清良記の名誉回復を望む



「清良記の名誉回復を望む」

私は、愛媛県宇和島市三間町の在住ですが、専ら三間の指定有形文化財「清良記」の研究を趣味としています。中でも最大の課題は、巻第二十三に記録されている「岡本合戦」の研究です。そこにどのような問題があるのかを、是非皆さんにも知っていただきたく思いますが、ざっくり言えば「年数問題」という事です。

実は、「清良記」には岡本合戦の年数を「天正九年」の事として記録しているにも関わらず、「愛媛県史」では「天正七年」の事として記録するという矛盾が生じているのです。そして、それは「三間町誌」にまで採用されており、「清良記」にとっては大変に不名誉な事態と言わざるを得ません。「なぜこのような事が起こってしまったのか?」それが私の研究の発端であり、その原因を知った今は、「清良記の名誉を回復せよ!」と啓蒙に尽力しているところです。

さて、では順を追って問題を説明をしたいと思います。先ず最初に「岡本合戦」を記録した文書は土佐方の「元親記」であって、長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に、正重ともいう高島孫右衛門尉重漸によって著されていますが、年数は記録されておらず、記事も僅かで、大将久武内蔵助が討ち取られた事が記事の主となっていました。この二年前、寛永六年(一六二九)三月二十四日に「清良記」の主人公の土居清良が亡くなっていますが、享年八十四歳でした。

次に「岡本合戦」を記録したのが承応二年(一六五三)に三間の三嶋神社の神主土居水也によって著された「清良記」です。この「清良記」では当初から「岡本合戦」が「天正九年」の事として記録されていた事が伺えます。

その次に著された「長元物語」は、萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されていますが年数はなく、記事は一つ書きで、「元親記」にはなかった、岡本城へ侵入した武内虎之助父子の悲話が追加されています。また、この年に宇和島では、伊達家臣によって「清良記」の調査が行われ、その二年後に土居清良公が「清良神社」の祭神として、正式に祭られる慶事が起きています。それが寛文元年(一六六一)清良公三十三回忌の年でした。

そして、寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され「南海通記」が「岡本合戦」に「天正八年」という年数を記録しますが、内容は「長元物語」の一つ書きを繋げて物語にしたものであり、何を根拠に「天正八年」としたかは不明ですが、「長元物語」の次の記事の「三滝合戦」が「天正八年」の記事である為に、同年という推測をした可能性が伺えます。そして、記事の主は、久武内蔵助の討ち死によりも武内虎之助父子の悲話に変遷して行きます。

そして、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされた「土佐軍記」によって遂に年数は「天正七年二月」となりますが、土佐の侍と中間の人数が倍になる等の作為があったり、最初の記録である「元親記」と次の「長元物語」には年数がらなかった事、その後に年数の変遷がある事、「清良記」が著されて五十年後になって「天正七年」が登場している事などから、土佐方では「岡本合戦」の年数に対して正確な情報を確認できていなかった事が伺えるのです。事実、宝永五年(一七○八)に吉田孝世によって著された「土佐物語」には、「岡本合戦」が「清良記」と同じ「天正九年」で記録されているのです。

では、なぜ愛媛県史では「天正七年」が採用されたのでしょうか。それは、伊予国主であった湯築城河野家の文書である「豫陽河野家譜」や「河野系図」が「土佐軍記」と同じ内容の「岡本合戦」を収録しているからなのです。愛媛県史の中世の記事を書いた学芸員は河野家研究の本も執筆している河野贔屓であり、清良記批判の急先鋒だったのでした。その学芸員は、愛媛県の文書中で「岡本合戦が天正七年であった事は多くの研究者が指摘する所であり、天正九年とする清良記の誤りは明白である」と清良記を切り捨てています。そこまで言わしめられ、地に投げ落とされた「清良記」を、どのような事があったとしても名誉回復しなければ気が済まないのです。

皆様の理解、協力、支援を賜りますよう心よりお願いを致します。

松本拝

追伸

また、なぜ土佐方の史料が年数を分からないままに「岡本合戦」を七年や八年の事としてしまったのかに対しては、記事の並び順に原因が伺えます。つまり、「清良記」では、「三滝合戦八年→岡本合戦九年→弔い合戦十四年」となっているのに対し、「元親記」では、「岡本合戦不明→三滝合戦八年→弔い合戦十四年」の順で記事が並んでいるのです。

これは「元親記」が記事を年数順にしていない可能性が伺えるのですが、先ず「弔い合戦」というのは、「岡本合戦」で討ち取られた久武内蔵助の弟が仇を取りに来るという合戦なのですが、「三滝合戦」にも久武は出陣しているにも関わらず、「三滝合戦」が弔い合戦と言われず、更に後に「弔い合戦」と言われる「高森合戦」がある事自体がおかしな事だと言えます。

この原因を考えると、「元親記」は「上巻」「中巻」「下巻」からなっていますが、「上巻」の最後は「岡本合戦」と久武内蔵助が有馬湯治で秀吉に合うという話で終わっており、「中巻」は「弔い合戦」と四国征伐で秀吉の軍門に下るという話で終わっています。つまり、どちらも「久武内蔵助」と「太閤秀吉」の記事で韻を踏んでいるのです。「三滝合戦」は「中巻」の中程に記録されていますが、「元親記」は記事の並びを時系列にしていないのではないかと疑われるのです。



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by kiyoyoshinoiori | 2017-05-05 23:20

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん