清良記を紐解く会現地研修『岡本合戦』


□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地検証『岡本城〜橘合戦』


    時下益々御清祥の事と存じます。本日は待ちに待った『岡本城〜橘合戦』の現地検証です。清良記によれば、それは天正九年五月二十三日の宵の事。土佐に内通した中野の侍の手引きによって、岡本城本丸へ百騎の土佐勢が侵入。明けて二十四日、橘の森に仕掛けた六百挺の鉄砲が、総勢三千八百騎と雑兵一万三千の土佐本隊を迎え撃ちます。その舞台を『現地に足を運んで検証しょう』というのが今日の趣旨となっています。暦の違いはありますが、四百三十二年昔の今日の出来事に想いを馳せて、清良記の巻の二十三を紐解いて行きましょう。(松本)




        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇    スケジュール    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


        10:00〜開会の挨拶(高齢者コミュニティーセンターにて)

                ・三間史談会会長    羽藤明敏


        10:05〜スケジュール説明&資料学習


        11:00〜現地検証

                ①橘の森→②岡本城→③大内城→④奥屋敷→⑤新城


        13:00〜昼食(土居垣内集会所にて)

                ・各人自己紹介をお願いします。


        14:00〜基調講演

                『清良記校訂秘話』講師    松浦郁郎


        15:00〜閉会の挨拶

                ・三間史談会副会長    佐竹利夫


        17:00〜懇親会

                ・焼き肉『闘牛』にて行います。参加希望の方は事務局(伊井)へ申し出て下さい。


資料編

・資料①『地誌』

    1.古藤田…三間町誌を見ると、『吉田古記』には八幡神社と岡本城跡が古藤田村分で記録されている事が分かる。ここに、土居垣内が古藤田から分かれて出来た村でなないかという推測が立つ。

    2.土居垣内…『清良記』の巻二十四の一節に『堂ヶ内村』の名前が見え、『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とある。巻二十三の五節を見れば、『堂ヶ内村』は土居清良公の戦功によって誕生した村である事が分かる。

『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大巧を感じ褒美せられ、西園寺家重代の太刀、同刀、馬二疋、そのうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ加増し賜りけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることどもなり』


・資料②『岡本城』

    標高230m。比高差凡そ100m。元は中野殿河野通正の所領。城代は西藤右衛門であったが、土佐方に内通し、天正九年五月二十三日の宵、土佐勢を本丸に引き入れる。岡本城を取り戻した戦功により、天正九年六月からは土居清良公が所領。城代は真吉新左衛門となる。


・資料③『岡本合戦』

    天正九年五月二十三日の宵、大森城で二十三夜の月待ち講をしていた土居清良公は、土佐方に内通していた中野殿河野豊前守通正が、岡本城の本丸に土佐勢百騎を引き入れた事に気付いて東西より攻め登る。塀一重を隔て突き合い打ち合いし、三十八人討ち取り、旗差し物は残らず奪い取り、土佐勢を本丸に生け捕りとする。ちなみに岡本合戦では火攻めを行っていない。


・資料④『橘合戦』

    土居清良公は様々な知恵を働かせ、多勢に無勢の戦を有利に変える。土佐軍に油断あり、土佐方から奪った旗差し物を利用して騙し討ちする作戦。橘の岡の額には段々に四百五十挺の鉄砲を三重に引き隠し、また堂の後ろより西の井口には百五十挺の鉄砲を隠して、翌二十四日の早朝から押し寄せる土佐軍本隊を迎撃。大将久武内蔵助を始め、大将首を悉く討ち取り、清良記に『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるは、この時の軍なり』と言われる戦果を上げる。


・資料⑤『框越合戦』

    二十四日の戦は土佐軍だけではなく、土佐方に寝返っていた芝の軍勢が框(加町)坂峠を越えて土佐軍に加勢。ここで清良公の伯父(祖父清宗の弟)で石城の城代であった土居似水が討死。清良記の巻二十二の十節によれば、三月の初めには『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあり。北山にも新手の敵が控えていたが、有馬、中野、深田、家藤、奈良が駆け付ける。


現地編

・①『橘の森』

    土居垣内地区の八幡神社が鎮座する森を『橘の森』という。東の尾根筋が表参道となり石の鳥居も建てられていたが、現在は藪となって使われておらず、鳥居も壊れ倒されたままとなっている。しかし、まさにここが清良記にある『橘の岡の額』と考えられる。清良公は、ここに四百五十挺の鉄砲を段々に後ろ高く三重に引き隠し、橘の岸の下にささめき入った土佐勢を千余騎討ち取っている。また参道入口であったであろう麓は、個人宅の敷地となっているが、主久武蔵之介を討ち取られて血気に燃える小姓今藤又八郎と、土居の武者法師木ノ本円長坊との一騎打ちが繰り広げられたのは、この場所であったと考えられる。


・②『井口』

    橘の森と岡本城址の谷の間に『中の谷川』が流れている。この入口が岡本城址の登山口であり、橘八幡神社へは裏参道となっている。またすぐ上の森には土居垣内地区の墓所がある。清良公は橘の森の堂の後ろから西の『井口』の藪にも百五十挺の鉄砲を隠していたが、土佐勢の本隊が到着する前に三騎の侍と五十の兵が、岡本城麓の井口に近付き、先に岡本城に侵入している土佐勢へ口上を述べに来る。清良公は、井口に隠した鉄砲を発しないように指示し、三騎の部下を古藤田から来たように見せかけて六人の土佐勢を討ち取る。さらに土佐勢の振りをさせた部下三騎に、その三騎を追わせて土佐勢を騙し込む念の入れよう。


・③『岡本城本丸』

    岡本城の本丸へ土佐勢が侵入したのは、清良記によれば、天正九年五月二十三日の宵である。この宵、清良公は大森城にある権現堂で『二十三夜講』を行っている。二十三夜の月は下弦の月で、日没から深夜零時に月が上るまで闇夜となる。もし戦闘行為があって侵入したのであれば、即座に発見された筈であろうが、此度は中野通正が内通しての運びであったので、土佐勢の侵入は易かったと思われる。土佐勢の侵入に気付いた清良公は、東西から攻め上るが、土佐勢は鉄砲を打ち尽くし、必死に旗指し物まで使って応戦したので、それらを全て奪い取る。また、火を掛けて焼き殺せと言う者もいたが清良公がやめさせ、生け捕りにして岡本城の合戦が終わる。清良記によれば、土佐の侵入勢は百騎。塀一重を隔てて打ち合い突き合いとあり、本丸にある程度の広さを伺う事ができる。


・④『岡本城二、三の丸』

    本丸には火が灯っていたが、二、三の丸は静まり返っていたという。中野の侍で岡本城の城代であった西藤右衛門は、三の丸に出て警固していたが、土居の侍川添喜左衛門に詰め寄られて正気を取り戻す。また、二の丸か三の丸には、西藤右衛門と妻子が住む居館があった事が伺える。この事から、二、三の丸は大森城側からある程度伺える位置にあると思えるが、岡本城本丸と隣接した曲輪であったのか、それとも独立した曲輪であったのかは判断が着かない。それでも岡本城址のホノキ表には、本丸を示す『城』の他に『奥屋敷』『大内城』『新城』等のホノキがあり興味が唆られる。大内城を二の丸であると見れば、奥屋敷が三の丸か。それとも大内城を本丸の一部と見て、奥屋敷を二の丸と考えれば、新城が三の丸かもしれない。


・⑤『侵入ルート』

    土佐の先勢の侵入ルート、また本隊の進軍ルートは定かではないが、狼煙を上げた地点と合戦に内通していた伊代勢から、粗方の推測を立てる事が出来る。まず狼煙を上げた地点は、岡本、奥野々、原之森、奥之川、伽之森の五地点。岡本は土佐の侵入勢。奥野々は興野々で芝次男左京進。原之森は河原渕で当時は既に芝四男源三郎が領主となっている。奥之川は土佐との国境。伽之森は戸祇御前山で芝嫡男一覚政景の本拠地である。また、内通者中野殿河野通正は芝三男四郎右衛門を婿としており、土佐の進軍は芝源三郎と芝左京進を案内者として、芝領から中野領を進んだと見て間違いない。

    故に土佐本隊は薄木表に現れて、沢松→兼近→大内→岡本へ進んだと見られる。本隊前方の大将は久武内蔵助親信、後方の大将佐竹太郎兵衛親則は大内に控える。また、絡め手からは、芝美作守正輔、芝一覚政景、芝四郎右衛門が攻める。そして加勢に至らなかったが、北山から魚成と北の川が戦の動向を伺う。土居の鉄砲隊は橘の森で千余騎の土佐勢を討ち取ったというが、総数では本丸の生け捕り六十八を合わせ二千六百八十人を討ち取っている。その多くは、大内の『裏松の沖』とも『裏仏』とも言う場所での斬り合いであったというが、川端の田の中であったという以外は場所が定かではない。




□平成26年5月24日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』世話役:松本敏幸(090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-15 17:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん