土居清良公の命日参り

【『第一回清良記シンポジウム』の翌日、清良廟のある土居中の牛河山龍泉寺の前田和尚にお願いし、清良公の命日参りをさせていただきました。前年の二十五年三月二十三日にはテレビ愛媛の番組『ふるさと絶賛バラエティーいーよ!』に清良公の大森城と清良記が紹介され、松浦郁郎先生がテレビ出演されました。そして、奇しくも一年後の同日に『清良記シンポジウム』が行われた事。これらを清良廟の前に報告させていただきました。】

    □土居清良公の命日参り

    土居式部大輔清良…天文15丙午(1546)年1月30日、土居伊豆守清宗の三男土居清晴の三男として生まれる。幼名三郎虎松。永禄3庚申(1560)年10月16日、土佐国幡多郡一条尊家の扶持を受ける。永禄5壬戌(1562)年7月12日、三間領主として大森城へ帰城。天正15丁亥(1587)年10月下旬、戸田民部少輔政信の命令により下城。『背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん』と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔もかかる事のありけん、その名を隠れ宿という所に、細々と浅ましく庵引き結ばせて入られける。また代にありし時の下屋敷に住む。寛永6己巳(1629)年3月24日の暮れ、清良84歳。臨終正念にして往生の素懐をぞ遂げられる。本年没後386年。2028年が400回忌となる。


    □『巻二十三』を紐解く

    一、岡本合戦之事
    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて』…清良記によれば、岡本合戦は天正九年の出来事。巻二十四の天正十年の記事には堂ケ内村は『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とあり、巻二十六の天正十一年の記事には『去々年、元親が侍あまた清良に打たれて』とある。土佐方の軍記には正確な年月日を記す物はないと云われる。また清良記によれば、清良公等は毎月二十三日の暮れより大森城の本丸にある権現堂の六間の座敷に集まり、月待ち、日待ちの御講をしていた事が伺える。二十三夜の月は下弦の月で、凡そ深夜零時に昇って来、それまでは闇夜となる。注:六間は約10メートル。大森城本丸は東西に約70メートル、南北に約15メートル。


    二、橘合戦之事
    『敵は人数立つともなく、武者押しの体も見えず、味方に手引きするものあれば、先勢には城を取らせて合図の火を立て、その上、度々の軍に西園寺殿後詰めはなくて、公広の領内三分の一は土佐へ取りければ、今日の大将は我が領内なりと思い心緩くぞあらん』…清良記によれば、土佐勢は川霧に紛れて薄木表の東西二十余町、南北へ五六町の間隙間もなく進んで来るが、我が物顔で戦にもならないと油断した様子が伺える。土佐方を手引きしたのは中野豊前守通正。また巻二十二によれば、芝一族は天正九年三月より既に土佐方に寝返っており『元親より加番の武士五百余騎差し籠りて置きければ、河原渕、定延、西之川、魚成、北之川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とある。合図の狼煙は、岡本、奧野々(興野々か)、原之森(河原渕か)、奥之川、伽之森(戸祇御前山か)。


    三、框越合戦之事。
    『似水、息の下より。今はこうと覚ゆるなり、さて軍は如何し給うやと、問われければ、清良、お心安かれ、敵四千余騎にお中野、有馬よりは一騎も助け来らず、清良一手にて敵の大将三人を始め、彼此二千六百余人討切取り、その他追い散らし、味方も討たれず候』…框越えを守っていた土居似水が矢傷を負い、大内村で陣頭指揮を取る清良公の元へ運ばれる。戦局を案ずる似水に戦功を告げると、似水は安心し、笑いながら眠りに着く。似水は祖父清宗の末の弟で、清良公には大叔父の一人。


    橘合戦之事によれば、兜首八百七十五、雑兵千七百三十七、生け捕り六十八、都合二千六百八十を持って勝鬨を挙げる。大高島新蔵人の口上によれば、土佐勢は三千八百余騎、雑兵一万三千人。よって兜首の23%、雑兵の13.36%、全体では15.54%を失った計算となる。土居方は一人に敵十四人当ての軍とあるので、土居の軍勢を単純計算すると二百七十一騎の雑兵九百二十九人となる。これが前代未聞の手柄といわれ、都まで隠れなく聴こえた橘合戦の戦果だったといわれている。




    □平成26年3月24日(月)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-12 20:00 | 郷土史

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