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清良記を紐解く会『巻十八』 


□『清良記を紐解く会』より


 新規会員も増え、益々、【三間史談会】の存在意義を感じているところですが、『清良記を紐解く会』は、まだまだ序の口。来年三月に『清良記シンポジウム』に参加し、来年内に全巻の紐解きを終えましたら、再来年は、愈々、三間公民館に保管されている、宇和島市指定有形文化財『清良記』(三間古本)の紐解きを進めて参りたいと思います。現在、三間公民館は耐震工事中。新しい三間支所の完成も楽しみにお待ちください。



□『巻十八』を紐解く


「天正元年はいかなる年ぞや。五畿内より東は万作なるよし聞こえけれるが、山陰、山陽、南海、西海は大旱魃にて、前の元亀三年壬申秋八、九月は晴れて雲なく、雨降らず。十月の節に入る日より晴れて、冬至の三日前よりまた雨降る。十二月は春雨のごとく暖かなり。さて天正元年癸酉正月初めより二月彼岸まで雨降らずして、所々の井水かわき難儀せり。彼岸より雨降りて四月朔日までやまず。二日に天晴れしより、また五月朔日まで照りつづき、麦作ことごとく損じ腐りて熟実なし。五月朔日より七月六日まで雨やまず降りつづき、同月五日の午の刻ばかりより雷電おびただしく鳴り響き、天地振動して今にも傾けるがごとく、男女童衆は気を失い、人家ことごとく扉を閉ざし、臥して頭をもたげることあたわず、魂を失う。翌六日の昼まで昼夜十二時の間鳴りつづきたり。大洪水にして野原海のごとく、七夕より晴れて九月九日まで一滴も降らず。」


 巻十八の記事は天候の厳しさを述べる記事から始まります。その刻々と述べられる記録から、『清良記』の底本は膨大な日記だったのではないかと思わされるのですが、『清良記』が農書という形で当時の生活を記録した唯一の資料であったように、おそらくは、これ程天候の記録を述べた資料も、また『清良記』だけなのではないかという気がします。


巻十八で気になるのは巻十七との関連です。巻十七の高野参詣、巻十八の領民に食事を振舞う話は、どちらも有名ですが、同じ天正元年正月から始まっており、記事に矛盾がないか気になるところです。しかし、土居の領内は、宗案の指導によって他領より何倍もの備蓄があります。四ヶ月間掛けて高野参詣できたのも、領民に米を分け与えることができたのも、正に清良の御徳であったと言えます。


 二節は天正二年一月三十日。清良は数え二十九歳を迎えます。しかし、戦国の世にあって領主の誕生日を領民共々祝うとは、どんなに深い情で結ばれていたかと驚かされます。戦国乱世は日本統一の為に避けられない道だったかもしれませんが、良い領主に恵まれた村は本当に理想的な共同体だったのではいかと思います。その後につづく、事細やかな諭しと奨励は金言であると言って良いでしょう。


 四節は元親の伊予攻めの始めとなりますが、よく読めば、ここが『清良記』の【四万十川合戦】のようにも思えて興味を引きます。天正二年十一月二日には河後森城も標的にされたようで、これまでと違い法忠もたまらず後詰を願いますが、「家門は土居が請け取りたる敵なれば言うに及ばず、元親はこたび初めてなれば西園寺殿より下知しだいなり」と家老と詮議する清良でした。しかし、結局今回も下知を待つことなく元親勢をねじ伏せるのでした。



□お知らせ


 なかなか進んでいなかった『よど第十七号』の原稿が完成しました。事務局に届けたところ、「一番乗りだよ」と大変喜んでいただけました。内容は未発表の論文とされていますから、ここでは具体的な内容については申せませんが、遂に岡本合戦の年数問題で『清良記』を取り巻いてきた事情を公にすることができました。それは、また、【私達自身が、しっかりしなくてはいけない】ということでもあります。皆様、今後ともよろしくお願いします。



文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸










by kiyoyoshinoiori | 2015-08-01 23:31 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん