清良記を紐解く会『巻十九』


□『清良記を紐解く会』より


 今年の夏は思いのほか短く、早涼しい秋風に目を覚まします。九月一日は旧暦の八朔を曽根地区の天満神社がお祭りしますが、宇和島市指定の無形民俗文化財【天神花踊り】が奉納されています。時は戦国時代の天正年間。曽根天満神社の八朔祭に、祭りの踊りを見に来た歯長城の殿様が、里人に紛れて踊っていた土佐の侍に囲まれて討取られたことから、その殿様を供養する為に踊り継がれてきたものです。秀吉の四国征伐がもう少し早ければ命を落とさず済んだのかもしれませんが、その故事によって今があるのもまた事実。【天神花踊り】は、今年でおよそ四三○年を迎えるそうです。



□『巻十九』を紐解く p.253p.269


 巻十九は重要です。十一節の山本左馬進の記事から【岡本合戦】の天正七年説を主張される方もいますが、それ以上に山内外記の記事が問題です。


 巻十九は一節「山内外記武勇の事」から始まりますが、山内外記は土佐の史料では【岡本合戦】で討取られたとされている武将です。しかし、『清良記』では、天正三年二月二十八日に討取ったとあり、【岡本合戦】では、山内外記の仇討ちをしようとした甥の山内左近と四郎兵衛が討取られています。天正三年は亥の年。【土居七口の鑓】と名を揚げた、清良三十歳の春のことであったといいます。


 巻十九は巻十八とも矛盾点があります。巻十九では、十一月十日に山内外記が河後の森を攻めた時、「清良、こたびはわずらいなれば出合われず。西園寺殿出馬ありて」とあって西園寺卿の活躍が伺えますが、巻十八では、十一月十一日に福富隼人と国吉刑部が河後の森城を攻めたことになっており、「こたびもまた、黒瀬殿よりは後詰め無くして、清良へぞ仰せ越されたり」と、ニュアンスが真逆になっています。


 五節では、清良の元親やその被官に対する厳しい批判が記事となっていますが、一方で一条の旧臣であった安並左京と石黒若狭が謀反を起こして討死したことを高く評価。「一条の侍には安並、石黒、さては山内なりと言われしこと、いまこそ思いしられたれ」と言われています。


 さて、また巻十九は、古城のことがいろいろ確認できるので紹介しておきます。先ず六節、天正三年正月に宇和島城の前身【板島丸串城】の城主が西園寺宣久となり、家藤監物は【道免の城】へ帰りますが、【道免城】は高串川の上流です。そして、一節にある西園寺卿が陣を敷いた【迫目村中の城】は迫目岡本家の裏山で、巻十四では、元亀二年に三間を攻めた一条兼定も陣を敷いています。このことから【鼡の尾】と呼ばれていた城が迫目の【下城】であることを確認。十節には【蜂の巣】の地名も記述されていました。この地名は三間川に架かる橋に残されています。また、【西城】が【馬爪】と呼ばれていることは初めて知りましたが、昔ながらの地名が今なお残されることの大切さを感じた次第です。


 そして、この【迫目城】を舞台として土佐の軍大将山内外記率いる二百騎と、清良の被官川添喜兵衛率いる五十騎が激突。川添喜兵衛が山内外記を討取れば、善家八十郎、桜井五左衛門は元宗口、有馬兵庫、土居似水、土居三河、安並藤蔵は陣が森の敵を追い落とす。【土居七口の鑓】とは、この七人のことでしょうか。



□お知らせ


『清良記を紐解く会』では、松浦郁郎校訂『清良記』の内容を紹介することを目的にしています。歴史的事実は、誰にも分からないことですが、私達は、先ず史料として『清良記』に何が書いてあるのかを正確に把握して行くことを目標にしたいと思っています。公民館の工事が終わりましたら『三間土居旧本』の紐解きも準備しておきますので楽しみにお待ちください。



                    文責/三間史談会々員松 本 敏 幸









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by kiyoyoshinoiori | 2015-09-01 18:07 | 郷土史

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