清良記を紐解く会現地研修『中村行き』

三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』


□資料①『清良記』


巻の一の一。清良根源先祖の事より
『ああ土居家代々の武名挙げて数うべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を誰にか見せん。梅の花の散り惚れたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし』

巻の一の二。清宗繁盛の事より
『また土佐の幡多、一条房家は豊後大友と縁者ににり給い、度々この処へ手入れあるべき御企てなりしかども、須山よりこの地へ踏み入ることなし。掛りける所に房家、真光御和睦ありて、土居清貞の娘、清良の姉お初上臈を土州房家の弟近江守家忠に嫁しおわします。また河原渕の領主、河後の森政忠は後無しの人なればとて、房家の三男東小路法行の子息を養子に取り組み、法忠と名乗られし。他領よりかように親み寄り申すことは、悉く清宗の軍功によれり』

巻の二の四。真光、石城の加勢を呼び返される事より
御諚の如く某等、数年武士の真似を致し旗頭真光の御前にても人に知られ申すこと、単にお陰に御座候。今更その御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候えども、先年万年も長らえ申すまじ。例え長らえ候えども、大将を捨てて逃げたりなどと、万年までも悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく長らえて、奇怪不思議と浦島などがように候を人の申し伝えて尚悪名表れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えは、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。宗雲父子、かねて仁信深く、礼を厚くして専らに用い、有智の大将にて、下々まで掛かるとぞ見えし』

巻の三の五。石城くずれの事より
『大友、今威勢ある最中なれば、運尽くるとも大名なる故五年十年の内に滅亡ということはあるまじ。さてこの度、宗雲一類果てては三間、河原渕、板島、一辺に豊後へ従うべし。真光も大友の旗下になられんこと疑いなし。さあらばこの国を始めその他皆々、我が事をようやくせいさいにして、誰を頼みても長く浪人になりて、土居の家立て直ること遅かるべし。土佐一条尊家は大友の婿なり。思えば敵にして敵にあらず。さて、一条家の家老近江には、清良が姉婿の上に流石の武士なり。頼むと言わばよも如才はあるまじ。その上、豊後よりこのあたり支配ならば、海上を隔てては如何にも不自由にして治まりにくかるべし。大方は尊家の支配になりて、一条の申され次第たるべし。さようにあらば名ある者の末なりとて本地に帰すべきと思うなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『江州夫婦、御嘆きの中のお喜びとて、御馳走なかなか言葉にも及び難し。さて、一条殿へかくと申し上げられければ、内々、土居殿のこと頼もしき弓取りなれば、叔父近江を縁者に取り組み、名字をさえ所望せしに、これまた八幡の御恵みなりとてお喜びなされ、まず籾俵二百俵御合力あり。また、江州の積りをもって御知行進ぜらるべしとて、清良公へ御使いを遣わされ、その後ご対面なされ、種々御心入れの御馳走浅からず。その後、大かみ御案の如く、大友より尊家へご飛脚あって、南伊予の内、宇和の郡は悉皆一条殿ご支配になり、入り番の衆、皆土佐より仰せつけられしなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『その後、尊家より、まず浪人分とあって高島あたりにて百貫の領地を清良公へ進ぜられ、お松上臈上下四人、土居主水は大津の城へぞ上がりける。次郎もお城へ上がりしかども、清良公惜しみて次郎は呼び下ろしぬ。その年の暮れは高島岡の前という所にて越されける』

巻の六の四。清良公御帰城の事より
『永禄五年七月十日、清良公十七歳にして土佐の幡多高島をお立ちあり。各々名残惜しみて中村に出合い酒迎えすれば、その日も暮れ若藤に泊りて、十一日の晩、川崎泊りにて十二日の朝、須山をこえられければ、奈良摂津守、薄木三河守、その他古の諸将ら走せ重なり、随喜の涙を流して我先にと、足下を見れば倒るる者も多かりし』


□資料②土佐一条家


①一条兼良…応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日( 1481年4月30日
一条本家八代。500年に1人の才人と言われ、源氏物語注釈書『花鳥余情』等を著す。一条神社の主祭神。

②一条教房…応永30年(1423年)-文明12年10月5日(1480年11月6日
一条本家九代。一条兼良の嫡男。応仁の乱の時に土佐へ下向。

③一条房家…文明7年(1475年)-天文8年11月13日(1539年12月23日
一条教房の次男。土佐一条家初代となる。本山氏に敗北した長宗我部兼序の嫡男国親を庇護し、長宗我部家の再興を援ける。

④一条房冬…明応7年(1498年)-天文10年11月6日(1541年11月23日
一条房家の嫡男。土佐一条家二代。父の後を追うように二年後に亡くなる。一説には、重用していた敷地氏を無実の罪で自害させてしまった事を後悔して病死したとも言われる。

⑤一条房基…大永2年(1522年)-天文18年4月12日(1549年5月9日
一条房冬の嫡男。土佐一条家三代。智勇に優れ津野氏を伐ち高岡郡を所領した。戦国大名のような振る舞いが疎まれ、京の一条家から暗殺されたとも自殺をしたとも言われる。

⑥一条兼定…天文12年(1543年)-天正13年7月1日(1585年7月27日
一条房基の嫡男。土佐一条家四代。京の一条本家の養子にされていたが、父の死で土佐に戻され7歳にして家督を継ぐ。養父でもあった祖父房冬の弟房道が後見人となる。重臣土居宗珊を誅殺した事で信頼を失う。天正元年に羽生、為松、安並の三家老の合議で蟄居。天正2年に豊後臼杵へ追放されると、中村で家臣同士の内戦が起こり長宗我部が進駐。天正3年に洗礼を受けドンパウロと名乗る。同年四万十川の戦で長宗我部に敗北。天正13年伊予国の戸島で亡くなる。

⑦土居宗珊…生年不詳 - 永禄12年(1569年)、又は元亀3年(1572年)
土佐一条氏の重臣。一条氏の筆頭家臣で、智勇兼備の名将。兼定を必死に支えたが、主君兼定に聞き入れられず誅殺。中村市誌に『清良記』の土居近江守家忠が土居宗珊である事は確かとの記述あり。

⑧土居宗明…弘化2年9月7日(1845年)-昭和6年12月24日(1931年)
土居宗珊の末裔。軍医となり日清戦争にも従軍。後備陸軍三等軍医正従六位勲四等。帰郷後は中村の幼稚園設立や県立第三中学校等の運営に寄与したと言われる。江ノ村の『小松山長法寺』の境内に土居家墓地がある。

⑨一条康政…生没年不詳。
『小松山長法寺』を開基。宗覚とも小松谷寺殿とも称される。同寺にある宝篋印塔が一条康政の墓と言われている。康政は一条房基の弟で兼定の叔父に当たると言われてきたが異説あり。房基の死後兼定を支えて執権を握り兼定の放逸を諌めたが、聞き入れられず隠居したという。


□資料③神社仏閣


①一条神社:戦国時代に土佐一条家の中村御所であった場所。初代房家が祖父兼良と父教房を始め代々の先祖を祀る為に作った霊廟があったが、長宗我部元親に敗れた四代兼定が中村を離れてから花を咲かせなくなっていたという『咲かず藤』が、文久元年に300年振りに花を咲かせるという吉事が起って一条神社創立のきっかけとなる。創立は江戸時代文久2年(1862年)。昨年150年祭が行われている。


②不破八幡宮:一条教房が京から土佐に下向した時、石清水八幡宮から勧請し幡多郡の一宮とした。体育の日の前々日の祭礼では、初崎にある一宮神社から女の神様が船に乗り、不破八幡宮の男の神様と出会って結婚式をするという特殊神事を行う。蛮習があった土地に、京風の結婚式の習慣を根付かせる目的があったと言う。創建は室町時代中期の文明年間(1469年 - 1487年)。


③岩越四所神社:戦国時代の竹島村の領主岩越五兵衛を祭神として祀る。岩越五兵衛は一条の重臣であった敷地藤安が伐たれた時、敷地党として共に伐たれ焚死。後に祟りが起こり、不破八幡宮の祭礼日に竹島の前を通る船が沈没したと言われる。岩越五兵衛の死後は領主不在の地となる。現在は竹島神社を合祀して、竹島地区の中心神社となっている。地番を天神山城山と言い、竹島城の詰と思われる。


④竹島神社:室町時代に竹島村の領主岩越五兵衛によって勧請された神社。江戸時代までは天満神社であった為に、竹島神社のある山は天神山と呼ばれていた。天神山全体が戦国時代の竹島城であったと思われる。明治3年に竹島神社と改称し同5年に村社となるが、現在は岩越四所神社に合祀されている。昭和26年まで土居守蔵という神主がおられたが、土居宗珊との関係は不明。


⑤金亀山菩提寺:臨済宗妙心寺派の竹島村の寺。竹島村の寺は火事で消失していたが、明治27年に愛媛県大洲市の冨士山如法寺とのご縁をいただき、大洲市にあった末寺で当時廃寺となっていた金亀山菩提寺を竹島村の寺として復興させて今に至る。九州緒方家の磐珪和尚が住職となり中興の祖となる。金亀山菩提寺には岩越五兵衛の位牌を祀っており戒名は『崇福寺殿儀山将翁大居士』。


⑥小松山長法寺:戦国時代末期に一条康政によって開基された無宗派の寺。小松山は一条康政が小松谷寺殿と呼ばれていた事に由来。境内に一条康政の墓と言われる宝篋印塔や、中村市誌が土居宗珊の末裔として紹介している土居宗明の墓所がある。土佐一条家の執権を握っていたと言われる一条康政と、筆頭家臣であったと言う土居宗珊の末裔の土居家墓所が同じ長法寺にあるのは大変興味が唆られると言える。


□MEMO










□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』担当:松本敏幸(2013.10.14mon)


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-06 12:00 | 郷土史

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