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『清良記』を紐解く会 February 2016

※『清良記』は、軍記物語である為に史料としての価値を損ねており、鵜呑みにできないという批判があります。しかし、それは『清良記』に限ったことではありません。今回は、岡本合戦の年数をテーマに『愛媛県編年史』に紹介されている文書を批判してみたいと思います。


□『愛媛県編年史・第五篇』(p.65~p.80)より抜粋

1.『予陽河野家譜』
同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
天正七年五月廿八日 緒方与次兵衛殿

3.『高串土居家文書①』
今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
六月三日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

4.『高串土居家文書②』
去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
七月廿日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

5.『河野系図』
天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

6.『元親記』
久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

7.『長元物語』
宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

8.『南海通記』
天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

9.『土佐軍記』
天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

10.『土佐国編年紀事略』
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
三月十八日 (法花津)前延(花押)
進上 三善治部少輔殿

13.『宇和郡往昔城主記事』
一岡本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

14.『吉田古記』
一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
二月八日 御判
土居式部太輔との

15.『伊予二名集』
天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

16.『愛媛面影』
岡本城墟 古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


□『愛媛県編年史』について

 『愛媛県編年史』は、昭和四十四年に愛媛県から発行されました。時の知事は久松定武氏。久松氏は久松県政五期の内三期(十二年)県の教育委員長に三間の竹葉秀雄氏を抜擢しており、久松氏は竹葉氏から『清良記』について影響を受けただろう事が推測できます。『愛媛県編年史』を開くと、巻頭には『清良記』を紹介する文と写真があり、もしかすると次の知事、白石春樹氏が松浦郁郎先生から『清良記』の講義を熱心に聞かれたという話も、昭和五十九年に『愛媛県史』を発行していく上で、『愛媛県編年史』を読まれて影響を受けていたからではないかと想像を逞しくします。
 では、愈々、その内容について考察してみたいと思いますが、まず、抜粋しているのは第五篇のp.65~p.80「天正七年五月」とされた中で、【岡本合戦】に関係する文書だけとしました。(ただし、『清良記』だけは割愛しています。)まず疑問に思うのは、「文書には天正八年も天正九年もあり、月は二月もあるのに、どうして天正七年五月の括りにされたのか?」という事ですが、天正七年と書かれた文書が若干多いというだけの事のように思います。しかし、文書は全てが同等だと考えるべきではありません。一人の人が天正七年と書き、それを写した人が多かっただけとすれば天正七年が多くなるのは当然です。実際『清良記』にも多くの写本がありますが、それらは全てを合わせて一つとされている事からも分かると思います。つまり、文書の情報がオリジナルではなく、人から聴いたとか、何かの文書を見て写したという物を当てにしなければ、情報源は当事者に限られて来る訳です。ならば、まず先に紹介されている『予陽河野家譜』を書いた人物が【岡本合戦】の当事者といえるでしょうか。また、土佐方の文書で先に書かれている『元親記』、次に書かれている『長元物語』ではどうでしょうか。それらは読んで一目瞭然、全て当事者ではなく、人から得た情報を元にして纏められた文書なのです。ここにおいて、当事者の目線で書かれた文書は『清良記』しかないという事が分かるに至ったのでした。「『清良記』が軍記物語である為に、史料的価値を損ねており、そのまま鵜呑みにできない」という事が本当だとしても、この事実だけは認めるべきであろうと思います。
 さて、具体的な解説ですが、最も古い時期に【岡本合戦】を記した『元親記』は長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に正重ともいう高島孫右衛門尉重漸という者によって著され、次に古い『長元物語』は、二十八年後の萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されたと言われます。しかし、二つの史料には年数がなく、【岡本合戦】が正確に記録されていなかった事が分かります。そして、『長元物語』には、『元親記』になかった竹内舅聟の悲話が盛り込まれており疑問が膨らみます。『南海通記』は寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され、ここにおいて「天正八年」という年数が登場します。内容は『長元物語』とほぼ一緒です。『土佐軍記』は『四国軍記』とも言い、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされたと言われていますが著者は不明。年数は変わり「天正七年二月」となります。そして、土佐の侍と中間の人数が倍になる等、内容に若干の誇張が見られます。
 ここでまた『伊豫史談』で久延彦氏が天正七年説の根拠として上げた三つの文書についてもふれておきたいと思います。まず『緒方家文書』ですが、河野通賢を中野通正としていたり「西」の名前が登場する等、『清良記』の影響を感じる他、非常に不自然な文書です。また、『音地松本家文書』は、『予陽河野家譜』や『伊予二名集』と内容がほぼ同じであり、情報の出処が土佐の史料にあることは言わずもがな。また、『土佐国編年記事略』に見る天正八年の『竜沢俊派文書』に至っては、なんら【岡本合戦】の天正七年説を裏付ける物ではありません。


 今回は少し難しい話になったかもしれませんが、歴史の細事は、一つを正として残りを誤りと決め付けないのが良いのではないかと感じています。ここでは決して天正九年説を正と主張しているのではありません。天正七年説を正として『清良記』を誤りと決め付けて来た、これまでの郷土史学習の姿勢に対して「そんな事ではいけないのではないですか?」と問題提起をしているのです。


                     文責/三間史談会会員松本敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-01 01:02 | 郷土史

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