清良記を紐解く特別講義①『成立年数』

【平成二十六年十一月と十二月は、清良記の特別講義を行いました。先ず『その①』は、清良記の成立についてです。今一度『紐解く会』を発起した原点に立ち返り、清良記が何であるかをはっきりとさせ、刺激として動機を正し、一年を飾りたいと考えました。】


    □『清良記』特別講義その①  2014.11.29  sat  文責:松本敏幸


    ▪︎『清良記』とは

    ①作者→真吉水也、土居家の一族で土居水也とも云う(真吉家は清良の祖父清宗の二男清影が後継になっていたが、石城で親子共に自刃した為、三嶋神社神主河野修理に預けていた清貞の子、新左衛門が真吉家を継いでいる。)
                    宮ノ下村に居住し、三嶋神社の神主であったと云う(三嶋神社蔵『豫章記』より)
                    承応三年(1654)三月十七日、八十数歳にて死去したと云う(『清良記当時聞書追攷』より)
                    清良公が天文十五年(1546)に生まれ寛永六年(1629)に八十四歳で死去されている事から、水也は清良公よりおよそ25歳近く若い事になる。よって水也の生まれは元亀二年(1571)以後となり、天正年間の清良公の姿を直に見てきた事が伺える。
                    その10年後の寛文元年(1662)清良神社が創建される。この年は清良公の三十三回忌の翌年に当たるが、戦国時代の武将であった個人が祭神となる事は非常に稀である。

    (資料1)『宇和旧記』吉良本より

        清良記と云ハ土居式部大夫清良の事を書記したるものなり、此記者宮下村住居せし真吉水也と云ものなり

    (資料2)土居甚右衛門、同長兵衛、同六之助等宛津田理右衛門尉兼康書状より

        清良記土居水也御作立候由及承候、少拝見申度候


    ②成立年→承応二年(1653)伊達宗利が二代藩主となり和霊神社が創建された年でもある

    (資料3)『櫻田家所蔵記録  下』宇和島伊達文化保存会蔵  宇和島藩関係史料より

        清良記と申書ハ三間宮ノ下村水也と申者慶安三年(1650)ゟ作立其以後四年目ニ清書仕廻、頓而、水也相果、今年迄十年ニ罷成候由、水也弟高串村庄屋甚右衛門右之通申候、尤甚右衛門並三間屋市兵衛なと打寄仕申候事(中略)
        猶十郎右衛門口上ニ可被申候、恐惶謹言
        十月廿一日(万治二年  1659)
                古谷九太夫判
                櫻田主水
            病気無判形御氣遣成
            義ニてハ無之候
                鈴木仲右衛門判
        櫻田監物殿様
        櫻田数馬様
        小原三左衛門様


    ③現存する清良記→(資料)清良記松浦郁郎校訂より

        緒方古本、緒方新本、三間土居旧本、三間土居新本、龍泉寺本、赤松本、魚成土居本、高光土居本、伊尾喜本、川添本、吉良本、西園寺本、大三島本、伊達家本、郡鑑本、松山商大本、愛媛県庁本、国会図書館本、渡辺本(校訂本に紹介されているだけで19の『清良記』がある。)


    ④指定文化財としての清良記→(資料)三間町誌より

        『清良記全30巻』古本、及び新本
        土居享市氏より寄贈
        三間町教育委員会蔵
        昭和37年11月3日指定
        指定番号7号有形文化財(典籍)


    ⑤松浦郁郎氏校訂『清良記』→(聴取)松浦郁郎氏より

        三間土居本の古本と新本、及び高串土居本を校訂してみると、古本の表現が簡素であるのに対し、新本には古本にない修飾がされてある。また三間本と高串本とに若干の表現の違いや、三間本には抜け落ち文があり、高串本によって補っている。


    ▪︎『清良記』の内容

    ①動機→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』


    ②土居家の根元先祖→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『それ土居氏は鈴木党にて実名は重氏なり。鈴木の三郎重家の来由は、あまねく人の知れる事なれば、野海の大臣重尊の噂をもこれを除く。重家、あけくれ重清の事をかなしく思われ、奥州下りの心ざし深くして、世間の行後を案じつづけ、今はかくとや思われけん、三人の若の有りしに、太郎千代松殿を文治五年己酉二月はじめに、伊予河野四郎越智通信を頼み、あずけ下されける。この通信も、同国新井の紀四郎近清も、重家の従弟なる故なり。』

    『水上のにごらば末の川すすき清き、流れにいつかすむべき』


    ③土居家の領地→(資料)『清良記』より

    『多くの所領を分かちてつかわしぬ。』(巻一の一節)

    『土居徳能の両家かくの如くなる故、代々一家にて互いにむつび合い、土居家へしたわれければ、いずれもおろそかなかりけり。』(巻一の一節)

    『三月朔日、真光より山田治元御使にて宗雲へ、立間、喜佐方、立間尻、彼之三百貫知行してすなわち石城持たせられ候え。』(巻一の三節)

    『宮下、石原、末森、この三カ村をぞ書き出されける。』(巻六の三節)

    『宮の下村宗案、黒井地村久兵衛、務田村五郎左衛門彼等三人大森へ登城す、』(巻七の一節)

    『去年六月よりは土居殿の御領となれり。』(巻二十四の一節)


    ④土居家の本城→(資料)『清良記』より

    『備中守清貞、わが城を捨てて父と一緒にこもる事』(巻三の一節)

    『土居の両城落としては、西園寺の滅亡うたがいなし。』(巻三の一節)

    『年ごろ日ごろ住みなれし土居の御城を弓手にして、心細くも落ちさせ給う。』(巻四の一節)

    『しかるべし、前表にて雄々しき御帰城なり。錦は飾らざれども人数を飾りぬ。それ武士は人を得ることをもっぱらにすれば、錦を飾りたらんよりはるかにまされり。』(巻六の四節)


    ⑤土居家の家系→(資料)『清良記』より

    (別紙参照)


    □次回、12/    (    )に『清良記』特別講義その②(岡本合戦編)を行います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-19 09:00 | 郷土史

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