清良記を紐解く会『巻四』

【『巻四』の紐解きです。ここでは土居清良の土佐落ちの様子が描かれていますが、10月にその土佐落ちルート、土佐で領地したという高島、そして土佐一条家所縁の史跡を訪問する現地研修を企画させていただいた事もあり、勉強に合わせて現地調査を行ってきました。調査は実に研修を合わせて7回に及び、そこで色んな人から協力を得て、それまで不明とされてきた『高島』については場所をほぼ特定する事ができました。また土居宗三が土居近江守家忠である事はその後の清良記の記事を見ても間違いありませんが、ここで疑問を残している小松谷寺殿一条康政とは同一人物ではない事が確認できています。


□清良記を紐解く会『巻の四』

    今回は『巻の四』を紐解きます。巻の四は豊後の大友勢に包囲された石城を脱出した土居清良が、土佐国幡多郡の一条兼定の領地へ落ち延びるという話です。
といっても清良は、すぐ土佐に向かったのではありません。自刃を決め石城に残った一族の動向を案じ、使いの者を石城に返しては様子を伺って土佐に落ちるより石城に引き返す事を考えます。
しかし、そこはそれ、土居主水、観音寺佐渡、大内越後、伊藤肥前、四人の長老は大殿清宗から清良を助け一族の主として教育するよう命を受けいます。15歳。多感で血気も盛んな清良は思いを断ちながら土佐へと向かいます。

    三間から土佐へ向かう土居清良の一向は70人を超える大所帯です。その中に姉の松姫もおり、仕える女中も同行しています。松姫は一条兼定に差し出す人質としての役割を果たすよう祖母から諭されて、裾を涙に濡らしながらの土佐落ちでした。
一向はいったん目黒の支持者に身を寄せます。目黒は現在松野町。伊予と土佐の国堺にあり、滑床渓谷から流れる目黒川は土佐の四万十川へ流れる支流の一つです。
10月5日の昼に一族天晴れの報を受けた清良は、目黒川伝いに船を使って土佐に出発しました。

    さて土居清良の土佐落ちで問題なのが清良が上陸したという『種崎』と一条兼定から与えられて領地した『高嶋』の場所の特定です。
    先ず『種崎』は『崎』が着く事から海側の土地であると考えられます。その場所は『大津の城より一里こなた』とあるのですが、四万十川沿いで『崎』の付く場所は、実崎、間崎、角崎、等々…しかし、『種崎』という場所は見当たりません。
これは桂浜の近くの『種崎』が有名である為に、名前の勘違いをしたのではないかとも考えられます。
    すると断然候補に上がるのが『実崎』です。実崎は中村城より一里南に位置しており、陸路で城下を訪ねるには『実崎』が一番適していると思われるからです。

    土居一族の復活を賭けて土居清良を土佐に落とすと決めたのは、祖父土居清宗と祖母妙栄でしたが、闇雲にそう考えたのではありません。伊予の宇和郡が豊後に下っても、豊後と伊予は海に隔てられて陸続きではありません。そのうちに必ず大友宗麟の婿に当たる、土佐中村の一条兼定に宇和郡を所領させるに違いない。一条兼定はまだ若く18歳。後見人となっている父一条房基の弟で兼定の叔父は、土居清貞の娘を娶り土居を名乗る言わば身内同然でした。この一条の家老土居近江守忠家を頼りに清良を土佐落ちさせたのでした。
    しかし、清良も決死の覚悟。もし拒まれでもしていたら刺し違える覚悟であったと清良記は語っています。

    さて土居清良は晴れて土居近江守との面会を果たし、近江守の庇護によって清良は一条兼定の被官として仕える事となります。
    そこで与えられた領地が『高嶋』で、住した地が『高嶋の岡の前』と言います。
さあ、その『高嶋』がどこなのか?それを突き止める為に四万十市に訪問し、先ずは現在市内に残された『土居』という場所を訪ねてみました。
    『土居』のある場所は『竹島』と呼ばれる地域…なにかにおいますね。竹島交番のお巡りさんに尋ねると、そこから郷土史に詳しい方に片っ端から電話をして下さって、近くの竹島神社と臨済宗妙心寺派金亀山菩提寺まで案内して下さり、近所のお年寄りの聴き込みにも付き合って下さいました。

    その最中、交番にお客が来たとの事でお巡りさんは交番に戻られましたが、交番に来てくれたのが先祖が宮大工で竹島神社等の所縁を調査されていた男の方でした。
そして、竹島神社を勧請したのは岩越五兵衛である事。岩越五兵衛は天文二年か三年頃に一条房基との折り合いが悪く、周りの領主から攻められて竹島城で焚死した事。その後岩越五兵衛は祟り神となり、不破八幡宮の祭礼の日に竹島城の前を行く船が沈没した事。また、岩越五兵衛も岩越四所神社に神として祀られた事。そして、その後竹島村は領主が不在であった事等を教えていただきました。これだけ聴けば、誰でもピン!と来ますよね。

    『高嶋は竹島ではないのか!』率直にそう思いました。しかし、そこまでの事はその船大工さんにも分からないとの事。次に向かったのは四万十市庁舎の図書館です。
    そこで手にしたのは、長宗我部元親地検帳、下田村郷土史料、不破八幡宮神事、中村市誌、土佐國幡多郡神社帳、ゼンリン住宅地図。決定的だったのは、中村市誌に『山内時代の地検帳には今の竹島村は高嶋村』との記述を確認できた事です。これで確率が更に上がりました。
    『高嶋』は竹島であり『高嶋の岡の前』は竹島城の向かいに位置する竹島の土居地区であると言う説を紹介するには、考察できる資料が十分出揃いました。

  土居清良が一条の被官となった時にも、当然竹島は領主が不在であったのでしょう。突然伊予から来た侍に領地を分けなければならなくなる領主がいたら、いざこざは起きなかっただろうかという疑問があったのですが、元から領主不在の村であったと言う事であれば納得です。またそこは不破八幡宮から一里程の場所なので、清良記の記述とも矛盾しません。
    これまで郷土史の先生方が『種崎も高嶋も場所が特定できない』と言って来ただけに、この発見は率直に驚き本当に感動した発見でした。
種崎=実崎、高嶋=竹島。説として良いんじゃないでしょうか?因みに『実崎』は『竹島』より四万十川を挟んで少し下流となります。

    残された課題としては、一条の家老土居近江守忠家の特定です。中村市誌の人物の項目には、それが土居宗珊とも宗算とも宗三とも言う、一条の家老と同一人物であると言って良かろうと書いてありました。そしてその末裔がおられ、明治期には土居宗明という軍医がおり、帰郷の後は学校や幼稚園の運営に貢献した人物であったそうです。その土居家墓所は江ノ村にあると言われます。
    その江ノ村には『長法寺』という無宗派の寺があるのですが、家老『一条康政』によって開基されています。その号が『宗覚』、一条の家老であった事、兼定に意見して失脚する事、また時代的にも同時代である事から土居近江守忠家と同一人物ではないかと疑問を抱かざるを得ません。


平成25年9月27日(金)清良記を紐解く会・座長  松本敏幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-05 08:00 | 郷土史

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