清良記を紐解く会『巻十四の上』

【清良記を紐解く会は、平成二十八年三月の『巻二十三』の紐解きに向けて、毎月のテキストを会報上で公開して行く事となりました。それは『岡本合戦』の年数問題に決着を付ける為であり、清良記の名誉を回復する為でもあります。また、この日は宇和島伊達400年祭の前夜でもありましたが、武者行列に参加する為に家内の従弟が福島県郡山市から来ており、清良記を紐解く会にも出席してくれました。】


□『清良記を紐解く会』より
 
   二年前、平成二十五年六月から始まった『清良記を紐解く会』も、今年で三年目に入ろうとしています。一年目には、三間史談会の念願であった『清良公の土佐落ち』のルートと土佐で領地したという『高島』、そして一条公や土居宗三所縁の地を訪問。二年目は、清良記に見る『岡本合戦』を現地に入って検証してみましたが、愈々三年目では、宿敵長宗我部元親の史跡めぐりを計画したいと思います。ちょうど清良記の紐解きも後半に差し掛かり、これからは長宗我部元親との合戦がメインとなって行きます。今回からは予習の意味を込め、会報上でテキストを公開して行きますので、よろしくお願い致します。
 
註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的
としています。
註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。
 
□『巻十四の上』p.178〜190を紐解く
 
   歴史研究者から様々に批判を受ける清良記ですが、巻十四の上も疑問が挟まれます。p.178に「北条九代目平高時」とありますが、高時は鎌倉幕府の執権十四代目。父貞時が九代目です。このように清良記には小さな間違いが見られます。一方後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕をした人物。土居家が後醍醐天皇に取り立てられた事から、清良記は高時を悪逆無道と誹り、後醍醐天皇を奉る立場を取ります。それを義理に思い西園寺卿に仕える清良公でしたが、大分この頃は失望していた感が伺えます。
 
   さて問題は下の段から。去年というのは元亀元年の事で、巻十四の上は元亀二年の出来事という事になります。ここに出て来るは「宗案」の名前です。松浦宗案が巻七にしか登場しない事から「宗案は架空の人物ではないか」との説も在る訳ですが、宗案は侍というよりは百姓。この頃活躍していたのは宗案の子で、二十二歳の松浦八郎兵衛が巻十四の上にて登場となります。

   此度の土佐との合戦は、まだ一条の旗本であった長宗我部元親が参るとの情報。元親との初合戦は絶対仕損じてはならないと清良公の気合が滲みますが、公広卿の戦況が理解できない様子にもどかしいさが広がります。二節では元親の陣地として「二つ森」が登場。清良公は直前に「陣ヶ森に駆けんぞ」とも言われており、一条の陣取った「中の城」や元親の陣取った「二つ森」が松野であったのか?それとも深田であったのか?はたまた三間の土居中であったのか?と考えると不明です。
 
   四節では土居の侍玉木源蔵と一条兼定の従弟入江兵部の悪口争いがあります。入江の悪口は源蔵が「鞠の源蔵」と呼ばれている事への冷やかしですが、源蔵が言い返している落書きの事を理解する為に巻五第四節p.50の読み返しをお勧めします。この後も入江兵部は度々登場しますが、巻十七の最後p.239には元親の手先として、遂に一条兼定公暗殺の刺客となる憐れな様子が描かれています。
 
   さて五節。源蔵がなぜ「鞠の源蔵」と呼ばれるようになったのかという話です。事の始まりは、全国を行脚し能を致す虎屋の小太夫なる一行が大森城を訪れた時の事。諸人が珍しがり多くの者が稽古した時期があった折、袴を踏まれた源蔵が相手を笑って許した事から、腰抜け呼ばわりの悪口が広がったようです。その源蔵の袴を踏んだのが松浦八郎兵衛でした。八郎兵衛は心苦しく思い直接謝罪もしますが、咎めもしない源蔵。その為に六節では三間総奉行土居左兵衞に事の次第を伝えたとあります。この八郎兵衛が松浦宗案公の子で、以後、二人は清良公より特別な恩義を受ける事になりました。
 
   さて土佐との合戦は、九月十二日に深田一の森城が落城します。巻十三第七節p.171では、深田殿は元亀元年八月十三日に土佐に降参したとありますが、十五節p.175で土佐へ落ち行きてからは、元亀二年正月から土居の番城となっていました。番手だった公広ご一家衆は皆土居の大森城へ引き上げたようですが、土佐勢は中村石原の平地に集まって陣取ります。この「中村石原」は、現在の土居中と増田です。また、この記事で巻十一第三節p.149にある「鼡の尾」「下森」「土合」は三間川の南岸である事が分かります。

   八節からは五左衛門が活躍します。しかし、八節や九節で言う「両の向かい城」が何処かは不明です。十節では活躍を清良公から褒められますが、謙遜し、皆が一人の人間が手足を動かすが如く、また能の楽器に例えて、「丹波が夏雪、冬螢の両火、敵を焼く事ただ人間の技にて御座なく候」と、当家の夜打ちこそ讃える五左衛門でした。
 
   十二節は真吉新左衛門の活躍です。大軍の土佐勢は、小勢の土居を侮って三間川を渡る事を予測し、難所を守って渡り口と勘違いさせる策略を立てます。しかし、川幅は二町に及んでいたとありますから約220メートル…護岸がない時代の三間は本当に水沼だったという事が分かります。またここで歌を詠むのも面白いです。
 
   『土佐武者は 皆人威しの 鎧着て 渦の辺りに 流れ寄るかな』
   『漲りて 落とす河水深ければ たけ一条の 節は流れり』
   『土佐武者の 丈は一丈あるなれば 鬼神とこそは 敵は見るらん』
   『漲ると 三間の河水深からし ただ猛勢に せつ所なければ』
 
   十三節は二回目の「扇の的」の登場です。昨年十月に、巻十二第九節で登場した「扇の的」が単に源平合戦に登場する那須与一の焼き直しでない事を説明しましたが、今回はその時の仕返しをしようというもの。吉野川では鉄砲の助が扇の的を撃ち落としましたが、今回は二町程もあって誰も撃ち落とせないというオチです。創作であれば何の為?と不思議に思います。p.161
 
   十四節が出陣より十日目です。しかし、出陣しただけで戦もせず、土佐勢に占領され続けるというのも嫌なものです。ここで清良記は、清良公が打ち出す機会を失っている理由を「旗頭西園寺殿とは近年不通と聞いたり」と土佐方に喋らせています。「不通」というのは「仲が悪い」という意味で、気持ちが通じていないとか、最近ご無沙汰したままという事です。ならば土居を孤立させる為にと金山の有馬に攻め寄せた土佐勢でしたが、そこは有馬も土居の同族です。敢え無く退散を余儀なくされた土佐勢でした。

   十五節で土佐勢は、金山、岩倉から歯長を越えて黒瀬城へ向かい「鬼窪合戦」が起こります。しかし、「ここを押し返さでは土居清良に笑われるべきぞ」などと、西園寺卿は一体誰をライバル視しているのか呆れます。そして十六節で「松葉合戦」となり、奮闘する宇和勢に、土佐勢は引き上げる事となります。ここでまた一句。
 
   『一畳の たたみを三間に 敷き余し 東小路を うわ敷きにする』
   『一畳の たたみの三間に 余りなば 軒端にさぐる くもの家門』
   『一畳の たたみを三間に 敷き余す その家門ぞ 思いしらるめ』
 
   巻十四の上は、二十節、九月二十三日の記事で終わりとなりますが、十八節で土佐勢に内輪もめがあったり、十九節で同士討ちがあったり、土佐勢には良い事がありません。二十節では円長坊の出過ぎた判断を諌める話もありますが、清良記の物語は作られた部分も多い事は確かでしょう。しかし、作られたにしては出来過ぎなくらいに面白い。そう思えるのは私だけでしょうか。
 
 
 
 
 
□参加者からの意見や気付きも楽しみにしています。予習よろしくお願い致します。 文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-22 12:00 | 郷土史

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