清良記を紐解く会『巻二十』


□『清良記を紐解く会』より


 二年前の平成二十五年は、『清良記』の紐解きを始めた年でもありましたが、バスをチャーターし、三間史談会の念願でもあった「清良、土佐へ落ちられる事」の現地研修をしたことが何よりの思い出となっています。準備の為に六回も高知まで足を運び、現地の視察や聞き込み、そして資料集めを行いました。そのような中で沢田勝行氏(西南四国歴史文化研究会副会長)との出会いがありました。今月の課題「巻二十」では、その時に宿題として残した【土居宗三】が再び登場します。今月も『清良記』の世界を一緒に堪能いたしましょう。



□『巻二十』を紐解く


 第一章「西園寺殿より安芸毛輝元への加勢の事」は、地元を離れまして日本史のよい勉強です。また、『清良記』の記述が、日本史の理解といかなる違いがあるかにも注目していただけると、更に楽しく読む事が出来ると思います。先ず、河野通直と毛利輝元の関係が気になると思いますが、「叔父甥の間なれば」と書いてあると通直が叔父で輝元が甥のようですが、実は逆で、輝元の奥方と通直の母親が共に宍戸隆家の娘なので、輝元が叔父で通直が甥の関係であったようです。


 そして、輝元と織田信長の合戦。そこに登場するのが「九鬼右馬之丞」です。九鬼右馬之丞とは、織田信長に仕え、水軍大名と呼ばれた、九鬼水軍の当主にて志摩国主となった九鬼嘉隆の事です。毛利水軍とは「木津川口の合戦」を戦っていますが、九鬼水軍は三千隻。対する毛利水軍は倍の六千隻を有しており、数で劣っていた九鬼水軍は毛利水軍に苦戦していますが、その後、鉄甲船を完成させる事に成功し、天正六年の合戦で毛利水軍を打ち破ることになって行きます。


 第三章に「閏月」の記述がありますので、少し説明しておきたいと思います。旧暦である「太陰太陽暦」では、一ヶ月が三十日、もしくは二十九日(小の月)なのですが、それでは次第に月と季節にズレが生じて来ます。これを修正するのが、十九年に七回の割合で「閏月」を入れるという方法でした。大まかに言うと、「およそ三年に一度、十三ヶ月の年がある」という事になります。「二十四節気」は「正節」と「中気」が交互に並んでいるのですが、「中気」が含まれない月が現れた場合、その月が「閏月」となります。


 以下、線を引いているのが「中気」

「立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒


 第八章「刀、脇指に寸袋用いる事」では、あの【土居宗三】の名前が再び登場しています。

『長宗我部元親の侍に、土居治部とてありしは、清良の姉むこ、一条家門の伯父土居宗三なり。家門の父、房家卿の代に、清良の姉を所望ありて、また、その後、土居の名字をぜひにと懇望して土居近江守と言いしを、後に宗三と名乗りける。家門の伯父にて、そのうえ、一かどの侍なれば、一条家の一の家老なり。この宗三、元親が武略をさとり、たびたび家門へ諫言しければ、かえって仇となりて、家門、宗三を追放ちにせられけり。それより土居治部は立ち退きて元親へ奉公す。この治部は清良の姉の子にはあらず、先の腹にて、清良の実の甥にはあらねども、右の由縁によって内々元親の様子を聞き合わせては土居へひそかに告げ知らせ、また、土居よりも尋ね問われけることたびたびなり。』



□参考資料として


織田信長 天文 3(1534)年 5月12日生

      天正10(1582)年 6月 2日没享年49歳


九鬼嘉隆 天文11(1542)年      生

     慶長 5(1600)年10月12日没享年59歳


毛利輝元 天文22(1553)年 1月22日生

     寛永 2(1625)年 4月27日没享年73歳


河野通直 永禄 7(1564)年      生

      天正15(1587)年 7月14日没享年24歳



文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸



※【三間史談会会報併せ三間郷土史研究会だより】だけでは十分な記事が書けませんので、ここで少し説明をしておきたいと思います。先ず、この記事は論文や資料という類の位置付けにはなっておらず、あくまで【清良記を紐解く会】の呼び込み用として興味を引く為に書いています。なお、【清良記】に対する詳細な解説は紐解く会の中で、【清良記】を読みながらしていますので、ここに書いてある事を勉強している訳ではないのでご理解ください。それでも、今回は、【土居宗三】について誤解がないように少し述べておきたいと思います。


 先ず、「清良の姉むこ」とあるのは【お初上臈】の事ですが、正確には「清良の従姉むこ」で、祖父【土居清宗】の嫡男【土居清貞】の長女が【お初】です。ちなみに、【清良】は【清宗】の三男【土居清晴】の三男になります。

次に「一条家門の伯父土居宗三」とありますが、【一条家門】とは、土佐一条家四代にして、最後の当主となった【一条兼定】を指しており、【家門】というのは、【兼定】の戒名と思われます。キリシタン大名としてカトリック式の葬儀を懇願した【兼定】でしたが、願いは叶わず、伊予国宇和郡の戸島にある龍集寺に墓地があります。その【兼定】の伯父が【土居宗三】であったというのですが、土佐一条家は、京の五摂家である一条家八代【一条兼良】の嫡男にて九代の【一条教房】の次男【房家】が、土佐一条家の初代となります。その後は、二代【房冬】、三代【房基】となって、四代【兼定】となりますが、二代【房冬】は父【房家】が亡くなって間もなく自殺しており、粗忽者であった三代【房基】もなぞの死を遂げてしまう事で、京一条家の後継として養子に出されていた【兼定】は離縁され、土佐一条家四代として、六、七歳の幼少期に土佐中村に帰ります。その後見人として名前が出て来る者の中に、【清良記】では、【房家】の弟【土居近江守忠家】、後の【土居宗三】が登場するのですが、一説では【一条康政】という人物もおり、【宗三】と【康政】が同一人物なのか、それとも別人なのかと疑問でしたが、【清良記】を読む範囲では、【宗三】が亡くなった後にも【康政】の出陣があり、二人が別人であった事が確認されています。【宗三】の事を、他の家老よりは後の時代に、三間の土居家からヘッドハンティングしてきたのではないかと言う人もいるようですが、私はそうは思いません。【敷地軍記】を読めば、【宗三】は土佐一条家初代【房家】の時からの筆頭家老だったことが分かります。【長宗我部地検帳】に、【宗三】の領地が分散してあるという見立ては、新参者が空いた土地を領したのではなく、問題のある土地の管理を全て引き請けていたからではないだろうかという気がします。また、幡多郡の郷土史料では、【宗三】は、【兼定】が平田のお幸という百姓の娘に執心して政務を疎かにしている事を責めた事が咎となって首を斬られたという話がありますが、【清良記】では一切そのような話になっておらず、土佐一条家の名誉を重んじる姿勢が感じられます。そして、【巻二十】では、【宗三】には、【お初】ではなく、先妻との間に【治部】という嫡子がいた事が記事となっています。中筋川沿いに、土佐中村から宿毛へ向かう途中、【上ノ土居】という地区の一つ前に【江ノ村】という地区があり、【小松山長法寺】に土居家の墓所がありますが、【宗三】は本来は一条家でしたので、墓には【楓】ではなく【下り藤】の家紋が彫られています。そして、この【長法寺】を開基したのが、【小松谷寺殿】とも呼ばれていた【一条康政】でした。【康政】は、長宗我部の時代になってからも領地を有した唯一の一条家だったとも言われています。【長法寺】には【康政】の墓と言われている大きな宝篋印塔が一基あります。中村には一条家代々の墓は各所にありますが、宝篋印塔はこの一基だけなのだそうです。



※参考資料として


一条兼良 応永 9(1402)年 5月 7日生

      文明13(1481)年 4月 2日没享年80歳


一条教房 応永30(1423)年      生

     文明12(1480)年10月 5日没享年58歳


一条房家 文明 7(1475)年      生

      天文 8(1539)年11月13日没享年65歳


一条房冬 明応 7(1498)年      生

     天文10(1541)年11月 6日没享年44歳


一条房基 大永 2(1522)年      生

      天文18(1549)年 4月12日没享年28歳


一条兼定 天文12(1543)年      生

     天正13(1585)年 7月 1日没享年43歳



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 高知県四万十市江ノ村にある【小松山長法寺】にて、小松谷寺殿の宝篋印塔を見上げる、羽藤氏と沢田氏。












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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-01 22:52 | 郷土史

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