清良記を紐解く会『巻二十』『巻二十一』『巻二十二』


□『清良記を紐解く会』November.2015


 いよいよ今年のラストスパートは、巻二十三に向けての準備作業です。前回の続き、巻二十の後半から巻二十二には、天正七年から天正九年に掛けての出来事が事細かく述べてあり、『清良記』における【岡本合戦】は、天正九年以外に考えられない事となっています。そこで、十一月は、巻二十の後半から巻二十二をひとまとめにし、【岡本合戦】を検証する特別講義をしてみたいと思います。



□『巻二十』の後半p.279~p.291


 さて、十一章「向山、謀叛の事」では、土佐に内通した向山下野を西園寺殿が咎められず、天正七年には下浄土城に帰城させたと述べられていますが、それまでに、長宗我部と土居の手合わせは十度以上、せり合いは二十四度あり、その内総大将を討取ったのは、天正三年二月の外記と丹後の二度であったとも述べられています。つまり、この記事は天正三年から七年の出来事を振り返っている訳ですが、天正七年に【岡本合戦】が起こったような雰囲気は感じられません。


十二章「元親うわさの事」では、元親の次男五郎次郎が香川氏の養子になる話が紹介されていますが、五郎次郎とは香川親和の事で、天正六年の出来事と思われます。その後の記述は、天正十四年に起きる戸次川の合戦の事であって、最初に述べられている「天正三年乙亥の春」の出来事ではありませんので、誤解しないように注意して下さい。


また、河野領北伊予の情勢で再び天正七年の記述が見られますが、小田久万の領主大野直重も長宗我部に内通しており、その弟であった大洲の領主大野直行も言い合わせていたともありますが、河野は長宗我部や大友の調略や軍略から伊予を守る為に、伯父の毛利輝元を後ろ盾にしていた事が述べられています。故に、宇和の西園寺も輝元からの援軍の依頼を断れず、以下の話へと続いて行きます。


そして、282ページに天正八年の記述があるのですが、「天正八年に芝美作が公広卿をあざむきて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、この五カ所元親にとられけるが、その後、天正十五年まで八カ年の間、元親手をさすこともなかりし。」とある訳です。そのままに解すると、天正九年の【岡本合戦】が存在しない事になってしまいます。しかし、芝が公広を裏切るのが天正八年だとすると、【岡本合戦】が天正七年である事もありえない訳です。さて、僅か一日とは言え、都までも聴き及んだという【岡本合戦】を、「元親手をさすこともなかりし」と言えるものだろうか?と謎は深まります。


また、巻二十から織田信長の動向に対する記事が増えてきますが、十三章では土居右京進の話として、【本能寺の変】が出てきます。しかし、それは天正十年の事ですので、『清良記』は底本の記録や回想を元に編集された物語である事が分かります。故に、記事の年数が行ったり来たりする書き方となっています。


 ところで、織田信長と毛利輝元との戦は、宇和の武将達にとって、身の処し方を悩ませる事でした。十五章では誰が遠征に行くかでくじを引かされ、たびたびの役に清良の難儀している姿が描かれています。清良は小早川の配下として従軍しており【石川谷】を請け持って防戦していますが、隆景が逗留した【亀山】が、後の天正六年に明智光秀が信長の命令で築城した【亀山城】の前身なのかどうかについては些か疑問が残ります。



□『巻二十一』p.292~p.304


 巻二十一から天正五年の事となりますが、話題は変わらず中国への遠征です。ここで登場人物の関係性を少し説明しておきたいと思います。安芸の毛利元就には三人の子供がおり、嫡男が毛利隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景となります。毛利輝元は十一歳の時に父隆元が急死し、家督を継ぐ事になりますが、三本の矢の教えの如く、輝元を支えて行ったのが吉川元春と小早川隆景でした。


 三章からは【上月城の合戦】が登場。「同年六、七、八の三ヶ月」というのが秀吉が【上月城】を攻略する合戦で、「あくる天正六年」からの合戦が、輝元が【上月城】を奪還する合戦となります。出雲の尼子義久が毛利元就に屈した事から、お家再興を願っていた家臣山中鹿之助が秀吉軍となって尼子勝久と【上月城】に籠っていましたが、『清良記』では土居との競り合いが描かれ面白く思います。


五章に【室町殿】とあるのは注目すべき点です。と言うのは、室町幕府は信長が室町将軍足利義昭を追放させた事で終焉したと思われていましたが、現在では京を追放された後も将軍職を行っていたと見る向きが主となっているからです。室町将軍足利義昭が最終的に下向した地は備後国【沼隈の鞆】。毛利輝元の所領する地であり【鞆幕府】とも呼ばれています。


そして、十一章から十章が天正七年の記事となっています。現在、愛媛県史の定説によれば【岡本合戦】は天正七年の事とされていますが、『清良記』では当然、天正七年の記事とはなっておらず、そこには全く別の状況による出来事が綴られています。しかし、それが【岡本合戦】に繋がって行く事になります。


さて、十二章で注目すべきは、信長の家臣であった楠長庵(楠長諳、楠木正虎)と西園寺公広とのやり取りです。楠長庵が言うには、「信長が西国に出馬する時には、西園寺に頼りとなって欲しいのに、なぜ度々毛利へ加勢するのですか?」と言うのですが、公広卿は「土佐や豊後との戦に暇ない状況であるのに、郡内や道後が属している毛利と仲違いしていては、信長公が出馬するより先に西園寺は持ちません。それを分かっていただけなければ、西園寺も信長公の願いを聴いてはいられません。」と答えています。そして、天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと言うのですが、最近まことしやかになってきた【本能寺の変】の四国征伐阻止説を考えてみた時に、まさか西園寺には信長の四国征伐待望論があったのではなかろうかという疑問も頭を過ぎります。そして、『清良記』からだけの見方とはなる訳ですが、天正八年に毛利輝元の後ろ盾がなくなった事で、天正九年に【岡本合戦】が起きる事になったのだろうかとも思うのです。


十三章は、天正七年の七月に起きたという【一の森城】でのクーデターです。竹林院の被官、御手洗図書と言う者が土佐勢を二百余人【一の森城】に引き入れた為、竹林院公義は【深田の上城】へ逃れますが、勇敢であった弟の竹林院公明が【一の森城】を取り戻しています。これは小競り合い程度の小規模な合戦ではあったようですが、長宗我部による伊予の切り崩しが宇和にも及んできた証拠と言えるでしょう。



□『巻二十二』p.305~p.315


 いよいよ【岡本合戦】まで残す所、この巻二十二のみとなりましたが、ここで登場するのが、芝作州こと芝美作守政輔です。『清良記』によれば、長宗我部の宇和郡への調略は、この芝一族によって行われます。【岡本合戦】で本丸へ侵入できたのは、城主河野通賢が内通していたからかもしれませんが、芝一族の三男四郎右衛門が河野通賢の聟であった事が理由として考えられます。【橘合戦】では土佐勢の本隊を手引きしたのは四男芝源三郎と次男芝左京進であったし、長男芝一覚と三男四郎右衛門は土佐勢に加勢して【框越え合戦】を起こしています。合図ののろしが上がった場所は、①岡本(土佐先発隊)、②奥野々(芝左京進)、③原の森(芝源三郎)、④奥の川(土佐本隊)、⑤伽の森(芝一覚)であり、土佐勢の侵攻ルートが芝一族の領地であった事が伺いしれますが、その準備が調って行く動向が、巻二十二の内容ではないかと思います。


 さて、一章には「天正七年の暮れより元親に内通す」とあり、『清良記』の通りであったとすれば【岡本合戦】も天正七年には起こりえなかったと思われます。そして、天正八年に行ったと思われるのが、三章の河原渕領主庄林日向守法忠を蟄居に追い込んだ【河後の森城】のクーデターです。五章、天正八年七月の末には、芝作州は土佐、阿波、讃岐から二千騎領内に陣取らせ、西園寺殿が後詰しない事を計算した上で、「土佐勢一万騎寄せ来たり、急ぎ後詰あれ」と、たばかりの早馬を走らせたとあります。


 西園寺に代わり駆け付けたのが土居清良です。そして六章で芝源三郎と問答。


「それがし清良、別して敵にあらず。西園寺の仰せをもってかくのごとくなれば、西園寺よりかくとこれなき内は、かこみをとくことも、その陣を引くこともまかりならず。そのうえ、奥野々に敵六七百も見えたり。その方の城を攻め落として後、奥野々の敵は打ち果たすべき」

とありければ、源三郎たえかね

「さらば、それがし二心なき証拠には、この城を明けて渡し申すべし」

 とて、源三郎甲をぬぎて弓をふせ、清良の陣へぞ出たりける。


 清良は源三郎を討ち果たすべきと思われてはいましたが、土居も勢力ぎりぎりの所で戦っていた為に、被官が一人でも打たれるよりは、と源三郎を捕虜にして【河後の森城】を占拠。まだ土佐方を引き込んでいる【竹の森城】に矛先を移す事にします。しかし、芝美作守が西園寺に免文を出し西園寺が赦免すると、流石の清良も呆れ果ててしまいます。このように、西園寺は勇猛果敢な武将ではなく律儀な仁将であった為、長宗我部の調略を受け続ける事になって行きます。


 その一つが、また、八章「北の川対馬守通安、最期の事」です。北の川通安は天正八年八月二十一日、【三滝城】で果敢に土佐勢と戦いますが、西園寺の後詰はなく、魚成が土佐方に寝返った事で、野村、赤浜が援軍を送れず、大番、甲の森、猿ヶ嶽の三城が落城。九月一日には僅かな勢が【三滝城】に集まり、土佐の大将久武内蔵助、桑名太郎左衛門、依岡左京を三度打ち破りますが、九月十日、遂に【三滝城】は落城してしまいます。


 九章、『清良記』は、その背後にも芝美作守の謀計があった事を伝えています。驚いた西園寺は芝作州の本拠、西の川【鳥屋の森城】を包囲。芝美作守は久しく連れた妻を一人、人質に出したようですが、一覚、左京進、四郎右衛門の妻子を人質に取るのでなければ全く意味がないと、西園寺のおろかさが再三嘆かれています。


 十章からは天正九年の記事に入ります。先ず正月には西園寺に取り入って人質となっていた妻を取り戻した芝美作守ですが、三月の初めには掌を返し土佐方の加番の武士を五百余騎も置き込ませて、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は完全に土佐分となってしまうのでした。


 そして、巻二十二の最後、十二章は意味深げな言葉で終わります。

「これより以後、土佐方より小勢にては一度もかかり得ざりける」と。


 これは、天正九年三月九日、土佐の加番衆五百余騎によって清延の【薄木城】が取り囲まれたのを、土居外記、真吉新左衛門、善家八十郎、桜井五左衛門、等が駈け付けて土佐勢を討ち散らした事によるものですが、この二ヶ月後が、総勢三千八百余騎、雑兵一万三千人によって押し寄せる【岡本・橘・框越え合戦】となります。



□【岡本合戦】に向けてNEXT.2016


 岡本合戦は、「激戦」「大合戦」「最大の勝利」という謳い文句ばかりが有名で、その本当の姿を大変誤解させてしまっています。岡本合戦は、僅か一夜昼の合戦であり、土居清良は名将といえども、常に崖渕の戦を余儀なくされていました。岡本合戦が「最大の勝利」であったと言うのは、敵の大将を討ち取る事により、少数の兵で大軍を破ったという戦ぶりによるものですが、その中で最も称賛されたのは、橘の丘に隠れていた鉄砲隊が、合図が下るまで絶対に動かなかったという完璧な指示系統でした。勝鬨が挙がった「申の中刻」は午後四時。「瞬殺」と言って良い勝利でしょう。また、その勝利は元親征伐を目前としていた信長にも伝わったと言われます。来年春の『第二回清良記シンポジウム』は、河後森城の発掘調査が主と聴いていますが、いつか岡本合戦でも一旗挙げてみたいものです。



(文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-11-01 22:37

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