清良記を紐解く特別講義②『岡本合戦』

【平成二十六年のラストは『岡本合戦』に纏わる資料批判です。それは清良記の名誉を取り戻す為の取り組みであり、私が清良記を研究する第一のテーマとなっています。】


    □岡本合戦の史料考察(『清良記』特別講義その②)2014.12.13  sat  文責:松本敏幸


    ①岡本合戦とは

    岡本合戦は、『清良記』によれば、天正九年五月二十三日夜、大森城本丸の権現堂に土居の侍が月待ち講をする為に集まっていた所、宵の闇に乗じて中野の侍が岡本城本丸に土佐勢を手引きした事に始まる岡本城の本丸奪還の夜戦です。それに続く翌二十四日の軍は、土佐勢を橘の森で迎え討つ橘合戦と言われています。
    ところが三間の郷土史学習では、清良記の内容で岡本合戦を紹介する事が全くありません。これは清良記を読まなければ気付かない事であり、大変深刻な問題と言わざるを得ません。まさにここに三間の清良記研究の課題が集約されていると言えます。それは『清良記が史料として正しく用いられていない』という意味です。

    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。(巻二十三の一、岡本合戦の事)』

    『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるはこの時の軍なり。(巻二十三の二、橘合戦の事)』


    ②岡本合戦を記述した郷土の書籍

    『南豫史』久保盛丸著(大正四年)p.255-269  p.289-291
    『土居清良』竹葉秀雄著(昭和十年)記述なし
    『伊豫史談118号』(昭和十八年)p.54-55
    『愛媛県編年史』(昭和三十八年〜)第五篇p.65-80
    『旧三間町誌』岡本千戈著(昭和三十九年)p.34-36
    『清良記』松浦郁郎校訂(昭和五十年)p.316-334
    『土居清良公三百五十年祭記念誌』(昭和五十三年)p.4-6
    『愛媛県史』古代Ⅱ・中世(昭和五十九年)p.676-677
    『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』(平成二年)p.90  p.92-94
    『三間町誌』(平成六年)p.152-156
    『土のさむらい』岡本文良著(平成八年)p.153-156
    『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第五3号』(平成十年)p.67
    『城の中世』薬師寺孝男著(平成十六年)p.38
    『伊豫史談339号』(平成十七年)p.21-22


    ③清良記以外の史料(『愛媛県編年史』より)

    1.『予陽河野家譜』
    同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

    2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
    今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
    天正七年五月廿八日  緒方与次兵衛殿

    3.『高串土居家文書①』
    今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
    六月三日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    4.『高串土居家文書②』
    去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
    七月廿日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    5.『河野系図』
    天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

    6.『元親記』
    久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
    去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

    7.『長元物語』
    宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

    8.『南海通記』
    天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

    9.『土佐軍記』
    天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

   10.『土佐国編年紀事略』
    竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤俊光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
    天正八年八月廿九日  竜沢俊派(花押)
    進上  元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

   11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠 岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

   12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
    三月十八日  (法花津)前延(花押)
    進上  三善治部少輔殿

   13.『宇和郡往昔城主記事』
    一岡本本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

   14.『吉田古記』
    一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
    二月八日  御判
    土居式部太輔との

   15.『伊予二名集』
    天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

   16.『愛媛面影』
    岡本城墟  古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


    ④年数問題『なぜ天正七年となったのか?』

    岡本合戦の年数が天正七年となったのは一目瞭然、明らかに天正七年と記述された文書が多い為と思われます。しかし、それに最終的な決定を与えたのは石野弥栄氏で、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第3号』に「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白である。」と述べた事によります。また先学の指摘とは、昭和十八年発行『伊豫史談118号』に掲載された、久延彦氏の『岡本合戦の年月に就いて』の事だと言われています。
    その記事には、「この戦の年月に就いては従来異説があって適従する處を知らない」としながら四つの説を併記しています。つまり
    一、天正五年説『四国軍記(坂本土佐軍記)』
    二、天正七年説『土佐軍記(土佐群書類従所三巻本)』『陰徳太平記』『土佐國編年紀事略』『宇和郡往昔城主紀事』
    三、天正八年説『南海通記』
    四、天正九年説『清良記』『土佐物語』
(尚、『長元物語』『元親記』には年月が記されていません。)
    その上で検証に入りますが、判断材料に使われたのが、西園寺公広から緒方與次衛に送られた『天正七年五月廿八日』付けの手紙です。しかし、手紙は何ら批判される事なく、「この文書によって天正七年説が正しいことが證される」と直ちに結論付けています。次に傍証として『二名村音地松本宮太郎氏所蔵旧書』を紹介し、『四国軍記』に天正八年に登場する久武内蔵助が、弟彦七親直が襲名した物であるという説を立て、最後に天正七年当時の龍澤寺の和尚俊派が、山内俊光の名前のあるなしから岡本合戦が天正七年であったと推測したという文書からも、「恐らく天正七年を以て正とすべきであらう。」と述べています。


    ⑤反論

    石野弥栄氏は、自分の岡本合戦天正七年説を通説としたい動機から、久延彦氏の記事を無批判に利用したと言われても仕方がないように思えます。同様に久延彦氏も天正七年説支持者である為に、緒方家文書、松本家文書、四国軍記、龍澤寺文書を批判せず利用したように伺えます。なぜならそれらの文書は、本当に突っ込み所が満載だからです。批判をすれば、緒方氏が岡本合戦に馳せ参じ、領地を与えられる程の働きをしたというのは本当でしょうか。音地松本家は中野通賢の領地にあり、中野殿は土佐に内通していただけあって文書の内容は土佐方の史料を書き写したかのように瓜二つです。天正七年の文書が多いからと言って、それが本当であるとは限りません。率直に言って、中野方と土佐方が話を合わせて天正七年の記述を広めたのではないかと言われれば、誰も否めないと思えます。龍澤寺も曹洞宗を信仰していた中野氏の影響下です。大体よく考えてみて、天正八年のほぼ当時の出来事なのに、山内外記が何年に亡くなったのかを佐竹系図等から推測しなければいけないという文書がある事自体が不自然です。
    『清良記』では中野氏は土佐方に内通して手引きした事になっており、その為に土佐方には油断があったとされています。ところが中野方や土佐方の文書は、それを打ち消すかのように、土佐方には入念な下準備があった事になっており、それに一早く気付いた中野通賢は自らが岡本城に駆け付けて勇敢に戦った事になっています。ならば敵同士の記事で違いがあって良いような物ですが、両者は内容まで大変似かよっています。そして、中野通賢が一番に岡本城に駆け付けて武功を立てたのが本当であれば、河野通直も西園寺公広も土居清良ではなく中野通賢にこそ褒美を取らせたであろうし、何より岡本城が土居の所領になるような事態は起こらない筈です。また、戦の勝敗においても、土佐が本気で準備をしたのであれば、普通に考えてみて、いくら鉄砲隊を備えた土居であっても、小勢で土佐の大軍を迎え討つ事は到底できなかった事でしょう。岡本合戦は京の都までも織田信長の元までも伝わったという有名な合戦となりました。中野方としても土佐方としても、無様であった事を必死で取り繕いたかったのではないでしょうか。
    一方、真吉水也は三嶋神社神主であり、歴史、算用、学問全般においても長けていたと言います。どうして岡本合戦の年数を間違える理由があるでしょうか。水也が承応三年に八十数歳で亡くなったとすれば、天正九年は十歳前後です。清良公の一代記である『清良記』は、明らかに複数人による記録を水也が晩年に綴り合わせた物でしょう。中には登場人物等の会話が生き生きと綴られていますが、敵方の会話まで記述されている事から著者の創作がある事は推測できます。しかし、『清良記』は宇和島藩主の目に止まるであろう事を想定して書かれているでしょうし、翌天正十年には『本能寺の変』が起きており、水也が岡本合戦の年数を間違えたと考える方が不自然なように思われます。


    ⑥結論

    古文書は、それ自体に歴史的価値があると言えるので、それぞれの文書が何を伝えているのかを正しく理解する事が大事であり、どれが本当で、どれが間違いという不毛な争いはあまりしたくありません。しかし、「岡本合戦は天正七年を正とすべきであって、天正九年とする『清良記』は明らかに間違っている」等と言われるのであれば、ただで済ます訳には行きません。これまでの三間の郷土史の先生方は、他の文書の記述を「清良記の記述」と誤魔化しながら、「岡本合戦は天正七年」と教えて来ました。『三間町誌』を始め全ての郷土史料がそうなっています。後進者としては、これまでの事は許さざるを得ませんが、これからは『清良記では岡本合戦は天正九年』と教える事の意味の大きさを感じて、今後の態度を改めていただきたいと思います。これが『清良記』の復権運動であり、名誉を挽回する重要な問題になろうと思います。


    ⑦清良記シンポジウム

    来年度、第二回『清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。第一回の時も、愛媛県歴史文化博物館の土居学芸員や鬼北町の幡上学芸員からの相談を受けたり、連絡を取り合ってシンポジウムの成功に協力させていただきました。当日は三間史談会で行っている『清良記を紐解く会』を紹介させていただく話にもなっていましたが、羽藤会長からストップが掛かり実現されませんでした。しかし、次回こそは、三間に『清良記』を勉強する会がある事を紹介しなければと思います。そして、それは『清良記を紐解く会』でしか出来ない勉強会です。水也が『清良記』を著した動機、同時期に起きている歴史的な出来事は11/29の特別講義①で述べましたが、これらをきちんと紹介し、『清良記』の持つ価値について広く理解を求めたいと思います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-20 10:00 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん