清良記を紐解く会『巻一』

【テキストでは『第二回』としていますが、三間史談会の記録では第一回となっています。どちらでも良いような物ですが、ここでは『巻いち』としておきます。このようなズレというものは、今も昔も少なからずできて来るものだと思います。さて、しかし『巻一』の扱いは大事です。校訂本清良記には『まえがき』がいくつもありますが、では清良記自体にはそれがあるのか?私は『巻一』が清良記のまえがき部分にあたると位置付けています。そして、そこには清良記を著した意味と動機が明確に記されており、清良記の性格を理解する上で非常に重要な内容である事に気が付いたのです。松浦郁郎先生からも『よく発見してくれた!』と大変に喜んでいただきました。】


□  清良記を紐解く会  第二回

*  はじめに  *
    今回からいよいよ清良記の読み合わせに入ります。清良記に関する資料は数々ありますが、清良記そのものを知らなくてはなりませんので、清良記松浦郁郎校訂版をテキストに用い清良記についての知識を深めたいと思います。
    今回は巻1ー1『清良根元先祖の事』です。この部分は土居水也が著した清良記の前書き部分に当たります。ここを良く理解する事で清良記全体を理解できるようになります。

*  鈴木三郎重家  *
    清良記は、土居家の根元先祖は、紀州の生まれで源義経に仕えてた鈴木三郎重家だと紹介しています。しかも、鈴木三郎重家が伊予国主河野四郎通信と従兄弟であった事になっています。

*  河野四郎通信  *
    鈴木三郎重家から嫡子千代松を預かった伊予国主河野四郎通信は、千代松が利発なのをたいそう気に入り、河野家の後継者にしようとして問題を起こしています。結果、通信は千代松に娘を娶らせて三間郷を所領させる事にします。

*  初代土居清行  *
    千代松は元服し土居清行と名乗ります。由来は先祖が紀州国牟婁郡土居の出身であった事によります。清良記巻30ー10には、初代清行が奈良山等妙寺に金剛劍を寄進したという記事も登場。

*  土居備中守清時  *
    土居家中興の祖と紹介されている七代土居備中守清時は、楠木多聞兵衛正成の弟子であり秘密の軍法を学んだとされています。

*  得能三郎能行・得能弾正忠能宗  *
    紀州に残した二人の弟が清行を頼って伊予に来ると、母方の名字を取り得能三郎能行と名乗ったと言います。また七代目が絶えた所、土居備中守清時の弟が得能の家継となり、得能弾正忠能宗と名乗ります。得能家は後に家名を変え今城家となります。

*  土居志摩守清晴  *
    清良の祖父土居伊豆守清宗の武功は大きく天皇に覚えいただく所となり、宇和郡の領主西園寺卿の推薦によって清良の父親に当たる三男清晴が征夷大将軍足利義輝公に仕えて志摩守を名乗ったと言います。

*  鈴木孫市  *
    鈴木孫市は雑賀衆の惣領です。鈴木孫市もまた鈴木三郎重家の子孫になる為、三間の土居家に鈴木氏の根元を尋ねる文書を寄こしたとあります。なかなか納得しない鈴木孫市に土居家十代に当たる重宗が歌を詠んで書き送ると、どう思ったかそれ以降尋ねては来なかったようです。

    『水上の濁らば末の川ススキ
        清き流れにいつか澄むべき』

    鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経の命で伊吹八幡宮に双樹のイブキを植えた事でも名前が知られています。伊予国に残す子孫がいたとしても不思議ではないかもしれません…。

*  清良記を著した動機  *
    土居水也は清良記を著した動機について、次のように述べて巻1ー1『清良根元先祖の事』を締め括っています。

    『ああ土居家代々の武名を挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』

    水也が清良記を著した動機を伺うと、土居清良公を中心に土居の侍の活躍を世間に紹介したかったという事が明らかに分かります。故に、清良記は、歴史的事実を書き連ねただけの歴史の教科書ではなく、河野家など他家の活躍について紹介する事も目的とはしていません。紐解く会では、歴史的根拠を尋ねながらも、清良記がどのように土居の侍を紹介しているのかについて紐解きたいと思います。


平成25年6月28日(金)松本  敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-03 07:00 | 郷土史

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