□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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# by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

『清良記の城を歩く』-戦国時代のお城学習会ー第2回、ということで、「土居清良」の居城『大森城』に登ってきました。例によって、宇和島市内のホテルに宿泊されている「土居秀夫氏」を迎えに上がり、道中は史跡へのご案内をいたしました。




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三間の入口となる『窓峠(まどんとう)』から、『大森城址』を遠望しています。ここは「弘法大師空海」も歩かれた遍路道で、深い山の中を歩いた先に、窓が開いたように明るく広い三間平野が広がっている事から『窓』の峠と呼ばれました。また、『窓峠』は「土居清良」の支城『正徳ヶ森城址』でもあります。また、井関農機を設立した「井関国三郎氏」の地元でもあり、氏が整備したことから『井関公園』とも呼ばれています。




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三間小学校の校庭に建つ『明治百年記念碑』(昭和42年PTA建立)。「ひ」という題字は、当時愛媛県の教育委員長で、後に三間町の名誉町民となる「竹葉秀雄先生」の揮毫です。当時の今西寛一校長の趣意書によれば、『日本は「ひ」の本の国であり、男は「彦(日子)」、女は「姫(日女)」である』という竹葉秀雄先生の説かれる「ひ」の思想から選ばれた題字であるといわれます。(後ろに見えるのは、三間中学校と三間高等学校)




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『三間高等学校』にも寄りました。三間高等学校は愛媛県では唯一の「農業機械化」があります。元は井関農機設立者で第一号名誉町民となる「井関邦三郎氏」が作った農業学校でした。井関氏が様々な農業機械を研究発明してきたことから、現在も三間高等学校では、新しい農業機械が発明されています。その入口に建つ「明徳を明らかにする」の碑は、昭和42年に創立20周年記念として建てられましたが、やはり「竹葉秀雄先生」が揮毫されています。題字は中国の四書の一つ『大学』にある「大学の教えは 明徳を明らかにするにあり 至善に止まるにあり 民に親しむにあり」が出典になっており、竹葉先生の座右の銘とされています。




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竹葉秀雄先生のご自宅前にある『三間村塾之碑』。揮毫されたのは「安岡正篤氏」です。竹葉家は伊予河野氏の末裔で、江戸時代は三間郷宮野下村庄屋でした。竹葉先生は幼き日に父を日露戦争で失いますが、学問に志し、自宅を開放して、松下村塾を模範とする『三間村塾』を開かれます。私の祖父達の世代は、昼は学校で、夜は『三間村塾』で、竹葉先生から学問や武道を教わったのです。それが時の知事の目に留まり、竹葉先生は「安岡正篤氏」の『金鶏学院』に入学することになります。その『金鶏学院』で著された本の中に『土居清良』がありました。




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土居清良の本城『大森城址』は、竹葉家からほぼ真東にあります。竹葉先生は『清良記』から土居清良の生き様を多く学ばれたでありましょう。また、ある少年の日の朝、竹葉先生は『大森城址』に向かい朝日が昇るのを待っていたそうです。そうした所、日の光に全身が包まれて、大きな感激とともに強い自覚が生じたといいます。竹葉先生は「人は少年の内に、そのような感激に包まれなければいけない」といわれており、それが愛媛県が独自の事業として取り組んで来た『少年式』の原型だともいわれます。




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昨今の戦国時代ブームで、たえまなく登山者が訪れるという『大森城址』。4年前にはテレビ愛媛が取材に訪れ、私が『窓峠』を紹介し、松浦郁郎先生が『大森城址』を紹介する事もありましたが、今日は地元のケーブルテレビ局「U-CAT」が取材に来て下さっています。道なりに真っ直ぐ歩きさえすれば本丸まで辿り着く事ができますが、急勾配を歩く為、少々きついかもしれません。(所要時間はおよそ30分)




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お疲れ様でした。( ^^) _旦~~(ただいま編集中)




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参加者かおよそ75人。(ただいま編集中)




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(ただいま編集中)





以上、松本敏幸Ⓒ





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# by kiyoyoshinoiori | 2016-03-21 23:00 | 郷土史

2016.3.20(日)鬼北町近永公民館にて、主催、鬼北町・鬼北町教育委員会。共催、松野町教育委員会・宇和島市教育委員会。企画、鬼北の文化財利活用戦略会議による『第2回 清良記シンポジウム』ー鬼北地域の「城の読み方」を考えるーが開催されました。




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朝9時、宇和島市内に宿泊された「土居秀夫氏」を迎えに行き、道すがら戦国時代の古城『板島城』に登って来ました。城主は「板島志麻守」と言われますが、【清良記】では「家藤監物」が領しています。本郭に登ると分かりますが、ここからは鬼北方面の山が良く見えます。




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『上光満』にも登って来ました。近年ここは、元和元年に伊達秀宗公が五十七騎を伴って、板島へ入部したルートだったのではと関心が高まっています。地元の有力者「土居清良」は、伊達が入部するまでの領主「藤堂高虎」とも懇意であり、秀宗の入部を準備した「山家清兵衛」は間違いなく「土居清良」を訪ねたであろうと言われています。




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かつて「土居清良」が領地した『三間』の『土居中地区』から、遥かに『大森城址』を望みます。この土居中地区は、江戸時代に土居清良の末裔が土居中村庄屋となりましたが、土居家初代から数えて三十代目となる当主が、今も健在でおられます。




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『第2回 清良記シンポジウム』の会場、近永公民館へ到着。写真の紳士「土居秀夫氏」は、東京都で市民ボランティアの学芸員をされていますが、この日の為に帰郷して下さいました。




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シンポジウムで意見を求められる「松浦郁郎先生」。松浦郁郎先生は、愛媛県に2名しかいなかった農業普及委員をされていた頃、古文書であった『清良記』の翻刻、校訂を行い、自費で『清良記松浦郁郎校訂』を出版(昭和50年)されました。しかし、公務員であった松浦郁郎先生は版権を出版社に譲渡され、利益を一切受け取られませんでした。松浦郁郎先生は、まさに郷土史研究の恩人だと思います。




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今回は2回目でしたが、鬼北町は国史跡『旧等妙寺跡』、松野町は国史跡『河後森城跡』を持ち、宇和島市は今年度は『伊達秀宗公宇和島入部400年』で忙しく、この翌週からは『癒しの南予博』も始まるという多忙な中でありながら、『清良記』にかける情熱もまた一入である事を感じさせていただけました。




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そして、今回大変嬉しかったのは、凄く良い資料を作っていただけた事です。決して『清良記』に描かれている全てを網羅してある訳ではありませんが、この刺激は更なる研究意欲となって、郷土史研究を盛り上げて行く事は間違いないと思いました。




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シンポジウムの帰り道、『一の森城址』と『岡本城址』の間を走って増田地区に抜け、増田口に掛かる「三間川橋」で綺麗な夕焼けを見ました。「どこに住み、どんなに年を取ろうとも、幼き頃に見た郷土の景色が一番美しい…」と、そう思える光景でした。



以上、松本敏幸©︎




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# by kiyoyoshinoiori | 2016-03-20 23:00 | 郷土史

2016.3.19(土)宇和島市教育委員会 文化・スポーツ課 文化財保護係の主催する『清良記の城を歩く』ー戦国時代のお城学習会ー第1回目『中野殿河野氏の居城 高森城跡をあるく』に参加してまいりました。




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宇和島市三間町の兼近地区集会所の前に集合する参加者。この日、2年間メールや手紙のやり取りをしてきた、東京都にお住いの「土居秀夫氏」に、はじめてお会いする事ができました。




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高森城跡の説明をされる「武田利康先生」。武田先生は長年、高森城跡の調査を重ねて来られ、縄張りや希少植物の保護にも努められています。昨年は「高森城を愛する会」で、説明板を作られました。




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白い髭の紳士は、愛媛大学名誉教授の「下條信行先生」。愛媛県の学芸員の多くは下條先生の教え子と言われます。3月20日の『清良記シンポジウム』では、コーディネーターを務められました。




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高森城の標高は、378メートル。山頂の本丸は南北に60メートルあり、岩山を平削して、東西と北は切岸のようになっています。広い範囲を見渡せる位置にあり、戦略的に非常に重要な城であったと思われます。また、明治6年の記録で、雨乞いの祈願所であった事も分かっています。




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小生が『高森城跡登山』の記念撮影をさせていただきました。この場にいなかった方も考えると、およそ40名の方が参加した事になります。(この後、土居秀夫氏を『迫目城』『妙覚寺』『熊野権現』等へご案内しました。)




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その夜は、三間史談会主催『清良記を紐解く会』を開催し、『巻二十三』を紐解きました♫(^_−)−☆


以上、松本敏幸©︎





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# by kiyoyoshinoiori | 2016-03-19 23:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 March 2016

【西南四国歴史文化研究会】の会誌『よど第17号』に、会員の松本が、「岡本合戦の年数問題」と題した論文を寄稿しました。未発表の稿に限る為、まだ内容を伝える事はできませんが、何分言葉足らずですので、少しだけ補足の意味を込めた説明をしておきたいと思います。


□「岡本合戦の年数問題」とは?

岡本合戦の年数には諸説あり、それを「岡本合戦の年数問題」と言います。先月の会報で紹介した『愛媛県編年史』を見ていただければ、「天正七年」七つ、「天正八年」が一つ、年数なしは八つありますが、「天正九年」の『清良記』も含めて天正七年五月の括りにされています。これが「岡本合戦=天正七年」という説の根拠となっているのですが、果たしてそれで良いのか疑問です。なぜなら『愛媛県編年史』は、岡本合戦が記述された『清良記』巻二十三を、『清良記』巻二十の前に持ってくるという混乱を生じさせてしまっているからです。

そこで再検証をしてみたいと思います。まず『清良記』についてですが、その前後の記述から『清良記』の岡本合戦の年数は、発行された承応二年(一六五三)の当時から天正九年であったと考えられます。次に、発行された順に他の史料を確認したいと思いますが、寛永八年(一六三一)発行『元親記』、萬治二年(一六五九)発行『長元物語』には年数が記述されていませんでした。寛文三年(一六六三)発行の『南海通記』で天正八年、元禄十五年(一七〇二)発行の『土佐軍記』では天正七年となりますが、どちらも先の二史料を底本に編集されており、当時の記録がない為、後世に混乱があった事が分かります。

この「岡本合戦の年数問題」を解決する為に、松本が目を付けたのが「三滝合戦」です。『清良記』では「三滝合戦」は天正八年の事となっており、その後の天正九年に起きるのが岡本合戦という流れです。ところが、土佐の文書では岡本合戦が先で、三滝合戦が後の記述となっている訳なのですが、登場する土佐の軍大将【久武内蔵助】に是非注目をしていただきたいと思います。久武内蔵助は岡本合戦で討死した大将で、その後は弟が同じ名前を受け継ぎ「久武後の内蔵助」と呼ばれています。それが三滝合戦では、どう呼ばれているかが問題です。

『清良記』では兄の内蔵助である為、当然、そう呼ばれてはいません。一方、『長元物語』『南海通記』『土佐軍記』では弟の内蔵助という意味で、「後の内蔵助」と呼ばれています。ところが、それらの底本である『元親記』には「後」という記述がなかったのでした。という事は、『元親記』の記述の並びが時系列ではなかった可能性が出てきました。上中下の三巻から成る『元親記』ですが、上巻の最後に登場するのが「久武兄内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事」です。『元親記』は、これらの話を上巻の最後に持って来る事で印象を強くしたかったのかもしれません。内蔵助が有馬温泉で秀吉に出会ったという話も生前の話である為、ここにも時系列に前後が生じています。更に、中巻の最後も不思議な事に、三間での合戦と秀吉の話で終わるという並びです。三間での合戦は、天正十四年に弟内蔵助が兄の弔い合戦をするという話であり、『清良記』にも同じ話が登場します。という事は、やはり「三滝合戦→岡本合戦→弔い合戦」という流れが自然である気がします。『元親記』より後の文書は、『元親記』の記述が時系列であると誤解し、その結果、岡本合戦を天正七年とする記述が広まったのではないでしょうか。「史料にない事を一人が記せば、数人が孫引きしてこれに習う」は、近現代だけの問題ではないという事を肝に銘じたいと思います。

                  (文責/三間史談会会員 松本敏幸)


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愛媛県宇和島市三間町/土居中の清良神社にて撮影©︎





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# by kiyoyoshinoiori | 2016-03-01 00:11 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん