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『三間について語る』


『三間について語る』



 平成三十年五月二十一日(月)、三間中学校からの依頼を受けて、中学一年生を対象に「三間について語る」というテーマで講話をしてまいりました。

 不思議なことに今年入学した一年生を調べると、三間町の歴史に所縁の多い生まれ年だということが分かり、そういうことも踏まえて思い出に残る講話をすることができたのではないかと思います。

まず今年の新一年生は平成十七年度の生まれなのですが、三間町が宇和島市に合併したのが平成十七年八月一日です。また八月一日というのは大正十年に宇和島町が市になった宇和島市の誕生日であって、今年は九十七周年、三年後には百周年を迎えるという話をしました。

そして、小学校に入学する直前の平成二十四年三月十日には三間インターチェンジが開通する大きなイベントがありました。この日、三間町は宇和島市の玄関となり、宇和島市だけではなく、愛南町や鬼北町、松野町、そして四万十川流域に向かう人には高知県の入口にもなる大きな役割を持ったことを話しました。このような話から地元産業に夢を持つ子が現れてくれると幸いに思います。

しかし、なにより三間町が輝いた時代は三間町政時代であったと思います。そこで紹介したのが三間町政五十周年記念誌です。記念誌には『Memories未来へ心をつなぐふるさとの記憶』という題がついています。

 そこには古い三間町の写真が沢山掲載されていて、なにからなにまで懐かしい写真で一杯ですが、これまでにない力の入った記念誌であることが分かります。発行されたのは平成十六年。三間町最後の記念事業の一つでありました。

 中身をひも解くと三間町の誕生日は昭和二十九年日。今は東京オリンピックにちなんだ体育の日ですが、当時は体育の日どころか東京オリンピックさえまだ実現しておらず、三間町誕生は東京オリンピックより十年早かったと覚えてもらえたらと思います。

また東京オリンピックは有色人種国家における史上初の開催であって、人種差別撤廃を叫んできた日本にとっては本当に誇らしい出来事でした。

 また三間町も誕生の五年後に、優良町として全国町村会々長より表彰を授与され、翌年には自治大臣からも表彰を授与される名誉に預かっており、私達のおじいさんおばあさん、またひいおじいさんひいおばあさん達は、三間町の発展の為に本当に心血注いで仕事に勉強に頑張っていたことが分かったのでした。

 そして、そこには次の世を子供達により良い世として譲り渡したい親心がそうさせるのだと話をしました。そして、子供達にもより良い大人に成長して欲しい。その為にあるのが学校なのだと話しました。

 中学校は入学し卒業するまで僅か三年間しかありませんが、二年で少年式という大人に向けて成長していく過程での重要な式典をすることを話し、三間中学校は少年式が始まる昭和四十二年の創立であって、三間中学校校歌は少年式の立志の歌になっていることを話しました。

「君たちが日本一の中学生になるように皆が祈ってくれています。皆そのようにして育てられました。人生の目的は人として生まれ人として成長し立派な人となることです。なぜなら人は皆そのように願われて生まれ育てられているからです。三間中学生と三間中学校の活躍と発展を心から祈念しております。」(松本)

以 上

 

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# by kiyoyoshinoiori | 2018-05-23 00:10
『長宗我部フェス&祭りに参加して』
 
         
 
 今年も気になるあの祭り!「長宗我部フェス&祭り」に参加してまいりました。戦国絵巻を彷彿とするイベントは全国各地にあると言われますが、ファンの間でも特別だと評されるのが「長宗我部フェス&祭り」です。それはここが主宰者も出演者も見物客も本当のファンだけが集まって作る熱い篤いイベントだからです。規模や会場の広さでは宇和島の伊達武者行列の方が大掛かりなイベントでしょう。しかし、その違いはその場に足を運べば必ず伝わって来る筈です。熱い人間が更に篤く盛り上げるその情熱は、いつまでもここにいたい!来年もまたここに来たいという思いに繋がって行きます。そのような人物をいただいた土佐国は本当に幸せだと思います。そしてそのような人物は、私達の三間にもいるの です。私達も刺激を受けて熱い思いを燃やしてまいりましょう。


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見開き右のページは、五月十九日(土)に高知県南国市岡豊にある県立歴史民俗資料館で行われている「長宗我部フェス」の様子です。
朝十時から始まり、会場では各種バザー、戦国グッズ販売、戦国クイズ、チャンバラ大会、資料館では歴史講座が開催されており、最大に盛り上がるのが鉄砲隊の演技が含まれた時代劇ステージとなっています。
写真は、高知県出身の歴ドル未子さん、九州大友宗麟鉄砲隊の大倉隊長、いつもお世話になっている土佐史談の島本さんと四月から資料館勤務になられた樋口館長、下はチャンバラ大会、美濃国の岐阜県から参加された仙谷秀久武将隊の方々です。
翌日には長宗我部に滅ぼされた側の十河存保武将隊も阿波踊り披露に参加していましたが、かつての仇も今日は味方となりイベントを盛り上げる姿には心から感激した次第でした。


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 そして五月二十日(日)は、高知市長浜の若宮八幡神社にて「長宗我部祭り」が挙行されるのですが、まず感心するのは、朝十時に祭りを主宰運営する代表者が【元親初陣の像】の前に集まって、ささやかながらも厳粛に祭りの無事と発展を祈って始めるという事です。これは「長宗我部祭り」が、元親の墓所を祀って来た長浜のお祭りをベースにしているからなのですが、一人の主人公が明確に存在している祭りの凄さと素晴らしさを感じずにはおれません。又、それが郷里から愛され尊敬される長曾我部元親のスケールの大きさなのだと思います。
 ならば仇にとって不足無し!元親は領内三ヶ国の武士なれば、日本を引き請けて戦うとも、謀りを以て勝つことは軍の習い!元親の者どもが樊会を働こうとも何程の事がある。打ち破らんことは掌の内なり!と、清良公も燃えておられることでしょう。
 さて、そのような私達三間史談会においては、元親公をいつまでも宿敵とだけ考えていてはいけません。スタイルは違うし立場も考え方も違う。それは宿敵だったのですから当然です。それよりもそういう違いは違いのあるままで、宿敵のままで良いから共に検証される舞台を持つべきではないかと思うのです。三間は小さな町です。そして清良公も小身の侍でありました。しかし、その三間がなぜか決して土佐に靡く事はありませんでした。それは豊後との戦いで一族の長老達が自刃し、家の再興を託された清良公の生き様の全てでありました。清良公には既に捨てる物は何もなく、欲しい物も何もありませんでした。故に命を顧みない義を貫く為の生き方ができたのです。
 日本の各地には、その地を守り戦った恩人というべき武将が数多おられます。その土地に生まれた人は、その生き方を鑑として誇り思うでしょう。「長宗我部フェス&祭り」には、かつて宿敵だった関係を越えて縁ある武将隊が駈け付けてくれます。私達もそんな三間史談会でありたいと思います。
 
以 上 


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後の写真は、長宗我部ファンクラブ改『長宗我部会』の方から拝借させていただきました。「鯨波」とても美しくかっこ良かったです。ありがとうございました♫^_^

そして真ん中におられる長宗我部維親さま!これからもどーぞよろしうお願いいたします❤︎\(^o^)/









# by kiyoyoshinoiori | 2018-05-21 21:33 | 戦国フェス

清良記を紐解く会 May 2018


『清良記』を紐解く会より May 2018

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸


 五月を持ちまして、三間史談会主催『清良記』を紐解く会は一旦お休みとなりますが、六月〜九月の四ヶ月間は、三間公民館主催『清良記』を繙くとして継続しますので、会員は是非参加の手続きをしていただけますようにお願い致します。内容は、はじめて『清良記』を勉強するという人を想定した初心者向けの構成にしていく考えですが、十月以降も三間史談会に入会して勉強してみたいという人に出会えるかもしれません。どうぞ皆で盛り上げて行けるよう宜しくお願い致します。


□「三間町誌」を紐解く③ p.134 〜 p.163

 第二編、第七章「安土・桃山時代」は、信長の京入り(永禄十一年)から秀吉が没する(慶長三年)までの約三十年間。郷土史の勉強会では織豊時代とも表現されています。

 第一節「土居清良の活躍」で特筆すべきは、「軍制」の記事で「天正九年より、岡本城が土居の枝城となり」と『清良記』に合った記述を紹介している点です。(ただ侍十二人、足軽二十人、小人二十人については出処不明。)しかし、そこまで書きながら『三間町誌』は「岡本合戦」を天正七年の事として紹介していくのですが、そこに書かれた軍法は『清良記』にないばかりか『元親記』にさえない内容と言えるものです。つまり筆者が咀嚼して空想した作話に他なりませんが、史料の扱いとして一番してはいけない事をしてしまっています。町誌は小説や漫画ではないのです。『清良記』自体が作話ではないかという批判もありましょうが、そのまま紹介をするならまだしも内容を変えてまで紹介をする必要はありません。

 例えば土居似水が亡くなる間際に述べたとする台詞も、似水ではなく清良の台詞です。なぜ話を変える必要があるのか全く理解に苦しみます。

 又、軍法を箇条書きした次の段、岡本城は真吉新左衛門が城代として守っていたという事実誤認が起きていますが、その誤認が全く酷く現れた記事がp.208「戦略の前衛基地岡本城」です。そこには『清良記』の内容の欠片もなく、『清良記』を一度でも読んだ研究者が書いたとは思えない空想があり、大変に悔しく残念に思うのです。ある研究者は「三間町誌は町費の乱費」と批難したそうですが、そう言われても仕方がないと思います。

 『清良記』の内容が真か嘘か?史実か否か?という問題と、『清良記』に書かれてある内容を正しく伝え残す事は別問題と考えるべきであり、内容をよく吟味せず、空想やまた聞きによる内容を言い広めるような事は、今後は一切やめて行かなくてはなりません。それが『清良記』の名誉の回復に繋がる大切な事だからです。


□あとがき

 『三間町誌』の悪口ばかりになっていますが、『清良記』や三間の郷土史について勉強してみたいと思った人が、一番最初に手にする本が『三間町誌』です。もし、そこに問題があれば「なんだ!」という話になります。多くの人が気付かなくても学者や研究者には問題が分かるのです。隠しておく事はできません。ここは先に自己批判です。当事者だけができるのです。以上



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# by kiyoyoshinoiori | 2018-05-01 08:30 | 郷土史

【第三回清良記シンポジウムの報告】

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

 平成三十年三月十七日(土)、東京から二年ぶりに帰郷された土居秀夫さんと二人で伊達博物館を表敬訪問しました。

 東京で伊達宗城公が所持していたという清良記伊達本の行方を探し、写本を所蔵している国会図書館や伊達家の今戸屋敷があった台東区文化課を訪問しているという土居さんの話には、伊達博物館々長も非常に関心を示していました。

「明治天皇御歌」  伊達宗城今戸屋敷にて

  いつみても あかぬ景色ぞ隅田川

     難美路(なみじ)の花は 冬もさきつつ



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 午後一時からは松野町教育委員会主催「予土国境バスツアー」に参加。三間史談会からは、岡本副会長夫妻、松浦忠志さん、土居秀夫さん、松本の五名が馳せ参じました。

 この企画は、十八日のシンポジウムで発表される亀澤学芸員の発表内容に関する現地研修になっていましたが、松野町には清良記に三つの移動ルートが登場しており、近世の絵図から見ても地名や様子が一致しており、「本当に清良記の通りだった」との説明を聴く事ができ、一同が大変な感銘を受けました。

 ① 須山口ルート…江川崎から西ヶ方、中家路を経て上家路に侵入するルート。

 ② 葛川ルート …江川崎から広見川沿いに葛川に進入するルート。難所とされている。

 ③ 権谷ルート …江川崎から奥野川に侵入するルート。



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 十七日の夜は三間史談会・三間郷土史研究会主催の『清良記』の勉強会を開催しました。

 内容は、三月会報に掲載した「三間町誌」を紐解く①でしたが、四月会報分を先行配布させていただきました。勉強の中心となったのは、土居清行の出生地は「藤城」ではないという事。そして、土居氏根源先祖である鈴木三郎重家と河野四郎通信の関係についてでした。


 鈴木重邦―――鈴木重倫

          |――――鈴木重家・従兄

      |―親清の娘

      |

 河野親清―――河野通清―――河野通信・従弟

(二十一代) (二十二代) (二十三代)



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 さて、三月十八日(日)は午前十時から松野町教育委員会の大ホールにて【第三回清良記シンポジウム】が開催されました。

 午前は愛媛の亀澤学芸員「中世予土国境のルートと『清良記』が描く河後森城」、土居学芸員「旧地名からみた河後森城及び城下の復元」、高山学芸員「発掘調査成果からみた河後森城の特徴」の研究発表があり、午後は高知県埋蔵文化財センター松田直則氏の発表「一条氏と長宗我部氏家臣団の城郭構築技術の特徴」、高知大学人文社会科学部・津野倫明教授の講演「一条氏から長宗我部氏へ~渡川合戦の意義~」、最後に愛媛大学名誉教授の下條信行教授をコーディネーターに迎えディスカッション。会場からも意見や質問が飛び交い、盛況の内に閉会となりました。

 皆様誠にお疲れ様でした。心からありがとうございました。



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以 上

 



# by kiyoyoshinoiori | 2018-03-25 13:47 | 郷土史

 『清良記』を紐解く会(資料)

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸

☐「三間町誌」を紐解く②

 第二編「歴史」第六章「室町時代」の第三節「有馬殿」(p.108)を見ると、『清良記』と『清良記当時聞書追攷』には土居清行の出生地が「紀伊国牟婁郡藤城」として紹介されているように書かれていますが、実はどちらの史料にも「藤城」とは書かれておりません。おそらく清行の父である鈴木三郎重家が「藤白」の出身である為、牟婁郡に「藤城」という地名があると早合点したのでしょうが、「藤白」は現在の海南市であり和歌山県の北部にあって徳島県の向いに位置しており、「牟婁」は和歌山県の南部にあって三重県まで跨る地域を指します。そしてこの些細な間違いは『清良記』に疑問の眼を向ける結果を作っています。つまり、鈴木三郎重家には、重勝、重次、重義という三人の子がおり、系譜に土居清行は見当たらないという疑問です。しかし、『清良記』が書き残しているように清行の出身が藤白ではなく牟婁郡の「土居」だったという事、そして、紀州の鈴木孫市から根源を尋ねられた重宗が(清良の曾祖父)

  「水上の 濁らば末の川すすき

     清き流れにいつか澄むべき」

と詠んだという狂歌からは「ハハアなるほど」と腑に落ちる所が出て来るように思います。

 また、「伊予国河野四郎、越智通信」は同一人物を重ねて書いており伊予国主河野氏二十三代「河野四郎通信」の事ですが、河野通信と鈴木重家が従兄弟だったというのが『清良記』です。鈴木重家の母は通信の祖父「河野親清」の娘であり、確かに従兄弟だった事が証明されていますが、『清良記』に土居清行の弟が「母方の名字を取り徳能の三郎能行」と名乗ったという事は、河野から得能の祖となる通信の子「河野通俊」か、通俊が領地した西条市丹原町「徳能」に縁があるのではと思われます。

 肝心要の第六節「土居殿」では訂正が非常に多くあります。河野通信が鈴木重家の甥とあるのは従兄弟の間違い。そして、驚く事に「土居氏系譜」が二代から六代まで間違っており

 正しい系譜は、①清行→②重正→③重真→④清真→⑤清氏→⑥重氏→⑦土居備中守清時→⑧重時→⑨重明→⑩重宗→⑪清宗→⑫清貞→⑬清良、となります。

 「石城の戦い」では、清宗の入道は七十歳ではなく六十三歳。妙栄は河野の娘で、祖父が通高、父が通頼と言いますが、通頼の存在は不明。通直の祖父通直の弟通生の子に通高という人物はいますが、同一人物かは不明。清良の石城脱出は十月一日の早朝ではなく九月二十九日の夜。石城での一族自刃は十月六日ではなく十月五日の午前。酌み交わす酒などあろう筈もなく、末座より腹切り始め、主に見せ申さんとて、矢声をかけて逝きました。しかし、なぜ町誌が『清良記』の内容を変えてしまうのかについては大変致命的と言わざるを得ません。




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以 上



# by kiyoyoshinoiori | 2018-03-13 15:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん