清良記を紐解く会『清良記当時聞書追攷』

【この回は、特別編として、松浦郁郎先生が校訂された清良記に収録されている『清良記当時聞書追攷』について勉強をしました。三間は吉田藩でありながら、『清良記当時聞書追攷』は三代目の宇和島藩主の名前が見られる事から、宇和島藩の者が清良記を調査研究して記録した物と言われています。これは清良記が著された承応二年が吉田藩のできる前であった事を考えても、清良記は宇和島藩との関係が深かったのかもしれません。さて、ここで訂正が一つ。それは本文を読んでいただければと思います。】



□『清良記』を紐解く会・第十二回


    晴天に恵まれた五月二十四日(土)、念願の『岡本城〜橘合戦』の現地研修を行う事ができまして、只々感無量です。この研修の実現の為に、昨年は『清良記を紐解く会』を三間史談会で開催していただきましたし、一昨年は準備登山を中野中の白瀧氏と計画し、武田利康先生を招いて曲輪の調査をしていただきました。今回は、その皆さんのご苦労が結晶となった現地研修であったと思います。

    また岡本城は、岡本合戦〜橘合戦の古戦場跡ですが、ただ有名だから、ただ合戦で勝利したから、という理由で研修を計画した訳ではありませんでした。岡本合戦は有名な合戦である為、清良記以外の資料が存在していますが、これまで三間で紹介されて来た内容は、実は清良記以外の資料に依る事が殆どでした。その為、清良記自体を勉強し紹介する会が必要と考え、『清良記を紐解く会』を立ち上げたのでした。三間の指定文化財であるのは『清良記』です。これからは、清良記の内容を正しく紹介できるようにしなくてはいけないと考えます。その内容が史実としてどうかという話は、その後に続いて出て来れば良い話であると思います。

    岡本合戦の年数について少し述べますと、清良記では天正九年五月二十三日である事情が事細かくのべてありますが、三間河野家や土佐方の文書では、天正七年と書かれている物が多く、これまで三間では『天正七年五月二十七日』で岡本合戦を紹介して来ました。その根拠は天正七年説の裏付けにもなっている、西園寺公広卿が野村の緒方興次衛殿に岡本合戦の褒美として五十貫の領地を与えたという文書ですが、その日付が『天正七年五月二十八日』になっているのでした。この説は伊予史談で昭和十八年に発表されましたが、現在はこの文書の信憑性が疑わしいとされています。これまで昭和五十八年刊行の愛媛県誌も平成七年刊行の三間町誌も、これを踏襲してきましたが、愛媛県歴史文化博物館の学芸員土居聡朋氏は、『現段階で天正七年が正しく、天正九年が間違いとまでは言えない』と言われています。


□『清良記当時聞書追攷』を紐解く


    そこで六月の『清良記を紐解く会』は、特別編として、清良記の後ろに掲載されている『清良記当時聞書追攷』を紐解きたいと思います。これは作者不明の文書ですが、江戸時代における清良記研究の資料とされており、また江戸時代当時の様子が伺える貴重な文書です。江戸時代の研究者はどのように清良記を紐解いていたのでしょうか?ご賞味宜しくお願い致します。


□お詫び・訂正


    これまで『岡本合戦は432年前』と都度ある毎に述べて来ましたが、『正しくは433年前』でした。
    ここに心からご迷惑をお詫びし、速やかに訂正致します。

    天正9年:1581年

    2014年ー1581年=433年前







□平成26年6月27日(金)三間史談会主催『清良記を紐解く会』首座:松本敏幸/携帯:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-16 16:00 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん