清良記を紐解く会『巻十』

【第一回現地研修で四万十市の案内をして下さり、第二回現地研修では大学院の教授まて引き連れて岡本城址へ来て下さった西南四国歴史文化研究会の沢田副会長肝入りで、一条兼定公の四百三十回忌法要に参加しました。この回は、その報告をしながら、『巻十』を紐解きました。】


    □『一条兼定公430回忌法要』の報告


    6月28日(土)、松浦郁郎、池本覚、松本敏幸夫婦の4人が、宇和島市戸島の浄土宗龍集寺で行われた『一条兼定公430回忌法要』に参加しました。小雨の降る朝でしたが、戸島に着く頃には雨が上がり、法要が行われる中で空が晴れて来る不思議なご縁に預かりました。

    一条兼定公は、『清良記を紐解く会』でも勉強した通り、土佐一条家4代当主でしたが、かつては被官の1人であった長宗我部元親の諜略によって土佐中村を追われ、失地回復を願い舅大友宗麟の援助を受けてキリシタンとなり、天正2年に長宗我部元親軍との最後の決戦を行います。始めは勝利を重ね、四万十川以西までの土地を取り戻した兼定公でしたが、遂に四万十川を挟んだ合戦で大敗。敗戦後の兼定公は、伊予の領主達の庇護を受けて戸島に隠棲したと言います。

    浄土宗龍集寺では、江戸時代に戸島の庄屋であった田中家によって兼定公の供養が続けられ、現在も毎日蝋燭の火が灯らない日はなく、7月1日に法要が行われて来ました。兼定公を篤く信奉して来た田中家はキリスト教が解禁されると、キリシタンとなり、四国のカトリック教会の管区長にまでなったそうです。今日の430回忌法要の経を詠まれた和尚の言葉にも、キリシタンであった兼定公が寺での法要をどう思われてる事だろうか…という言葉があり、印象に残りました。

    今日の法要には、龍集寺の檀家と西南四国歴史文化研究会の会員の他、宇和島市長、四万十市長も我が事のように参加され、一条神社宮司も参加されていました。またメディアでは、愛媛新聞社と高知新聞社が取材を行い記事が出るのが楽しみです。法要の後は、参加者全員で海の幸を楽しみ、美酒に酔いしれ、兼定公への思いを篤くしました。



    □『清良記・巻十』を紐解く


    さて、岡本城の現地研修を終えて、紐解きは『巻十』に戻ります。先ず注目するのは三節の永禄九年卯月はじめに行われたという土佐との戦で、土居はかつてない不覚を取り、四十九人が討死。兼ねてよりの被官であった土居主水と観音寺佐渡を失ったとあります。

    問題は五節の『出目川の合戦』です。ここで月日が、また四月朔日の日となっているのですが、もし三節の『卯月』が四月という意味であれば、同じ戦を書き残した記事が二通りあった事になり、その矛盾点や関係性を探る事ができます。しかし、『卯月』が干支の『卯』の月ならば二月という意味にもなり、一連の流れと見る事ができます。

    しかして、その内容を読み比べるに、余りに違いがある事から『卯月』は『卯の月』と読むべきなのかと思われます。十節の『桜井、諸国物語の事』にも、『此度の合戦の次第を詮議ありけるは、勝つは勝ちても(両度)危うき働きして、惜しき者共を討たせ…』とあるように、三節から始まる戦と五節から始まる出目川の合戦は別の戦と読むのが良いでしょう。

    また最後の十一節『桜井、文武の沙汰の事』は、文武両道の意味や必要性について述べてある、大変意義深い文書です。江戸時代当時の三間の教育と道徳精神の高さを感じずにはおれない貴重な文書であろうと思います。





    □平成26年7月27日(日)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(携帯090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-17 15:00 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん