清良記を紐解く会『巻十三』

【清良記を紐解く会は、特別講義①が第16回、特別講義②が第17回、平成二十七年正月が第18回ですが『巻十三』であったので、大内地区で『お六の事』の資料を持っており、清良記の研究もされている武田利康先生にお越しいただき、講義をしていただきました。しかし、紐解く会顧問の松浦郁郎先生が怪我をして来られ、私は郁郎先生を連れて病院巡り。その後は皆んなで新年の親睦を行い、大変思い出深いお正月となりました。そして、二月の第19回で改めて『巻十三』の紐解きを行いました。尚、今後のタイトルは巻数で表記します。】


□新年の挨拶

    あけましておめでとうございます。一月は武田利康先生をお招きし、『お六』の話について講義していただき大変良い交流をすることができました。また松浦郁郎先生がお怪我され、心配もありましたが、無事お元気になられております。さて、愈々『清良記を紐解く会』も三年目に突入しようとしております。一昨年は一条公所縁の四万十市(旧中村市)、昨年は岡本城址の現地研修を行ってきましたが、今年は長宗我部の本拠地へ乗り込んでみようと考えております。五月の第三土曜日と日曜日が『長宗我部まつり』、浦戸城址『桂浜荘』に一泊しての研修を提案したいと考えておりますので予定に入れておかれて下さい。


□『巻十三』を紐解く

    巻十三は、一条兼定が東に台頭する長宗我部を警戒しながら、土居との戦に腐心する様子から始まります。しかし、清良公には勝てず、長宗我部の勢いは益々強くなり、遂に巻十六では宇和との和睦をすることになっていきます。また巻十三と巻十六の一節は、『清良記がなぜここまで長宗我部を悪むのか』という理由が良く分かる記事となっています。

    四節は元亀元年に、土居外記が初陣を果たします。甥とはありますが、清宗の四男清永の子であるので『従弟』と見るのが本当かと思います。また土居外記は岡本合戦の後、討ち死にした土居似水の後を継いで石城主となっていきます。五節には、一条、西園寺、土居の侍が詠み上げた歌が記録されています。
『公広の かざしの土居の あつければ 一条二丈の やりはみじかし』
『つらくにや 土居めに敵は さるまなこ 犬にあいては いかがあるべき』
『にらまえば 敵さえ土居へ さるまなこ 犬に似たらん 人は死すべき』
歌でも張り合うなんて、清良記の記事は本当に面白いと思います。

    七節は深田一の森城の陥落です。深田殿は一条公の甥になる河後森殿に養子を出していましたが、遂に一条方となり、これによって、土居中の二つ森が敵に攻め込まれやすくなってしまったようです。その為、八節では『女、童、五百人を三手に分けて旗立てさせ城の麓へ出す』とあり、女までが軍に加わった記事に驚きますが、『清良の姉、土居宗三後家は、女なれども歴々の武士のかなわざる智略ありければ新城の城代に差し置かれける』と、清貞の長女で清良には従姉となる『お初』が城代であったことと、土居近江守家忠が『宗三』であったことが分かる記事となっています。

    気になる記事もありますが、飛ばしまして十五節。ここに『中野お六の事』という記事が登場します。同十二月始めは元亀元年。『小塚』という場所でも出来事となっていますが、現在の四万十市では、田野川小学校のある地番が『小塚』となっています。十三歳の若さで七、八人切り伏せ、腹を切って自刃しており、中野にも武勇のある若者がいたと敵も味方も讃えたといいますが、清良公は『武士は若くひ弱なる時より遅れては、稀の手柄をしてもその時、前の恥を数え立てられ面目を失う、ということここなり。通正、家代々遅れたる故に今また然りなり』と言われています。

    さて、十六節では、西園寺家に一条家との和睦を勧め、一条公に加勢しようとした清良公でしたが、西園寺公が納得しようとしません。天正二年、遂に土佐は長宗我部の手中に落ちたとあります。十七節の読みは方には慎重を帰します。一説で土居は、実は西園寺ではなく一条に仕えていたという説もある訳です。土居は西園寺の旗下でありながら、それと対等の勢力を今の北宇和、南宇和地域に持っており、西園寺の被官には煙たい存在にもなっていたようですが、夢にも逆心の意地なきは、思えば浅ましく、また思えば強みなり。切るべきに、切りまじきば切らざりきをもって重宝といえり。


□平成27年2月21日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』連絡先:090-1320-1508(松本)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-21 11:00 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん