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実は、高森城に登った翌日、迫目にある【迫目城】に登っておりました。迫目城は、土佐の一條兼定が、三間攻めをした時に、陣を張った城として【清良記】に登場します。*\(^o^)/*


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愛媛県宇和島市三間町の迫目地区にある【迫目城】は、『西城』『中城』『下城』からなる三連城。泉が森の北麓に位置し、さながら屏風のように見えます。


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迫目城の中ほどに見える白壁の長屋は、迫目の旧庄屋岡本家。三間河野家の末裔とも言われ、屋根瓦には、【隅切折敷縮三文字】の家紋も見えます。この裏山の頂が『中の城』であろうと思っていましたが、アンテナの立つ頂が【天守】と呼ばれているとの情報を入手しました。


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岡本家の裏山すぐ隣に立つアンテナ。その麓にお住いの赤松家ご主人から、「アンテナの立つ頂を天守(てんす)と呼んでいる」と教えていただきました。


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そのまた隣、元町長をされていた赤松家の横から真っ直ぐに伸びる山道。ここから右が『下城』になります。『下城』は、【清良記】では『鼡(ねずみ)の尾』と呼ばれています。


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山道は堀切のようにも見えます。尾根の手前ひ『中の城』に向かって登る道があり、その先に五輪塔を納めた祠と金毘羅社がお祭りされていました。


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赤い建物が金毘羅社。赤松元町長の息子さんから教えていただき、お参りしてきました。


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反対側に下ると、三間川が流れており、『蜂の巣橋』が架かっています。『蜂の巣』という地名は【清良記】にも登場しており、『鼡の尾』が『下城』である事を特定する決め手どなりました。


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『蜂の巣』から臨む土居清良の本城【大森城】。護岸が整備されるようになるまでは、大雨が降ると、【大森城】と【迫目城】の間は広い沼のようになったと言われます。


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場所は変わりまして、こちらの堀切は、『西城』と『中の城』の間にある山道です。『西城』は、【清良記】では『馬爪』と呼ばれていますが、丸い形の『西城』を馬の蹄に見立てての事なのだろうと思います。


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『西城』の頂は真ん丸くなっており、豊後石で造られたという小さな祠が祭られています。祠は『十二社さま』とも『きゅうねんさん』とも言われ、【迫目城】に家のある麓組の人達は、4月8日にお祭りをしています。『十二社』は熊野系のお社。『きゅうねんさん』は、貴船社の事で、もとは川の近くの山水が湧く場所にあったそうです。


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元々土居清良の廟は、江戸中期まで迫目地区の妙覚寺にあり、土居の先祖が熊野から来た事もあって、迫目地区には熊野権現や大刀自神社も祭られています。【清良記シンポジウム】で、3月19日の「高森城登山」の後には、有志を「岡本城」ど「迫目城」にも案内しますので、奮ってご参加ください。


追伸。お話をお伺いした、岡本様、赤松様、赤松様、二宮様、その節は誠にありがとうございました。


以上、松本敏幸©︎


愛媛県宇和島市三間町/迫目地区の迫目城址にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-28 23:02 | 古城

地元(愛媛県宇和島市三間町)の兼近地区にある、【高森城址】に登って来ました。


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【高森城】は、『清良記』に登場する三間河野家の居城。城主は、中野殿と呼ばれる河野通賢でした。


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昨年、立派な案内板が立てられました。製作したのは【高森城を愛する会】です。


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三角に尖った本郭に、四方には長く伸びた支脈が幾つもあり、三間では最大規模の古城と言われています。


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本郭の周囲には巨大な岩肌が露出しており、白い笠をかぶっているような姿から、【衣笠(きぬかさ)城】の異名も持っています。


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本郭は広く開けており、標高は378mあります。(右奥の土塁が三角点のある頂上。)


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西北西の方角に見えるのは、三間町の二名小学校。その向こうに【岡本城址】と【大森城址】も見えます。


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南南東の方角に見えるのは、鬼北町の沢松地区と深田地区。左に【竹ヶ森城址】と【薄木城址】が並んでいます。


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真北の方角にあるのが、音地、黒川、中間、の告森三地区。右手前に見えるのが【告森城址】です。


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今年、平成28年3月には【第2回清良記シンポジウム】が開催される事になっており、【高森城址】は19日に登山が予定されています。案内人は、三間町大内の武田利康先生です。是非、振るってご参加ください!\(^o^)/


愛媛県宇和島市三間町/兼近地区の高森城址にて撮影©︎


以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-27 19:19 | 古城

午後からは、鬼北町節安地区(旧日吉村)の薬師堂で行われている【花飛び踊り】の奉納を見に行ってきました。この踊りは、安産祈願として古くから節安地区に伝わる行事です。云われは、その昔、身重の旅の女が産気付いて、村人の介抱を受けましたが、女もお腹の子も助ける事ができず、お薬師さんのお堂のそばに「おたまや」を祭って供養したのだそうです。そうした所、村の女達が皆、安産の霊験をいただくようになったというのです。旅の途中で亡くなった女は、平家の落人のお姫様だったとも言われますが、村人に介抱され供養までしてもらい安心して成仏する事ができたのでしょう。今では霊験を聞き付けて、地域外に住まう方まで祈願に訪れるようになっているそうです。

以上、松本敏幸©︎


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愛媛県北宇和郡鬼北町/節安地区(旧日吉村)の薬師堂にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-21 20:10

平成28年2月21日、『鬼北町再生庁舎見学会』に行って参りました。日本の各地にモダン建築が残されている【レーモンド事務所】が設計したという旧広見町庁舎で、建築当時は見学のバスツアーまであったと聴きていますが、合併で鬼北町となった後、耐震建築ではないという理由から旧庁舎を取り壊して新庁舎を建てなければいけないのではないかという声も上がっていました。しかし、由緒ある歴史的建造物である事を知っていた鬼北町の方々は、住民に働き掛けて説明会を開き、耐震補強して庁舎を残そうという事が定まっていきました。そして、鬼北町庁舎は国の文化庁の【登録文化財】に登録され、今日は遂に再生庁舎として新しい命を与えられたのでした。年寄りから若者まで集まって、住民が力を合わせて文化財を守った素晴らしい例だと思います。随時見学もできると思いますので、皆さんも是非一度、生まれ変わった【鬼北町再生庁舎】に足を運んでみて下さい。


以上、松本敏幸©︎


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愛媛県北宇和郡鬼北町/再生庁舎会議場にて撮影©︎


おまけ

ブログ【郷土の祭り〜史跡めぐり vol.1】より『Kihoku 鬼北町庁舎の生みの親☆レーモンド』http://blog.livedoor.jp/mima_hinokai/archives/51617994.html


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-21 09:05 | イベント

2月20日(土)の今夜は、三間公民館で『清良記』を紐解く会を行いました。内容は愈々、巻二十三「岡本合戦之事」に入っていきますが、前段階として【愛媛県編年史】に紹介されている『清良記』以外の文書(もんじょ)の内容を紹介しました。また、松浦郁郎先生が「新愛媛新聞」(昭和48年1月1日から昭和49年9月21日)に掲載されていたという、大変貴重な『清良記』のコラムを持って来て下さり拝見させていただきました。


以上、松本敏幸©︎


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愛媛県宇和島市三間町/三間公民館にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-20 23:17 | 郷土史

昔、三間には三間村塾という松下村塾をモデルにした私塾がありました。そこでは古事記、日本書紀、論語は勿論、聖書やコーランまで講義が行われ、武道も弓道、剣道、柔道、杖道の稽古が行われていたそうです。開塾したのは、竹葉秀雄氏。教育者であった竹葉氏は、愛媛県令の推薦で金鶏学院に入学し、安岡正篤の弟子となりますが、その縁で大横綱の双葉山と出会いがあり、竹葉氏を慕った双葉山が三間まで相撲の巡業に来ていたと云われます。私の祖父らが竹葉先生の塾に通った世代で、父は戦中に小学校で双葉山と相撲を取らせてもらった思い出があるそうです。戦後、GHQの命令で三間村塾は解散しますが、竹葉秀雄氏は、久松県政で教育委員長に抜擢され、後に三間町の名誉町民となります。この太鼓は現在、三間の三嶋神社にありますが、【雷(いかづち)】という名前が付けられており、双葉山が竹葉氏の三間村塾に贈ったという記念物です。
2月17日は『年乞いの祭』といわれる祈年祭(きねんさい)ですが、今日も大太鼓【雷(いかづち)】を叩かせていただきました。


以上、松本敏幸


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宇和島市三間町/三嶋神社にて撮影©︎

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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-17 18:33 | 神社のお祭り

【椿まつり】に春を願う


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2月15日、ここは愛媛県松山市にある伊豫豆比古命神社(通称:椿神社)。14日から16日の三日間は「春を呼ぶ」と言われる【椿まつり】が行われます。


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【椿まつり】では、「北朝鮮による拉致被害者救出の為の街頭署名活動」も行われており、早期実現を願って、早朝から伊豫豆比古命神社に行って参りました。


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愛媛県には、北朝鮮により拉致された可能性の否定できない方が3名いらっしゃいます。その方は、大政由美さん、二宮喜一さん、山下綾子さんの3名です。


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北朝鮮に拉致されて、家族と離ればなれになった方たちの気持ちはいかばかりでしょうか。一刻も早く被害者の方が救出され、心から喜べる春が来ますようにと願います。


・追伸
来る3月5日(土)、東京都文京区の拓殖大学文京キャンパス内で、『予備役ブルーリボンの会シンポジウム』が行われます。近隣の方は是非お出掛け下さいますように、お願い致します。


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http://www.yobieki-br.jp

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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-15 22:02 | 椿まつり

2016年は皇紀2676年。2月11日は、宇和島市役所2F大ホールで行われた『奉祝建国記念の日宇和島地区大会』の司会をして参りました。初代神武天皇が橿原宮をお建てになり、天皇の位に即位した日を、日本書記は「辛酉年春正月庚辰朔」と記しています。この日を紀元として定めた暦法が【神武天皇即位紀元】であり【紀元節】と言われます。「春正月」という事で、もとは元旦でしたが、なぜ「2月11日」になったのかという事が問題です。それは、明治5年にグレゴリオ暦の採用が決まり、明治6に改暦が行われた事によります。明治政府は旧暦の祝祭日を新暦に当てはめて固定する方法を取りますが、明治6年は旧正月の「1月29日」が【紀元節】となりました。ところが、翌日に先帝孝明天皇の命日が続くという不都合が生じてしまったのです。そこで、神武天皇が即位された「辛酉年春正月」を新暦に当てはめて計算しなおし、明治7年からは「2月11日」が【紀元節】として採用される事となったのでした。

ところが【紀元節】は、GHQの意向により昭和23年に廃止となります。主権が回復された昭和27年から「国民の祝日」として復活運動が行われるようになりますが、昭和42年に【建国記念の日】として復活するまで19年を要しています。4月29日の【天長節】は「天皇陛下の誕生日」、11月3日の【明治節】は「文化の日」とスムーズでしたが、【紀元節】は神話に由来していた為、野党第一党であった社会党からの強い反対があったのでした。事態が動いたのは佐藤内閣の時、「建国記念日」に「の」を入れた「建国記念の日」にするという事で社会党が納得。昭和41年6月に【建国記念の日】が国民の祝日に制定されますが、日にちは「政令によって定めた日」とされ、有識者10名による【建国記念日審議会】が招集されます。各党からは案が提出され、自民党は「2月11日」、社会党は「5月3日」でした。国民に対しても1万人の成人男女を対象にアンケートが行われましたが、47%が「2月11日」を支持。17%が「分らない」、12%が「5月3日」という結果でした。それも考慮され、審議会では7名が「2月11日」を支持。第1回目の昭和42年は奇しくも「明治百年」に当たる大慶の年として、全国各地で記念碑の建立や奉祝行事が催される年となっていきました。愛媛県では、知事の久松定武氏と県教育委員長の竹葉秀雄氏が前面に立って県民運動をして下さいました。

そして今年、平成28年は【建国記念の日】が制定されて50年という記念の年でした。そこで、奉祝建国記念の日宇和島地区大会実行委員会では、記念講演に女優でジャーナリストの【葛城奈海氏】をお呼びしました。しかし、葛城氏はただの女性ではありません。真に美しい女性です。予備自衛官であり、予備役ブルーリボンの会広報部会長であり、尖閣諸島問題や拉致被害者救済の為の活動に取り組まれています。それらの活動報告は『チャンネル桜』の【海幸山幸の詩】という番組で紹介されていますが、日本国の為に本当に必要な大切な活動に真摯に取り組まれる姿を拝見できます。葛城氏は、講演をされながら2つのVTRを上映して下さいました。1つは【尖閣諸島】です。国に許可を申請する困難さ、中国の領海と言わんばかりの現実もさる事ながら、人の手が入らない為に漂着するゴミや生態系まで破壊されている事が危ぶまれました。また、もう1つは【拉致被害者救済】の為に作られた再現VTRです。拉致される女性を葛城氏自身が演じておられましたが、「拉致は絶対にゆるされない!」「被害者を一刻も早く救ってほしい!」と強く思わされました。しかし、一向に前に進んで行かない現実があります。それは無気力な政府、つまり『憲法』の問題なのです。GHQの統治下で制定された【日本国憲法】は、本当に「日本国民による、日本国民の為の、日本国の憲法」と呼べるのでしょうか。今のままでは残念ながら「NO!」と言うしかありません。戦前の憲法が良かったとか、今の憲法を廃棄しろという意味ではありません。今の憲法では【尖閣諸島】を守る事も【拉致被害者】を救う事も出来ないという現実があるのです。「真の平和主義」とは何か。国をつくるという事。【憲法改正】の必要性を強く感じさせられました。空しく平和を叫ぶのではなく、「国土を守る」「国民を守る」「国益を守る」という事こそ「真の平和主義」なのだと思わされました。


*以上、松本敏幸©︎


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宇和島市野川/宇和津彦神社にて撮影

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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-11 22:14 | 建国記念の日
※『清良記』は、軍記物語である為に史料としての価値を損ねており、鵜呑みにできないという批判があります。しかし、それは『清良記』に限ったことではありません。今回は、岡本合戦の年数をテーマに『愛媛県編年史』に紹介されている文書を批判してみたいと思います。


□『愛媛県編年史・第五篇』(p.65~p.80)より抜粋

1.『予陽河野家譜』
同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
天正七年五月廿八日 緒方与次兵衛殿

3.『高串土居家文書①』
今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
六月三日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

4.『高串土居家文書②』
去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
七月廿日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

5.『河野系図』
天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

6.『元親記』
久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

7.『長元物語』
宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

8.『南海通記』
天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

9.『土佐軍記』
天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

10.『土佐国編年紀事略』
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
三月十八日 (法花津)前延(花押)
進上 三善治部少輔殿

13.『宇和郡往昔城主記事』
一岡本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

14.『吉田古記』
一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
二月八日 御判
土居式部太輔との

15.『伊予二名集』
天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

16.『愛媛面影』
岡本城墟 古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


□『愛媛県編年史』について

 『愛媛県編年史』は、昭和四十四年に愛媛県から発行されました。時の知事は久松定武氏。久松氏は久松県政五期の内三期(十二年)県の教育委員長に三間の竹葉秀雄氏を抜擢しており、久松氏は竹葉氏から『清良記』について影響を受けただろう事が推測できます。『愛媛県編年史』を開くと、巻頭には『清良記』を紹介する文と写真があり、もしかすると次の知事、白石春樹氏が松浦郁郎先生から『清良記』の講義を熱心に聞かれたという話も、昭和五十九年に『愛媛県史』を発行していく上で、『愛媛県編年史』を読まれて影響を受けていたからではないかと想像を逞しくします。
 では、愈々、その内容について考察してみたいと思いますが、まず、抜粋しているのは第五篇のp.65~p.80「天正七年五月」とされた中で、【岡本合戦】に関係する文書だけとしました。(ただし、『清良記』だけは割愛しています。)まず疑問に思うのは、「文書には天正八年も天正九年もあり、月は二月もあるのに、どうして天正七年五月の括りにされたのか?」という事ですが、天正七年と書かれた文書が若干多いというだけの事のように思います。しかし、文書は全てが同等だと考えるべきではありません。一人の人が天正七年と書き、それを写した人が多かっただけとすれば天正七年が多くなるのは当然です。実際『清良記』にも多くの写本がありますが、それらは全てを合わせて一つとされている事からも分かると思います。つまり、文書の情報がオリジナルではなく、人から聴いたとか、何かの文書を見て写したという物を当てにしなければ、情報源は当事者に限られて来る訳です。ならば、まず先に紹介されている『予陽河野家譜』を書いた人物が【岡本合戦】の当事者といえるでしょうか。また、土佐方の文書で先に書かれている『元親記』、次に書かれている『長元物語』ではどうでしょうか。それらは読んで一目瞭然、全て当事者ではなく、人から得た情報を元にして纏められた文書なのです。ここにおいて、当事者の目線で書かれた文書は『清良記』しかないという事が分かるに至ったのでした。「『清良記』が軍記物語である為に、史料的価値を損ねており、そのまま鵜呑みにできない」という事が本当だとしても、この事実だけは認めるべきであろうと思います。
 さて、具体的な解説ですが、最も古い時期に【岡本合戦】を記した『元親記』は長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に正重ともいう高島孫右衛門尉重漸という者によって著され、次に古い『長元物語』は、二十八年後の萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されたと言われます。しかし、二つの史料には年数がなく、【岡本合戦】が正確に記録されていなかった事が分かります。そして、『長元物語』には、『元親記』になかった竹内舅聟の悲話が盛り込まれており疑問が膨らみます。『南海通記』は寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され、ここにおいて「天正八年」という年数が登場します。内容は『長元物語』とほぼ一緒です。『土佐軍記』は『四国軍記』とも言い、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされたと言われていますが著者は不明。年数は変わり「天正七年二月」となります。そして、土佐の侍と中間の人数が倍になる等、内容に若干の誇張が見られます。
 ここでまた『伊豫史談』で久延彦氏が天正七年説の根拠として上げた三つの文書についてもふれておきたいと思います。まず『緒方家文書』ですが、河野通賢を中野通正としていたり「西」の名前が登場する等、『清良記』の影響を感じる他、非常に不自然な文書です。また、『音地松本家文書』は、『予陽河野家譜』や『伊予二名集』と内容がほぼ同じであり、情報の出処が土佐の史料にあることは言わずもがな。また、『土佐国編年記事略』に見る天正八年の『竜沢俊派文書』に至っては、なんら【岡本合戦】の天正七年説を裏付ける物ではありません。


 今回は少し難しい話になったかもしれませんが、歴史の細事は、一つを正として残りを誤りと決め付けないのが良いのではないかと感じています。ここでは決して天正九年説を正と主張しているのではありません。天正七年説を正として『清良記』を誤りと決め付けて来た、これまでの郷土史学習の姿勢に対して「そんな事ではいけないのではないですか?」と問題提起をしているのです。


                     文責/三間史談会会員松本敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-01 01:02 | 郷土史

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