清良記を紐解く会『巻八』

【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史

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