□『清良記』を紐解く会 December 2016

『巻一』から『巻三十』までを紐解いてみると、『清良記』のメッセージは首尾一貫しています。また、『清良記』が著された動機は、『巻一』一章の最後の一節に凝縮されている事が分かります。

「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。
されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。
真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、
深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰にか見せん。
梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。
しかはあれど遼東の豕(いのこ)にやありなまし。」
(『清良記 松浦郁郎校訂』三頁)

『清良記』とは、江戸時代となり、宇和島が伊達家の治世となって三十八年が経ち、戦国時代の面影も忘れかけそうになっていた頃、三嶋神社の神主であった土居水也が、土居家の武名を後代に伝え残そうと書き上げた、戦国武将土居清良の一代記であったといえます。故に『清良記』は軍記物語であり、史実を扱うよりも、教訓としての色彩が濃く出ている事でしょう。しかし、そこには資料的価値があると言って余りある程の、生き生きとした戦国の世の息遣いが聴こえてきます。

三間史談会は、そのような『清良記』を宝とし、水也が伝え残そうとしたメッセージが何であったのかについて紐解いて行きたいと思います。

文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-12-01 16:31 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

十月二十九〜三十日『三間町産業文化まつり』が開催されました。三間史談会は「松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展」を出展。大変貴重な展示に、来場者の中には非常に強い関心を持たれる方もおられ、戦国時代の話に花が咲きました。

やはり「清良記」といえば三間町、三間町といえば「清良記」なのです。清良記を記録し保存して行く事や、清良記を紐解き語り継いで行く事は、三間の人間が責任を持って行かなければならない事だと強く感じた次第です。来年からは三間本を紐解きながら資料作りをします。ぞうぞよろしくお願い致します。


□『巻三十』最終巻(二回目)p.403〜p.417

最良記は三十巻もの大作ですが、その最後まで渾身の力が込められており、話は多岐に渡って面白く、示唆に富み、非常にメッセージ性を含んだ物語だといえます。「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と清良公が詠んだ歌は、本当は石城で自刃すべきだった筈を、土居の家督を背負い今日まで生きてきた事への感嘆を吐露したものであったのでしょう。故や、石城の土居一族の自刃は、主人を変えて生き延びる事を恥として、名誉の死を選び、清良をして再興を託した上での事でした。巻三十には丸串城代(現宇和島城)への仕官の誘いを断るというエピソードがありますが、それは騙し討ちを恐れたからではなく、土居家の生き方や清良公が今日まで生きて来た理由とは掛け離れたものであったからだという理解をしていただければと思います。


文責/三間史談会 松 本 敏



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-11-01 21:30 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より October 2016

 清良記の紐解きを始めて早や四年、遂に最終巻となり感無量に思います。思えば【清良記を紐解く会】は、松浦郁郎先生がテレビに出演されたことから始まりました。それが平成二十五年の三月二十三日(三間町では三嶋神社の春祭りの日)、テレビ愛媛の「ふるさと絶賛バラエティー・い~よ!」でした。そして、振り返ってみれば、清良公の土佐落ちの道を訪ねる研修、岡本城登山、長宗我部まつり、今年の宇和島市役所ロビー展と沢山の思い出ができました。これも全ては、松浦郁郎先生がご苦労をされて『清良記松浦郁郎校訂』を出版して下さったお陰です。そして、いつも盛り上げて下さる皆様には、本当に感謝致します。是からこの勉強会は、宇和島市指定有形文化財である古文書の『清良記三間土居本』の紐解きにも入って行く計画となっていますが、今後ともよろしくお願いします。


□『巻二十九』余韻

 先月、二十四日は『巻二十九』を紐解きましたが、供養の丸における佐兵衛と円長坊との壮絶な殺し合い、小早川の養子となっていた元隆の自刃は、『清良記』のラスト間際に暗い影を落としています。しかし、私はこのストーリーに何か含みがありはしないかと感じられて仕方がありません。対立関係にある者の讒言によって大老が上意討ちされてしまうとは、どうしても和霊騒動を彷彿とさせられてしまうのです。また、元隆は本当に小早川の養子となり安芸で亡くなったのか謎が深まります。


□『巻三十』(最終巻)p.403~p.417

 平成二十五年五月二十八日から始まった紐解きも、いよいよ最後の巻ですが、急ぐことはありませんので、今月から年の瀬にかけてじっくりと紐解いてみたいと思います。巻三十は、巻二十九の九章「四国ことごとく京家になる事」から太閤秀吉の四国征伐後の情勢となります。『清良記』には

 「そむくべき 代をし我から そむき来て
   そむかれけりな 時や来ぬらん」と詠みて、

竹ある岸の下水いさぎよく流れける方に、昔もかかることのありけん、その名を【かくれ宿】という所に、細々と清良公の足跡を伝えています。また、巻三十には等妙寺や仏木寺の縁起、また三嶋神社の楠の云われについても述べてあり興味を引きます。その後、『清良記』は清良の庵室【かくれ宿】で、立ちつ座りつ軍物語をされる清良の姿を描いて終わりとなります。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-10-01 07:00 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より September 2016

 九月十二日~十六日の五日間、宇和島市役所一階ロビーにて特別展示会『松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展』を開催する運びとなりました。清良記抄(きよよしきしょう)は、昭和四十八年元日~昭和四十九年九月二十一日に渡り、新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身)で連載されたコラムですが、松浦郁郎氏所蔵の写本を利用し、昭和五十年発行となる『清良記松浦郁郎校訂』よりも早く世に出された大変稀有な連載だったといえます。
 また、連載の「はじめに」を読んで分かった事は、その写本は、松浦氏が恩師清水岩蔵氏の書写した高串本を複写した物であったこtが分かりました。『清良記松浦郁郎校訂』の作業には、清良記の三間本を高串本で校訂していくという気が遠くなるような作業があった訳ですが、三間本は三間本だけ、高串本は高串本だけで翻刻し発行すべきだったと批判する学者もいたといいます。そのような意味でも清良記抄は、高串本だけを原稿にした稀有な資料といえるでしょう。
 更に、清良記抄の写真を見ていると、『清良記松浦郁郎校訂』の挿絵に使われている三輪田俊助画と瓜二つの写真があるではありませんか。挿絵は、三輪田画伯から松浦氏に無償で提供されたときいていましたが、清良記抄の写真がモチーフになっており、もし清良記の連載がなかったら、三輪田画伯の挿絵も存在していなかったのではないかと思わされ、清良記抄が本当に稀有な存在である事を感じた次第でs。故に、九月の展示会は、今は亡き恩師の清水岩蔵先生、三輪田俊助画伯、そして、新愛媛新聞社に捧げたいと思います。


□『巻二十九』を紐解く(清良記・p.390~p.402)

 さて、三間史談会主催『清良記』を紐解く会では、毎月三間公民館にて、清良記の勉強会をしています。九月は二十四日に『巻二十九』を紐解きます。そして、ここにきて登場するのが清良の嫡子太郎重清です。「壬申年にて、今年十五歳」とあり、元亀三年(一五七二)生まれであった事、承応三年(一六五四)に亡くなったという清良記の著者水也と、同年代であった事などが分かります。元亀三年の当時、清良二十七歳。真吉新左衛門は十四歳。水也が真吉新左衛門と同一人物という説もありますが、少し無理があるように思います。土居清良の被官であり、三嶋神社の神官であったという水也が誰なのか。土居家被官の内情を記録した『巻二十九』にその正体を知る糸口があるのか。一文一文を噛み締めながら紐解いてみたいと思います。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-09-01 06:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 July 2016

梅雨も明けたのではないかと見間違ってしまうような晴天の七月三日、西予市城川町土居地区で行われた奇祭「どろんこ祭り」に行ってきました。明治十四年頃より行われるようになったという「どろんこ祭り」は、三間を発祥とする遊興だったともいわれています。三間の三嶋神社の松浦宮司の話では、参道の東に神田があったと言うのですが、現在では見る影もありません。西予市城川町土居地区の三嶋神社では、これからもどうか大切に継承して行って欲しいと思いました。

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□『巻二十七』を紐解く p.364〜p.376

平成二十五年五月からスタートした【清良記を紐解く会】も後四巻を残すのみとなって参りました。天正十二年二月から始まる巻二十七では、織田信長の死後、勢を取り戻した長宗我部元親の元に、芝美作や魚成対馬ら辺境の武将が再び寝返って行きます。何はともあれ、元親の四国統一→豊臣秀吉の四国征伐→豊臣権勢の元で下城し帰農して行くまでの、『清良記』大詰めの物語となって行きます。

一章、土居との確執もなくなった西園寺殿は大森城へ清良を訪ね、いつにない覚悟を持って深田上城に陣を配置。土居、山田、久枝は尾坂五本松に出張して、尾坂より沢松口の柏田に柵を巡らせますが、まさしくここが土佐との戦の最前線であったと言えます。三章より始まる合戦の最中には、土居の軍師桜井武蔵を始め、善家六郎兵衛ら重鎮らが討死。かなわじと思いてもなお突いて掛かる土居の侍達。その駆け引きの妙に、勧修寺より来た加勢の侍も驚嘆したといいます。

また、巻二十七で特筆しておきたい事は、四章から六章に登場する松浦宗案に纏わる話です。松浦宗案を、実際には存在しない架空の人物と言い広める人もいるようですが、それは『清良記』全てを作り話と言っているに等しく、どのように読んでもそこまで言える確かな証拠は見られないという事を訴えておきたいと思います。この問題については、松浦郁郎先生に改めて講義をお願いしたいと思っているような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


「以上は、7月に使用した『清良記を紐解く会』のテキストです。勉強会の中では、松浦郁郎先生に松浦宗案に纏わる話をしていただいたり、東京都あきる野市の土居秀夫氏から届いた手紙を紹介しました。また、今回は特別に『清良記』の挿絵として使われた、故三輪田俊助氏の原画を初公開していただく事ができました。この原画はデジタル化し、9月には宇和島市役所のロビー展で展示したいと考えています。」


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撮影者:松本敏幸©︎
撮影地:愛媛県宇和島市三間町宮野下(三間公民館)
撮影日:2016.7.16(土)
*この記事の文章、及び画像は著作権を放棄していません。



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# by kiyoyoshinoiori | 2016-07-16 23:02 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん