カテゴリ:郷土史( 50 )


「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

『清良記の城を歩く』-戦国時代のお城学習会ー第2回、ということで、「土居清良」の居城『大森城』に登ってきました。例によって、宇和島市内のホテルに宿泊されている「土居秀夫氏」を迎えに上がり、道中は史跡へのご案内をいたしました。




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三間の入口となる『窓峠(まどんとう)』から、『大森城址』を遠望しています。ここは「弘法大師空海」も歩かれた遍路道で、深い山の中を歩いた先に、窓が開いたように明るく広い三間平野が広がっている事から『窓』の峠と呼ばれました。また、『窓峠』は「土居清良」の支城『正徳ヶ森城址』でもあります。また、井関農機を設立した「井関国三郎氏」の地元でもあり、氏が整備したことから『井関公園』とも呼ばれています。




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三間小学校の校庭に建つ『明治百年記念碑』(昭和42年PTA建立)。「ひ」という題字は、当時愛媛県の教育委員長で、後に三間町の名誉町民となる「竹葉秀雄先生」の揮毫です。当時の今西寛一校長の趣意書によれば、『日本は「ひ」の本の国であり、男は「彦(日子)」、女は「姫(日女)」である』という竹葉秀雄先生の説かれる「ひ」の思想から選ばれた題字であるといわれます。(後ろに見えるのは、三間中学校と三間高等学校)




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『三間高等学校』にも寄りました。三間高等学校は愛媛県では唯一の「農業機械化」があります。元は井関農機設立者で第一号名誉町民となる「井関邦三郎氏」が作った農業学校でした。井関氏が様々な農業機械を研究発明してきたことから、現在も三間高等学校では、新しい農業機械が発明されています。その入口に建つ「明徳を明らかにする」の碑は、昭和42年に創立20周年記念として建てられましたが、やはり「竹葉秀雄先生」が揮毫されています。題字は中国の四書の一つ『大学』にある「大学の教えは 明徳を明らかにするにあり 至善に止まるにあり 民に親しむにあり」が出典になっており、竹葉先生の座右の銘とされています。




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竹葉秀雄先生のご自宅前にある『三間村塾之碑』。揮毫されたのは「安岡正篤氏」です。竹葉家は伊予河野氏の末裔で、江戸時代は三間郷宮野下村庄屋でした。竹葉先生は幼き日に父を日露戦争で失いますが、学問に志し、自宅を開放して、松下村塾を模範とする『三間村塾』を開かれます。私の祖父達の世代は、昼は学校で、夜は『三間村塾』で、竹葉先生から学問や武道を教わったのです。それが時の知事の目に留まり、竹葉先生は「安岡正篤氏」の『金鶏学院』に入学することになります。その『金鶏学院』で著された本の中に『土居清良』がありました。




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土居清良の本城『大森城址』は、竹葉家からほぼ真東にあります。竹葉先生は『清良記』から土居清良の生き様を多く学ばれたでありましょう。また、ある少年の日の朝、竹葉先生は『大森城址』に向かい朝日が昇るのを待っていたそうです。そうした所、日の光に全身が包まれて、大きな感激とともに強い自覚が生じたといいます。竹葉先生は「人は少年の内に、そのような感激に包まれなければいけない」といわれており、それが愛媛県が独自の事業として取り組んで来た『少年式』の原型だともいわれます。




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昨今の戦国時代ブームで、たえまなく登山者が訪れるという『大森城址』。4年前にはテレビ愛媛が取材に訪れ、私が『窓峠』を紹介し、松浦郁郎先生が『大森城址』を紹介する事もありましたが、今日は地元のケーブルテレビ局「U-CAT」が取材に来て下さっています。道なりに真っ直ぐ歩きさえすれば本丸まで辿り着く事ができますが、急勾配を歩く為、少々きついかもしれません。(所要時間はおよそ30分)




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お疲れ様でした。( ^^) _旦~~(ただいま編集中)




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参加者かおよそ75人。(ただいま編集中)




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(ただいま編集中)





以上、松本敏幸Ⓒ





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-21 23:00 | 郷土史

2016.3.20(日)鬼北町近永公民館にて、主催、鬼北町・鬼北町教育委員会。共催、松野町教育委員会・宇和島市教育委員会。企画、鬼北の文化財利活用戦略会議による『第2回 清良記シンポジウム』ー鬼北地域の「城の読み方」を考えるーが開催されました。




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朝9時、宇和島市内に宿泊された「土居秀夫氏」を迎えに行き、道すがら戦国時代の古城『板島城』に登って来ました。城主は「板島志麻守」と言われますが、【清良記】では「家藤監物」が領しています。本郭に登ると分かりますが、ここからは鬼北方面の山が良く見えます。




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『上光満』にも登って来ました。近年ここは、元和元年に伊達秀宗公が五十七騎を伴って、板島へ入部したルートだったのではと関心が高まっています。地元の有力者「土居清良」は、伊達が入部するまでの領主「藤堂高虎」とも懇意であり、秀宗の入部を準備した「山家清兵衛」は間違いなく「土居清良」を訪ねたであろうと言われています。




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かつて「土居清良」が領地した『三間』の『土居中地区』から、遥かに『大森城址』を望みます。この土居中地区は、江戸時代に土居清良の末裔が土居中村庄屋となりましたが、土居家初代から数えて三十代目となる当主が、今も健在でおられます。




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『第2回 清良記シンポジウム』の会場、近永公民館へ到着。写真の紳士「土居秀夫氏」は、東京都で市民ボランティアの学芸員をされていますが、この日の為に帰郷して下さいました。




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シンポジウムで意見を求められる「松浦郁郎先生」。松浦郁郎先生は、愛媛県に2名しかいなかった農業普及委員をされていた頃、古文書であった『清良記』の翻刻、校訂を行い、自費で『清良記松浦郁郎校訂』を出版(昭和50年)されました。しかし、公務員であった松浦郁郎先生は版権を出版社に譲渡され、利益を一切受け取られませんでした。松浦郁郎先生は、まさに郷土史研究の恩人だと思います。




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今回は2回目でしたが、鬼北町は国史跡『旧等妙寺跡』、松野町は国史跡『河後森城跡』を持ち、宇和島市は今年度は『伊達秀宗公宇和島入部400年』で忙しく、この翌週からは『癒しの南予博』も始まるという多忙な中でありながら、『清良記』にかける情熱もまた一入である事を感じさせていただけました。




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そして、今回大変嬉しかったのは、凄く良い資料を作っていただけた事です。決して『清良記』に描かれている全てを網羅してある訳ではありませんが、この刺激は更なる研究意欲となって、郷土史研究を盛り上げて行く事は間違いないと思いました。




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シンポジウムの帰り道、『一の森城址』と『岡本城址』の間を走って増田地区に抜け、増田口に掛かる「三間川橋」で綺麗な夕焼けを見ました。「どこに住み、どんなに年を取ろうとも、幼き頃に見た郷土の景色が一番美しい…」と、そう思える光景でした。



以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-20 23:00 | 郷土史

2016.3.19(土)宇和島市教育委員会 文化・スポーツ課 文化財保護係の主催する『清良記の城を歩く』ー戦国時代のお城学習会ー第1回目『中野殿河野氏の居城 高森城跡をあるく』に参加してまいりました。




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宇和島市三間町の兼近地区集会所の前に集合する参加者。この日、2年間メールや手紙のやり取りをしてきた、東京都にお住いの「土居秀夫氏」に、はじめてお会いする事ができました。




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高森城跡の説明をされる「武田利康先生」。武田先生は長年、高森城跡の調査を重ねて来られ、縄張りや希少植物の保護にも努められています。昨年は「高森城を愛する会」で、説明板を作られました。




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白い髭の紳士は、愛媛大学名誉教授の「下條信行先生」。愛媛県の学芸員の多くは下條先生の教え子と言われます。3月20日の『清良記シンポジウム』では、コーディネーターを務められました。




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高森城の標高は、378メートル。山頂の本丸は南北に60メートルあり、岩山を平削して、東西と北は切岸のようになっています。広い範囲を見渡せる位置にあり、戦略的に非常に重要な城であったと思われます。また、明治6年の記録で、雨乞いの祈願所であった事も分かっています。




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小生が『高森城跡登山』の記念撮影をさせていただきました。この場にいなかった方も考えると、およそ40名の方が参加した事になります。(この後、土居秀夫氏を『迫目城』『妙覚寺』『熊野権現』等へご案内しました。)




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その夜は、三間史談会主催『清良記を紐解く会』を開催し、『巻二十三』を紐解きました♫(^_−)−☆


以上、松本敏幸©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-19 23:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 March 2016

【西南四国歴史文化研究会】の会誌『よど第17号』に、会員の松本が、「岡本合戦の年数問題」と題した論文を寄稿しました。未発表の稿に限る為、まだ内容を伝える事はできませんが、何分言葉足らずですので、少しだけ補足の意味を込めた説明をしておきたいと思います。


□「岡本合戦の年数問題」とは?

岡本合戦の年数には諸説あり、それを「岡本合戦の年数問題」と言います。先月の会報で紹介した『愛媛県編年史』を見ていただければ、「天正七年」七つ、「天正八年」が一つ、年数なしは八つありますが、「天正九年」の『清良記』も含めて天正七年五月の括りにされています。これが「岡本合戦=天正七年」という説の根拠となっているのですが、果たしてそれで良いのか疑問です。なぜなら『愛媛県編年史』は、岡本合戦が記述された『清良記』巻二十三を、『清良記』巻二十の前に持ってくるという混乱を生じさせてしまっているからです。

そこで再検証をしてみたいと思います。まず『清良記』についてですが、その前後の記述から『清良記』の岡本合戦の年数は、発行された承応二年(一六五三)の当時から天正九年であったと考えられます。次に、発行された順に他の史料を確認したいと思いますが、寛永八年(一六三一)発行『元親記』、萬治二年(一六五九)発行『長元物語』には年数が記述されていませんでした。寛文三年(一六六三)発行の『南海通記』で天正八年、元禄十五年(一七〇二)発行の『土佐軍記』では天正七年となりますが、どちらも先の二史料を底本に編集されており、当時の記録がない為、後世に混乱があった事が分かります。

この「岡本合戦の年数問題」を解決する為に、松本が目を付けたのが「三滝合戦」です。『清良記』では「三滝合戦」は天正八年の事となっており、その後の天正九年に起きるのが岡本合戦という流れです。ところが、土佐の文書では岡本合戦が先で、三滝合戦が後の記述となっている訳なのですが、登場する土佐の軍大将【久武内蔵助】に是非注目をしていただきたいと思います。久武内蔵助は岡本合戦で討死した大将で、その後は弟が同じ名前を受け継ぎ「久武後の内蔵助」と呼ばれています。それが三滝合戦では、どう呼ばれているかが問題です。

『清良記』では兄の内蔵助である為、当然、そう呼ばれてはいません。一方、『長元物語』『南海通記』『土佐軍記』では弟の内蔵助という意味で、「後の内蔵助」と呼ばれています。ところが、それらの底本である『元親記』には「後」という記述がなかったのでした。という事は、『元親記』の記述の並びが時系列ではなかった可能性が出てきました。上中下の三巻から成る『元親記』ですが、上巻の最後に登場するのが「久武兄内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事」です。『元親記』は、これらの話を上巻の最後に持って来る事で印象を強くしたかったのかもしれません。内蔵助が有馬温泉で秀吉に出会ったという話も生前の話である為、ここにも時系列に前後が生じています。更に、中巻の最後も不思議な事に、三間での合戦と秀吉の話で終わるという並びです。三間での合戦は、天正十四年に弟内蔵助が兄の弔い合戦をするという話であり、『清良記』にも同じ話が登場します。という事は、やはり「三滝合戦→岡本合戦→弔い合戦」という流れが自然である気がします。『元親記』より後の文書は、『元親記』の記述が時系列であると誤解し、その結果、岡本合戦を天正七年とする記述が広まったのではないでしょうか。「史料にない事を一人が記せば、数人が孫引きしてこれに習う」は、近現代だけの問題ではないという事を肝に銘じたいと思います。

                  (文責/三間史談会会員 松本敏幸)


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愛媛県宇和島市三間町/土居中の清良神社にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-01 00:11 | 郷土史

2月20日(土)の今夜は、三間公民館で『清良記』を紐解く会を行いました。内容は愈々、巻二十三「岡本合戦之事」に入っていきますが、前段階として【愛媛県編年史】に紹介されている『清良記』以外の文書(もんじょ)の内容を紹介しました。また、松浦郁郎先生が「新愛媛新聞」(昭和48年1月1日から昭和49年9月21日)に掲載されていたという、大変貴重な『清良記』のコラムを持って来て下さり拝見させていただきました。


以上、松本敏幸©︎


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愛媛県宇和島市三間町/三間公民館にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-20 23:17 | 郷土史
※『清良記』は、軍記物語である為に史料としての価値を損ねており、鵜呑みにできないという批判があります。しかし、それは『清良記』に限ったことではありません。今回は、岡本合戦の年数をテーマに『愛媛県編年史』に紹介されている文書を批判してみたいと思います。


□『愛媛県編年史・第五篇』(p.65~p.80)より抜粋

1.『予陽河野家譜』
同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
天正七年五月廿八日 緒方与次兵衛殿

3.『高串土居家文書①』
今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
六月三日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

4.『高串土居家文書②』
去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
七月廿日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

5.『河野系図』
天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

6.『元親記』
久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

7.『長元物語』
宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

8.『南海通記』
天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

9.『土佐軍記』
天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

10.『土佐国編年紀事略』
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
三月十八日 (法花津)前延(花押)
進上 三善治部少輔殿

13.『宇和郡往昔城主記事』
一岡本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

14.『吉田古記』
一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
二月八日 御判
土居式部太輔との

15.『伊予二名集』
天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

16.『愛媛面影』
岡本城墟 古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


□『愛媛県編年史』について

 『愛媛県編年史』は、昭和四十四年に愛媛県から発行されました。時の知事は久松定武氏。久松氏は久松県政五期の内三期(十二年)県の教育委員長に三間の竹葉秀雄氏を抜擢しており、久松氏は竹葉氏から『清良記』について影響を受けただろう事が推測できます。『愛媛県編年史』を開くと、巻頭には『清良記』を紹介する文と写真があり、もしかすると次の知事、白石春樹氏が松浦郁郎先生から『清良記』の講義を熱心に聞かれたという話も、昭和五十九年に『愛媛県史』を発行していく上で、『愛媛県編年史』を読まれて影響を受けていたからではないかと想像を逞しくします。
 では、愈々、その内容について考察してみたいと思いますが、まず、抜粋しているのは第五篇のp.65~p.80「天正七年五月」とされた中で、【岡本合戦】に関係する文書だけとしました。(ただし、『清良記』だけは割愛しています。)まず疑問に思うのは、「文書には天正八年も天正九年もあり、月は二月もあるのに、どうして天正七年五月の括りにされたのか?」という事ですが、天正七年と書かれた文書が若干多いというだけの事のように思います。しかし、文書は全てが同等だと考えるべきではありません。一人の人が天正七年と書き、それを写した人が多かっただけとすれば天正七年が多くなるのは当然です。実際『清良記』にも多くの写本がありますが、それらは全てを合わせて一つとされている事からも分かると思います。つまり、文書の情報がオリジナルではなく、人から聴いたとか、何かの文書を見て写したという物を当てにしなければ、情報源は当事者に限られて来る訳です。ならば、まず先に紹介されている『予陽河野家譜』を書いた人物が【岡本合戦】の当事者といえるでしょうか。また、土佐方の文書で先に書かれている『元親記』、次に書かれている『長元物語』ではどうでしょうか。それらは読んで一目瞭然、全て当事者ではなく、人から得た情報を元にして纏められた文書なのです。ここにおいて、当事者の目線で書かれた文書は『清良記』しかないという事が分かるに至ったのでした。「『清良記』が軍記物語である為に、史料的価値を損ねており、そのまま鵜呑みにできない」という事が本当だとしても、この事実だけは認めるべきであろうと思います。
 さて、具体的な解説ですが、最も古い時期に【岡本合戦】を記した『元親記』は長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に正重ともいう高島孫右衛門尉重漸という者によって著され、次に古い『長元物語』は、二十八年後の萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されたと言われます。しかし、二つの史料には年数がなく、【岡本合戦】が正確に記録されていなかった事が分かります。そして、『長元物語』には、『元親記』になかった竹内舅聟の悲話が盛り込まれており疑問が膨らみます。『南海通記』は寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され、ここにおいて「天正八年」という年数が登場します。内容は『長元物語』とほぼ一緒です。『土佐軍記』は『四国軍記』とも言い、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされたと言われていますが著者は不明。年数は変わり「天正七年二月」となります。そして、土佐の侍と中間の人数が倍になる等、内容に若干の誇張が見られます。
 ここでまた『伊豫史談』で久延彦氏が天正七年説の根拠として上げた三つの文書についてもふれておきたいと思います。まず『緒方家文書』ですが、河野通賢を中野通正としていたり「西」の名前が登場する等、『清良記』の影響を感じる他、非常に不自然な文書です。また、『音地松本家文書』は、『予陽河野家譜』や『伊予二名集』と内容がほぼ同じであり、情報の出処が土佐の史料にあることは言わずもがな。また、『土佐国編年記事略』に見る天正八年の『竜沢俊派文書』に至っては、なんら【岡本合戦】の天正七年説を裏付ける物ではありません。


 今回は少し難しい話になったかもしれませんが、歴史の細事は、一つを正として残りを誤りと決め付けないのが良いのではないかと感じています。ここでは決して天正九年説を正と主張しているのではありません。天正七年説を正として『清良記』を誤りと決め付けて来た、これまでの郷土史学習の姿勢に対して「そんな事ではいけないのではないですか?」と問題提起をしているのです。


                     文責/三間史談会会員松本敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-01 01:02 | 郷土史

□『巻二十二』後半p.310~p.315

 さて、一月は昨年残した『巻二十二』の続きを紐解きたいと思います。西園寺を旗頭とする南予の領主達の婚姻関係を理解する上で大変良い史料となっている『巻二十二』ですが、清良は中野との縁組を頑なに拒んでいました。その訳は既に承知の事と思います。そして起こる八章の【三滝城】の合戦。【北の川物語】とも言われる章が含まれているのは貴重なことで、【岡本合戦】より前の合戦とされている事が分かりますが、【岡本合戦】を考える上でも非常に重要な史料と言えます。つまり、【三滝城】の合戦は、土佐が宇和を侵略して行く過程の合戦であり、その侵略を頓挫させる事になるのが【岡本合戦】という流れです。故に、もし【岡本合戦】の天正七年説が正しいとすれば【三滝合戦】は天正六年が七年でなければならない筈です。しかし、通説では天正八年(もしくは天正十一年)とされており、天正八年の事とする『清良記』の記録の方が符合しているように思われます。これは【岡本合戦】の天正九年説を裏付ける一つの史料になるものではないかと思います。


□『巻二十三』p.316~p.334

 『巻二十三』は二月から紐解きますが、先行して解説しておきたいと思います。【岡本合戦】で有名な『巻二十三』ですが、『清良記』では土佐の侍が侵入した岡本城本丸を奪還する一章だけを【岡本合戦】としており、二章からは【橘合戦】となります。そして【橘合戦】は長編の章になっており、その場に居合わせた者にしか分からないような細かな息遣いまでが記録されている力の入れようです。まさしく【橘合戦】こそが、土居の侍が最も誇りたい合戦であったのでしょう。そして、章を変えて三章に【框越合戦】。ここでは大叔父の土居似水を失っており、大きな痛手を被っていますが、土居以外の領主が誰も加勢に駆け付けなかったのは情けない事と、能寿寺の僧であった薫蔵主の口を通して語らせています。また注目すべきは四章です。ここではもう一度、薫蔵主の目から見た【岡本合戦】を描いており、なんと『巻二十三』には二つの【岡本合戦】の物語が記録されていたのでした。そのお陰で、『清良記』では合戦を多角的に理解する事ができるのです。そして、五章では西園寺公が迫目妙覚寺に来られ、軍評定となります。

  『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく
  静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大
  功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ
  のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ
  加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど
  もなり。』

 このように【岡本合戦】を契機とし、天正九年六月より新しく土居領となったのが【堂ヶ内村】(後の土居垣内村)であったという事が分かります。天和元年に編纂された『吉田古記』では既に【土居垣内村】となっていますが、河野領であった【堂ヶ内】が【土居垣内】となったのは土居領になってからの事であろうと思われます。また、【岡本城址】と【八幡神社】が【古藤田村分】に記録されている事から、「まさか土居垣内は古藤田から分かれたのではあるまいか。」という疑問も浮かんで来るのです。このように【岡本合戦】は一つの村の誕生にまで関わっている出来事であり、当事者の多くいる土居が年数を勘違いするという事は少し考えにくいのではないかという気がします。

□おしらせ
 今年三月は『第二回清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。主催は、宇和島市、鬼北町、松野町の三市町合同による主催。会場は近永公民館となります。ぜひ参加して盛り上げましょう。
                    文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-01-16 14:54 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より


 二年前の平成二十五年は、『清良記』の紐解きを始めた年でもありましたが、バスをチャーターし、三間史談会の念願でもあった「清良、土佐へ落ちられる事」の現地研修をしたことが何よりの思い出となっています。準備の為に六回も高知まで足を運び、現地の視察や聞き込み、そして資料集めを行いました。そのような中で沢田勝行氏(西南四国歴史文化研究会副会長)との出会いがありました。今月の課題「巻二十」では、その時に宿題として残した【土居宗三】が再び登場します。今月も『清良記』の世界を一緒に堪能いたしましょう。



□『巻二十』を紐解く


 第一章「西園寺殿より安芸毛輝元への加勢の事」は、地元を離れまして日本史のよい勉強です。また、『清良記』の記述が、日本史の理解といかなる違いがあるかにも注目していただけると、更に楽しく読む事が出来ると思います。先ず、河野通直と毛利輝元の関係が気になると思いますが、「叔父甥の間なれば」と書いてあると通直が叔父で輝元が甥のようですが、実は逆で、輝元の奥方と通直の母親が共に宍戸隆家の娘なので、輝元が叔父で通直が甥の関係であったようです。


 そして、輝元と織田信長の合戦。そこに登場するのが「九鬼右馬之丞」です。九鬼右馬之丞とは、織田信長に仕え、水軍大名と呼ばれた、九鬼水軍の当主にて志摩国主となった九鬼嘉隆の事です。毛利水軍とは「木津川口の合戦」を戦っていますが、九鬼水軍は三千隻。対する毛利水軍は倍の六千隻を有しており、数で劣っていた九鬼水軍は毛利水軍に苦戦していますが、その後、鉄甲船を完成させる事に成功し、天正六年の合戦で毛利水軍を打ち破ることになって行きます。


 第三章に「閏月」の記述がありますので、少し説明しておきたいと思います。旧暦である「太陰太陽暦」では、一ヶ月が三十日、もしくは二十九日(小の月)なのですが、それでは次第に月と季節にズレが生じて来ます。これを修正するのが、十九年に七回の割合で「閏月」を入れるという方法でした。大まかに言うと、「およそ三年に一度、十三ヶ月の年がある」という事になります。「二十四節気」は「正節」と「中気」が交互に並んでいるのですが、「中気」が含まれない月が現れた場合、その月が「閏月」となります。


 以下、線を引いているのが「中気」

「立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒


 第八章「刀、脇指に寸袋用いる事」では、あの【土居宗三】の名前が再び登場しています。

『長宗我部元親の侍に、土居治部とてありしは、清良の姉むこ、一条家門の伯父土居宗三なり。家門の父、房家卿の代に、清良の姉を所望ありて、また、その後、土居の名字をぜひにと懇望して土居近江守と言いしを、後に宗三と名乗りける。家門の伯父にて、そのうえ、一かどの侍なれば、一条家の一の家老なり。この宗三、元親が武略をさとり、たびたび家門へ諫言しければ、かえって仇となりて、家門、宗三を追放ちにせられけり。それより土居治部は立ち退きて元親へ奉公す。この治部は清良の姉の子にはあらず、先の腹にて、清良の実の甥にはあらねども、右の由縁によって内々元親の様子を聞き合わせては土居へひそかに告げ知らせ、また、土居よりも尋ね問われけることたびたびなり。』



□参考資料として


織田信長 天文 3(1534)年 5月12日生

      天正10(1582)年 6月 2日没享年49歳


九鬼嘉隆 天文11(1542)年      生

     慶長 5(1600)年10月12日没享年59歳


毛利輝元 天文22(1553)年 1月22日生

     寛永 2(1625)年 4月27日没享年73歳


河野通直 永禄 7(1564)年      生

      天正15(1587)年 7月14日没享年24歳



文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸



※【三間史談会会報併せ三間郷土史研究会だより】だけでは十分な記事が書けませんので、ここで少し説明をしておきたいと思います。先ず、この記事は論文や資料という類の位置付けにはなっておらず、あくまで【清良記を紐解く会】の呼び込み用として興味を引く為に書いています。なお、【清良記】に対する詳細な解説は紐解く会の中で、【清良記】を読みながらしていますので、ここに書いてある事を勉強している訳ではないのでご理解ください。それでも、今回は、【土居宗三】について誤解がないように少し述べておきたいと思います。


 先ず、「清良の姉むこ」とあるのは【お初上臈】の事ですが、正確には「清良の従姉むこ」で、祖父【土居清宗】の嫡男【土居清貞】の長女が【お初】です。ちなみに、【清良】は【清宗】の三男【土居清晴】の三男になります。

次に「一条家門の伯父土居宗三」とありますが、【一条家門】とは、土佐一条家四代にして、最後の当主となった【一条兼定】を指しており、【家門】というのは、【兼定】の戒名と思われます。キリシタン大名としてカトリック式の葬儀を懇願した【兼定】でしたが、願いは叶わず、伊予国宇和郡の戸島にある龍集寺に墓地があります。その【兼定】の伯父が【土居宗三】であったというのですが、土佐一条家は、京の五摂家である一条家八代【一条兼良】の嫡男にて九代の【一条教房】の次男【房家】が、土佐一条家の初代となります。その後は、二代【房冬】、三代【房基】となって、四代【兼定】となりますが、二代【房冬】は父【房家】が亡くなって間もなく自殺しており、粗忽者であった三代【房基】もなぞの死を遂げてしまう事で、京一条家の後継として養子に出されていた【兼定】は離縁され、土佐一条家四代として、六、七歳の幼少期に土佐中村に帰ります。その後見人として名前が出て来る者の中に、【清良記】では、【房家】の弟【土居近江守忠家】、後の【土居宗三】が登場するのですが、一説では【一条康政】という人物もおり、【宗三】と【康政】が同一人物なのか、それとも別人なのかと疑問でしたが、【清良記】を読む範囲では、【宗三】が亡くなった後にも【康政】の出陣があり、二人が別人であった事が確認されています。【宗三】の事を、他の家老よりは後の時代に、三間の土居家からヘッドハンティングしてきたのではないかと言う人もいるようですが、私はそうは思いません。【敷地軍記】を読めば、【宗三】は土佐一条家初代【房家】の時からの筆頭家老だったことが分かります。【長宗我部地検帳】に、【宗三】の領地が分散してあるという見立ては、新参者が空いた土地を領したのではなく、問題のある土地の管理を全て引き請けていたからではないだろうかという気がします。また、幡多郡の郷土史料では、【宗三】は、【兼定】が平田のお幸という百姓の娘に執心して政務を疎かにしている事を責めた事が咎となって首を斬られたという話がありますが、【清良記】では一切そのような話になっておらず、土佐一条家の名誉を重んじる姿勢が感じられます。そして、【巻二十】では、【宗三】には、【お初】ではなく、先妻との間に【治部】という嫡子がいた事が記事となっています。中筋川沿いに、土佐中村から宿毛へ向かう途中、【上ノ土居】という地区の一つ前に【江ノ村】という地区があり、【小松山長法寺】に土居家の墓所がありますが、【宗三】は本来は一条家でしたので、墓には【楓】ではなく【下り藤】の家紋が彫られています。そして、この【長法寺】を開基したのが、【小松谷寺殿】とも呼ばれていた【一条康政】でした。【康政】は、長宗我部の時代になってからも領地を有した唯一の一条家だったとも言われています。【長法寺】には【康政】の墓と言われている大きな宝篋印塔が一基あります。中村には一条家代々の墓は各所にありますが、宝篋印塔はこの一基だけなのだそうです。



※参考資料として


一条兼良 応永 9(1402)年 5月 7日生

      文明13(1481)年 4月 2日没享年80歳


一条教房 応永30(1423)年      生

     文明12(1480)年10月 5日没享年58歳


一条房家 文明 7(1475)年      生

      天文 8(1539)年11月13日没享年65歳


一条房冬 明応 7(1498)年      生

     天文10(1541)年11月 6日没享年44歳


一条房基 大永 2(1522)年      生

      天文18(1549)年 4月12日没享年28歳


一条兼定 天文12(1543)年      生

     天正13(1585)年 7月 1日没享年43歳



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 高知県四万十市江ノ村にある【小松山長法寺】にて、小松谷寺殿の宝篋印塔を見上げる、羽藤氏と沢田氏。












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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-01 22:52 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん