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高知へ行ってきました

台風の中、ツアーで高知へ行ってきましたww

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南国市、西島園芸団地から『岡豊城跡』が見えました。三角屋根の施設は、高知県歴史民俗資料館ですね〜

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バスの中から、もう一枚♫\(^o^)/


宿泊したホテルの窓から太平洋を望む。。

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浜辺に打ち付けられて、波が大きく砕けています。この夜、台風11号が高知県を通過。

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ホテルの外へは一歩も出れませんでした〜

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程なく土産も買いまして帰路へ就きますww


行きは、鬼北〜松野〜窪川〜南国

帰りは、南国〜高知〜須崎〜鬼北


『土佐タタキ道場』一生懸命営業中!

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お昼に寄ったお店で『カツオ人間』に遭遇!

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グロかわいい❤︎( *´艸`)

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ここは、創業40年←およそ の『かつお船』さん


須崎市のゆるキャラ『しんじょうくん』グランプリ4位くらい

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まもなく鍋焼きラーメン帽子が発売されるそうです〜


鬼北町のごつキャラ『鬼王丸』ww

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なんと総工費10,000,000円!!\(^o^)/

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製作は海洋堂です♫( *´艸`)あら〜


以上、徒然なるままに旅ブログ風にしてみましたが、プライベートブログ『郷土の祭り〜史跡めぐり』では、このような記事ばかりアップされてますので、よろしい方はぜひご覧ください。尚、PTAをしていた時に三間の小・中学生と保護者を対象に書いてたブログなので、ご容赦下さいませ。以下にURLを貼っておきまする〜(・∀・)ノ

郷土の祭り〜史跡めぐり vol.1 http://blog.livedoor.jp/mima_hinokai/

郷土の祭り〜史跡めぐり vol.2 http://blog.livedoor.jp/mima_hinokai-kyoudo/

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by kiyoyoshinoiori | 2015-07-18 08:16 | ツアー


□『清良記を紐解く会』より


 先月の【清良記を紐解く会】では、松浦郁郎先生が昭和四十年代~五十年代に新聞社や雑誌社から受けたインタビュー記事を持って来て下さり、また大変貴重なお話を伺う事ができました。その当時私は三間小学生でしたが、それで学校の先生方も郷土の歴史や昔話で盛り上がっていたのだなと思わされました。そして、どの記事を読んでみても思うのは、清良記と松浦郁郎先生との運命的な出会いが本当にドラマチックに紹介されていて、大変感動的だったという事です。是非、私達も負けないように郷土の宝物【清良記】を感動的に紐解いて参りましょう。



□『巻十七』を紐解く


 巻十七は天正元年正月からの始まりとなります。【天正元年】は織田信長によって足利義昭が追放され、室町時代から安土桃山時代となる大きな節目です。ところで、年号が【天正】に改元されたのは元亀四年七月二十八日。もし清良記の原本が日記であれば、そこには元亀四年正月と書かれていたのかもしれませんが、天正元年正月の記述から、水也によって記録がきちんと編集されていた事が分かります。このような改元を【立年改元】と言います。日本の改元は明治までが立年改元でしたが、大正と昭和は当日改元、平成は翌日改元となっています。もう一つ暦のお話をさせていただければ、天正年間には【西暦】がユリウス暦からグレゴリオ暦に変更される出来事が起こります。それが天正十年。理由は割愛しますが、【本能寺の変】の年と覚えていただければ覚えやすいと思います。そして、その前年、天正九年が清良記では【岡本合戦】の年となります。「ここで出すか!」と思っていただければ

本懐ですが、本能寺の変と一年しか違わない岡本合戦の年数を水也が間違えたりするのか!と言いたい訳です。もしも間違いでないのなら、意図があって嘘を書いたとしか思えません。しかし、水也に嘘をつく理由はないのです。嘘をつく理由があったとすれば、それは、中野殿の方だったのではないか…それが私の天正七年説批判です。ですが私は歴史学者ではありません。決して天正九年説という説を主張してはいないのです。単に清良記には天正九年と書いてあると言っているだけに過ぎません。しかし、それが重要です。岡本合戦の年数を二年前倒しにした年表もありますが、それでは清良記が成り立たない訳です。歴史学者は歴史を研究するのが仕事ですが、同時に文化財を守る事も大切な役目ではないでしょうか?どうして誰もそこに気が付かなかったのか?郷土の文化財であれば否定的批判ではなく、肯定的批判の立場に立つべきでした。せめて郷土史家はそうあるべきだと思います。


 さて、巻十七の内容に戻ります。しかし、よくわからない事だらけというのが巻十七の特徴です。一節に「三好長張、信長の随身のゆえ」とありますが、天正元年の当日は阿波の三好氏と信長は対立をしていた筈…三好も信長もまだ伊予を攻める段取りではなかったのでしょう。宇和の武将は度々道後に詰めたようですが、寄せ来る敵もなく、清良公高野山参詣の話となります。本当に清良公が高野山参詣に行ったのかという疑問もあると思いますが、ここで関心を持つと面白いのは、戦国時代にどのようなルートで高野山参詣をしたのかという事です。また、その道中の物語も興味深い物となっています。これまでは、清良記の価値を史実か否かという尺度で評価し過ぎてはいなかったでしょうか。直ちに史実として理解するなという忠告は、何方も良く分かった事と思います。これからは清良記の【物語】としての価値を高く評価して行くのも良いのではないでしょうか。その後、清良公は伊勢参宮にも参ります。これは史実か?それとも水也の空想か?どちらにしても、郷土の宝物の古事に興味津々、心ウキウキな我々は、遼東の猪達なのであります。


 そして、巻十七で忘れてはならない事は十一節『長宗我部元親、一条家を破る事』です。「長宗我部覚世、その子元親、二代共に前の一条房家卿、同家門卿の高恩をもって人となりしを、たちまち恩を忘れて、蓮池の城をば弟の左京進親泰、粗忽者にて取りたるようにしなし、また、佐竹信濃守は家門の内にては一の大身なれば、これを日頃、元親、計策にてくり付けしと聞こえしによって、家門よりその子細どもを咎めて、打ち向かいて攻め亡ぼすべしと議定せられしかば、全く某逆心なきと、いろいろの弁口をもってし、度々の起請文を出し、その上に人質を出してその難を免れたり。」と権力では敵わぬ元親でしたが、次第にその計策は功を奏し、遂に「天正元年十一月末に、大将家門卿を持て成す振りにして、上下三十人ばかり、下田という所より船に乗せ奉り、直に追い出したるこそ恐ろしけれ。」中村市誌では、その後、豊後の大友宗麟と伊予から支援を得た家門卿が元親と土佐の雌雄を決すべく【四万十川合戦】に挑むのですが、なぜか清良記には記述がありません。しかし、清良記を読めば、清良公を始め伊予の領主が家門卿を良く庇護し奉っており、この上なく大事に思っていた事が分かる記事となっています。



□お知らせ


 先月お知らせした「三輪田俊助氏」の名前が間違っておりました。訂正しお詫び申し上げます。 「介×→助○」


 さて、次回は巻十八です。ここではもう一度【天正元年正月】の記事から始めとなります。原本の記録を二つに分けたのか?それとも記者が複数人いたのか?それは分かりませんが、天正元年をもう一度別の角度から読める貴重な記事となっています。八月に紐解きますので楽しみにしていて下さい。


 また現在【よど第十七号】に向けて記事を執筆中なのですが、実は全く筆が進んでおりません。偉そう過ぎたり、謙虚になり過ぎたり、子供の頃の思い出から始まったり、清良記を紐解く会の紹介から始まったりと、何度も何度も原稿を書きボツにしています。ごちゃごちゃさせ過ぎず簡素にするのも良いかもしれません。なにしろ私は歴史学者ではありません。知識も史料も使わずに、心一つ、感性一つで歴史と文化【清良記】を大切に思う気持ちについて書けたらと思っています。少しでも何かを批判しようとするとかどが立つのですが、もうこうなったら仕方ないですね。精一杯頑張りたいと思います。


 清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。コメントを入れていただければ必ず返信しますので宜しくお願いします。


 註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事

   を目的としています。

 註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材として

います。



                  文責・三間史談会々員松 本 敏 幸


















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by kiyoyoshinoiori | 2015-07-01 16:29 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん