5月14日(土)は、南国市にある高知県立歴史民俗資料館の『第7回長宗我部フェス』、5月15日(日)は、高知市長浜にある若宮八幡神社の『第5回長宗我部まつり』に行ってきました。



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5月14日は、暑いくらいの晴天に恵まれました。初日の会場、高知県立歴史民族資料館は、長宗我部氏の本城である『岡豊(おこう)城跡』でもあります。ベテランのガイドさんに、くまなく城跡の説明を伺う事ができました。



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岡豊城から『長宗我部フェス』の会場を見下ろしました。大掛かりなイベントという印象ではありませんが、戦国時代に四国を制覇した【長宗我部元親】が好きな人達が集まっており、凄く情熱が伝わって来るイベントです。



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10時からのオープニングイベントで、【長宗我部鉄砲隊】が砲術の実演をお披露目。毎年、大分県から参加している【大友宗麟鉄砲隊】の指導を得て、昨年に結成された鉄砲隊です。



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そして、午後からは、戦国舞台をされている俳優さんと鉄砲隊によるアトラクション。その中で【大友宗麟鉄砲隊】による砲術の実演がされ、例年にない盛り上がりを見せました。



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アトラクションの内容が大変よくできており、元親が長男信親を失う【戸次(へつぎ)川の合戦】が舞台でした。信親は島津との合戦で700名討死となる壮絶な最期を遂げていますが、その信親が生きて帰って来る物語となっていました。



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信親を失い嘆く元親に涙したかと思えば、実は生きていたと再会を果たした元親と信親の喜びようにまた涙しました。そして、次に迫り来る敵を【大友宗麟鉄砲隊】が蹴散らし、宴の準備が始まると信親の姿がありません。それは、元親が見た束の間の幻だったのでした。(;ω;)



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信親の死によって元親は心の安定を失い、家運は大きく傾いて行きます。『長宗我部元親』の物語は、大河ドラマ化も呼び掛けられていますが、晩年の姿をどう描くかは大きな課題です。アトラクションはフィクションではありましたが、本当によく出来た感動の物語であったと思いました。



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長宗我部元親の物語を描くとしたら、「姫和子」と呼ばれた少年期から、初陣を果たして「土佐の出来人」と呼ばれる成長期。天下を治める志を立て、智謀の限りを尽くして四国を制覇して行く発展期。そして、秀吉の軍門に下り、九州攻めで長男を失う衰退期の三部になるでしょう。アトラクションまで披露して下さった鉄砲隊の皆様、本当にありがとうございました。



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『長宗我部フェス』は、アトラクションだけではありません。販売コーナー、ゲームコーナー、トークショー等、企画も様々あり楽しむ事ができました。


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特に今回の大きな事件は、【土佐史談】の会員で、『土佐物語』の現代語訳版を発行された【中島重勝氏】と出会えた事です。友を得る事こそ、人生において最も大切な事だと思います。高知県に郷土史の友ができて、本当に嬉しい限りです。



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次回、記事は、5月15日の『長宗我部まつり』へと続きます。



撮影地:高知県南国市/岡豊城。高知県立歴史民族資料館。『第7回長宗我部フェス』にて



撮影者:松本敏幸©︎








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# by kiyoyoshinoiori | 2016-05-14 23:58 | 戦国フェス

2016.5.13(金)土居清良公の本城である大森城の支城『天神城』を巡ってきました。



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『松峯城』の南麓に位置する元宗地区には、立派な屋敷が多く建ち並んでいます。



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『松峯城』と『天神城』の中間にあるのは黒住教の集会所。江戸時代には元宗村庄屋があった場所だったと言われています。



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元宗バス停から『天神城』を望む。竹林の見える麓へ行ってみましょう。



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そこには、元宗地区の旧村社『天満神社』がお祭されています。石積みが立派なのは、江戸時代に有力な酒屋赤松家があった為だと思われます。



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夏の青葉紅葉は、なんとも清浄な気持ちを与えてくれます。



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拝殿に飾られた絵馬も、大変貴重な物ばかりです。



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神社の狛犬達が、元宗地区を見守ってくれているように思えました。



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天満神社の下の抜け道は、まさに知る人ぞ知る抜け道です。



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元の道に戻った所で、偶然にもJR四国予土線の『海洋堂ホビートレイン02』にお目見え致しました♫\(^o^)/



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元宗地区の東端に建つ『赤松家屋敷』。この後手から『天神城』へ登る事ができます。



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山に分け入る道を真っ直ぐ入っていくと赤松家墓所。左に九十九折に登って行くと、赤松家の氏神を祀る小社があり『天神城』へと続きます。



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赤松家の氏神を祀る『朝日神社/若宮神社』。最近、鉄製の覆殿ができました。尚、今回は赤松家の許可をもらって入山しています。



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ほぼ藪のような山道を分け入って、西へ西へ進んで行くと石積みの並ぶ場所に着きました。そこからは東西に平地が七段続き、一つ下がって、また一段広い平地がありました。



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一つ目の段を、南から北に向かい撮影。



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同じく一つ目の段を、西から東に向かい撮影。東西に長く伸びる『天神城』には、古い天満神社の社があったとも言われていますが、その場所は定かではありません。



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二段目は斜めに伸びており、三段目から四段目に懸けてあるのが水道施設です。宇和島市三間町の水は、隣の西予市野村町から引いていますが、一旦この施設に集められてから町内に送られています。



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五段目の平地から、六段目となる土塁を撮影。



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六段目から、七段目の平地を撮影。崩れたような石積みも見受けられます。



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七段目の平地は楕円形をした広い平地で、西端の少し高まった場所が詰めと思われました。



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詰めの先は、なだらかな下りの尾根となっています。



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尾根の中程に、水準点を発見。



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また上がって広い平地の段がありましたが、上がり端の東端に水準点がありました。西の平地は東の七段目と同じくらい広い平地でしたが、一段だけとなっており、その先は切岸となって行く手を阻んでいるように見えました。



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水準点があるという事は、ここが『天神城』の頂上になるのかと思われます。平成7年発行の『三間町誌』には、標高180メートルとあります。



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その後、赤松家の墓所をお参りし帰路に着きましたが、2時間を超えて余りある登山となりました。帰る途中で、また予土線と遭遇。大好きな、キハ23型の3号軌道車でした♫(^_−)−☆



撮影地:愛媛県宇和島市三間町/元宗地区、天神城



撮影者:松本敏幸©︎






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# by kiyoyoshinoiori | 2016-05-13 23:38 | 郷土史

2016.5.12(木)土居清良公の本城である大森城の支城『松峯城』に登ってきました。



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大森城は西の麓、宮野下地区の板山地(いたやまち)から登るのが常ですが、この日は南東に連なる支城の麓に位置する元宗地区から『松峯城』に向かいました。



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元宗地区の西端にある満徳寺池から望む大森城。標高315メートル。満徳寺は大森城のほぼ真南に位置します。



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大森城から南東に張り出した支城『松峯城』は、標高260メートル。『清良記』巻二十三には遠見番を置く砦として描かれています。



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南南西の方角には、『三間富士』と呼び親しまれる泉ヶ森(標高755メートル)、その中腹には土居中地区の新城(標高335メートル)が望めます。



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元宗地区の『法雲山満徳寺』は、真宗大谷派の寺で、東本願寺を本寺としています。この場所は大森城と松峯城の中間にあり、大森城からは南南東、松峯城からは西に位置します。



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境内の入口に馬頭観音を祀る小祠。この右手から『松峯城』へ登って行きます。すぐ上には、江戸時代の古いお墓が数段並んでいます。



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すぐ上の平地までは堀切のような道が続いています。取り敢えず平地に辿り着くまで登って行きます。



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平地に辿り着いたら少し休みましょう。この先は暫く尾根を歩くと、『松峯城』に向けて急峻な上り坂となります。



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平地から少し下るように尾根が続く。



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尾根の中程に水準点。



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「胸突き八丁」と言うのでしょうか。岩肌が見えて来たら頂上が近い事が分かりますが、ここからがまた中々です。



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頂上が見えてきましたが、大きな岩に貼り付くように木が繁っています。



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『松峯城』の頂上は、大きな巨石であった事が分かりました。



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17:30頃『松峯城』にて暫し黄昏る一時。現在は木の茂みがあり周囲をよく見渡せませんが、東南東の正面にある『岡本城』や、その背後に続く『一の森城』や『高森城』に睨みを利かすには、腕付けの砦であったろうと思われました。



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急峻な岩山から下りるのは少し難儀。大杉を目当てに尾根に戻りましょう。



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最初の平地。



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満徳寺池を見下ろしたら一安心。昼下がりに登れば、太陽のある方角に下りて行けば良いので、迷う事はないと思います。



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「おまけ」麓の畑で咲いていた珍しい木の花。




ご視聴ありがとうございました。次回は『天神城』へ登ります〜(o^^o)ノ"



愛媛県宇和島市三間町/元宗地区の松峯城にて撮影。撮影者:松本敏幸©︎





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# by kiyoyoshinoiori | 2016-05-12 23:35 | 郷土史

□『清涼記』を紐解く会 May 2016

 爽やかな風吹く最高のゴールデンウィークをお過ごしだったことと思います。私は、五月五日に、愛媛県護国神社で行われていた五十回目となる【万葉祭】に参加してきました。この行事は、明治百年になる昭和四十二年に、当時愛媛県教育委員長であった竹葉秀雄先生(三間名誉町民)と、愛媛県の植物学者であった八木繁一先生が中心となり始められた催しで、愛媛県護国神社に祀られた御霊を慰霊する為であったといわれます。

 さて、『清良記』を紐解く会におきましては、今月より四年目に突入となって参ります。三年前の五月二十八日に第一回目が行われ、『土居清良の土佐落ちの道を訪ねる研修』『岡本城址に登って岡本合戦を検証する研修』、また『長宗我部まつり』に参加する等、精力的に事業を進め、新規会員の獲得や後継者の育成にも大いに役割を果たすことができたと思います。

 今後の紐解きは、順調に行けば十月で『巻三十』行い大きな一区切りとなりますが、九月には宇和島市庁舎ロビー展を行い、十月には『三間町産業まつり』での展示を行いたいと思います。その内容のメインは、松浦郁郎先生からお預かりしている『新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身となった新聞社)』に掲載された『清良記』の展示です。これは、『清良記』の内容を直に紹介できるばかりか、挿絵に使われた写真や記事が残っていること自体が非常に貴重であるからです。


□『巻二十五』 p.344~p.353

 天正十年三月の記事から始まる『巻二十五』ですが、やはり気になるのは『本能寺の変』であると思います。三四五頁上段を見れば、
 「将軍信長公は明智日向守光秀がために京都本能寺において六月二日の朝、ご切腹なりと告げ来たりければ、秀吉より両川へその旨をありのままに申され、」
 とあります。
 っこで改めて確認しておきたいことは、『清良記』はあくまで軍記物語であり、そこにどのように書いてあったとしても、史実の根拠として捉えてはいけないという事です。例えば、日付に関しては間違っていないけれども、『朝、ご切腹』は、どこからの情報であるのか。また、秀吉は両川に信長の死を伝えたというが、それが史実か否か。これらには疑問があり、結論付けずに研究課題として行くべきでしょう。更に前後の記事を紐解けば、両川は秀吉に一目置いており、清良に秀吉の評価を語らせて、この期を反撃の機会にするのではなく、和睦の機会にするよう勧めるという話になっています。


□『干支』について

 『十干十二支』ともいう『干支』は、六十年で一巡り。これが『還暦』です。『木火土金水』の五行を二つに別けて『甲乙丙丁戊己庚辛壬癸』にしたものが『十干』、『子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥』が『十二支』、その組み合わせが六十通りとなります。


                文責/三間史談会々 松 本 敏 幸



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□愛媛県護国神社『万葉植物苑』に建立された『熟田津之碑』(撮影:2016.5.5)



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□『熟田津之碑』建立:1967年(昭和42年)7月5日。松山市を流れる石手川の自然石を使用。



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□『熟田津の碑の副碑』全国を見ても、これ程立派な副碑を持つ『熟田津之碑』はないといわれる。



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□『愛媛県護国神社』の正式参拝第50回【万葉祭】には県下の人士が集まる。



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□『神道夢想流杖道』の奉納演武が行われる。他にも詩吟の会による献吟などが奉納される。



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□『正岡子規と植物』と題して、正岡子規の令孫にあたる【正岡明氏】が記念講演される。



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□『万葉音頭』作歌:竹葉秀雄 踊り:四国民舞輪の会



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□愛媛県松山市では、若手が育っている。(*´艸`)いいね♪



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□参加者全員で、『万葉音頭』の輪踊りを行う。



写真:愛媛県松山市/愛媛県護国神社第50回【万葉祭】 撮影:松本敏幸©︎




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# by kiyoyoshinoiori | 2016-05-07 13:53

「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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# by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん