『土居清良の居城 大森城跡を歩く』


『清良記の城を歩く』-戦国時代のお城学習会ー第2回、ということで、「土居清良」の居城『大森城』に登ってきました。例によって、宇和島市内のホテルに宿泊されている「土居秀夫氏」を迎えに上がり、道中は史跡へのご案内をいたしました。




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三間の入口となる『窓峠(まどんとう)』から、『大森城址』を遠望しています。ここは「弘法大師空海」も歩かれた遍路道で、深い山の中を歩いた先に、窓が開いたように明るく広い三間平野が広がっている事から『窓』の峠と呼ばれました。また、『窓峠』は「土居清良」の支城『正徳ヶ森城址』でもあります。また、井関農機を設立した「井関国三郎氏」の地元でもあり、氏が整備したことから『井関公園』とも呼ばれています。




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三間小学校の校庭に建つ『明治百年記念碑』(昭和42年PTA建立)。「ひ」という題字は、当時愛媛県の教育委員長で、後に三間町の名誉町民となる「竹葉秀雄先生」の揮毫です。当時の今西寛一校長の趣意書によれば、『日本は「ひ」の本の国であり、男は「彦(日子)」、女は「姫(日女)」である』という竹葉秀雄先生の説かれる「ひ」の思想から選ばれた題字であるといわれます。(後ろに見えるのは、三間中学校と三間高等学校)




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『三間高等学校』にも寄りました。三間高等学校は愛媛県では唯一の「農業機械化」があります。元は井関農機設立者で第一号名誉町民となる「井関邦三郎氏」が作った農業学校でした。井関氏が様々な農業機械を研究発明してきたことから、現在も三間高等学校では、新しい農業機械が発明されています。その入口に建つ「明徳を明らかにする」の碑は、昭和42年に創立20周年記念として建てられましたが、やはり「竹葉秀雄先生」が揮毫されています。題字は中国の四書の一つ『大学』にある「大学の教えは 明徳を明らかにするにあり 至善に止まるにあり 民に親しむにあり」が出典になっており、竹葉先生の座右の銘とされています。




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竹葉秀雄先生のご自宅前にある『三間村塾之碑』。揮毫されたのは「安岡正篤氏」です。竹葉家は伊予河野氏の末裔で、江戸時代は三間郷宮野下村庄屋でした。竹葉先生は幼き日に父を日露戦争で失いますが、学問に志し、自宅を開放して、松下村塾を模範とする『三間村塾』を開かれます。私の祖父達の世代は、昼は学校で、夜は『三間村塾』で、竹葉先生から学問や武道を教わったのです。それが時の知事の目に留まり、竹葉先生は「安岡正篤氏」の『金鶏学院』に入学することになります。その『金鶏学院』で著された本の中に『土居清良』がありました。




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土居清良の本城『大森城址』は、竹葉家からほぼ真東にあります。竹葉先生は『清良記』から土居清良の生き様を多く学ばれたでありましょう。また、ある少年の日の朝、竹葉先生は『大森城址』に向かい朝日が昇るのを待っていたそうです。そうした所、日の光に全身が包まれて、大きな感激とともに強い自覚が生じたといいます。竹葉先生は「人は少年の内に、そのような感激に包まれなければいけない」といわれており、それが愛媛県が独自の事業として取り組んで来た『少年式』の原型だともいわれます。




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昨今の戦国時代ブームで、たえまなく登山者が訪れるという『大森城址』。4年前にはテレビ愛媛が取材に訪れ、私が『窓峠』を紹介し、松浦郁郎先生が『大森城址』を紹介する事もありましたが、今日は地元のケーブルテレビ局「U-CAT」が取材に来て下さっています。道なりに真っ直ぐ歩きさえすれば本丸まで辿り着く事ができますが、急勾配を歩く為、少々きついかもしれません。(所要時間はおよそ30分)




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お疲れ様でした。( ^^) _旦~~(ただいま編集中)




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参加者かおよそ75人。(ただいま編集中)




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(ただいま編集中)





以上、松本敏幸Ⓒ





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-21 23:00 | 郷土史

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