清良記を紐解く会『巻九』

【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん