土佐史料に見る岡本合戦の年数批判


はじめに


愛媛県宇和島市三間町出身で、清良記研究をしている松本と申します。この度は縁あって土佐史談会に寄稿させていただきました。私の研究主題は「岡本合戦の年数」についてです。清良記は軍記である為、批判的に解読する必要がありますが、岡本合戦時、領主の土居清良は三十六歳。合戦後に岡本城の城代となり、江戸時代には土居中村庄屋にもなる土居良伯(真吉新左衛門)は二十三歳。そして後に三間郷社三嶋神社の神主となり清良記を著す事になる土居水也(真吉水也)は十代。岡本合戦では大叔父の土居似水が討死しており、供養もあれば年数に勘違いがあるとは考えにくいのですが、清良記の岡本合戦の年数は、著された時から天正九年。しかし、それを教えてはいけないという、暗黙のルールが三間の郷土史を支配してきました。私はそれに異を唱え、郷土三間の枠を超えて同志を募って来ました。岡本合戦の年数は、高知の旁にとっても大切な筈。どうか一緒に研究していただけたらと思います。



「土佐史料に見る岡本合戦の年数批判」


松 本 敏 幸


岡本合戦が登場する最も古い文献は元親記。しかし、そこには年数の記述がなく、長元物語にもない。ところが江戸中期の土佐軍記には天正七年の記述がある一方、同時代の土佐物語は天正九年を記述している。結局、このような混乱は、元親記に年数の記述がなかった為であるが、なぜ土佐軍記は七年とし、土佐物語は九年としたのか、その理由を明確にする必要がある。


江戸中期には戦国時代の研究が盛んに行われたが、捏造や改竄も行われた。土佐国編年記事略には各文献を併記しながら岡本合戦の年数批判をしているが、その根拠となる文献は見当たらない。佐竹系図も久礼村常賢寺蔵佐竹系図は七年であるが、蠧簡集佐竹系図は九年である。最終的に龍澤寺俊派の六年の文書に名前のある山内俊光が、高岡郡多郷村加茂社の棟札では七年から親光となっている事を上げているが、到底年数を裏付ける根拠とは言えず、ただ分かるのは「何も分からない」という事だけである。


ところが土佐軍記の記述は拡大し続けて至る所に増殖を見る。遂には伊予河野家の文献が採用。それを、伊豫史談の古老が定説とした事から、愛媛県編年史は勿論、三間町まで土佐史料を用いて岡本合戦を語る始末となる。高知の旁にも怒りを覚えてもらいたいのは、愛媛県編年史に紹介されている土佐国編年紀事略の引用が、天正七年説の揺るがない根拠となるように細工されている事である。これは編集に深く関わり、また影響を与えた伊豫史談の古老に負う産物であろうが、二箇所の引用を前後入れ替えて張り合わせ、天正八年の時点で岡本合戦の年数について確認があった文書であるかのような印象を持たせている。これは宇和島市立図書館を通し、高知県立図書館から前田和男校訂『土佐国編年紀事略』を借りて、初めて分かった事であった。


しかし、ここまでして伊豫史談の古老達は清良記の天正九年の記述を抹殺したかったのであろうか。河野家の文献が七年であった事が動機であろうか。その留目を刺したと思しきが、愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号の「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」という言葉である。故に、私は怒りを覚え、誰に憎まれようともこの宣伝をやめない。本当に清良記の誤りは明白だと言えるのか?ならば天正七年は本当に正しいのか?本当に明白だとまで言えないのであれば、愛媛県立歴史文化博物館は文書を取り下げて謝罪しなくてはならない。


もう少し土佐史料を批判しなくてはならないが、先に述べたように清良記の岡本合戦の年数は天正九年であり内容は豊富。元親記は年数がなく記事は簡素であるが、二書の間に矛盾はない。故に矛盾は長元物語に始まり、土佐軍記によって拡大される。矛盾は内容だけではなく、地理的な面から言ってもおかしいが、軍記は多かれ少なかれ創作である。ここでは元親記に話題を戻す。



「元親記上

久武兄内蔵助打(討)死之事付(けたり)

   内蔵助有馬湯治之事

 去程に、この内蔵助(久武親信)と云う者は、家老頭、武篇(辺)才覚、旁比類無き者にてありしなり。之に依り豫洲中郡より南伊豫分の軍代を申付けらる。先ず豫洲何原州(河原淵)の城主一覚・西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無(成)城主共内蔵助旗下へ降参す。斯りける処に、南伊与美間(三間)郷の内、城数五つあり。その内岡本と云ふ城、手合する者ありて、忍び入りて之を取る。内蔵助この城へ人数を差籠むべしとて、懸助け候処、残りの城より取出て合戦す。爰にて内蔵助打果てたり。その後は前の内蔵助の跡(後)を弟彦七(親直)に云付けられ、又内蔵助になされしなり。次に右の内蔵助、先年有馬湯治に上り、三七日入る。折節太閤様筑前殿と申せし時、御湯治なされ、内蔵助御相湯に入申す。(中略)この内蔵助と云ひし者は、万事に案深き者にて、元親卿󠄁も耻られ候ひて、残りの老どもよりは挨拶各別なりし者なり。」

(山本大校注『四国史料集』)



元親記の岡本合戦は上巻の最後に登場するが、久武内蔵助の存在を大きくした上で、過去に秀吉に会ったという話を添えている。この並びは、中巻の最後が内蔵助の弔い合戦と秀吉の軍門に下る話で終わるのに似ていて印象を重ねる。そして下巻に向かう気持ちを整えるのであろう。元親記の並びは年数順ではなく、意図して並べてある事に気付く。元親記に登場する南伊予攻めは、岡本合戦・三滝合戦・弔い合戦の順だが、清良記では、三滝合戦・岡本合戦・弔い合戦である。となると三滝合戦に登場する内蔵助が兄か弟かが気になるが、清良記では当然兄。長元物語以後の史料では弟となっているが、元親記は兄とも弟とも記述がない。その答えになるか知れないが、土佐国編年紀事略に弟内蔵助は天正十二年秋に伊予国軍代となったとある。もとより岡本合戦の次の合戦が弔いとなるのが自然であろう。三滝合戦は八年が定説となっている。その前が岡本合戦であれば七年となり、後であれば九年となる。ここに一先ずの決着を見る。



以上



c0363691_23392028.jpg



追伸、第八回「長宗我部フェス」から早や一月が経とうとしていますが、なかなか筆が進まず没稿が増えるばかりです。何事も簡単ではありませんが、精いっぱい自分の人生を生きるという事をしたいと思うています。皆様の応援をよろしくお願いいたします。松本


写真は、愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する清良神社。参道の石段の上にある二の鳥居から望む境内。













[PR]
by kiyoyoshinoiori | 2017-06-12 23:06 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん