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    六月二十日の『清良記を紐解く会』では【巻十六】を紐解きましたが、松浦郁郎先生が先月の長宗我部まつりの折に約束してくれておりました、新聞社や雑誌社から受けた取材の記事というのを持って来て下さいました。今回は紐解きを早々に終いつけ、皆で先生の当時の思い出話に耳を傾けました。以下は、その時の様子です。

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    この日、松浦郁郎先生はまた大変喜んでおられ、沢山の思い出を話して下さいました。また、当時の新聞記者の記事や雑誌社に掲載した先生の記事は大変感動する物です。私達は、このように感動的に『清良記』を紹介して行かなくてはいけないなと思わされました。記事は先生のお許しを得て全文コピーを取らせていただきましたが、このブログでもアップさせていただく事にしました。楽しみにしておって下さいませ〜


    松本より(^_−)−☆




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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-20 22:34 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より

 

    五月十六日〜十七日、念願叶いまして、初めて【長宗我部まつり】に行って参りました。『清良記を紐解く会』の勉強は、これから長宗我部元親との合戦がメインとなって行きますが、『清良記』では合戦の相手である長宗我部元親の事を良く書いている事がなく、郷土に攻めて来た事を憎む気持ちになる人もいるでしょう。しかし、現代を生きている私達が争ったり憎み合って良い筈がありません。『清良記を紐解く会』を始める前には二回長宗我部氏の史跡めぐりをしましたが、高知の人達から愛され誇りに思われている長宗我部元親が大変羨ましく、また大変好きになりました。これからは仇同士の関係ではなく、共に高め合える関係になる事が大切だと思いました。

 


□『巻十六』を紐解く

 

    さて、巻十六は土佐一条家と宇和領主達の和睦から話が始まります。ところで、なぜ清良記は土居の事ばかり良く書いて、中野、深田、定延など他家の事は良く書かないのだろうと疑問に思われている方もいるでしょう。その理由については、著者【水也】が清良記を著そうとした動機を巻一の一節最後の一文に明記していますので、是非紐解かれてみて下さい。清良記の全ては、正しくその為に書かれていると言えます。そして、清良記で憎まれ役になっている領主に共通して言える事は、皆土佐の長宗我部元親に内通していたという事です。西園寺十四将とは言われますが、その約半数が長宗我部の調略を受けて寝返っていたのですから、清良記とは土佐や豊後の武略だけではなく、十四将を二分する調略からも宇和郡を守った清良公の生き様であったと言えるのです。

    そして、清良記がなぜ長宗我部元親を憎むのかという理由が巻十六の一節です。つまり長宗我部は兼序の代に本山との戦に敗北し、国親と元親が土佐一条家の元へ身を寄せており、一条家が仲介してくれた事で岡豊城主に戻る事ができたのですが、そのような恩義がありながら、元親は近隣の領主を従えるばかりか、一条の家臣まで調略し、遂には一条家に変わって土佐に君臨するようになります。房家の弟で兼定の伯父、筆頭家老だった宗三は、逸早く元親の調略に気付き兼定に諫言しますが、それが原因となり手打ちになります。宗三は清良公にとっても伯父でしたが、豊後大友の大寄せに宇和郡が敗れた時には、それを頼った清良公にも一条から受けた恩義があります。元亀三年に和睦の儀が調ったのは、一条家を倒せばその恩義が無駄になり、元親が宇和郡の直接の脅威になるという判断でした。この和睦により豊後との和睦も進み、宇和郡の領主達は一条家に加勢して元親と対峙するようになって行きます。このように清良記は一貫して主君への恩義や忠義を説く教科書となっており、その反面教師が元親だったと言えます。しかし、土居に元親と同じような考えがなかったのかといえばそうではありません。巻の二を思い出してみると、清良公の祖母妙栄が「土居がその気になれば西園寺も河野も従えて、四国でも天下でも取る事ができるぞ」と夫土居清宗を唆しておりました。それに対する清宗の答は「NO」。このように下克上の時代にあっても絶対的な忠義を尽くす土居でした。


 

□『伊代千句』について

 

    また、巻十六で見逃せないのが【伊代千句】です。伊代千句とは、金山城主であった有馬殿今城能親が文才に秀でおり、その評判から京にまで上り連歌を連ねたという話です。

 

    『ここに今城肥前守能親とて、徳能弾正忠能宗より七代の孫に、文武両道、和歌の達者あり。天文年号の初め、千句の連歌をつらね、そのころの好子、京の周桂の披見に入りければ、まことに殊勝なり、田舎の叡聞にはべり、この能親を伊代千句と召されける。それより諸人、能親と言わずして伊代千句とぞ呼びける。その後、能親、礼儀のために上洛して、また京都において千句を催す。巻頭の御発句、関白殿、

    「宿りとへ 都ぞたらね ほととぎす」 梅

    「月の御空の 夏ちかきかげ」    能親

    「朝みどり 日も夕立の 水晴れて」 周桂

    この末に関白松殿御句どもあり。また回り発句に

    「風を手に 心としむる 扇かな」 能親 (以下省略)』

 

    伊代千句といえば、熱心に教えて下さったのが池本覺先生です。池本先生は私が三間小学生の時の音楽教諭。課外授業では郷土の史跡めぐりをして下さいました。また福鹿定公民館長時代の公民館事業で郷土史学級が開講され、三間町誌や清良記について教えて下さいました。本当は【伊代千句】の紐解きは是非とも池本先生にお願いしたかったのですが、今回は私がするという事になりましたのでよろしくお願いします。

 

 

□『西南四国歴史文化研究会』の記念講演に参加して

 

    これもまた私の念願が叶ったという話です。五月三十日、愛南町の御荘文化センターで行われた西南四国歴史文化研究会の記念講演、石野弥栄氏の『天正期宇和郡の政治情勢と戦国領主たち』に行って参りました。石野弥栄氏は愛媛県の中世研究の第一人者です。仕事の為に遅れて会場入りしましたが、話は「最近インターネットで岡本合戦天正七年説を批判し、天正九年説を唱えている人がいる」「これまで天正七年説の根拠を省略し、説明して来なかった事も悪かった」と言われ出した所で、その根拠を蕩々と説明し始めたのです。

    得たりや!私は大変感激しました。それは三年前に石野氏に初めてお会いした時には、「もう長く清良記の研究に関わってないから」と質問に答えていただけなかったからです。清良記を紐解く会は、その半年後にスタートした訳ですが、どうすれば石野氏に清良記について語っていただく事ができるかと、昨年十二月の特別講義②は、その為の賭けでした。今回こそ質疑応答しなければと思っていましたが、講演中に岡本合戦の年数問題に触れていただいて、予想を遥かに超えた結果となりました。今回の講演は来年発行される『よど17号』の記事となります。私も愈々本領を発揮させていただき『清良記』への関心を盛り上げて参りたいと思います。



□お知らせ

 

五月三十日、三輪田俊助氏がお亡くなりになられました。氏は松浦郁郎校訂『清良記』の挿し絵を描いて下さいました。謹んでご冥福をお祈り致します。

 

 

 

清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。

コメントを入れていただければ、必ず返信しますので宜しくお願いします。

 

 

 

註一清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的としています。

註二清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。

 

 

 

文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

 


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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-04 16:02 | 郷土史

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