【テキストでは『第四回』としていますが、三間史談会では第三回とされており、ここでは『巻さん』としておきます。ところでその前の回『巻二』のテキストは作っていませんでした。テキストはそれを書いた人の主観で書かれています。またテキストだけ読んで清良記を読まない人が多かったのも問題です。本当はテキストは作らないつもりでしたので、内容は簡単にし、清良記が読みたくなるように作ってあります。】


□  清良記を紐解く会・第四回  □


    第四回は巻の三を紐解きます。巻の三は土居志摩守清晴の討死と西園寺真光卿の降伏を知った土居の家副清貞が、嫡子を三嶋神社神主修理太夫通信に預け、大森城を出て石城に籠城する土居清宗入道宗雲の所へ駆け付ける所から始まります。
    ここで特筆するべき事は、宇和郡の旗頭西園寺真光卿が豊後大友に降伏したにも関わらず、なぜ孤軍奮闘し降伏しなかったのか?そしてなぜ一族自害という道を選択したのか?という理由です。実は、その理由は巻の二の最後に書いてあります。

    『御諚の如く某等、数年武士の真似を致し、旗頭真光の御前にても人に知られ申す事、単にお陰に御座候。今更の御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候とも、千年万年も永らえ申すまじ。譬え永らえ候とも、大将を捨てて逃げたり等と、万年迄も悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく永らえて、奇怪不思議と浦島等がように候を人の申し伝えて尚悪名現れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えば、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。』

    つまり土居家は昔より名誉を重んじると共に、主君への忠節を非常に重んじており、逃げたり降伏したりして、これ迄と違う新しい主君へ仕える事を非常に恥とした事が分かります。そして、ここで述べておきたいのは、土居清良が天正十五年に大森城を下城して後、新しい領主からリーダーとして用いられようとしながら悉く断ったという理由もまたそれと同じであったであろうという事です。
    巻の三の最後は9月28日に一族の自害と土居清晴の三男清良と清貞の娘お松を土佐の幡多へ落とす案を練り、能寿寺の住職鉄首座を石城へ呼んで後の弔いを頼みます。そして脱出は29日の夜に決行。脱出は70人以上の大掛かりな物だったと書かれています。
    そして遂に自害の時…それは10月5日の朝の出来事でした。このように見てみれば清宗始め、息子11人、孫23人、郎党49人、女官38人、合わせ122人の自害は一族が滅びる為ではなく、清良をして土居家を再興させる為の名誉の死であった事が分かります。以上


平成25年8月25日(日)『清良記を紐解く会』座長、松本敏幸

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-04 06:00 | 郷土史
【テキストでは『第二回』としていますが、三間史談会の記録では第一回となっています。どちらでも良いような物ですが、ここでは『巻いち』としておきます。このようなズレというものは、今も昔も少なからずできて来るものだと思います。さて、しかし『巻一』の扱いは大事です。校訂本清良記には『まえがき』がいくつもありますが、では清良記自体にはそれがあるのか?私は『巻一』が清良記のまえがき部分にあたると位置付けています。そして、そこには清良記を著した意味と動機が明確に記されており、清良記の性格を理解する上で非常に重要な内容である事に気が付いたのです。松浦郁郎先生からも『よく発見してくれた!』と大変に喜んでいただきました。】


□  清良記を紐解く会  第二回

*  はじめに  *
    今回からいよいよ清良記の読み合わせに入ります。清良記に関する資料は数々ありますが、清良記そのものを知らなくてはなりませんので、清良記松浦郁郎校訂版をテキストに用い清良記についての知識を深めたいと思います。
    今回は巻1ー1『清良根元先祖の事』です。この部分は土居水也が著した清良記の前書き部分に当たります。ここを良く理解する事で清良記全体を理解できるようになります。

*  鈴木三郎重家  *
    清良記は、土居家の根元先祖は、紀州の生まれで源義経に仕えてた鈴木三郎重家だと紹介しています。しかも、鈴木三郎重家が伊予国主河野四郎通信と従兄弟であった事になっています。

*  河野四郎通信  *
    鈴木三郎重家から嫡子千代松を預かった伊予国主河野四郎通信は、千代松が利発なのをたいそう気に入り、河野家の後継者にしようとして問題を起こしています。結果、通信は千代松に娘を娶らせて三間郷を所領させる事にします。

*  初代土居清行  *
    千代松は元服し土居清行と名乗ります。由来は先祖が紀州国牟婁郡土居の出身であった事によります。清良記巻30ー10には、初代清行が奈良山等妙寺に金剛劍を寄進したという記事も登場。

*  土居備中守清時  *
    土居家中興の祖と紹介されている七代土居備中守清時は、楠木多聞兵衛正成の弟子であり秘密の軍法を学んだとされています。

*  得能三郎能行・得能弾正忠能宗  *
    紀州に残した二人の弟が清行を頼って伊予に来ると、母方の名字を取り得能三郎能行と名乗ったと言います。また七代目が絶えた所、土居備中守清時の弟が得能の家継となり、得能弾正忠能宗と名乗ります。得能家は後に家名を変え今城家となります。

*  土居志摩守清晴  *
    清良の祖父土居伊豆守清宗の武功は大きく天皇に覚えいただく所となり、宇和郡の領主西園寺卿の推薦によって清良の父親に当たる三男清晴が征夷大将軍足利義輝公に仕えて志摩守を名乗ったと言います。

*  鈴木孫市  *
    鈴木孫市は雑賀衆の惣領です。鈴木孫市もまた鈴木三郎重家の子孫になる為、三間の土居家に鈴木氏の根元を尋ねる文書を寄こしたとあります。なかなか納得しない鈴木孫市に土居家十代に当たる重宗が歌を詠んで書き送ると、どう思ったかそれ以降尋ねては来なかったようです。

    『水上の濁らば末の川ススキ
        清き流れにいつか澄むべき』

    鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経の命で伊吹八幡宮に双樹のイブキを植えた事でも名前が知られています。伊予国に残す子孫がいたとしても不思議ではないかもしれません…。

*  清良記を著した動機  *
    土居水也は清良記を著した動機について、次のように述べて巻1ー1『清良根元先祖の事』を締め括っています。

    『ああ土居家代々の武名を挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』

    水也が清良記を著した動機を伺うと、土居清良公を中心に土居の侍の活躍を世間に紹介したかったという事が明らかに分かります。故に、清良記は、歴史的事実を書き連ねただけの歴史の教科書ではなく、河野家など他家の活躍について紹介する事も目的とはしていません。紐解く会では、歴史的根拠を尋ねながらも、清良記がどのように土居の侍を紹介しているのかについて紐解きたいと思います。


平成25年6月28日(金)松本  敏幸


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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-03 07:00 | 郷土史
【どのようにして清良記の勉強を進めるのかを発表。三間の郷土史の先生方に一同に会していただき、三間史談会は新しい歩みを始めました。】

第一回『清良記』を紐解く会

 ◇挨拶◇
    本日は雨の中お集まりいただき誠にありがとうございます。本会を始めるに前に一言挨拶申し上げます。
    本会は三間史談会の本年度事業ですが、三間史談会は三間町誌の刊行に合わせて発足し、二年後の平成27年に二十周年を迎えます。また去る3月23日にテレビ愛媛の番組で『大森城と清良記』が大々的に取り上げられる事があり、『清良記』を学ぶなら今が一番適切と考えました。
    本会は毎月一回、二年間続ける事を目標に行います。三間の宝物『清良記』を、一人でも多くの人と一緒に学びたいと思いますので何卒宜しくお願いします。

◇清良記概観◇
    室町時代の天文十五(1546)年から江戸時代の寛永六(1629)年までの土居清良の八十四年の生涯を主に、戦国期の土居一族の活躍が収められています。
    著者は土居水也。土居一族で三嶋神社の神主をしていました。伊達文化保存会蔵の桜田家所蔵記録によれば、承応二(1653)年に『清良記』を書き上げ、翌三年に亡くなられています。

◇テキスト◇
    本会のテキストは松浦郁郎氏校訂の『清良記』です。江戸時代に書き上げられた『清良記』を、私達が読める本にして下さった松浦郁郎氏の苦労と功績は大きく、このテキストもまた三間の宝物と言えます。

◇進め方◇
    多くの歴史研究家は「清良記は軍記物語であり史実とは考えにくい」と評価していますが、本会は史実か否かを批判する事が目的ではなく、『清良記』が何を語っているかを紐解く事を目的とします。
    挨拶の後、項目毎に音読。参加者に疑問・質問・意見をいただいた後、内容の解説を行ないます。解説できなかった内容については次に回します。テキストの購入を勧めます。順に進めて行くので予習していただけると有難いです。以上



                平成25年5月28日(火)『清良記』を紐解く会・座長(松本 敏幸)













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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-02 21:00 | 郷土史
【清良記を紐解く会は、平成二十五年四月の三間史談会総会で提案し、賛成多数で承認されました。以下は、三間史談会で清良記を勉強する会を立ち上げるに際し、意気込んで書いたお知らせです。


『郷土史・清良記を紐解く読書会(仮称)』スタートの件

各位

    時下ますますご清祥のことと存じます。さて題目に上げましたように、この度有志で『清良記』を研究する会をスタートすることになりました。この件は、羽藤会長始め、佐竹副会長、松浦顧問、池本顧問、に相談の上進めました。
    座長は私松本敏幸が務めます。会のスタイルとしては『清良記』や『三間町誌』の歴史の章を読み、読んだ部分で思うことを語り合うというスタイルです。参加者は三間史談会々員に限らず広く募集します。
    また会費は考えておりません。『清良記』と『三間町誌』とノートを各人が持ち寄っていただきます。第一回目は以下の予定です。

日時…5月28日(準備会)
            夜8時から9時
場所…中央公民館第一会議室
順次月末の良い日に行います。

    実際には公民館は7時から借りています。史談会の会員には8時より早目に集合していただければ幸いです。会の目的には新規会員獲得、後継者の育成、三間史談会20周年に向けての意味もあります。大いに盛り上げていただければと思います。
    町内には三間町の郷土史に関心を持っている方、『清良記』を読んでみたい方は沢山いらっしゃる事と思います。また既に読み込んでおられ、様々な疑問や見解をお持ちの方もおられると思います。昨今の『南予いやし博』や『三間IC開通』などの町おこしの盛り上がり、郷土史への関心の高まりを感じ取り、この会をスタートするには今が一番良い時期と考えました。
    『夜の三間史談会』『三間史談会の夜の部』『三間史談会夜話』『清良記研究会』なんでも結構です。どうか温かい気持ちで盛り上げていただければ幸いです。

以上。三間史談会々員、松本敏幸。平成25年5月11日(土)




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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-01 19:00 | 郷土史

宇和島伊達400年祭

3/29宇和島伊達400年祭オープニングセレモニーが華々しく開催。姉妹都市「大崎市」から借用した甲冑を身に付けた伊達五十七騎、大洲鉄砲隊、牛鬼、太鼓集団、宮本真希演じるお姫様、腰元等が宇和島の街を練り歩く。

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【写真は伊達五十七騎の一人水沢民部の甲冑を身に付けた歴ドル美甘子ちゃん。】

今年一年、宇和島の街は伊達400年祭に染まる。しかし、今年は宇和島・鬼北・松野が共同主催となる『第二回清良記シンポジウム』が鬼北町で予定されていると聞く。清良記を紐解く会としては、否が応でも戦国時代の宇和島や鬼北の動向に胸が熱くなる。とはいえ、清良記が書き上げられたのは江戸期に入って四十年の承応二年である。宇和島では藩主は秀宗から宗利への代替わり、和霊神社の創建、吉田藩の分藩問題等が起きて行く。秀宗の中風、執権を代行していた宗時の早生、後継となった宗利には後継者がいなかった事から伊吹八幡宮に卜占を頼み、得た御神託が和霊神社の創建であった。伊吹八幡宮の社名の所縁となった伊吹の双樹は、三間の武将土居清良の先祖鈴木重家が手植えされた物である。また土居清良は宇和郡を土佐長宗我部の侵略から守った戦の勝ち神様であり、戦国時代の武将としては長命の八十四歳まで長生きされた。和霊神社の御祭神山家清兵衛が亡くなった九年後まで生きていたのであるから、宗利も当然その人となりを知っていた筈と思われる。実に不思議な事に、清良神社も和霊神社創建の九年後に創建となる。ここに私は、何かしら非常に深い関係があったのではなかろうかと考えてしまうのである。

ちなみに山家清兵衛没年は元和六年。清良没年は寛永六年、清良神社創建は寛文二年。宗利の生年は寛永十一年。宗利は数え六歳で元服、二十二歳で家督を継ぎ二代藩主となる。

元和元年1615:初代秀宗宇和島入部
元和六年1620:山家清兵衛没
寛永六年1629:土居清良没
承応二年1653:和霊神社創建
寛文二年1662:清良神社創建

文責『清良記を紐解く会』三間史談会々員・松本敏幸(携帯090-1320-1508)

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-03-31 20:00 | 戦国フェス

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん