【二週間ほど前に『中村行き』の現地研修を終えたばかりでしたが、帰路バスの中で羽藤明敏会長から文化祭の出展を頼まれ、現地研修を記事に伊井事務局長と二人で連日徹夜。展示物を準備したのが思い出されます。また文化祭をしながら清良記の紐解きも休みませんでした。研修を見て来たお陰で大変勉強もしやすくなりました。】


□三間史談会主催『中村行き』現地研修を振り返って


    平成22年度に現地研修をして依頼、2年も企画倒れになって来た『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修でしたが、本年度は若手に企画立案実行を任せて欲しいという提案をさせていただき、遂に『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修を実現できたことは誠に感無量の出来事となりました。『清良記』は三間の宝であり『土居清良』は三間の誇る戦国武将です。その清良記に記述されている清良公土佐落ち所縁の土地を尋ねることは、今後の清良記研究にとって非常に意義のあることと言えます。

    先ず訪ねた四万十市の竹島地区は、清良公が領地した『高島』ではないかという思いからの訪問でしたが、後日に竹島にある金亀山菩提寺の和尚から竹島の史料としていただいた『敷地軍記』の中に竹島が明らかに『高島』であったことが明記されており、また『敷地軍記』の評議をした一條家の家老が土居宗珊であったことが分かり、宗珊が土佐一條家の古くからの家臣であることも確認できました。故に竹島地区は清良公とはけっして無縁な地ではないのです。

    今後の研究課題としては『土居宗珊の人となり』、また『土居宗珊と小松谷寺殿と一條康政の関係』について研究をしたいと思います。土居宗珊は一條家の筆頭の家臣であったと言われており、一方、一條康政は一條家の執政官であったと言われています。この二人は同時期の人物であり、関係がなかった筈がありません。あるいは二人が同一人物である可能性も捨てきれません。今後は『長宗我部地検帳』や『敷地軍記』を中心により研究を深めて課題の究明をして行きたいと思います。


□清良記を紐解く会『巻の五』


    今回の紐解きは先日『清良公土佐に落ちらるる事』の現地研修でも訪問した『不破八幡宮』が舞台となります。清良記では不破八幡宮の事を『中村八幡宮』と呼んでいます。不破八幡宮というのは不破村の八幡宮という意味ですが、京から土佐に下向した一條教房が京の石清水八幡宮から勧請して幡多郡の中心神社として創建したのですから、清良記が呼ぶように中村八幡宮が本当だったのかもしれません。
    さて時は永禄四年の八月十五日の中村八幡宮の祭日の前夜となる宵宮祭のこと。中村八幡宮では宵の相撲大会が開かれていました。土居の侍達も多いに活躍し大勝して気分良く清良は屋敷に帰ります。すると後に相撲大会の会場目掛けて石を投げ込む者達がおり、男も女も神主までもが血を流す怪我を負わされるという事件が起こるのでした。
   誰の仕業かとなった時、どこの誰が言い出したのか土居の侍衆が怪しいと清良にその嫌疑が着せられてしまいます。その窮地を知恵を働かせて救ったのが土居近江守家忠でした。それはその次に行われる天神の祭礼の時に清良始め土居の侍を一人も祭礼の場へは出さず、もし石を投げ込む者がいればそれを真犯人として挙げようというものです。その為には真犯人を騙さなくてはいけません。土居の侍には『八幡の神事の礫打ちと人の沙汰する由ならば、今また天神祭に思う様打つべし』等と言いふらさせる念の入れようでした。
    しかしてその結末は案の定。二十四日の晩に三十人を越える礫打ちを捕らえることに成功。その内二十六人は近江守の謀に乗せられての犯行と判断されて放免に、内五人は八幡宮の礫打ちと分かり尋問すれば、同類三人が芋づる式に明らかになり、その宿主段兵衛は東郡の元親に成敗させ、八人の者共は真犯人として八幡宮の河原に磔とせられるのでした。
    この頃はちと不吟味にて不審申し掛け候、その段御免候え。若き衆はか様の事心に掛けられては悪しく候。かく申し晴らし候えば、尊家は少しも不審残さず候、その段は安並と江州に問われ候え。此度の尊家が咎めかど合いの申し訳には、兵法、軍法、底を叩いて教え申すべし。とありて、それよりは毎日、兵法の執り行い他事なく、かようにあれば、人のかねがね思いし心も変わり、いづれも用い奉りて、清良公今は重き人になりおわします。『用いる時は鼠も虎なり、用いざる時は虎も鼠なり』と言う事、実にこの時の言葉なり。と、 この件に関しては短気で有名な兼定も清良を召して謝られたと言います。



平成25年10月26日(土)清良記を紐解く会座長:松本敏幸(090-1320-1508)

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-07 13:00 | 郷土史
三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』


□資料①『清良記』


巻の一の一。清良根源先祖の事より
『ああ土居家代々の武名挙げて数うべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を誰にか見せん。梅の花の散り惚れたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし』

巻の一の二。清宗繁盛の事より
『また土佐の幡多、一条房家は豊後大友と縁者ににり給い、度々この処へ手入れあるべき御企てなりしかども、須山よりこの地へ踏み入ることなし。掛りける所に房家、真光御和睦ありて、土居清貞の娘、清良の姉お初上臈を土州房家の弟近江守家忠に嫁しおわします。また河原渕の領主、河後の森政忠は後無しの人なればとて、房家の三男東小路法行の子息を養子に取り組み、法忠と名乗られし。他領よりかように親み寄り申すことは、悉く清宗の軍功によれり』

巻の二の四。真光、石城の加勢を呼び返される事より
御諚の如く某等、数年武士の真似を致し旗頭真光の御前にても人に知られ申すこと、単にお陰に御座候。今更その御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候えども、先年万年も長らえ申すまじ。例え長らえ候えども、大将を捨てて逃げたりなどと、万年までも悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく長らえて、奇怪不思議と浦島などがように候を人の申し伝えて尚悪名表れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えは、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。宗雲父子、かねて仁信深く、礼を厚くして専らに用い、有智の大将にて、下々まで掛かるとぞ見えし』

巻の三の五。石城くずれの事より
『大友、今威勢ある最中なれば、運尽くるとも大名なる故五年十年の内に滅亡ということはあるまじ。さてこの度、宗雲一類果てては三間、河原渕、板島、一辺に豊後へ従うべし。真光も大友の旗下になられんこと疑いなし。さあらばこの国を始めその他皆々、我が事をようやくせいさいにして、誰を頼みても長く浪人になりて、土居の家立て直ること遅かるべし。土佐一条尊家は大友の婿なり。思えば敵にして敵にあらず。さて、一条家の家老近江には、清良が姉婿の上に流石の武士なり。頼むと言わばよも如才はあるまじ。その上、豊後よりこのあたり支配ならば、海上を隔てては如何にも不自由にして治まりにくかるべし。大方は尊家の支配になりて、一条の申され次第たるべし。さようにあらば名ある者の末なりとて本地に帰すべきと思うなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『江州夫婦、御嘆きの中のお喜びとて、御馳走なかなか言葉にも及び難し。さて、一条殿へかくと申し上げられければ、内々、土居殿のこと頼もしき弓取りなれば、叔父近江を縁者に取り組み、名字をさえ所望せしに、これまた八幡の御恵みなりとてお喜びなされ、まず籾俵二百俵御合力あり。また、江州の積りをもって御知行進ぜらるべしとて、清良公へ御使いを遣わされ、その後ご対面なされ、種々御心入れの御馳走浅からず。その後、大かみ御案の如く、大友より尊家へご飛脚あって、南伊予の内、宇和の郡は悉皆一条殿ご支配になり、入り番の衆、皆土佐より仰せつけられしなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『その後、尊家より、まず浪人分とあって高島あたりにて百貫の領地を清良公へ進ぜられ、お松上臈上下四人、土居主水は大津の城へぞ上がりける。次郎もお城へ上がりしかども、清良公惜しみて次郎は呼び下ろしぬ。その年の暮れは高島岡の前という所にて越されける』

巻の六の四。清良公御帰城の事より
『永禄五年七月十日、清良公十七歳にして土佐の幡多高島をお立ちあり。各々名残惜しみて中村に出合い酒迎えすれば、その日も暮れ若藤に泊りて、十一日の晩、川崎泊りにて十二日の朝、須山をこえられければ、奈良摂津守、薄木三河守、その他古の諸将ら走せ重なり、随喜の涙を流して我先にと、足下を見れば倒るる者も多かりし』


□資料②土佐一条家


①一条兼良…応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日( 1481年4月30日
一条本家八代。500年に1人の才人と言われ、源氏物語注釈書『花鳥余情』等を著す。一条神社の主祭神。

②一条教房…応永30年(1423年)-文明12年10月5日(1480年11月6日
一条本家九代。一条兼良の嫡男。応仁の乱の時に土佐へ下向。

③一条房家…文明7年(1475年)-天文8年11月13日(1539年12月23日
一条教房の次男。土佐一条家初代となる。本山氏に敗北した長宗我部兼序の嫡男国親を庇護し、長宗我部家の再興を援ける。

④一条房冬…明応7年(1498年)-天文10年11月6日(1541年11月23日
一条房家の嫡男。土佐一条家二代。父の後を追うように二年後に亡くなる。一説には、重用していた敷地氏を無実の罪で自害させてしまった事を後悔して病死したとも言われる。

⑤一条房基…大永2年(1522年)-天文18年4月12日(1549年5月9日
一条房冬の嫡男。土佐一条家三代。智勇に優れ津野氏を伐ち高岡郡を所領した。戦国大名のような振る舞いが疎まれ、京の一条家から暗殺されたとも自殺をしたとも言われる。

⑥一条兼定…天文12年(1543年)-天正13年7月1日(1585年7月27日
一条房基の嫡男。土佐一条家四代。京の一条本家の養子にされていたが、父の死で土佐に戻され7歳にして家督を継ぐ。養父でもあった祖父房冬の弟房道が後見人となる。重臣土居宗珊を誅殺した事で信頼を失う。天正元年に羽生、為松、安並の三家老の合議で蟄居。天正2年に豊後臼杵へ追放されると、中村で家臣同士の内戦が起こり長宗我部が進駐。天正3年に洗礼を受けドンパウロと名乗る。同年四万十川の戦で長宗我部に敗北。天正13年伊予国の戸島で亡くなる。

⑦土居宗珊…生年不詳 - 永禄12年(1569年)、又は元亀3年(1572年)
土佐一条氏の重臣。一条氏の筆頭家臣で、智勇兼備の名将。兼定を必死に支えたが、主君兼定に聞き入れられず誅殺。中村市誌に『清良記』の土居近江守家忠が土居宗珊である事は確かとの記述あり。

⑧土居宗明…弘化2年9月7日(1845年)-昭和6年12月24日(1931年)
土居宗珊の末裔。軍医となり日清戦争にも従軍。後備陸軍三等軍医正従六位勲四等。帰郷後は中村の幼稚園設立や県立第三中学校等の運営に寄与したと言われる。江ノ村の『小松山長法寺』の境内に土居家墓地がある。

⑨一条康政…生没年不詳。
『小松山長法寺』を開基。宗覚とも小松谷寺殿とも称される。同寺にある宝篋印塔が一条康政の墓と言われている。康政は一条房基の弟で兼定の叔父に当たると言われてきたが異説あり。房基の死後兼定を支えて執権を握り兼定の放逸を諌めたが、聞き入れられず隠居したという。


□資料③神社仏閣


①一条神社:戦国時代に土佐一条家の中村御所であった場所。初代房家が祖父兼良と父教房を始め代々の先祖を祀る為に作った霊廟があったが、長宗我部元親に敗れた四代兼定が中村を離れてから花を咲かせなくなっていたという『咲かず藤』が、文久元年に300年振りに花を咲かせるという吉事が起って一条神社創立のきっかけとなる。創立は江戸時代文久2年(1862年)。昨年150年祭が行われている。


②不破八幡宮:一条教房が京から土佐に下向した時、石清水八幡宮から勧請し幡多郡の一宮とした。体育の日の前々日の祭礼では、初崎にある一宮神社から女の神様が船に乗り、不破八幡宮の男の神様と出会って結婚式をするという特殊神事を行う。蛮習があった土地に、京風の結婚式の習慣を根付かせる目的があったと言う。創建は室町時代中期の文明年間(1469年 - 1487年)。


③岩越四所神社:戦国時代の竹島村の領主岩越五兵衛を祭神として祀る。岩越五兵衛は一条の重臣であった敷地藤安が伐たれた時、敷地党として共に伐たれ焚死。後に祟りが起こり、不破八幡宮の祭礼日に竹島の前を通る船が沈没したと言われる。岩越五兵衛の死後は領主不在の地となる。現在は竹島神社を合祀して、竹島地区の中心神社となっている。地番を天神山城山と言い、竹島城の詰と思われる。


④竹島神社:室町時代に竹島村の領主岩越五兵衛によって勧請された神社。江戸時代までは天満神社であった為に、竹島神社のある山は天神山と呼ばれていた。天神山全体が戦国時代の竹島城であったと思われる。明治3年に竹島神社と改称し同5年に村社となるが、現在は岩越四所神社に合祀されている。昭和26年まで土居守蔵という神主がおられたが、土居宗珊との関係は不明。


⑤金亀山菩提寺:臨済宗妙心寺派の竹島村の寺。竹島村の寺は火事で消失していたが、明治27年に愛媛県大洲市の冨士山如法寺とのご縁をいただき、大洲市にあった末寺で当時廃寺となっていた金亀山菩提寺を竹島村の寺として復興させて今に至る。九州緒方家の磐珪和尚が住職となり中興の祖となる。金亀山菩提寺には岩越五兵衛の位牌を祀っており戒名は『崇福寺殿儀山将翁大居士』。


⑥小松山長法寺:戦国時代末期に一条康政によって開基された無宗派の寺。小松山は一条康政が小松谷寺殿と呼ばれていた事に由来。境内に一条康政の墓と言われる宝篋印塔や、中村市誌が土居宗珊の末裔として紹介している土居宗明の墓所がある。土佐一条家の執権を握っていたと言われる一条康政と、筆頭家臣であったと言う土居宗珊の末裔の土居家墓所が同じ長法寺にあるのは大変興味が唆られると言える。


□MEMO










□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』担当:松本敏幸(2013.10.14mon)


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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-06 12:00 | 郷土史
【『巻四』の紐解きです。ここでは土居清良の土佐落ちの様子が描かれていますが、10月にその土佐落ちルート、土佐で領地したという高島、そして土佐一条家所縁の史跡を訪問する現地研修を企画させていただいた事もあり、勉強に合わせて現地調査を行ってきました。調査は実に研修を合わせて7回に及び、そこで色んな人から協力を得て、それまで不明とされてきた『高島』については場所をほぼ特定する事ができました。また土居宗三が土居近江守家忠である事はその後の清良記の記事を見ても間違いありませんが、ここで疑問を残している小松谷寺殿一条康政とは同一人物ではない事が確認できています。


□清良記を紐解く会『巻の四』

    今回は『巻の四』を紐解きます。巻の四は豊後の大友勢に包囲された石城を脱出した土居清良が、土佐国幡多郡の一条兼定の領地へ落ち延びるという話です。
といっても清良は、すぐ土佐に向かったのではありません。自刃を決め石城に残った一族の動向を案じ、使いの者を石城に返しては様子を伺って土佐に落ちるより石城に引き返す事を考えます。
しかし、そこはそれ、土居主水、観音寺佐渡、大内越後、伊藤肥前、四人の長老は大殿清宗から清良を助け一族の主として教育するよう命を受けいます。15歳。多感で血気も盛んな清良は思いを断ちながら土佐へと向かいます。

    三間から土佐へ向かう土居清良の一向は70人を超える大所帯です。その中に姉の松姫もおり、仕える女中も同行しています。松姫は一条兼定に差し出す人質としての役割を果たすよう祖母から諭されて、裾を涙に濡らしながらの土佐落ちでした。
一向はいったん目黒の支持者に身を寄せます。目黒は現在松野町。伊予と土佐の国堺にあり、滑床渓谷から流れる目黒川は土佐の四万十川へ流れる支流の一つです。
10月5日の昼に一族天晴れの報を受けた清良は、目黒川伝いに船を使って土佐に出発しました。

    さて土居清良の土佐落ちで問題なのが清良が上陸したという『種崎』と一条兼定から与えられて領地した『高嶋』の場所の特定です。
    先ず『種崎』は『崎』が着く事から海側の土地であると考えられます。その場所は『大津の城より一里こなた』とあるのですが、四万十川沿いで『崎』の付く場所は、実崎、間崎、角崎、等々…しかし、『種崎』という場所は見当たりません。
これは桂浜の近くの『種崎』が有名である為に、名前の勘違いをしたのではないかとも考えられます。
    すると断然候補に上がるのが『実崎』です。実崎は中村城より一里南に位置しており、陸路で城下を訪ねるには『実崎』が一番適していると思われるからです。

    土居一族の復活を賭けて土居清良を土佐に落とすと決めたのは、祖父土居清宗と祖母妙栄でしたが、闇雲にそう考えたのではありません。伊予の宇和郡が豊後に下っても、豊後と伊予は海に隔てられて陸続きではありません。そのうちに必ず大友宗麟の婿に当たる、土佐中村の一条兼定に宇和郡を所領させるに違いない。一条兼定はまだ若く18歳。後見人となっている父一条房基の弟で兼定の叔父は、土居清貞の娘を娶り土居を名乗る言わば身内同然でした。この一条の家老土居近江守忠家を頼りに清良を土佐落ちさせたのでした。
    しかし、清良も決死の覚悟。もし拒まれでもしていたら刺し違える覚悟であったと清良記は語っています。

    さて土居清良は晴れて土居近江守との面会を果たし、近江守の庇護によって清良は一条兼定の被官として仕える事となります。
    そこで与えられた領地が『高嶋』で、住した地が『高嶋の岡の前』と言います。
さあ、その『高嶋』がどこなのか?それを突き止める為に四万十市に訪問し、先ずは現在市内に残された『土居』という場所を訪ねてみました。
    『土居』のある場所は『竹島』と呼ばれる地域…なにかにおいますね。竹島交番のお巡りさんに尋ねると、そこから郷土史に詳しい方に片っ端から電話をして下さって、近くの竹島神社と臨済宗妙心寺派金亀山菩提寺まで案内して下さり、近所のお年寄りの聴き込みにも付き合って下さいました。

    その最中、交番にお客が来たとの事でお巡りさんは交番に戻られましたが、交番に来てくれたのが先祖が宮大工で竹島神社等の所縁を調査されていた男の方でした。
そして、竹島神社を勧請したのは岩越五兵衛である事。岩越五兵衛は天文二年か三年頃に一条房基との折り合いが悪く、周りの領主から攻められて竹島城で焚死した事。その後岩越五兵衛は祟り神となり、不破八幡宮の祭礼の日に竹島城の前を行く船が沈没した事。また、岩越五兵衛も岩越四所神社に神として祀られた事。そして、その後竹島村は領主が不在であった事等を教えていただきました。これだけ聴けば、誰でもピン!と来ますよね。

    『高嶋は竹島ではないのか!』率直にそう思いました。しかし、そこまでの事はその船大工さんにも分からないとの事。次に向かったのは四万十市庁舎の図書館です。
    そこで手にしたのは、長宗我部元親地検帳、下田村郷土史料、不破八幡宮神事、中村市誌、土佐國幡多郡神社帳、ゼンリン住宅地図。決定的だったのは、中村市誌に『山内時代の地検帳には今の竹島村は高嶋村』との記述を確認できた事です。これで確率が更に上がりました。
    『高嶋』は竹島であり『高嶋の岡の前』は竹島城の向かいに位置する竹島の土居地区であると言う説を紹介するには、考察できる資料が十分出揃いました。

  土居清良が一条の被官となった時にも、当然竹島は領主が不在であったのでしょう。突然伊予から来た侍に領地を分けなければならなくなる領主がいたら、いざこざは起きなかっただろうかという疑問があったのですが、元から領主不在の村であったと言う事であれば納得です。またそこは不破八幡宮から一里程の場所なので、清良記の記述とも矛盾しません。
    これまで郷土史の先生方が『種崎も高嶋も場所が特定できない』と言って来ただけに、この発見は率直に驚き本当に感動した発見でした。
種崎=実崎、高嶋=竹島。説として良いんじゃないでしょうか?因みに『実崎』は『竹島』より四万十川を挟んで少し下流となります。

    残された課題としては、一条の家老土居近江守忠家の特定です。中村市誌の人物の項目には、それが土居宗珊とも宗算とも宗三とも言う、一条の家老と同一人物であると言って良かろうと書いてありました。そしてその末裔がおられ、明治期には土居宗明という軍医がおり、帰郷の後は学校や幼稚園の運営に貢献した人物であったそうです。その土居家墓所は江ノ村にあると言われます。
    その江ノ村には『長法寺』という無宗派の寺があるのですが、家老『一条康政』によって開基されています。その号が『宗覚』、一条の家老であった事、兼定に意見して失脚する事、また時代的にも同時代である事から土居近江守忠家と同一人物ではないかと疑問を抱かざるを得ません。


平成25年9月27日(金)清良記を紐解く会・座長  松本敏幸

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-05 08:00 | 郷土史
【テキストでは『第四回』としていますが、三間史談会では第三回とされており、ここでは『巻さん』としておきます。ところでその前の回『巻二』のテキストは作っていませんでした。テキストはそれを書いた人の主観で書かれています。またテキストだけ読んで清良記を読まない人が多かったのも問題です。本当はテキストは作らないつもりでしたので、内容は簡単にし、清良記が読みたくなるように作ってあります。】


□  清良記を紐解く会・第四回  □


    第四回は巻の三を紐解きます。巻の三は土居志摩守清晴の討死と西園寺真光卿の降伏を知った土居の家副清貞が、嫡子を三嶋神社神主修理太夫通信に預け、大森城を出て石城に籠城する土居清宗入道宗雲の所へ駆け付ける所から始まります。
    ここで特筆するべき事は、宇和郡の旗頭西園寺真光卿が豊後大友に降伏したにも関わらず、なぜ孤軍奮闘し降伏しなかったのか?そしてなぜ一族自害という道を選択したのか?という理由です。実は、その理由は巻の二の最後に書いてあります。

    『御諚の如く某等、数年武士の真似を致し、旗頭真光の御前にても人に知られ申す事、単にお陰に御座候。今更の御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候とも、千年万年も永らえ申すまじ。譬え永らえ候とも、大将を捨てて逃げたり等と、万年迄も悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく永らえて、奇怪不思議と浦島等がように候を人の申し伝えて尚悪名現れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えば、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。』

    つまり土居家は昔より名誉を重んじると共に、主君への忠節を非常に重んじており、逃げたり降伏したりして、これ迄と違う新しい主君へ仕える事を非常に恥とした事が分かります。そして、ここで述べておきたいのは、土居清良が天正十五年に大森城を下城して後、新しい領主からリーダーとして用いられようとしながら悉く断ったという理由もまたそれと同じであったであろうという事です。
    巻の三の最後は9月28日に一族の自害と土居清晴の三男清良と清貞の娘お松を土佐の幡多へ落とす案を練り、能寿寺の住職鉄首座を石城へ呼んで後の弔いを頼みます。そして脱出は29日の夜に決行。脱出は70人以上の大掛かりな物だったと書かれています。
    そして遂に自害の時…それは10月5日の朝の出来事でした。このように見てみれば清宗始め、息子11人、孫23人、郎党49人、女官38人、合わせ122人の自害は一族が滅びる為ではなく、清良をして土居家を再興させる為の名誉の死であった事が分かります。以上


平成25年8月25日(日)『清良記を紐解く会』座長、松本敏幸

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-04 06:00 | 郷土史
【テキストでは『第二回』としていますが、三間史談会の記録では第一回となっています。どちらでも良いような物ですが、ここでは『巻いち』としておきます。このようなズレというものは、今も昔も少なからずできて来るものだと思います。さて、しかし『巻一』の扱いは大事です。校訂本清良記には『まえがき』がいくつもありますが、では清良記自体にはそれがあるのか?私は『巻一』が清良記のまえがき部分にあたると位置付けています。そして、そこには清良記を著した意味と動機が明確に記されており、清良記の性格を理解する上で非常に重要な内容である事に気が付いたのです。松浦郁郎先生からも『よく発見してくれた!』と大変に喜んでいただきました。】


□  清良記を紐解く会  第二回

*  はじめに  *
    今回からいよいよ清良記の読み合わせに入ります。清良記に関する資料は数々ありますが、清良記そのものを知らなくてはなりませんので、清良記松浦郁郎校訂版をテキストに用い清良記についての知識を深めたいと思います。
    今回は巻1ー1『清良根元先祖の事』です。この部分は土居水也が著した清良記の前書き部分に当たります。ここを良く理解する事で清良記全体を理解できるようになります。

*  鈴木三郎重家  *
    清良記は、土居家の根元先祖は、紀州の生まれで源義経に仕えてた鈴木三郎重家だと紹介しています。しかも、鈴木三郎重家が伊予国主河野四郎通信と従兄弟であった事になっています。

*  河野四郎通信  *
    鈴木三郎重家から嫡子千代松を預かった伊予国主河野四郎通信は、千代松が利発なのをたいそう気に入り、河野家の後継者にしようとして問題を起こしています。結果、通信は千代松に娘を娶らせて三間郷を所領させる事にします。

*  初代土居清行  *
    千代松は元服し土居清行と名乗ります。由来は先祖が紀州国牟婁郡土居の出身であった事によります。清良記巻30ー10には、初代清行が奈良山等妙寺に金剛劍を寄進したという記事も登場。

*  土居備中守清時  *
    土居家中興の祖と紹介されている七代土居備中守清時は、楠木多聞兵衛正成の弟子であり秘密の軍法を学んだとされています。

*  得能三郎能行・得能弾正忠能宗  *
    紀州に残した二人の弟が清行を頼って伊予に来ると、母方の名字を取り得能三郎能行と名乗ったと言います。また七代目が絶えた所、土居備中守清時の弟が得能の家継となり、得能弾正忠能宗と名乗ります。得能家は後に家名を変え今城家となります。

*  土居志摩守清晴  *
    清良の祖父土居伊豆守清宗の武功は大きく天皇に覚えいただく所となり、宇和郡の領主西園寺卿の推薦によって清良の父親に当たる三男清晴が征夷大将軍足利義輝公に仕えて志摩守を名乗ったと言います。

*  鈴木孫市  *
    鈴木孫市は雑賀衆の惣領です。鈴木孫市もまた鈴木三郎重家の子孫になる為、三間の土居家に鈴木氏の根元を尋ねる文書を寄こしたとあります。なかなか納得しない鈴木孫市に土居家十代に当たる重宗が歌を詠んで書き送ると、どう思ったかそれ以降尋ねては来なかったようです。

    『水上の濁らば末の川ススキ
        清き流れにいつか澄むべき』

    鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経の命で伊吹八幡宮に双樹のイブキを植えた事でも名前が知られています。伊予国に残す子孫がいたとしても不思議ではないかもしれません…。

*  清良記を著した動機  *
    土居水也は清良記を著した動機について、次のように述べて巻1ー1『清良根元先祖の事』を締め括っています。

    『ああ土居家代々の武名を挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』

    水也が清良記を著した動機を伺うと、土居清良公を中心に土居の侍の活躍を世間に紹介したかったという事が明らかに分かります。故に、清良記は、歴史的事実を書き連ねただけの歴史の教科書ではなく、河野家など他家の活躍について紹介する事も目的とはしていません。紐解く会では、歴史的根拠を尋ねながらも、清良記がどのように土居の侍を紹介しているのかについて紐解きたいと思います。


平成25年6月28日(金)松本  敏幸


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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-03 07:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん