  天正七年五月廿八日      公  広  判

    緒方與次衛殿

              (『伊予史談』一一三号・五五頁より)


 緒方文書は、河野通賢を中野通政と記述していたり、西藤右衛門の名前が記述されていることから、『清良記』の影響を受けて書かれている可能性があります。また、河野通賢に謀反の企てがあったという記述は『清良記』と一致しますが、首謀者を実子之男と西両人としているのは、河野通賢が岡本城に逸早く駆け付けたとする河野文書との整合性を考えたのか、もしくは『清良記』を読み間違えたからではないかと思われます。しかし、西園寺殿の感状に西の名前が出たりするものか。また、緒方氏が岡本合戦で手柄を立てたとすることにも信憑性がなく、豊州を登場させていることにも疑問が残ります。おそらくは、各文書が出揃った江戸時代に創作された感状と見るのが適当ではないでしょうか。

 また、その傍証として『音地松本家文書』『四国軍記』『土佐国編年紀事略』が紹介されていますが、『音地松本家文書』は河野文書とほぼ内容が同じもので、岡本合戦については土佐の文書をもとに、河野通賢が活躍したように編集されています。『四国軍記』とも言う『土佐軍記』は、元禄十五年に小畠邦器によって発行されたと言いますが、底本にされている『元親記』と『長元物語』には、岡本合戦や三滝合戦に年数がなく、「岡本合戦=天正七年」「三滝合戦=天正八年」とした根拠が不明です。また、「岡本合戦→三滝合戦」の順で並べている為、『長元物語』より後の文書には、三滝合戦に「後の久武内蔵助」のような記述があるのかもしれませんが、『元親記』には「後の」という記述はありません。それよりも、はっきりと久武二男内蔵助(親直)が兄(親信)の弔い合戦をするのは、後に天正十二年とされる合戦になっており、弔いに五年も空く方が辻褄の合わないことのように思います。故に、「三滝合戦→岡本合戦」の順が本当ではないかと疑われます。『土佐国編年紀事略』は、中山厳水が郷土史料を研究し、没後の弘化四年に谷影井によって発行されたものですが、江戸時代の歴史研究も近現代のそれと変わらず、不確かな限られた史料をもとに、大いに試行錯誤していることが見て取れます

 このようにしてみると、定説とされた天正七年の史料的根拠は若干不確かであり、「清良記の誤りは明白である」とまでは言い切れないような気がします。



第四章 3タイプある岡本合戦


 ところで、岡本合戦の文書は大きくタイプに集約ができます。それは、当事者である、土居、長宗我部、そして、戦場となった岡本の領主、河野の3タイプです。そこで三者の立場を検証し、岡本合戦への理解を深めてみたいと思います。

 先ず、土居にとって岡本合戦は勝戦であり、「都までもかくれなく聞こえたるはこのときの軍」と、誇らしい出来事でした。表現が誇張される可能性は否めませんが、誰より当事者の立場にあり、合戦当時、土居清良は三十六歳、合戦後に城代となる真吉新左衛門は二十三歳、そして、『清良記』の著者水也は凡そ十歳。その後、三人は晩年まで三間に住しており、討死した似水の供養もあったでしょうし、年数や大まかな内容で嘘を付いてまで宣伝する必要は感じられません。

 一方、長宗我部にとっては負戦であり、三人の大将を失った痛手はありますが、四国統一の為には、僅か一日の負戦に囚われてはいられません。『元親記』は、大将久武内蔵助が打ち果てたことにしか言及していませんが、『長元物語』では、岡本城本丸を乗っ取った竹内虎之介と聟弥藤次の悲運物語に変質。『南海通記』や『土佐軍記』では更に話が盛り込まれますが、発行の早い順に岡本合戦の記事の年数を並べると「無→無→八→七」となり、確かな記録がなかったことが分かります。

そして、一番立場が難しいと思われるのが河野です。河野は岡本城の城主でしたが、『清良記』や緒方文書によれば、長宗我部に内通して謀反を企てていたことになっています。しかし、『予陽河野家譜』『河野系図』『伊予二名集』では河野通賢が逸早く岡本城に駆け付けたことになっており、そこに大きな矛盾を発見するのです。なぜなら、それが本当であれば河野は城主の務めを果たしていることになり、土居が河野を差し置いて褒美をいただくことはないし、何より岡本城が土居の城になることはなかった筈だからです。


『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく

静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大

功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ

のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ

加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど

もなり。』         

(『清良記松浦郁郎校訂』三二八頁より)


 『吉田古記』が、土居垣内村分である筈の岡本城と八幡神社を古藤田村分に記述しているのは、土居垣内村が古藤田村から分かれたからなのかもしれません。『清良記』巻二十四には「堂ヶ内村」と呼ばれ、天正九年六月より土居領になったとあります。一つの村の起源になったかもしれない岡本合戦。どちらにしても、このような大事な話の年数を忘れたり間違ったりするものではないと思います。



 おわりに


 これまでは何が史実かという研究が過ぎてしまい、『清良記』に書いてあることが紹介できない状態でした。しかし、『清良記』は軍記物語です。著者の意図や動機に思いを馳せながら、作品を読み味わい楽しむことが、『清良記』を郷土の宝物として大切にすることではないかと思います。三間支部では毎月第三土曜日の夜に『清良記を紐解く会』を行っており、平成二十八年の五月から四年目に入ります。賛同できる方は是非ご参加ください。


『ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、

そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも

 小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れ

 にか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。し

 かはあれど遼東の亥にやありなまし。

(『清良記松浦郁郎校訂』三頁より)





〈参考資料〉

1.『清良記』松浦郁郎校訂(昭和五十一年)

2.『三間町誌』(平成六年)

3.『三間町誌』(昭和三十九年)

4.『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』(平成二年)

5.『土居清良公三百五十年祭記念誌』(昭和五十三年)

6.『新宇和島の自然と文化(二)』(平成二十七年)

7.『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号』(平成十年)

8.『伊豫史談』一一三号(昭和十八年)

9.『愛媛県史』古代Ⅱ・中世(昭和五十九年)

10.『愛媛県史』資料編 古代・中世(昭和五十八年)

11.『愛媛県編年史』第五(昭和四十四年)

12.『音地松本家文書』(三間公民館撮影)

13.『四国資料集』山本大校注(昭和四十一年)

14.『土佐国編年紀事略』前田和男校訂(昭和四十四年)





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写真は、土居清良公を祭神に祀る「清良神社」。愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する。時は江戸時代、宇和島藩二代伊達宗利公の治世。土居清良公の三十三回忌に当たる寛文元年(一六六一)に創建されたと伝う。







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# by kiyoyoshinoiori | 2017-06-08 10:36 | 論文

□『清良記』を紐解く会より

 新緑の候、皆様におかれては益々ご健勝の事と思います。さて1月からスタートした『清良記三間土居旧本』の翻刻も順調に波に乗って来たように思っておりますが、毛筆で書かれた崩し字を見るにつけ、先駆けて全文翻刻を出版された、松浦郁郎先生の功績とご苦労の大きさを身に染みて感ずるところです。
 1月から5月までの翻刻はすでに会報を通して手に取っておられると思いますが、それは私一人の研究発表のようなもの。それをたたき台にして参加者全員による確認作業を行い、間違いの訂正や不明箇所の特定を行い、その上で、柚山俊夫先生にお墨を付けいただくというのが現在の取り組みです。
 そして、6月からは、東京都あきる野市在住の土居秀夫会員による翻刻がたたき台となります。行く行くは巻二十三『岡本合戦』と関連個所を収録した冊子を出版したい考えですが、私一人の作品にはしたくありません。これからは希望される方には原文コピーをお渡ししますので、『清良記』を紐解く会に参加する全員で作りあげる事業として参りましょう。


□「第八回長宗我部フェス」に参加して

 5月20日(土)は晴天に恵まれて、今年も「長宗我部フェス」に出席して参りました。今回の収穫は、主催者代表であり前高知県立歴史民俗資料館の館長、現在は高知県立図書館の館長である土佐史談会の宅間一之会長とお近づきになれた事です。会長には、土佐史談会への寄稿のお許しと、岡本合戦の年数問題について一緒に研究していただけるという約束をしていただく事ができました。しかし、それもこれも全ては私達のやる気ひとつに掛かっています。是非、皆様のご尽力を宜しくお願い致します。



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□「迫目岡本家研修」について

 三間史談会の本年度の町内研修は、迫目村庄屋の後裔で三間村の発展に大きく関わった岡本家を訪問する内容で準備を進めています。これはひとえに、昨年入会された岡本裕之会員のご厚意と感謝していますが、これまで岡本家と交友のあった池本覺先生、庭園の見立てに詳しい「三間の自然を守る会」の武田利康先生と打ち合わせながら、今までにない岡本家について学べる研修になるであろうと期待しています。



                            三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸






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# by kiyoyoshinoiori | 2017-06-05 10:58 | 郷土史

平成29年5月20日(土)



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高知県南国市にある岡豊城址の高知県立歴史民俗博物館で催された、第八回「長宗我部フェス」に参加して参りました。
晴天に恵まれて、これまでで一番の良い天気と主催者を代表して宅間一之氏が挨拶。長宗我部鉄砲隊の祝砲と共にフェス開催となりました。
現在、岡豊城址の詰(本郭)には二年間限定で木造櫓も建造されています。戦国時代に四国の覇者として有名な長宗我部氏は、昨年は「真田丸」に四男長宗我部盛親もユーモアたっぷりの存在感を見せてくれていましたが、高知県では、ジョン万次郎、坂本龍馬、に並ぶヒーローです。様々に趣向を凝らし、高知県の人達が長宗我部氏を誇りとし大切にしている事がヒシヒシと伝わってきました。
また、宅間一之氏は高知県立中央図書館の館長で、土佐史談会の会長もしておられますが、我が郷土三間の軍記物語『清良記』を、三間史談会と土佐史談会で合同で研究するという提案もさせていただきました。大変有意義な高知行きとなりました。



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撮影日:平成29年5月20日(土)
撮影地:高知県南国市、岡豊城址
撮影者:松本敏幸©︎

(注意:写真の著作権を主張し、無断の複製、転載を禁じます。)





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# by kiyoyoshinoiori | 2017-05-20 23:59 | 戦国フェス

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん