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「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん