清良記を紐解く会『巻十一・巻十二』

【平成二十六年八月に『巻十一』、九月に『巻十二』を紐解きましたがテキストを作らず、また十月は多忙を理由にお休みする事になりました。その為、三間史談会の会報にテキストを事後掲載させていただきまし。】


【清良記を紐解く会より】

    公私共に忙しく十月は清良記の勉強会をお休みさせていただきましたが、十一月より早速再開したいと思いますので宜しくお願いします。また、八月の巻十一、九月の巻十二はテキストを作らなかったので今回併せて纏めておきます。どうぞ復習にご活用下さい。


【巻十一を紐解く】

    まず巻十一は、法華津殿を懐柔しようとした豊後勢を騙し討ちする話から始まります。仲間になると見せかけて討ち取ったのですから、豊後から受けた恨みは相当な物だろうと思いますが、どんな有力な武将に懐柔されても決して主君を裏切らなかった法華津殿の美談と言えます。また年数は『六月九日』となっていますが、巻十からの続きという事から永禄九年の記事という事が分かります。また、二節では七月初め、七月十七日、七月二十二日。三節では七月二十六日と戦に暇がありませんが、戦場の舞台として『窓の峠』が登場する所は見逃せません。そして、四節に有名な三嶋神社の神罰の話が登場します。

    七節からは永禄十年となります。ここで登場するのは石城修理の話です。前年十月末より準備を始めれば、二月に工事開始とふれを回し、領民は正月の内に二月分の仕事まで仕回して、十五日には石城の修理を終えたとあります。領主に忠誠を尽くす良いエピソードだと思います。また、この時に、後の框越え合戦で討死する土居似水が石城の城代となります。

    また注目すべきは、九節の山内外記の登場です。山内は土佐一条氏の家臣で、七百騎の部下を引き連れて深田を打ち通り、土居中のふたつ森に陣取り大森城に迫ります。しかし、敵地に深入りし過ぎた山内は、敵に囲まれる事を恐れて夜の内に撤退。土居を攻め落とすには謀が必要と主張して田植え時期の五月に再来しますが、敢えなく敗北。しかし、この時の謀が、岡本合戦への伏線になっているように伺えます。


【巻十二を紐解く】

    巻十二は、永禄十年六月二日から始まります。そこには河後森殿の扱いに対する宇和郡の武将同士の葛藤が見え隠れします。河後森殿は土佐一条氏の甥の立場で土佐に組みする事が度々ある為、清良公は旗頭の西園寺殿に再三領主の交代を願い出ているのですが、それがうまく行かないのは、宇和郡の半分の領主が河後森殿の庇護を受けていたからでした。そして河後森殿は、被官であった芝一族に嵌められて行きます。それを四節の最後には『ついに被官の作州に殺されて、旗頭公広へも損とらせ申さんこと目前なり』と書かれています。

    五節では、永禄十一年正月からの土佐との戦で、旗頭の西園寺殿が後詰めしようとしなかった事が書かれています。遂に清良公は西園寺殿に直談判。西園寺殿は大森城へ渋々登り、松峰に旗を立てられて、それが二月二十三日だったと言います。面白いのは九節の扇の的です。那須与一の盗作と酷評する人はよくいますが、清良記自体が『那須が仕まつり候とは違いて矢間はるかに遠く候えば、鉄砲ならでは不定に存じ奉り候』と、鉄砲を使ってより長い距離の射的だった事に言及してあり面白く思います。

    そして巻十二では、遂に西園寺旗下の武将同士である清良公と芝四郎左衛門の争いが起こります。先ず正月二十日に四郎左衛門が大森城に攻め寄り、次に二月三日と二十七日に土居が西の川に攻め寄ります。互いに味方打ちであるので本気ではないにせよ、全くどうしようもなかったと言います。それが現在、面白い事が起きています。鬼北町の文化協会長をされていた芝令香先生は、土居清良公の菩提を祀る龍泉寺の前田家の長男でしたが、母方の里は天満神社の社家を勤める芝家の末裔でした。令香先生は母方の芝家を継ぐ養子となられた訳ですが、かつて仲悪だった二家を取り持つ立場ではないかと話すと大変喜んで下さいます。

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-18 08:00 | 郷土史

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