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 『迫目城』は、泉ヶ森の北麓に屏風を立てたように東西に細長く在る。三間町誌には「西城」「中城」「下城」からなる三連城として紹介しているが、標高は、一八九㍍、一九六㍍、一九一㍍。比高差は約三五㍍で、中程に旧庄屋岡本家が居を構えている。

 一方『清良記』にはユニークな名前と共に、この城で起きた合戦の様子が幾度が記述されているが、岡本城よりも多く登場していながら全く有名になっていない。その『迫目城』ではない、そのユニークな名前の数々を紹介しておきたい。



□『巻十一』三、豊後勢、三間へ打ち入る事

「同(永禄九年)七月二十六日に、豊後勢三分の二はかりたると聞こえしが、二万あまり板島、立間尻へ上がり、曽根、是房、無田(務田)、戸雁へ打ち出てて、深田、中野、河原渕、西の川まで放火す。城主ら一人も出でず見下ろして、二十六日までも居たり。土居、有馬は毎度むつかしきいくさする武士なればとて、古々和泉は明神山、温井右馬助は鼡の尾、赤星民部は下森に上り、面々に向城を取りて押え居たり。中にも秋月主膳は、土合という平地に陣取り居たり。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の一四九㌻下段、左から五行目に登場する、温井右馬助が陣を構えたとする「鼡(ねずみ)の尾」は、迫目城の「下城」である。それを巻十一だけで特定することは難しかったが、後に紹介する巻十九によって特定が可能となった。ここでは、豊後勢が大森城に詰める土居勢を包囲するように向城を取ったという事から、大森城を正面に見据えられる山である事。そして、後に大雨で三間川が氾濫し、明神山に布陣した古々和泉だけが孤立したという記述がある事から、三間川より南側の山という事が分かるだけであったが、「鼡の尾」という例え方は、いかにも「下城」らしい。



□『巻十九』一、山内外記武勇の事

「清良、こたびはわずらいなれば出合わられず、西園寺殿出馬ありて、迫目村中の城に本陣を置き、当番なれば中野通正、深田の城代林豊後守は下浄土の森に出陣す。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 『迫目城』が合戦場として大々的に登場するのが清良記松浦郁郎校訂の二五三㌻から始まる巻十九であるが、土佐が三間に攻め入った時に宇和の旗頭西園寺公広が本陣を置いたという「迫目村中の城」は迫目城の「中城」と見て間違いない。

 ところで、巻十九で特筆すべき事は、岡本合戦で討死した三人の大将の内の一人と言われている山内外記が、『清良記』では岡本合戦ではなく、迫目城の合戦で討死しているという事である。そして、芝一族も中野殿も土佐にはまだ内通しておらず、何より西園寺殿が自ら采配を取っている姿が、岡本合戦とは全く印象を違えている。



□『巻十九』十、土居七口の鑓、土佐方の軍大将山内外記を討つ。併、小大将古山但馬、佐川宮内を打ち取る事

「山内は、案深き敵なり。味方疲れたりといえども、今日の軍すでに五口、勝ちは八度なれば、敵はおくれ味方はきおいありしかども、このまま疲れ武者ども荒ら手の山内が勢と差し向かいて戦わば、心はたけしといえども、手足くたびれて心に任せぬことあるべし。ここにこそ謀のいるところなれ。清良案ずる行(てだて)は、先刻、土佐方を打って取り、拾いたる旗、差し物をことごとく取り持たせてさし上げ、外記が味方の勢と思わせ、彼が後ろより旗本へ押し寄せ、油断したるところを、侍も皆々鉄砲にて山内が勢を打ち立てたらんには、何の雑作もなく攻めくずすべしと思うが、面々この行(てだて)はいかにとありければ、皆、もっともときおい立ち、さらばとて人をすぐり、二百余人に西城馬爪へ土佐者の旗ささせてつかわし。清良は百余人にてこれも若藤が旗をささせ、伝久院に上がり、河添には土居の旗ささせ。ねずみの尾より蜂の巣へかかりければ、山内これに向かい、土居は小勢なり、取りこめて打ち取れと、下知(げち)す。河添、心に思いけるは、かりそめにも大将の旗を立てるは、わが冥加(みょうが)なり、少しもおくれなば、外記をば謀の勢に討ち取らるべきぞ。我こたび外記を討ち取らずんば、二度(ふたたび)弓矢を手にとるまじと、心中に誓いて出でけるは、たのもしくこそ見えにけれ。」 (清良記松浦郁郎校訂より)

 清良記松浦郁郎校訂の二六二㌻天正三年二月二十八日の暮れから始まる戦は、元親の弟親泰が指揮を執り、千余騎にて三間へ攻め入るが、迫目にて大将山内外記が討死している。二六五㌻下段の最後から、二六六㌻の始めにかけての記述には「西城馬爪」「ねずみの尾」の名前があり、更に続く「蜂の巣」の名前から、迫目城の「下城」と特定する事ができた。この名前は、「下城」の麓を流れる三間川に架かる「蜂の巣橋」として今も残っている。なぜそのような名前なのかは不明だが、『清良記』にある名前として、これからも大切にして行けたらと思う。
(写真は、三間の郷社三嶋神社から望む泉ヶ森と迫目城。)



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by kiyoyoshinoiori | 2017-08-23 18:36 | 清良記

□『清良記』を紐解く会 December 2016

『巻一』から『巻三十』までを紐解いてみると、『清良記』のメッセージは首尾一貫しています。また、『清良記』が著された動機は、『巻一』一章の最後の一節に凝縮されている事が分かります。

「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。
されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。
真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、
深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰にか見せん。
梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。
しかはあれど遼東の豕(いのこ)にやありなまし。」
(『清良記 松浦郁郎校訂』三頁)

『清良記』とは、江戸時代となり、宇和島が伊達家の治世となって三十八年が経ち、戦国時代の面影も忘れかけそうになっていた頃、三嶋神社の神主であった土居水也が、土居家の武名を後代に伝え残そうと書き上げた、戦国武将土居清良の一代記であったといえます。故に『清良記』は軍記物語であり、史実を扱うよりも、教訓としての色彩が濃く出ている事でしょう。しかし、そこには資料的価値があると言って余りある程の、生き生きとした戦国の世の息遣いが聴こえてきます。

三間史談会は、そのような『清良記』を宝とし、水也が伝え残そうとしたメッセージが何であったのかについて紐解いて行きたいと思います。

文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-12-01 16:31 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

十月二十九〜三十日『三間町産業文化まつり』が開催されました。三間史談会は「松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展」を出展。大変貴重な展示に、来場者の中には非常に強い関心を持たれる方もおられ、戦国時代の話に花が咲きました。

やはり「清良記」といえば三間町、三間町といえば「清良記」なのです。清良記を記録し保存して行く事や、清良記を紐解き語り継いで行く事は、三間の人間が責任を持って行かなければならない事だと強く感じた次第です。来年からは三間本を紐解きながら資料作りをします。ぞうぞよろしくお願い致します。


□『巻三十』最終巻(二回目)p.403〜p.417

最良記は三十巻もの大作ですが、その最後まで渾身の力が込められており、話は多岐に渡って面白く、示唆に富み、非常にメッセージ性を含んだ物語だといえます。「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と清良公が詠んだ歌は、本当は石城で自刃すべきだった筈を、土居の家督を背負い今日まで生きてきた事への感嘆を吐露したものであったのでしょう。故や、石城の土居一族の自刃は、主人を変えて生き延びる事を恥として、名誉の死を選び、清良をして再興を託した上での事でした。巻三十には丸串城代(現宇和島城)への仕官の誘いを断るというエピソードがありますが、それは騙し討ちを恐れたからではなく、土居家の生き方や清良公が今日まで生きて来た理由とは掛け離れたものであったからだという理解をしていただければと思います。


文責/三間史談会 松 本 敏



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by kiyoyoshinoiori | 2016-11-01 21:30 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より October 2016

 清良記の紐解きを始めて早や四年、遂に最終巻となり感無量に思います。思えば【清良記を紐解く会】は、松浦郁郎先生がテレビに出演されたことから始まりました。それが平成二十五年の三月二十三日(三間町では三嶋神社の春祭りの日)、テレビ愛媛の「ふるさと絶賛バラエティー・い~よ!」でした。そして、振り返ってみれば、清良公の土佐落ちの道を訪ねる研修、岡本城登山、長宗我部まつり、今年の宇和島市役所ロビー展と沢山の思い出ができました。これも全ては、松浦郁郎先生がご苦労をされて『清良記松浦郁郎校訂』を出版して下さったお陰です。そして、いつも盛り上げて下さる皆様には、本当に感謝致します。是からこの勉強会は、宇和島市指定有形文化財である古文書の『清良記三間土居本』の紐解きにも入って行く計画となっていますが、今後ともよろしくお願いします。


□『巻二十九』余韻

 先月、二十四日は『巻二十九』を紐解きましたが、供養の丸における佐兵衛と円長坊との壮絶な殺し合い、小早川の養子となっていた元隆の自刃は、『清良記』のラスト間際に暗い影を落としています。しかし、私はこのストーリーに何か含みがありはしないかと感じられて仕方がありません。対立関係にある者の讒言によって大老が上意討ちされてしまうとは、どうしても和霊騒動を彷彿とさせられてしまうのです。また、元隆は本当に小早川の養子となり安芸で亡くなったのか謎が深まります。


□『巻三十』(最終巻)p.403~p.417

 平成二十五年五月二十八日から始まった紐解きも、いよいよ最後の巻ですが、急ぐことはありませんので、今月から年の瀬にかけてじっくりと紐解いてみたいと思います。巻三十は、巻二十九の九章「四国ことごとく京家になる事」から太閤秀吉の四国征伐後の情勢となります。『清良記』には

 「そむくべき 代をし我から そむき来て
   そむかれけりな 時や来ぬらん」と詠みて、

竹ある岸の下水いさぎよく流れける方に、昔もかかることのありけん、その名を【かくれ宿】という所に、細々と清良公の足跡を伝えています。また、巻三十には等妙寺や仏木寺の縁起、また三嶋神社の楠の云われについても述べてあり興味を引きます。その後、『清良記』は清良の庵室【かくれ宿】で、立ちつ座りつ軍物語をされる清良の姿を描いて終わりとなります。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-10-01 07:00 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より September 2016

 九月十二日~十六日の五日間、宇和島市役所一階ロビーにて特別展示会『松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展』を開催する運びとなりました。清良記抄(きよよしきしょう)は、昭和四十八年元日~昭和四十九年九月二十一日に渡り、新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身)で連載されたコラムですが、松浦郁郎氏所蔵の写本を利用し、昭和五十年発行となる『清良記松浦郁郎校訂』よりも早く世に出された大変稀有な連載だったといえます。
 また、連載の「はじめに」を読んで分かった事は、その写本は、松浦氏が恩師清水岩蔵氏の書写した高串本を複写した物であったこtが分かりました。『清良記松浦郁郎校訂』の作業には、清良記の三間本を高串本で校訂していくという気が遠くなるような作業があった訳ですが、三間本は三間本だけ、高串本は高串本だけで翻刻し発行すべきだったと批判する学者もいたといいます。そのような意味でも清良記抄は、高串本だけを原稿にした稀有な資料といえるでしょう。
 更に、清良記抄の写真を見ていると、『清良記松浦郁郎校訂』の挿絵に使われている三輪田俊助画と瓜二つの写真があるではありませんか。挿絵は、三輪田画伯から松浦氏に無償で提供されたときいていましたが、清良記抄の写真がモチーフになっており、もし清良記の連載がなかったら、三輪田画伯の挿絵も存在していなかったのではないかと思わされ、清良記抄が本当に稀有な存在である事を感じた次第でs。故に、九月の展示会は、今は亡き恩師の清水岩蔵先生、三輪田俊助画伯、そして、新愛媛新聞社に捧げたいと思います。


□『巻二十九』を紐解く(清良記・p.390~p.402)

 さて、三間史談会主催『清良記』を紐解く会では、毎月三間公民館にて、清良記の勉強会をしています。九月は二十四日に『巻二十九』を紐解きます。そして、ここにきて登場するのが清良の嫡子太郎重清です。「壬申年にて、今年十五歳」とあり、元亀三年(一五七二)生まれであった事、承応三年(一六五四)に亡くなったという清良記の著者水也と、同年代であった事などが分かります。元亀三年の当時、清良二十七歳。真吉新左衛門は十四歳。水也が真吉新左衛門と同一人物という説もありますが、少し無理があるように思います。土居清良の被官であり、三嶋神社の神官であったという水也が誰なのか。土居家被官の内情を記録した『巻二十九』にその正体を知る糸口があるのか。一文一文を噛み締めながら紐解いてみたいと思います。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-09-01 06:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 July 2016

梅雨も明けたのではないかと見間違ってしまうような晴天の七月三日、西予市城川町土居地区で行われた奇祭「どろんこ祭り」に行ってきました。明治十四年頃より行われるようになったという「どろんこ祭り」は、三間を発祥とする遊興だったともいわれています。三間の三嶋神社の松浦宮司の話では、参道の東に神田があったと言うのですが、現在では見る影もありません。西予市城川町土居地区の三嶋神社では、これからもどうか大切に継承して行って欲しいと思いました。

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□『巻二十七』を紐解く p.364〜p.376

平成二十五年五月からスタートした【清良記を紐解く会】も後四巻を残すのみとなって参りました。天正十二年二月から始まる巻二十七では、織田信長の死後、勢を取り戻した長宗我部元親の元に、芝美作や魚成対馬ら辺境の武将が再び寝返って行きます。何はともあれ、元親の四国統一→豊臣秀吉の四国征伐→豊臣権勢の元で下城し帰農して行くまでの、『清良記』大詰めの物語となって行きます。

一章、土居との確執もなくなった西園寺殿は大森城へ清良を訪ね、いつにない覚悟を持って深田上城に陣を配置。土居、山田、久枝は尾坂五本松に出張して、尾坂より沢松口の柏田に柵を巡らせますが、まさしくここが土佐との戦の最前線であったと言えます。三章より始まる合戦の最中には、土居の軍師桜井武蔵を始め、善家六郎兵衛ら重鎮らが討死。かなわじと思いてもなお突いて掛かる土居の侍達。その駆け引きの妙に、勧修寺より来た加勢の侍も驚嘆したといいます。

また、巻二十七で特筆しておきたい事は、四章から六章に登場する松浦宗案に纏わる話です。松浦宗案を、実際には存在しない架空の人物と言い広める人もいるようですが、それは『清良記』全てを作り話と言っているに等しく、どのように読んでもそこまで言える確かな証拠は見られないという事を訴えておきたいと思います。この問題については、松浦郁郎先生に改めて講義をお願いしたいと思っているような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


「以上は、7月に使用した『清良記を紐解く会』のテキストです。勉強会の中では、松浦郁郎先生に松浦宗案に纏わる話をしていただいたり、東京都あきる野市の土居秀夫氏から届いた手紙を紹介しました。また、今回は特別に『清良記』の挿絵として使われた、故三輪田俊助氏の原画を初公開していただく事ができました。この原画はデジタル化し、9月には宇和島市役所のロビー展で展示したいと考えています。」


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撮影者:松本敏幸©︎
撮影地:愛媛県宇和島市三間町宮野下(三間公民館)
撮影日:2016.7.16(土)
*この記事の文章、及び画像は著作権を放棄していません。



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by kiyoyoshinoiori | 2016-07-16 23:02 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より June 2016

晴天に恵まれて、五月十四日は、高知県南国市の【岡豊城址】で行われた「第七回長宗我部フェス」、十五日は、高知市長浜の若宮八幡で行われた「第五回長宗我部まつり」に参加してきました。片道三時間半を二日往復しましたが、それだけの甲斐がある郷土愛に満ちた催しでした。

「長宗我部フェス&まつり」は元親を始めとする長宗我部氏を盛り上げる町興しイベントですが、伊予国宇和郡の攻められた側としては「ぎょっ」と思われる方もいらっしゃる事と思います。しかし、高知県に足を運んでみれば、本当に慕われて誇りに思われており、かつては命を取り合った関係も、これからは共に高め合って行く事が必要ではないかと思わされました。

「あらま欲しきは師友の縁。」人が生きて行く上で大切な事は、いかに尊敬できる師や友と出逢えるかだと言われますが、今回の高知県行きでは【中島重勝氏】と出逢い、本当に良くしていただきました。中島氏は「土佐史談」の会員で、『土佐物語』の現代語訳をされたり、子供達にも分かりやすい絵本や紙芝居で郷土の偉人を紹介する活動をされています。また、スタッフの交流会にも招いて下さり、「高知県でも『清良記』の勉強をしよう」と言って下さって、本当に感動的な出逢いとなりました。


□『巻二十六』を紐解く p.354〜p.363

『清良記』が著された承応二年(一六五三)は、伊達の治世となって三十九年目。藩主が二代宗利となり、和霊神社が正式な神社として登録された頃、三間の三嶋神社神主であった著者【土居水也】が有していた情報と認識は、間違いが含まれるにせよ、当時を知る上で非常に貴重な文書と言わざるを得ません。

巻二十六の一章は、元親と信長の関係について言及しています。ここで注目しておきたいのは、「天正九年辛巳の夏の末より三好松岸と弓矢取りはじめけり」の一文と、天正十一年二月二日の記録に「去々年、元親が侍あまた清良に打たれて以後は、当国への手遣いもならず手懲りしてありしに」とある一文です。これによっても、岡本合戦が天正九年であった事、三滝合戦の後に岡本合戦が起きた事などが分かります。

さて、またユニークなのは三章から始まる「夫婦のたとえ」です。西園寺公広卿の姉にせがまれて、土居蔵人が話をしますが、夫婦は「味噌と塩」のような関係で、塩がなくては味噌の味は調わないが、塩も過ぎれば辛くなる。それはまた、君と臣の関係にも通じていると、面白おかしく物語が進んで行きます。このようなたとえ話は、当時の知恵を知るに止まらず、本当に現代に於いても役に立つ知識であり、まさに『温故知新』と合点してしまったような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸 ©︎




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写真は、五月十五日「第五回長宗我部まつり」にて撮影。




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by kiyoyoshinoiori | 2016-06-17 23:00 | 郷土史

「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

『清良記の城を歩く』-戦国時代のお城学習会ー第2回、ということで、「土居清良」の居城『大森城』に登ってきました。例によって、宇和島市内のホテルに宿泊されている「土居秀夫氏」を迎えに上がり、道中は史跡へのご案内をいたしました。




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三間の入口となる『窓峠(まどんとう)』から、『大森城址』を遠望しています。ここは「弘法大師空海」も歩かれた遍路道で、深い山の中を歩いた先に、窓が開いたように明るく広い三間平野が広がっている事から『窓』の峠と呼ばれました。また、『窓峠』は「土居清良」の支城『正徳ヶ森城址』でもあります。また、井関農機を設立した「井関国三郎氏」の地元でもあり、氏が整備したことから『井関公園』とも呼ばれています。




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三間小学校の校庭に建つ『明治百年記念碑』(昭和42年PTA建立)。「ひ」という題字は、当時愛媛県の教育委員長で、後に三間町の名誉町民となる「竹葉秀雄先生」の揮毫です。当時の今西寛一校長の趣意書によれば、『日本は「ひ」の本の国であり、男は「彦(日子)」、女は「姫(日女)」である』という竹葉秀雄先生の説かれる「ひ」の思想から選ばれた題字であるといわれます。(後ろに見えるのは、三間中学校と三間高等学校)




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『三間高等学校』にも寄りました。三間高等学校は愛媛県では唯一の「農業機械化」があります。元は井関農機設立者で第一号名誉町民となる「井関邦三郎氏」が作った農業学校でした。井関氏が様々な農業機械を研究発明してきたことから、現在も三間高等学校では、新しい農業機械が発明されています。その入口に建つ「明徳を明らかにする」の碑は、昭和42年に創立20周年記念として建てられましたが、やはり「竹葉秀雄先生」が揮毫されています。題字は中国の四書の一つ『大学』にある「大学の教えは 明徳を明らかにするにあり 至善に止まるにあり 民に親しむにあり」が出典になっており、竹葉先生の座右の銘とされています。




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竹葉秀雄先生のご自宅前にある『三間村塾之碑』。揮毫されたのは「安岡正篤氏」です。竹葉家は伊予河野氏の末裔で、江戸時代は三間郷宮野下村庄屋でした。竹葉先生は幼き日に父を日露戦争で失いますが、学問に志し、自宅を開放して、松下村塾を模範とする『三間村塾』を開かれます。私の祖父達の世代は、昼は学校で、夜は『三間村塾』で、竹葉先生から学問や武道を教わったのです。それが時の知事の目に留まり、竹葉先生は「安岡正篤氏」の『金鶏学院』に入学することになります。その『金鶏学院』で著された本の中に『土居清良』がありました。




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土居清良の本城『大森城址』は、竹葉家からほぼ真東にあります。竹葉先生は『清良記』から土居清良の生き様を多く学ばれたでありましょう。また、ある少年の日の朝、竹葉先生は『大森城址』に向かい朝日が昇るのを待っていたそうです。そうした所、日の光に全身が包まれて、大きな感激とともに強い自覚が生じたといいます。竹葉先生は「人は少年の内に、そのような感激に包まれなければいけない」といわれており、それが愛媛県が独自の事業として取り組んで来た『少年式』の原型だともいわれます。




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昨今の戦国時代ブームで、たえまなく登山者が訪れるという『大森城址』。4年前にはテレビ愛媛が取材に訪れ、私が『窓峠』を紹介し、松浦郁郎先生が『大森城址』を紹介する事もありましたが、今日は地元のケーブルテレビ局「U-CAT」が取材に来て下さっています。道なりに真っ直ぐ歩きさえすれば本丸まで辿り着く事ができますが、急勾配を歩く為、少々きついかもしれません。(所要時間はおよそ30分)




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お疲れ様でした。( ^^) _旦~~(ただいま編集中)




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参加者かおよそ75人。(ただいま編集中)




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(ただいま編集中)





以上、松本敏幸Ⓒ





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-21 23:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん