論文「岡本合戦の年数問題」公開


□ 論文「岡本合戦の年数問題」について

 西南四国歴史文化研究会の機関紙「よど」17号に掲載した論文「岡本合戦の年数問題」を当ブログにて公開します。論旨を明確にし多岐に渡らせない配慮をしています。今後は土佐史料批判に特化した論文を発表していく予定です。管理者(松本敏幸)




 以下、「岡本合戦の年数問題」原稿より




『岡本合戦の年数問題』

                                   三 間 支 部 松本 敏 幸


はじめに


 平成二十七年度の総会、『天正期宇和郡の政治情勢と戦国領主たち』と題して石野弥栄氏が「岡本合戦前後の宇和郡内の政治情勢」を語るとの案内をいただき、大変緊張して会場に向かいました。岡本合戦とは、天正年間に三間の『岡本城』(現宇和島市三間町土居垣内)を舞台にして起きた、三間の土居氏と土佐の長宗我部氏との合戦ですが、年数に諸説あり理解に混乱が生じていました。そして、天正七年が定説とされたことで、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白だと言われ、三間町の郷土史学習でも『清良記』を用いて岡本合戦を紹介することがなくなっていました。問題は年数が何年なのかということではなく、貴重な郷土の宝物だと思われていた『清良記』が、実は信頼できない文書だと軽んじられたことにあったのではないかと思います。しかし、『清良記』が軍記物語であっても全てが作り話で片付けられるでしょうか。岡本合戦に関しては、これまで定説だと言われてきた天正七年説こそ、よく検証していただけたらと思います。



 第一章 清良記に見る岡本合戦


岡本合戦は、『清良記』によれば天正九年五月二十三日の夜とされています。


『巻二十三

一、岡本合戦の事

天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ

登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月

二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛

宕講の勤めあり。

かかりける所に、松宗の遠見番一人走り帰りて申しけるは、

岡本の城、宵より異なる体に聞こえ候。西藤右衛門を通正討たるる

か、藤右衛門心がわりなど仕候か

と、申しければ、清良聞きて、その異なるさまはいかにと尋ぬるに

まず二、三の丸はいかにもしずまりて、本丸には火どもあまた所にと

もし、笑声なども聞こえけれども、また恐れたるようにもありて鳴り

はしずまらず候はいかさま不審なるようすに候

と、申しければ、清良つくづくと案ぜられて、

さては藤右衛門を討つにはあらず。必定土佐方の者を引き入れした

ると覚ゆるぞ。当番の侍ども走り向かって見よ

と、ありければ、

承り候

とて、川添喜左衛門、土居右衛門、同大炊助かれこれ二十七騎、物

の具ひしひしとかためて、使い番には土居小次郎、同弥次郎。走り着

きてこれを見れば、案に違わず元親勢百騎ばかり本丸へ引き入れて、

草ずりのまま食事最中とぞ見えし。

 西は三の丸に出て警固して居たりしが、元来、彼臆病にてや、なまじ

いなる事を仕出かし、末々までいかがあらんずらんと、今は案じわず

らいたる体にて、太刀をつえにつきて居たるところへ、川添つつと近

づき寄り

 ご辺はかかる大事仕出かし給い、命を的にかける天魔の所為なるべ

し、急ぎ土居へ参りて陳じ申されよ。しからずば、ただ今それがし、

ご辺が首をはねて持参すべし

 と、気色をかえておどしければ、西は元来思案して居たりけれが、

川添の言葉を聞いてうれしく思い

ともかくも頼み入る間、清良のご前、ご自分に任せ置く

 とて、大森へまかり出たりける。

              (『清良記松浦郁郎校訂』三一六頁より)


「月待ち」は、勢至菩薩の化身である下弦の月を拝む講で、毎月二十三夜に行われます。下弦の月は深夜に昇ってくるので、それまでは深い暗闇となります。「愛宕講」は、火伏の神である愛宕権現を拝む講で、毎月二十四日が縁日とされていました。大森城の本丸には、その権現堂があったとされていますが、六間を「ろくま」と読むにしても、「ろっけん」と読むにしても、大きな建物があったことがうかがえます。本丸は、東西に八十六メートル、南北に十三メートルあり、広さは十分かもしれません。

さて、『清良記』では、岡本城への土佐勢の侵入を不意打ちとは伝えていません。岡本の城代西藤右衛門は巻十五にも名前が登場しますが、一条に人質に出されていた息子の竹森を清良に取り戻してもらった縁があり、土居との関係は良かったと思われます。それで岡本城の異変に逸早く気付くことができたのでしょう。『清良記』では、岡本の城主中野通正が土佐勢を引き入れたと伝えています。

そして、合戦となります。本丸に籠るのが土佐勢百余騎。本丸を奪還しようと攻めるのが、土居二十七騎と加番七十余騎です。この加番衆は、巻二十二に記事になっている、天正九年三月初め、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川に五百余騎さし置かれた、元親の加番の武士に対抗する為、清良が西園寺殿に要請して中野と深田に置き込ませていた有馬、板島、熊崎からの加番衆です。

また、鉄砲は土居だけが持っていたのではありません。土佐も当然持っており、三間勢も二十人が負傷します。土佐勢を三十八人討ち取り、土佐方の玉薬が切れたところで、「夜明けなば城に火をかけて、一人も残らず焼き殺せ」と言う者がいましたが、それを制したのは清良でした。


『大事の前の小事にかかわらうことなかれ。たとえ後より土佐勢何万騎寄せ来るといへども、元親が領内三ヶ国の武士なるべし。日本を引き請けて戦うとも、謀をもって勝つことは戦の習い、元親が者ども攀会を働くとも何程のことかあるべき。打ち破らんことは掌の内なり。』 (『清良記松浦郁郎校訂』三一七頁より)


 その後、六節では、岡本城本丸の捕虜六十八人は無事土佐へ送り返されており、中村の為松城主吉良左京進(元親の弟)からは返礼もあったといいます。



第二章 清良記を用いない郷土史学習


 このように『清良記』の岡本合戦は非常におもしろいのです。それなのに三間の町誌や郷土史学習は、『清良記』の岡本合戦を全く紹介してきませんでした。平成六年発行『三間町誌』には、「土居清良にとって最大の合戦」(一五五頁)、「『清良記』最大の大勝利を挙げた合戦として有名」(一九四頁)と書きながら、具体的な戦略の説明は『清良記』の内容ではありません。また、平成二年発行の『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』では、資料No.3「清良記」とした上で、全く別物の内容を紹介していますが、この間違いは、昭和三十九年に発行された『三間町誌(岡本千戈編)』の岡本合戦の記事を『清良記』の内容と誤解したことによるのかもしれません。多くの人は古文書を手に取って読むことはできません。町誌は身近なテキストですが、『清良記』の内容を紹介しているのか、別の史料の内容を紹介しているのかを明記していない為に誤解が広がってしまったのではないかと思われます。しかし、そもそも、どうして『清良記』の内容が紹介できなかったのでしょうか。これは深刻な問題と言わざるを得ません。

それが『岡本合戦の年数問題』です。

『清良記松浦郁郎校訂』の四三九頁には、「土居式部大輔清良年譜」が収録されていますが、巻二十三の岡本合戦が、巻二十二より前の天正七年の枠に記載されています。しかし、なぜそうなのかという理由は書かれていません。じつは、この年譜は『土居清良公三百五十年祭記念誌』からの転載なのですが、そちらの四五頁に理由が書かれています。つまり、「清良公の生涯における最大の激戦であった岡本、橘合戦は、清良記では天正九年と記述されているが、今日では他の史料によって、天正七年が定説になっているので、この年譜もそれに順じた。」という理由でした。

 平成二十七年三月に発行された『新宇和島の自然と文化(二)』一四七頁には、「三間の中世の城跡」として岡本城跡が紹介されています。頁に限りがあり十分な説明ができなかったと伺っていますが、『清良記』の内容が紹介されました。

 

「『清良記』によると、天正九年五月二三日、河野道正、長曽(宗)我部元親に通じ、土佐軍の侍大将虎之介をはじめ百騎ばかり岡本城に引き入れる。土居清良ただちに城山に攻め上がり奪回する。「岡本合戦」

 翌二四日朝、長曽(宗)我部勢七〇〇〇騎に対し無勢の清良は知略により迎撃追撃して大勝利をあげた。世にこれを「橘合戦」と呼び有名である。」

               (『新宇和島の自然と文化(二)』一四八頁より)


 『清良記』での長宗我部勢は三千八百余騎。ここだけ他の史料によっていますが、ここまで紹介していただけたことは大変な感動でした。しかし、年譜と同様に「清良記には岡本・橘合戦は天正九年となっているが、天正七年が定説である。」という但し書き付きになっているのでした。



 第三章 定説とされた天正七年の根拠


 では、愈々、定説とされた天正七年の根拠について、一つ一つ検証をしてみたいと思います。先ずは、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号』です。その六七頁には、「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白である。」と書かれています。執筆者は石野弥栄氏。本文に付されている註⑿を確認すると「久延彦「岡本合戦の年月に就いて」(『伊予史談』一一三号、昭和十八年)、『愛媛県史』古代・中世第四章。『愛媛県史』資料編古代・中世二二三五~二二三七号。」とありました。それらも全て確認しましたが、『愛媛県史』古代・中世第四章の執筆者は石野氏自身でした。そこには何の説明もなく、天正七年の頁に岡本合戦らしき記事を書き、括弧書きで資料編の文書番号を付けていますが、資料編を確認すると、どの文書にも年数の記述はなく、編者が(天正七カ)と註を付けているに過ぎませんでした。つまり、『愛媛県史』は天正七年説の根拠にはなりません。指摘の根拠が説明されてないのですから、これでは久延彦氏の指摘だけが根拠と思われても仕方がないように思います。

 次に、久延彦氏の指摘ですが、久氏は、「この戦の年月に就いては従来異説があって適従するところを知らない」としながら、何年説が正しいかを検討しなければならないと、一つ目に紹介した『西園寺公広より緒方與次兵衛へ与えた感状』を以て、直ちに「この文書によって天正七年が正しいことが証される。」と結論づけています。しかし、この感状は本当に当時の物なのでしょうか。


    『猶々子々孫々迄及揚名如此候已上

今度中野通政実子之男末並西両人企謀反土州衆引籠岡本之城切

取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被ㇾ仕候に付、豊州土

州従両国取懸候砌及加勢、□□所□海陸対当家、数度之忠節候

間、ほうびとして知行十貫分可差遣候請取次第也可有言上者也

  天正七年五月廿八日      公  広  判

    緒方與次衛殿

              (『伊予史談』一一三号・五五頁より)


 緒方文書は、河野通賢を中野通政と記述していたり、西藤右衛門の名前が記述されていることから、『清良記』の影響を受けて書かれている可能性があります。また、河野通賢に謀反の企てがあったという記述は『清良記』と一致しますが、首謀者を実子之男と西両人としているのは、河野通賢が岡本城に逸早く駆け付けたとする河野文書との整合性を考えたのか、もしくは『清良記』を読み間違えたからではないかと思われます。しかし、西園寺殿の感状に西の名前が出たりするものか。また、緒方氏が岡本合戦で手柄を立てたとすることにも信憑性がなく、豊州を登場させていることにも疑問が残ります。おそらくは、各文書が出揃った江戸時代に創作された感状と見るのが適当ではないでしょうか。

 また、その傍証として『音地松本家文書』『四国軍記』『土佐国編年紀事略』が紹介されていますが、『音地松本家文書』は河野文書とほぼ内容が同じもので、岡本合戦については土佐の文書をもとに、河野通賢が活躍したように編集されています。『四国軍記』とも言う『土佐軍記』は、元禄十五年に小畠邦器によって発行されたと言いますが、底本にされている『元親記』と『長元物語』には、岡本合戦や三滝合戦に年数がなく、「岡本合戦=天正七年」「三滝合戦=天正八年」とした根拠が不明です。また、「岡本合戦→三滝合戦」の順で並べている為、『長元物語』より後の文書には、三滝合戦に「後の久武内蔵助」のような記述があるのかもしれませんが、『元親記』には「後の」という記述はありません。それよりも、はっきりと久武二男内蔵助(親直)が兄(親信)の弔い合戦をするのは、後に天正十二年とされる合戦になっており、弔いに五年も空く方が辻褄の合わないことのように思います。故に、「三滝合戦→岡本合戦」の順が本当ではないかと疑われます。『土佐国編年紀事略』は、中山厳水が郷土史料を研究し、没後の弘化四年に谷影井によって発行されたものですが、江戸時代の歴史研究も近現代のそれと変わらず、不確かな限られた史料をもとに、大いに試行錯誤していることが見て取れます

 このようにしてみると、定説とされた天正七年の史料的根拠は若干不確かであり、「清良記の誤りは明白である」とまでは言い切れないような気がします。



第四章 3タイプある岡本合戦


 ところで、岡本合戦の文書は大きくタイプに集約ができます。それは、当事者である、土居、長宗我部、そして、戦場となった岡本の領主、河野の3タイプです。そこで三者の立場を検証し、岡本合戦への理解を深めてみたいと思います。

 先ず、土居にとって岡本合戦は勝戦であり、「都までもかくれなく聞こえたるはこのときの軍」と、誇らしい出来事でした。表現が誇張される可能性は否めませんが、誰より当事者の立場にあり、合戦当時、土居清良は三十六歳、合戦後に城代となる真吉新左衛門は二十三歳、そして、『清良記』の著者水也は凡そ十歳。その後、三人は晩年まで三間に住しており、討死した似水の供養もあったでしょうし、年数や大まかな内容で嘘を付いてまで宣伝する必要は感じられません。

 一方、長宗我部にとっては負戦であり、三人の大将を失った痛手はありますが、四国統一の為には、僅か一日の負戦に囚われてはいられません。『元親記』は、大将久武内蔵助が打ち果てたことにしか言及していませんが、『長元物語』では、岡本城本丸を乗っ取った竹内虎之介と聟弥藤次の悲運物語に変質。『南海通記』や『土佐軍記』では更に話が盛り込まれますが、発行の早い順に岡本合戦の記事の年数を並べると「無→無→八→七」となり、確かな記録がなかったことが分かります。

そして、一番立場が難しいと思われるのが河野です。河野は岡本城の城主でしたが、『清良記』や緒方文書によれば、長宗我部に内通して謀反を企てていたことになっています。しかし、『予陽河野家譜』『河野系図』『伊予二名集』では河野通賢が逸早く岡本城に駆け付けたことになっており、そこに大きな矛盾を発見するのです。なぜなら、それが本当であれば河野は城主の務めを果たしていることになり、土居が河野を差し置いて褒美をいただくことはないし、何より岡本城が土居の城になることはなかった筈だからです。


『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく

静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大

功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ

のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ

加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど

もなり。』         

(『清良記松浦郁郎校訂』三二八頁より)


 『吉田古記』が、土居垣内村分である筈の岡本城と八幡神社を古藤田村分に記述しているのは、土居垣内村が古藤田村から分かれたからなのかもしれません。『清良記』巻二十四には「堂ヶ内村」と呼ばれ、天正九年六月より土居領になったとあります。一つの村の起源になったかもしれない岡本合戦。どちらにしても、このような大事な話の年数を忘れたり間違ったりするものではないと思います。



 おわりに


 これまでは何が史実かという研究が過ぎてしまい、『清良記』に書いてあることが紹介できない状態でした。しかし、『清良記』は軍記物語です。著者の意図や動機に思いを馳せながら、作品を読み味わい楽しむことが、『清良記』を郷土の宝物として大切にすることではないかと思います。三間支部では毎月第三土曜日の夜に『清良記を紐解く会』を行っており、平成二十八年の五月から四年目に入ります。賛同できる方は是非ご参加ください。


『ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、

そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも

 小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れ

 にか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。し

 かはあれど遼東の亥にやありなまし。

(『清良記松浦郁郎校訂』三頁より)





〈参考資料〉

1.『清良記』松浦郁郎校訂(昭和五十一年)

2.『三間町誌』(平成六年)

3.『三間町誌』(昭和三十九年)

4.『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』(平成二年)

5.『土居清良公三百五十年祭記念誌』(昭和五十三年)

6.『新宇和島の自然と文化(二)』(平成二十七年)

7.『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号』(平成十年)

8.『伊豫史談』一一三号(昭和十八年)

9.『愛媛県史』古代Ⅱ・中世(昭和五十九年)

10.『愛媛県史』資料編 古代・中世(昭和五十八年)

11.『愛媛県編年史』第五(昭和四十四年)

12.『音地松本家文書』(三間公民館撮影)

13.『四国資料集』山本大校注(昭和四十一年)

14.『土佐国編年紀事略』前田和男校訂(昭和四十四年)





c0363691_11504974.jpg


写真は、土居清良公を祭神に祀る「清良神社」。愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する。時は江戸時代、宇和島藩二代伊達宗利公の治世。土居清良公の三十三回忌に当たる寛文元年(一六六一)に創建されたと伝う。







[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2017-06-08 10:36 | 論文

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん