平成29年5月20日(土)



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高知県南国市にある岡豊城址の高知県立歴史民俗博物館で催された、第八回「長宗我部フェス」に参加して参りました。
晴天に恵まれて、これまでで一番の良い天気と主催者を代表して宅間一之氏が挨拶。長宗我部鉄砲隊の祝砲と共にフェス開催となりました。
現在、岡豊城址の詰(本郭)には二年間限定で木造櫓も建造されています。戦国時代に四国の覇者として有名な長宗我部氏は、昨年は「真田丸」に四男長宗我部盛親もユーモアたっぷりの存在感を見せてくれていましたが、高知県では、ジョン万次郎、坂本龍馬、に並ぶヒーローです。様々に趣向を凝らし、高知県の人達が長宗我部氏を誇りとし大切にしている事がヒシヒシと伝わってきました。
また、宅間一之氏は高知県立中央図書館の館長で、土佐史談会の会長もしておられますが、我が郷土三間の軍記物語『清良記』を、三間史談会と土佐史談会で合同で研究するという提案もさせていただきました。大変有意義な高知行きとなりました。



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撮影日:平成29年5月20日(土)
撮影地:高知県南国市、岡豊城址
撮影者:松本敏幸©︎

(注意:写真の著作権を主張し、無断の複製、転載を禁じます。)





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# by kiyoyoshinoiori | 2017-05-20 23:59 | 戦国フェス

清良記の名誉回復を望む



「清良記の名誉回復を望む」

私は、愛媛県宇和島市三間町の在住ですが、専ら三間の指定有形文化財「清良記」の研究を趣味としています。中でも最大の課題は、巻第二十三に記録されている「岡本合戦」の研究です。そこにどのような問題があるのかを、是非皆さんにも知っていただきたく思いますが、ざっくり言えば「年数問題」という事です。

実は、「清良記」には岡本合戦の年数を「天正九年」の事として記録しているにも関わらず、「愛媛県史」では「天正七年」の事として記録するという矛盾が生じているのです。そして、それは「三間町誌」にまで採用されており、「清良記」にとっては大変に不名誉な事態と言わざるを得ません。「なぜこのような事が起こってしまったのか?」それが私の研究の発端であり、その原因を知った今は、「清良記の名誉を回復せよ!」と啓蒙に尽力しているところです。

さて、では順を追って問題を説明をしたいと思います。先ず最初に「岡本合戦」を記録した文書は土佐方の「元親記」であって、長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に、正重ともいう高島孫右衛門尉重漸によって著されていますが、年数は記録されておらず、記事も僅かで、大将久武内蔵助が討ち取られた事が記事の主となっていました。この二年前、寛永六年(一六二九)三月二十四日に「清良記」の主人公の土居清良が亡くなっていますが、享年八十四歳でした。

次に「岡本合戦」を記録したのが承応二年(一六五三)に三間の三嶋神社の神主土居水也によって著された「清良記」です。この「清良記」では当初から「岡本合戦」が「天正九年」の事として記録されていた事が伺えます。

その次に著された「長元物語」は、萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されていますが年数はなく、記事は一つ書きで、「元親記」にはなかった、岡本城へ侵入した武内虎之助父子の悲話が追加されています。また、この年に宇和島では、伊達家臣によって「清良記」の調査が行われ、その二年後に土居清良公が「清良神社」の祭神として、正式に祭られる慶事が起きています。それが寛文元年(一六六一)清良公三十三回忌の年でした。

そして、寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され「南海通記」が「岡本合戦」に「天正八年」という年数を記録しますが、内容は「長元物語」の一つ書きを繋げて物語にしたものであり、何を根拠に「天正八年」としたかは不明ですが、「長元物語」の次の記事の「三滝合戦」が「天正八年」の記事である為に、同年という推測をした可能性が伺えます。そして、記事の主は、久武内蔵助の討ち死によりも武内虎之助父子の悲話に変遷して行きます。

そして、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされた「土佐軍記」によって遂に年数は「天正七年二月」となりますが、土佐の侍と中間の人数が倍になる等の作為があったり、最初の記録である「元親記」と次の「長元物語」には年数がらなかった事、その後に年数の変遷がある事、「清良記」が著されて五十年後になって「天正七年」が登場している事などから、土佐方では「岡本合戦」の年数に対して正確な情報を確認できていなかった事が伺えるのです。事実、宝永五年(一七○八)に吉田孝世によって著された「土佐物語」には、「岡本合戦」が「清良記」と同じ「天正九年」で記録されているのです。

では、なぜ愛媛県史では「天正七年」が採用されたのでしょうか。それは、伊予国主であった湯築城河野家の文書である「豫陽河野家譜」や「河野系図」が「土佐軍記」と同じ内容の「岡本合戦」を収録しているからなのです。愛媛県史の中世の記事を書いた学芸員は河野家研究の本も執筆している河野贔屓であり、清良記批判の急先鋒だったのでした。その学芸員は、愛媛県の文書中で「岡本合戦が天正七年であった事は多くの研究者が指摘する所であり、天正九年とする清良記の誤りは明白である」と清良記を切り捨てています。そこまで言わしめられ、地に投げ落とされた「清良記」を、どのような事があったとしても名誉回復しなければ気が済まないのです。

皆様の理解、協力、支援を賜りますよう心よりお願いを致します。

松本拝

追伸

また、なぜ土佐方の史料が年数を分からないままに「岡本合戦」を七年や八年の事としてしまったのかに対しては、記事の並び順に原因が伺えます。つまり、「清良記」では、「三滝合戦八年→岡本合戦九年→弔い合戦十四年」となっているのに対し、「元親記」では、「岡本合戦不明→三滝合戦八年→弔い合戦十四年」の順で記事が並んでいるのです。

これは「元親記」が記事を年数順にしていない可能性が伺えるのですが、先ず「弔い合戦」というのは、「岡本合戦」で討ち取られた久武内蔵助の弟が仇を取りに来るという合戦なのですが、「三滝合戦」にも久武は出陣しているにも関わらず、「三滝合戦」が弔い合戦と言われず、更に後に「弔い合戦」と言われる「高森合戦」がある事自体がおかしな事だと言えます。

この原因を考えると、「元親記」は「上巻」「中巻」「下巻」からなっていますが、「上巻」の最後は「岡本合戦」と久武内蔵助が有馬湯治で秀吉に合うという話で終わっており、「中巻」は「弔い合戦」と四国征伐で秀吉の軍門に下るという話で終わっています。つまり、どちらも「久武内蔵助」と「太閤秀吉」の記事で韻を踏んでいるのです。「三滝合戦」は「中巻」の中程に記録されていますが、「元親記」は記事の並びを時系列にしていないのではないかと疑われるのです。



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# by kiyoyoshinoiori | 2017-05-05 23:20

□『清良記』を紐解く会 December 2016

『巻一』から『巻三十』までを紐解いてみると、『清良記』のメッセージは首尾一貫しています。また、『清良記』が著された動機は、『巻一』一章の最後の一節に凝縮されている事が分かります。

「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。
されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。
真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、
深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰にか見せん。
梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。
しかはあれど遼東の豕(いのこ)にやありなまし。」
(『清良記 松浦郁郎校訂』三頁)

『清良記』とは、江戸時代となり、宇和島が伊達家の治世となって三十八年が経ち、戦国時代の面影も忘れかけそうになっていた頃、三嶋神社の神主であった土居水也が、土居家の武名を後代に伝え残そうと書き上げた、戦国武将土居清良の一代記であったといえます。故に『清良記』は軍記物語であり、史実を扱うよりも、教訓としての色彩が濃く出ている事でしょう。しかし、そこには資料的価値があると言って余りある程の、生き生きとした戦国の世の息遣いが聴こえてきます。

三間史談会は、そのような『清良記』を宝とし、水也が伝え残そうとしたメッセージが何であったのかについて紐解いて行きたいと思います。

文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-12-01 16:31 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

十月二十九〜三十日『三間町産業文化まつり』が開催されました。三間史談会は「松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展」を出展。大変貴重な展示に、来場者の中には非常に強い関心を持たれる方もおられ、戦国時代の話に花が咲きました。

やはり「清良記」といえば三間町、三間町といえば「清良記」なのです。清良記を記録し保存して行く事や、清良記を紐解き語り継いで行く事は、三間の人間が責任を持って行かなければならない事だと強く感じた次第です。来年からは三間本を紐解きながら資料作りをします。ぞうぞよろしくお願い致します。


□『巻三十』最終巻(二回目)p.403〜p.417

最良記は三十巻もの大作ですが、その最後まで渾身の力が込められており、話は多岐に渡って面白く、示唆に富み、非常にメッセージ性を含んだ物語だといえます。「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と清良公が詠んだ歌は、本当は石城で自刃すべきだった筈を、土居の家督を背負い今日まで生きてきた事への感嘆を吐露したものであったのでしょう。故や、石城の土居一族の自刃は、主人を変えて生き延びる事を恥として、名誉の死を選び、清良をして再興を託した上での事でした。巻三十には丸串城代(現宇和島城)への仕官の誘いを断るというエピソードがありますが、それは騙し討ちを恐れたからではなく、土居家の生き方や清良公が今日まで生きて来た理由とは掛け離れたものであったからだという理解をしていただければと思います。


文責/三間史談会 松 本 敏



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-11-01 21:30 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より October 2016

 清良記の紐解きを始めて早や四年、遂に最終巻となり感無量に思います。思えば【清良記を紐解く会】は、松浦郁郎先生がテレビに出演されたことから始まりました。それが平成二十五年の三月二十三日(三間町では三嶋神社の春祭りの日)、テレビ愛媛の「ふるさと絶賛バラエティー・い~よ!」でした。そして、振り返ってみれば、清良公の土佐落ちの道を訪ねる研修、岡本城登山、長宗我部まつり、今年の宇和島市役所ロビー展と沢山の思い出ができました。これも全ては、松浦郁郎先生がご苦労をされて『清良記松浦郁郎校訂』を出版して下さったお陰です。そして、いつも盛り上げて下さる皆様には、本当に感謝致します。是からこの勉強会は、宇和島市指定有形文化財である古文書の『清良記三間土居本』の紐解きにも入って行く計画となっていますが、今後ともよろしくお願いします。


□『巻二十九』余韻

 先月、二十四日は『巻二十九』を紐解きましたが、供養の丸における佐兵衛と円長坊との壮絶な殺し合い、小早川の養子となっていた元隆の自刃は、『清良記』のラスト間際に暗い影を落としています。しかし、私はこのストーリーに何か含みがありはしないかと感じられて仕方がありません。対立関係にある者の讒言によって大老が上意討ちされてしまうとは、どうしても和霊騒動を彷彿とさせられてしまうのです。また、元隆は本当に小早川の養子となり安芸で亡くなったのか謎が深まります。


□『巻三十』(最終巻)p.403~p.417

 平成二十五年五月二十八日から始まった紐解きも、いよいよ最後の巻ですが、急ぐことはありませんので、今月から年の瀬にかけてじっくりと紐解いてみたいと思います。巻三十は、巻二十九の九章「四国ことごとく京家になる事」から太閤秀吉の四国征伐後の情勢となります。『清良記』には

 「そむくべき 代をし我から そむき来て
   そむかれけりな 時や来ぬらん」と詠みて、

竹ある岸の下水いさぎよく流れける方に、昔もかかることのありけん、その名を【かくれ宿】という所に、細々と清良公の足跡を伝えています。また、巻三十には等妙寺や仏木寺の縁起、また三嶋神社の楠の云われについても述べてあり興味を引きます。その後、『清良記』は清良の庵室【かくれ宿】で、立ちつ座りつ軍物語をされる清良の姿を描いて終わりとなります。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-10-01 07:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん