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 『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を置いたように東西に細長く在り、三間町誌では「西城」「中城」「下城」からなる三連の城として紹介されており、その標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されている。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事より

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (松浦郁郎校訂)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここで分かる事は、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側という事が分かるだけであるが、「ねずみの尾」という例えは、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事より

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (松浦郁郎校訂)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事より

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (松浦郁郎校訂)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更にある「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。その名前は今も「下城」から下った三間川に架かる「蜂の巣橋」に残っており、なぜそのような名前が付けられたかは不明だが、歴史ある名前として、これからも大切にしたいと思う。(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36

清良記の名誉回復を望む



「清良記の名誉回復を望む」

私は、愛媛県宇和島市三間町の在住ですが、専ら三間の指定有形文化財「清良記」の研究を趣味としています。中でも最大の課題は、巻第二十三に記録されている「岡本合戦」の研究です。そこにどのような問題があるのかを、是非皆さんにも知っていただきたく思いますが、ざっくり言えば「年数問題」という事です。

実は、「清良記」には岡本合戦の年数を「天正九年」の事として記録しているにも関わらず、「愛媛県史」では「天正七年」の事として記録するという矛盾が生じているのです。そして、それは「三間町誌」にまで採用されており、「清良記」にとっては大変に不名誉な事態と言わざるを得ません。「なぜこのような事が起こってしまったのか?」それが私の研究の発端であり、その原因を知った今は、「清良記の名誉を回復せよ!」と啓蒙に尽力しているところです。

さて、では順を追って問題を説明をしたいと思います。先ず最初に「岡本合戦」を記録した文書は土佐方の「元親記」であって、長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に、正重ともいう高島孫右衛門尉重漸によって著されていますが、年数は記録されておらず、記事も僅かで、大将久武内蔵助が討ち取られた事が記事の主となっていました。この二年前、寛永六年(一六二九)三月二十四日に「清良記」の主人公の土居清良が亡くなっていますが、享年八十四歳でした。

次に「岡本合戦」を記録したのが承応二年(一六五三)に三間の三嶋神社の神主土居水也によって著された「清良記」です。この「清良記」では当初から「岡本合戦」が「天正九年」の事として記録されていた事が伺えます。

その次に著された「長元物語」は、萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されていますが年数はなく、記事は一つ書きで、「元親記」にはなかった、岡本城へ侵入した武内虎之助父子の悲話が追加されています。また、この年に宇和島では、伊達家臣によって「清良記」の調査が行われ、その二年後に土居清良公が「清良神社」の祭神として、正式に祭られる慶事が起きています。それが寛文元年(一六六一)清良公三十三回忌の年でした。

そして、寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され「南海通記」が「岡本合戦」に「天正八年」という年数を記録しますが、内容は「長元物語」の一つ書きを繋げて物語にしたものであり、何を根拠に「天正八年」としたかは不明ですが、「長元物語」の次の記事の「三滝合戦」が「天正八年」の記事である為に、同年という推測をした可能性が伺えます。そして、記事の主は、久武内蔵助の討ち死によりも武内虎之助父子の悲話に変遷して行きます。

そして、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされた「土佐軍記」によって遂に年数は「天正七年二月」となりますが、土佐の侍と中間の人数が倍になる等の作為があったり、最初の記録である「元親記」と次の「長元物語」には年数がらなかった事、その後に年数の変遷がある事、「清良記」が著されて五十年後になって「天正七年」が登場している事などから、土佐方では「岡本合戦」の年数に対して正確な情報を確認できていなかった事が伺えるのです。事実、宝永五年(一七○八)に吉田孝世によって著された「土佐物語」には、「岡本合戦」が「清良記」と同じ「天正九年」で記録されているのです。

では、なぜ愛媛県史では「天正七年」が採用されたのでしょうか。それは、伊予国主であった湯築城河野家の文書である「豫陽河野家譜」や「河野系図」が「土佐軍記」と同じ内容の「岡本合戦」を収録しているからなのです。愛媛県史の中世の記事を書いた学芸員は河野家研究の本も執筆している河野贔屓であり、清良記批判の急先鋒だったのでした。その学芸員は、愛媛県の文書中で「岡本合戦が天正七年であった事は多くの研究者が指摘する所であり、天正九年とする清良記の誤りは明白である」と清良記を切り捨てています。そこまで言わしめられ、地に投げ落とされた「清良記」を、どのような事があったとしても名誉回復しなければ気が済まないのです。

皆様の理解、協力、支援を賜りますよう心よりお願いを致します。

松本拝

追伸

また、なぜ土佐方の史料が年数を分からないままに「岡本合戦」を七年や八年の事としてしまったのかに対しては、記事の並び順に原因が伺えます。つまり、「清良記」では、「三滝合戦八年→岡本合戦九年→弔い合戦十四年」となっているのに対し、「元親記」では、「岡本合戦不明→三滝合戦八年→弔い合戦十四年」の順で記事が並んでいるのです。

これは「元親記」が記事を年数順にしていない可能性が伺えるのですが、先ず「弔い合戦」というのは、「岡本合戦」で討ち取られた久武内蔵助の弟が仇を取りに来るという合戦なのですが、「三滝合戦」にも久武は出陣しているにも関わらず、「三滝合戦」が弔い合戦と言われず、更に後に「弔い合戦」と言われる「高森合戦」がある事自体がおかしな事だと言えます。

この原因を考えると、「元親記」は「上巻」「中巻」「下巻」からなっていますが、「上巻」の最後は「岡本合戦」と久武内蔵助が有馬湯治で秀吉に合うという話で終わっており、「中巻」は「弔い合戦」と四国征伐で秀吉の軍門に下るという話で終わっています。つまり、どちらも「久武内蔵助」と「太閤秀吉」の記事で韻を踏んでいるのです。「三滝合戦」は「中巻」の中程に記録されていますが、「元親記」は記事の並びを時系列にしていないのではないかと疑われるのです。



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by kiyoyoshinoiori | 2017-05-05 23:20

□『清涼記』を紐解く会 May 2016

 爽やかな風吹く最高のゴールデンウィークをお過ごしだったことと思います。私は、五月五日に、愛媛県護国神社で行われていた五十回目となる【万葉祭】に参加してきました。この行事は、明治百年になる昭和四十二年に、当時愛媛県教育委員長であった竹葉秀雄先生(三間名誉町民)と、愛媛県の植物学者であった八木繁一先生が中心となり始められた催しで、愛媛県護国神社に祀られた御霊を慰霊する為であったといわれます。

 さて、『清良記』を紐解く会におきましては、今月より四年目に突入となって参ります。三年前の五月二十八日に第一回目が行われ、『土居清良の土佐落ちの道を訪ねる研修』『岡本城址に登って岡本合戦を検証する研修』、また『長宗我部まつり』に参加する等、精力的に事業を進め、新規会員の獲得や後継者の育成にも大いに役割を果たすことができたと思います。

 今後の紐解きは、順調に行けば十月で『巻三十』行い大きな一区切りとなりますが、九月には宇和島市庁舎ロビー展を行い、十月には『三間町産業まつり』での展示を行いたいと思います。その内容のメインは、松浦郁郎先生からお預かりしている『新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身となった新聞社)』に掲載された『清良記』の展示です。これは、『清良記』の内容を直に紹介できるばかりか、挿絵に使われた写真や記事が残っていること自体が非常に貴重であるからです。


□『巻二十五』 p.344~p.353

 天正十年三月の記事から始まる『巻二十五』ですが、やはり気になるのは『本能寺の変』であると思います。三四五頁上段を見れば、
 「将軍信長公は明智日向守光秀がために京都本能寺において六月二日の朝、ご切腹なりと告げ来たりければ、秀吉より両川へその旨をありのままに申され、」
 とあります。
 っこで改めて確認しておきたいことは、『清良記』はあくまで軍記物語であり、そこにどのように書いてあったとしても、史実の根拠として捉えてはいけないという事です。例えば、日付に関しては間違っていないけれども、『朝、ご切腹』は、どこからの情報であるのか。また、秀吉は両川に信長の死を伝えたというが、それが史実か否か。これらには疑問があり、結論付けずに研究課題として行くべきでしょう。更に前後の記事を紐解けば、両川は秀吉に一目置いており、清良に秀吉の評価を語らせて、この期を反撃の機会にするのではなく、和睦の機会にするよう勧めるという話になっています。


□『干支』について

 『十干十二支』ともいう『干支』は、六十年で一巡り。これが『還暦』です。『木火土金水』の五行を二つに別けて『甲乙丙丁戊己庚辛壬癸』にしたものが『十干』、『子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥』が『十二支』、その組み合わせが六十通りとなります。


                文責/三間史談会々 松 本 敏 幸



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□愛媛県護国神社『万葉植物苑』に建立された『熟田津之碑』(撮影:2016.5.5)



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□『熟田津之碑』建立:1967年(昭和42年)7月5日。松山市を流れる石手川の自然石を使用。



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□『熟田津の碑の副碑』全国を見ても、これ程立派な副碑を持つ『熟田津之碑』はないといわれる。



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□『愛媛県護国神社』の正式参拝第50回【万葉祭】には県下の人士が集まる。



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□『神道夢想流杖道』の奉納演武が行われる。他にも詩吟の会による献吟などが奉納される。



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□『正岡子規と植物』と題して、正岡子規の令孫にあたる【正岡明氏】が記念講演される。



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□『万葉音頭』作歌:竹葉秀雄 踊り:四国民舞輪の会



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□愛媛県松山市では、若手が育っている。(*´艸`)いいね♪



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□参加者全員で、『万葉音頭』の輪踊りを行う。



写真:愛媛県松山市/愛媛県護国神社第50回【万葉祭】 撮影:松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-05-07 13:53

午後からは、鬼北町節安地区(旧日吉村)の薬師堂で行われている【花飛び踊り】の奉納を見に行ってきました。この踊りは、安産祈願として古くから節安地区に伝わる行事です。云われは、その昔、身重の旅の女が産気付いて、村人の介抱を受けましたが、女もお腹の子も助ける事ができず、お薬師さんのお堂のそばに「おたまや」を祭って供養したのだそうです。そうした所、村の女達が皆、安産の霊験をいただくようになったというのです。旅の途中で亡くなった女は、平家の落人のお姫様だったとも言われますが、村人に介抱され供養までしてもらい安心して成仏する事ができたのでしょう。今では霊験を聞き付けて、地域外に住まう方まで祈願に訪れるようになっているそうです。

以上、松本敏幸©︎


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愛媛県北宇和郡鬼北町/節安地区(旧日吉村)の薬師堂にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-21 20:10


□『清良記を紐解く会』November.2015


 いよいよ今年のラストスパートは、巻二十三に向けての準備作業です。前回の続き、巻二十の後半から巻二十二には、天正七年から天正九年に掛けての出来事が事細かく述べてあり、『清良記』における【岡本合戦】は、天正九年以外に考えられない事となっています。そこで、十一月は、巻二十の後半から巻二十二をひとまとめにし、【岡本合戦】を検証する特別講義をしてみたいと思います。



□『巻二十』の後半p.279~p.291


 さて、十一章「向山、謀叛の事」では、土佐に内通した向山下野を西園寺殿が咎められず、天正七年には下浄土城に帰城させたと述べられていますが、それまでに、長宗我部と土居の手合わせは十度以上、せり合いは二十四度あり、その内総大将を討取ったのは、天正三年二月の外記と丹後の二度であったとも述べられています。つまり、この記事は天正三年から七年の出来事を振り返っている訳ですが、天正七年に【岡本合戦】が起こったような雰囲気は感じられません。


十二章「元親うわさの事」では、元親の次男五郎次郎が香川氏の養子になる話が紹介されていますが、五郎次郎とは香川親和の事で、天正六年の出来事と思われます。その後の記述は、天正十四年に起きる戸次川の合戦の事であって、最初に述べられている「天正三年乙亥の春」の出来事ではありませんので、誤解しないように注意して下さい。


また、河野領北伊予の情勢で再び天正七年の記述が見られますが、小田久万の領主大野直重も長宗我部に内通しており、その弟であった大洲の領主大野直行も言い合わせていたともありますが、河野は長宗我部や大友の調略や軍略から伊予を守る為に、伯父の毛利輝元を後ろ盾にしていた事が述べられています。故に、宇和の西園寺も輝元からの援軍の依頼を断れず、以下の話へと続いて行きます。


そして、282ページに天正八年の記述があるのですが、「天正八年に芝美作が公広卿をあざむきて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、この五カ所元親にとられけるが、その後、天正十五年まで八カ年の間、元親手をさすこともなかりし。」とある訳です。そのままに解すると、天正九年の【岡本合戦】が存在しない事になってしまいます。しかし、芝が公広を裏切るのが天正八年だとすると、【岡本合戦】が天正七年である事もありえない訳です。さて、僅か一日とは言え、都までも聴き及んだという【岡本合戦】を、「元親手をさすこともなかりし」と言えるものだろうか?と謎は深まります。


また、巻二十から織田信長の動向に対する記事が増えてきますが、十三章では土居右京進の話として、【本能寺の変】が出てきます。しかし、それは天正十年の事ですので、『清良記』は底本の記録や回想を元に編集された物語である事が分かります。故に、記事の年数が行ったり来たりする書き方となっています。


 ところで、織田信長と毛利輝元との戦は、宇和の武将達にとって、身の処し方を悩ませる事でした。十五章では誰が遠征に行くかでくじを引かされ、たびたびの役に清良の難儀している姿が描かれています。清良は小早川の配下として従軍しており【石川谷】を請け持って防戦していますが、隆景が逗留した【亀山】が、後の天正六年に明智光秀が信長の命令で築城した【亀山城】の前身なのかどうかについては些か疑問が残ります。



□『巻二十一』p.292~p.304


 巻二十一から天正五年の事となりますが、話題は変わらず中国への遠征です。ここで登場人物の関係性を少し説明しておきたいと思います。安芸の毛利元就には三人の子供がおり、嫡男が毛利隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景となります。毛利輝元は十一歳の時に父隆元が急死し、家督を継ぐ事になりますが、三本の矢の教えの如く、輝元を支えて行ったのが吉川元春と小早川隆景でした。


 三章からは【上月城の合戦】が登場。「同年六、七、八の三ヶ月」というのが秀吉が【上月城】を攻略する合戦で、「あくる天正六年」からの合戦が、輝元が【上月城】を奪還する合戦となります。出雲の尼子義久が毛利元就に屈した事から、お家再興を願っていた家臣山中鹿之助が秀吉軍となって尼子勝久と【上月城】に籠っていましたが、『清良記』では土居との競り合いが描かれ面白く思います。


五章に【室町殿】とあるのは注目すべき点です。と言うのは、室町幕府は信長が室町将軍足利義昭を追放させた事で終焉したと思われていましたが、現在では京を追放された後も将軍職を行っていたと見る向きが主となっているからです。室町将軍足利義昭が最終的に下向した地は備後国【沼隈の鞆】。毛利輝元の所領する地であり【鞆幕府】とも呼ばれています。


そして、十一章から十章が天正七年の記事となっています。現在、愛媛県史の定説によれば【岡本合戦】は天正七年の事とされていますが、『清良記』では当然、天正七年の記事とはなっておらず、そこには全く別の状況による出来事が綴られています。しかし、それが【岡本合戦】に繋がって行く事になります。


さて、十二章で注目すべきは、信長の家臣であった楠長庵(楠長諳、楠木正虎)と西園寺公広とのやり取りです。楠長庵が言うには、「信長が西国に出馬する時には、西園寺に頼りとなって欲しいのに、なぜ度々毛利へ加勢するのですか?」と言うのですが、公広卿は「土佐や豊後との戦に暇ない状況であるのに、郡内や道後が属している毛利と仲違いしていては、信長公が出馬するより先に西園寺は持ちません。それを分かっていただけなければ、西園寺も信長公の願いを聴いてはいられません。」と答えています。そして、天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと言うのですが、最近まことしやかになってきた【本能寺の変】の四国征伐阻止説を考えてみた時に、まさか西園寺には信長の四国征伐待望論があったのではなかろうかという疑問も頭を過ぎります。そして、『清良記』からだけの見方とはなる訳ですが、天正八年に毛利輝元の後ろ盾がなくなった事で、天正九年に【岡本合戦】が起きる事になったのだろうかとも思うのです。


十三章は、天正七年の七月に起きたという【一の森城】でのクーデターです。竹林院の被官、御手洗図書と言う者が土佐勢を二百余人【一の森城】に引き入れた為、竹林院公義は【深田の上城】へ逃れますが、勇敢であった弟の竹林院公明が【一の森城】を取り戻しています。これは小競り合い程度の小規模な合戦ではあったようですが、長宗我部による伊予の切り崩しが宇和にも及んできた証拠と言えるでしょう。



□『巻二十二』p.305~p.315


 いよいよ【岡本合戦】まで残す所、この巻二十二のみとなりましたが、ここで登場するのが、芝作州こと芝美作守政輔です。『清良記』によれば、長宗我部の宇和郡への調略は、この芝一族によって行われます。【岡本合戦】で本丸へ侵入できたのは、城主河野通賢が内通していたからかもしれませんが、芝一族の三男四郎右衛門が河野通賢の聟であった事が理由として考えられます。【橘合戦】では土佐勢の本隊を手引きしたのは四男芝源三郎と次男芝左京進であったし、長男芝一覚と三男四郎右衛門は土佐勢に加勢して【框越え合戦】を起こしています。合図ののろしが上がった場所は、①岡本(土佐先発隊)、②奥野々(芝左京進)、③原の森(芝源三郎)、④奥の川(土佐本隊)、⑤伽の森(芝一覚)であり、土佐勢の侵攻ルートが芝一族の領地であった事が伺いしれますが、その準備が調って行く動向が、巻二十二の内容ではないかと思います。


 さて、一章には「天正七年の暮れより元親に内通す」とあり、『清良記』の通りであったとすれば【岡本合戦】も天正七年には起こりえなかったと思われます。そして、天正八年に行ったと思われるのが、三章の河原渕領主庄林日向守法忠を蟄居に追い込んだ【河後の森城】のクーデターです。五章、天正八年七月の末には、芝作州は土佐、阿波、讃岐から二千騎領内に陣取らせ、西園寺殿が後詰しない事を計算した上で、「土佐勢一万騎寄せ来たり、急ぎ後詰あれ」と、たばかりの早馬を走らせたとあります。


 西園寺に代わり駆け付けたのが土居清良です。そして六章で芝源三郎と問答。


「それがし清良、別して敵にあらず。西園寺の仰せをもってかくのごとくなれば、西園寺よりかくとこれなき内は、かこみをとくことも、その陣を引くこともまかりならず。そのうえ、奥野々に敵六七百も見えたり。その方の城を攻め落として後、奥野々の敵は打ち果たすべき」

とありければ、源三郎たえかね

「さらば、それがし二心なき証拠には、この城を明けて渡し申すべし」

 とて、源三郎甲をぬぎて弓をふせ、清良の陣へぞ出たりける。


 清良は源三郎を討ち果たすべきと思われてはいましたが、土居も勢力ぎりぎりの所で戦っていた為に、被官が一人でも打たれるよりは、と源三郎を捕虜にして【河後の森城】を占拠。まだ土佐方を引き込んでいる【竹の森城】に矛先を移す事にします。しかし、芝美作守が西園寺に免文を出し西園寺が赦免すると、流石の清良も呆れ果ててしまいます。このように、西園寺は勇猛果敢な武将ではなく律儀な仁将であった為、長宗我部の調略を受け続ける事になって行きます。


 その一つが、また、八章「北の川対馬守通安、最期の事」です。北の川通安は天正八年八月二十一日、【三滝城】で果敢に土佐勢と戦いますが、西園寺の後詰はなく、魚成が土佐方に寝返った事で、野村、赤浜が援軍を送れず、大番、甲の森、猿ヶ嶽の三城が落城。九月一日には僅かな勢が【三滝城】に集まり、土佐の大将久武内蔵助、桑名太郎左衛門、依岡左京を三度打ち破りますが、九月十日、遂に【三滝城】は落城してしまいます。


 九章、『清良記』は、その背後にも芝美作守の謀計があった事を伝えています。驚いた西園寺は芝作州の本拠、西の川【鳥屋の森城】を包囲。芝美作守は久しく連れた妻を一人、人質に出したようですが、一覚、左京進、四郎右衛門の妻子を人質に取るのでなければ全く意味がないと、西園寺のおろかさが再三嘆かれています。


 十章からは天正九年の記事に入ります。先ず正月には西園寺に取り入って人質となっていた妻を取り戻した芝美作守ですが、三月の初めには掌を返し土佐方の加番の武士を五百余騎も置き込ませて、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は完全に土佐分となってしまうのでした。


 そして、巻二十二の最後、十二章は意味深げな言葉で終わります。

「これより以後、土佐方より小勢にては一度もかかり得ざりける」と。


 これは、天正九年三月九日、土佐の加番衆五百余騎によって清延の【薄木城】が取り囲まれたのを、土居外記、真吉新左衛門、善家八十郎、桜井五左衛門、等が駈け付けて土佐勢を討ち散らした事によるものですが、この二ヶ月後が、総勢三千八百余騎、雑兵一万三千人によって押し寄せる【岡本・橘・框越え合戦】となります。



□【岡本合戦】に向けてNEXT.2016


 岡本合戦は、「激戦」「大合戦」「最大の勝利」という謳い文句ばかりが有名で、その本当の姿を大変誤解させてしまっています。岡本合戦は、僅か一夜昼の合戦であり、土居清良は名将といえども、常に崖渕の戦を余儀なくされていました。岡本合戦が「最大の勝利」であったと言うのは、敵の大将を討ち取る事により、少数の兵で大軍を破ったという戦ぶりによるものですが、その中で最も称賛されたのは、橘の丘に隠れていた鉄砲隊が、合図が下るまで絶対に動かなかったという完璧な指示系統でした。勝鬨が挙がった「申の中刻」は午後四時。「瞬殺」と言って良い勝利でしょう。また、その勝利は元親征伐を目前としていた信長にも伝わったと言われます。来年春の『第二回清良記シンポジウム』は、河後森城の発掘調査が主と聴いていますが、いつか岡本合戦でも一旗挙げてみたいものです。



(文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-11-01 22:37

不破八幡宮秋の祭礼

2015.10.10〜11『清良記』巻五にも登場する、幡多郡の総鎮守【不破八幡宮】の秋の祭礼に行って参りました。幡多郡の四万十川流域が参加するお祭りで、かつては陰暦の10月15〜16日に行われていたようですが、現在は体育の日の前の土日がお祭りとなっています。


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初日は宵宮祭。『清良記』には、一条、土居、また長宗我部の侍達が相撲で力比べをする様子が描かれていますが、現在は小・中学生の男子・女子による【子供相撲大会】が開かれており、学年別、男女別に取り組みがされて大人から子供まで大いに賑わっていました。また、郷土芸能の民謡や神楽を楽しむ事もできます。


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二日目は本祭。早朝、初崎の一宮神社から女の神様を乗せた船が漕ぎ出され、不破八幡宮の男の神様に嫁入りをするというのが祭のしきたりで、これは今から約500年前の室町時代中期、応仁の乱を避けて京から幡多へ下向した【一条教房】によって始められました。これは、幡多に京風の習慣を定着させる為だったそうです。


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一宮神社の女神は、椎名御前、徳益御前、鉾名御前の三柱がおられ、毎年榊を使ったくじによって輿入れする女神が選ばれますが、今年は雨を降らせる女神という椎名御前が選ばれたようです、不破八幡宮の手前の河原に着くと、一旦場が整えられて【茄子取り】と呼ばれる結納の儀式が行なわれますが、大変ユニークな掛け合いとしてお祭りの名物になっています。


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その後、不破八幡宮の正面の河川敷に作られた神域に女神の神輿が入り、町のお練りをしてきた不破八幡宮の神輿が帰ってくると、無事に【神様の結婚式】が行われ、見物者からは大きな歓声と拍手が起こっていました。


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土佐幡多郡の中村(現高知県四万十市中村)は、五摂家であった一条教房が下向した事で【中村御所】と呼ばれ、京風文化を伝える町として、その後の近代の国作りにおいても逸材の人物を輩出して来ました。こうしたお祭りは、それらのルーツとして大切に守り継がれています。





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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-13 10:21

鉄道と古城コラボ

2015.10.3 予土線3兄弟を連結しての運行が行われました。
予土線はJR四国のローカル線で、愛媛県の宇和島駅から高知県の窪川駅を走っています。愛媛県の長閑な田園風景、そして、高知県の四万十川の景観をウリに、0系新幹線を模した【鉄道ホビートレイン】、海洋堂ホビー館四万十がプロデュースする【海洋堂ホビートレイン】、本物のトロッコ車両を使った黄色い【しまんトロッコ】など話題性のある車両を走らせています。( ノ゚∀゚)ノ


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ここは宮野下にある土居中踏切。停車していると偶然目の前を、しまんトロッコを最後尾に予土線3兄弟が走り抜けて行きました。背景に見える山は、三間の戦国武将土居清良の大森城です。


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先周りして、金銅と古藤田の境にある持合踏切で予土線3兄弟を狙いました。ポイントは、やはり背景に見える古城です。向かって左は土居垣内の岡本城。右は大森城です。


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更に先回りをして鬼北町深田の天王橋で、下三間川橋梁を渡る予土線3兄弟を撮影。背景の中央に見えるのは竹林院氏の一の森城。右端に見える山は河野氏の高森城の裾野です。


この後、iphonの電池がなくなり、なんて千載一遇な出会いかと感動!!


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以上、鉄道と古城のコラボレーションでした♫\(^o^)/






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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-03 22:20
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9月1日(火)愛媛県宇和島市三間町曽根の天満神社にて、愛媛県と宇和島市から無形民俗文化財に指定されている【天神花踊り】が奉納されました。時は戦国時代。四国統一を目指す長宗我部元親の侵略が、伊予の宇和郡にも及んでいました。三間は宇和にとっては防衛線です。三間と宇和の間には法華津山脈が屏風のように横たわっていますが、最短コース上にあるのが【歯長城】でした。土佐の侍達は、歯長城を落す為に麓の曽根地区が八朔祭をする夜に里人に紛れ、祭りを見に来た歯長城主を討ち取ったのでした。現在では八朔祭を行う神社は殆ど見られないと思いますが、曽根天満神社では歯長城主を供養する為に八朔祭が行われています。明治6年以後は新暦の採用で9月1日が祭りの日となりましたが、曽根地区の子供から年寄りまでが集まって【天神花踊り】を守っています。




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by kiyoyoshinoiori | 2015-09-05 12:04


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今日の午前は宇和島市道の駅【きさいや広場】で宇和島伊達400年シリーズ講演会があり、宇和島伊達家と鍋島家の関係や有田焼きの秘話について勉強しました。その後、参加した三間史談会のメンバーと【薬師溪そうめん流し】へ。そこで、懐かしいグレブご夫妻にお会いしました。グレブさんはポーランドのお生まれ。ドイツ大学から愛媛大学へ留学した際に日本大好きになり、奥様と出逢って国際結婚。それ依頼、愛媛大学に留学する外国人学生や外国人観光客のお世話をされています。現在は、作家の司馬遼太郎氏や奥村昭氏も宿泊した宇和島市の歴史的古民家【木屋旅館】で、奥様と一緒に宿主の仕事をされています。今年は宇和島伊達400年。忙しくも楽しくお仕事されているようです。今日は愛大の女学生さんを連れて束の間の家族サービス。これからも頑張ってくださいね〜\(^o^)/♫

【木屋旅館】http://kiyaryokan.com/stay/





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by kiyoyoshinoiori | 2015-08-23 13:53

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん