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2016.3.20(日)鬼北町近永公民館にて、主催、鬼北町・鬼北町教育委員会。共催、松野町教育委員会・宇和島市教育委員会。企画、鬼北の文化財利活用戦略会議による『第2回 清良記シンポジウム』ー鬼北地域の「城の読み方」を考えるーが開催されました。




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朝9時、宇和島市内に宿泊された「土居秀夫氏」を迎えに行き、道すがら戦国時代の古城『板島城』に登って来ました。城主は「板島志麻守」と言われますが、【清良記】では「家藤監物」が領しています。本郭に登ると分かりますが、ここからは鬼北方面の山が良く見えます。




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『上光満』にも登って来ました。近年ここは、元和元年に伊達秀宗公が五十七騎を伴って、板島へ入部したルートだったのではと関心が高まっています。地元の有力者「土居清良」は、伊達が入部するまでの領主「藤堂高虎」とも懇意であり、秀宗の入部を準備した「山家清兵衛」は間違いなく「土居清良」を訪ねたであろうと言われています。




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かつて「土居清良」が領地した『三間』の『土居中地区』から、遥かに『大森城址』を望みます。この土居中地区は、江戸時代に土居清良の末裔が土居中村庄屋となりましたが、土居家初代から数えて三十代目となる当主が、今も健在でおられます。




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『第2回 清良記シンポジウム』の会場、近永公民館へ到着。写真の紳士「土居秀夫氏」は、東京都で市民ボランティアの学芸員をされていますが、この日の為に帰郷して下さいました。




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シンポジウムで意見を求められる「松浦郁郎先生」。松浦郁郎先生は、愛媛県に2名しかいなかった農業普及委員をされていた頃、古文書であった『清良記』の翻刻、校訂を行い、自費で『清良記松浦郁郎校訂』を出版(昭和50年)されました。しかし、公務員であった松浦郁郎先生は版権を出版社に譲渡され、利益を一切受け取られませんでした。松浦郁郎先生は、まさに郷土史研究の恩人だと思います。




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今回は2回目でしたが、鬼北町は国史跡『旧等妙寺跡』、松野町は国史跡『河後森城跡』を持ち、宇和島市は今年度は『伊達秀宗公宇和島入部400年』で忙しく、この翌週からは『癒しの南予博』も始まるという多忙な中でありながら、『清良記』にかける情熱もまた一入である事を感じさせていただけました。




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そして、今回大変嬉しかったのは、凄く良い資料を作っていただけた事です。決して『清良記』に描かれている全てを網羅してある訳ではありませんが、この刺激は更なる研究意欲となって、郷土史研究を盛り上げて行く事は間違いないと思いました。




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シンポジウムの帰り道、『一の森城址』と『岡本城址』の間を走って増田地区に抜け、増田口に掛かる「三間川橋」で綺麗な夕焼けを見ました。「どこに住み、どんなに年を取ろうとも、幼き頃に見た郷土の景色が一番美しい…」と、そう思える光景でした。



以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-20 23:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 March 2016

【西南四国歴史文化研究会】の会誌『よど第17号』に、会員の松本が、「岡本合戦の年数問題」と題した論文を寄稿しました。未発表の稿に限る為、まだ内容を伝える事はできませんが、何分言葉足らずですので、少しだけ補足の意味を込めた説明をしておきたいと思います。


□「岡本合戦の年数問題」とは?

岡本合戦の年数には諸説あり、それを「岡本合戦の年数問題」と言います。先月の会報で紹介した『愛媛県編年史』を見ていただければ、「天正七年」七つ、「天正八年」が一つ、年数なしは八つありますが、「天正九年」の『清良記』も含めて天正七年五月の括りにされています。これが「岡本合戦=天正七年」という説の根拠となっているのですが、果たしてそれで良いのか疑問です。なぜなら『愛媛県編年史』は、岡本合戦が記述された『清良記』巻二十三を、『清良記』巻二十の前に持ってくるという混乱を生じさせてしまっているからです。

そこで再検証をしてみたいと思います。まず『清良記』についてですが、その前後の記述から『清良記』の岡本合戦の年数は、発行された承応二年(一六五三)の当時から天正九年であったと考えられます。次に、発行された順に他の史料を確認したいと思いますが、寛永八年(一六三一)発行『元親記』、萬治二年(一六五九)発行『長元物語』には年数が記述されていませんでした。寛文三年(一六六三)発行の『南海通記』で天正八年、元禄十五年(一七〇二)発行の『土佐軍記』では天正七年となりますが、どちらも先の二史料を底本に編集されており、当時の記録がない為、後世に混乱があった事が分かります。

この「岡本合戦の年数問題」を解決する為に、松本が目を付けたのが「三滝合戦」です。『清良記』では「三滝合戦」は天正八年の事となっており、その後の天正九年に起きるのが岡本合戦という流れです。ところが、土佐の文書では岡本合戦が先で、三滝合戦が後の記述となっている訳なのですが、登場する土佐の軍大将【久武内蔵助】に是非注目をしていただきたいと思います。久武内蔵助は岡本合戦で討死した大将で、その後は弟が同じ名前を受け継ぎ「久武後の内蔵助」と呼ばれています。それが三滝合戦では、どう呼ばれているかが問題です。

『清良記』では兄の内蔵助である為、当然、そう呼ばれてはいません。一方、『長元物語』『南海通記』『土佐軍記』では弟の内蔵助という意味で、「後の内蔵助」と呼ばれています。ところが、それらの底本である『元親記』には「後」という記述がなかったのでした。という事は、『元親記』の記述の並びが時系列ではなかった可能性が出てきました。上中下の三巻から成る『元親記』ですが、上巻の最後に登場するのが「久武兄内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事」です。『元親記』は、これらの話を上巻の最後に持って来る事で印象を強くしたかったのかもしれません。内蔵助が有馬温泉で秀吉に出会ったという話も生前の話である為、ここにも時系列に前後が生じています。更に、中巻の最後も不思議な事に、三間での合戦と秀吉の話で終わるという並びです。三間での合戦は、天正十四年に弟内蔵助が兄の弔い合戦をするという話であり、『清良記』にも同じ話が登場します。という事は、やはり「三滝合戦→岡本合戦→弔い合戦」という流れが自然である気がします。『元親記』より後の文書は、『元親記』の記述が時系列であると誤解し、その結果、岡本合戦を天正七年とする記述が広まったのではないでしょうか。「史料にない事を一人が記せば、数人が孫引きしてこれに習う」は、近現代だけの問題ではないという事を肝に銘じたいと思います。

                  (文責/三間史談会会員 松本敏幸)


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愛媛県宇和島市三間町/土居中の清良神社にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-01 00:11 | 郷土史

実は、高森城に登った翌日、迫目にある【迫目城】に登っておりました。迫目城は、土佐の一條兼定が、三間攻めをした時に、陣を張った城として【清良記】に登場します。*\(^o^)/*


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愛媛県宇和島市三間町の迫目地区にある【迫目城】は、『西城』『中城』『下城』からなる三連城。泉が森の北麓に位置し、さながら屏風のように見えます。


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迫目城の中ほどに見える白壁の長屋は、迫目の旧庄屋岡本家。三間河野家の末裔とも言われ、屋根瓦には、【隅切折敷縮三文字】の家紋も見えます。この裏山の頂が『中の城』であろうと思っていましたが、アンテナの立つ頂が【天守】と呼ばれているとの情報を入手しました。


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岡本家の裏山すぐ隣に立つアンテナ。その麓にお住いの赤松家ご主人から、「アンテナの立つ頂を天守(てんす)と呼んでいる」と教えていただきました。


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そのまた隣、元町長をされていた赤松家の横から真っ直ぐに伸びる山道。ここから右が『下城』になります。『下城』は、【清良記】では『鼡(ねずみ)の尾』と呼ばれています。


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山道は堀切のようにも見えます。尾根の手前ひ『中の城』に向かって登る道があり、その先に五輪塔を納めた祠と金毘羅社がお祭りされていました。


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赤い建物が金毘羅社。赤松元町長の息子さんから教えていただき、お参りしてきました。


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反対側に下ると、三間川が流れており、『蜂の巣橋』が架かっています。『蜂の巣』という地名は【清良記】にも登場しており、『鼡の尾』が『下城』である事を特定する決め手どなりました。


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『蜂の巣』から臨む土居清良の本城【大森城】。護岸が整備されるようになるまでは、大雨が降ると、【大森城】と【迫目城】の間は広い沼のようになったと言われます。


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場所は変わりまして、こちらの堀切は、『西城』と『中の城』の間にある山道です。『西城』は、【清良記】では『馬爪』と呼ばれていますが、丸い形の『西城』を馬の蹄に見立てての事なのだろうと思います。


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『西城』の頂は真ん丸くなっており、豊後石で造られたという小さな祠が祭られています。祠は『十二社さま』とも『きゅうねんさん』とも言われ、【迫目城】に家のある麓組の人達は、4月8日にお祭りをしています。『十二社』は熊野系のお社。『きゅうねんさん』は、貴船社の事で、もとは川の近くの山水が湧く場所にあったそうです。


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元々土居清良の廟は、江戸中期まで迫目地区の妙覚寺にあり、土居の先祖が熊野から来た事もあって、迫目地区には熊野権現や大刀自神社も祭られています。【清良記シンポジウム】で、3月19日の「高森城登山」の後には、有志を「岡本城」ど「迫目城」にも案内しますので、奮ってご参加ください。


追伸。お話をお伺いした、岡本様、赤松様、赤松様、二宮様、その節は誠にありがとうございました。


以上、松本敏幸©︎


愛媛県宇和島市三間町/迫目地区の迫目城址にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-28 23:02 | 古城

地元(愛媛県宇和島市三間町)の兼近地区にある、【高森城址】に登って来ました。


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【高森城】は、『清良記』に登場する三間河野家の居城。城主は、中野殿と呼ばれる河野通賢でした。


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昨年、立派な案内板が立てられました。製作したのは【高森城を愛する会】です。


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三角に尖った本郭に、四方には長く伸びた支脈が幾つもあり、三間では最大規模の古城と言われています。


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本郭の周囲には巨大な岩肌が露出しており、白い笠をかぶっているような姿から、【衣笠(きぬかさ)城】の異名も持っています。


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本郭は広く開けており、標高は378mあります。(右奥の土塁が三角点のある頂上。)


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西北西の方角に見えるのは、三間町の二名小学校。その向こうに【岡本城址】と【大森城址】も見えます。


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南南東の方角に見えるのは、鬼北町の沢松地区と深田地区。左に【竹ヶ森城址】と【薄木城址】が並んでいます。


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真北の方角にあるのが、音地、黒川、中間、の告森三地区。右手前に見えるのが【告森城址】です。


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今年、平成28年3月には【第2回清良記シンポジウム】が開催される事になっており、【高森城址】は19日に登山が予定されています。案内人は、三間町大内の武田利康先生です。是非、振るってご参加ください!\(^o^)/


愛媛県宇和島市三間町/兼近地区の高森城址にて撮影©︎


以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-27 19:19 | 古城

2月20日(土)の今夜は、三間公民館で『清良記』を紐解く会を行いました。内容は愈々、巻二十三「岡本合戦之事」に入っていきますが、前段階として【愛媛県編年史】に紹介されている『清良記』以外の文書(もんじょ)の内容を紹介しました。また、松浦郁郎先生が「新愛媛新聞」(昭和48年1月1日から昭和49年9月21日)に掲載されていたという、大変貴重な『清良記』のコラムを持って来て下さり拝見させていただきました。


以上、松本敏幸©︎


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愛媛県宇和島市三間町/三間公民館にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-20 23:17 | 郷土史
※『清良記』は、軍記物語である為に史料としての価値を損ねており、鵜呑みにできないという批判があります。しかし、それは『清良記』に限ったことではありません。今回は、岡本合戦の年数をテーマに『愛媛県編年史』に紹介されている文書を批判してみたいと思います。


□『愛媛県編年史・第五篇』(p.65~p.80)より抜粋

1.『予陽河野家譜』
同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
天正七年五月廿八日 緒方与次兵衛殿

3.『高串土居家文書①』
今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
六月三日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

4.『高串土居家文書②』
去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
七月廿日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

5.『河野系図』
天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

6.『元親記』
久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

7.『長元物語』
宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

8.『南海通記』
天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

9.『土佐軍記』
天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

10.『土佐国編年紀事略』
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
三月十八日 (法花津)前延(花押)
進上 三善治部少輔殿

13.『宇和郡往昔城主記事』
一岡本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

14.『吉田古記』
一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
二月八日 御判
土居式部太輔との

15.『伊予二名集』
天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

16.『愛媛面影』
岡本城墟 古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


□『愛媛県編年史』について

 『愛媛県編年史』は、昭和四十四年に愛媛県から発行されました。時の知事は久松定武氏。久松氏は久松県政五期の内三期(十二年)県の教育委員長に三間の竹葉秀雄氏を抜擢しており、久松氏は竹葉氏から『清良記』について影響を受けただろう事が推測できます。『愛媛県編年史』を開くと、巻頭には『清良記』を紹介する文と写真があり、もしかすると次の知事、白石春樹氏が松浦郁郎先生から『清良記』の講義を熱心に聞かれたという話も、昭和五十九年に『愛媛県史』を発行していく上で、『愛媛県編年史』を読まれて影響を受けていたからではないかと想像を逞しくします。
 では、愈々、その内容について考察してみたいと思いますが、まず、抜粋しているのは第五篇のp.65~p.80「天正七年五月」とされた中で、【岡本合戦】に関係する文書だけとしました。(ただし、『清良記』だけは割愛しています。)まず疑問に思うのは、「文書には天正八年も天正九年もあり、月は二月もあるのに、どうして天正七年五月の括りにされたのか?」という事ですが、天正七年と書かれた文書が若干多いというだけの事のように思います。しかし、文書は全てが同等だと考えるべきではありません。一人の人が天正七年と書き、それを写した人が多かっただけとすれば天正七年が多くなるのは当然です。実際『清良記』にも多くの写本がありますが、それらは全てを合わせて一つとされている事からも分かると思います。つまり、文書の情報がオリジナルではなく、人から聴いたとか、何かの文書を見て写したという物を当てにしなければ、情報源は当事者に限られて来る訳です。ならば、まず先に紹介されている『予陽河野家譜』を書いた人物が【岡本合戦】の当事者といえるでしょうか。また、土佐方の文書で先に書かれている『元親記』、次に書かれている『長元物語』ではどうでしょうか。それらは読んで一目瞭然、全て当事者ではなく、人から得た情報を元にして纏められた文書なのです。ここにおいて、当事者の目線で書かれた文書は『清良記』しかないという事が分かるに至ったのでした。「『清良記』が軍記物語である為に、史料的価値を損ねており、そのまま鵜呑みにできない」という事が本当だとしても、この事実だけは認めるべきであろうと思います。
 さて、具体的な解説ですが、最も古い時期に【岡本合戦】を記した『元親記』は長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に正重ともいう高島孫右衛門尉重漸という者によって著され、次に古い『長元物語』は、二十八年後の萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されたと言われます。しかし、二つの史料には年数がなく、【岡本合戦】が正確に記録されていなかった事が分かります。そして、『長元物語』には、『元親記』になかった竹内舅聟の悲話が盛り込まれており疑問が膨らみます。『南海通記』は寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され、ここにおいて「天正八年」という年数が登場します。内容は『長元物語』とほぼ一緒です。『土佐軍記』は『四国軍記』とも言い、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされたと言われていますが著者は不明。年数は変わり「天正七年二月」となります。そして、土佐の侍と中間の人数が倍になる等、内容に若干の誇張が見られます。
 ここでまた『伊豫史談』で久延彦氏が天正七年説の根拠として上げた三つの文書についてもふれておきたいと思います。まず『緒方家文書』ですが、河野通賢を中野通正としていたり「西」の名前が登場する等、『清良記』の影響を感じる他、非常に不自然な文書です。また、『音地松本家文書』は、『予陽河野家譜』や『伊予二名集』と内容がほぼ同じであり、情報の出処が土佐の史料にあることは言わずもがな。また、『土佐国編年記事略』に見る天正八年の『竜沢俊派文書』に至っては、なんら【岡本合戦】の天正七年説を裏付ける物ではありません。


 今回は少し難しい話になったかもしれませんが、歴史の細事は、一つを正として残りを誤りと決め付けないのが良いのではないかと感じています。ここでは決して天正九年説を正と主張しているのではありません。天正七年説を正として『清良記』を誤りと決め付けて来た、これまでの郷土史学習の姿勢に対して「そんな事ではいけないのではないですか?」と問題提起をしているのです。


                     文責/三間史談会会員松本敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-01 01:02 | 郷土史

□『巻二十二』後半p.310~p.315

 さて、一月は昨年残した『巻二十二』の続きを紐解きたいと思います。西園寺を旗頭とする南予の領主達の婚姻関係を理解する上で大変良い史料となっている『巻二十二』ですが、清良は中野との縁組を頑なに拒んでいました。その訳は既に承知の事と思います。そして起こる八章の【三滝城】の合戦。【北の川物語】とも言われる章が含まれているのは貴重なことで、【岡本合戦】より前の合戦とされている事が分かりますが、【岡本合戦】を考える上でも非常に重要な史料と言えます。つまり、【三滝城】の合戦は、土佐が宇和を侵略して行く過程の合戦であり、その侵略を頓挫させる事になるのが【岡本合戦】という流れです。故に、もし【岡本合戦】の天正七年説が正しいとすれば【三滝合戦】は天正六年が七年でなければならない筈です。しかし、通説では天正八年(もしくは天正十一年)とされており、天正八年の事とする『清良記』の記録の方が符合しているように思われます。これは【岡本合戦】の天正九年説を裏付ける一つの史料になるものではないかと思います。


□『巻二十三』p.316~p.334

 『巻二十三』は二月から紐解きますが、先行して解説しておきたいと思います。【岡本合戦】で有名な『巻二十三』ですが、『清良記』では土佐の侍が侵入した岡本城本丸を奪還する一章だけを【岡本合戦】としており、二章からは【橘合戦】となります。そして【橘合戦】は長編の章になっており、その場に居合わせた者にしか分からないような細かな息遣いまでが記録されている力の入れようです。まさしく【橘合戦】こそが、土居の侍が最も誇りたい合戦であったのでしょう。そして、章を変えて三章に【框越合戦】。ここでは大叔父の土居似水を失っており、大きな痛手を被っていますが、土居以外の領主が誰も加勢に駆け付けなかったのは情けない事と、能寿寺の僧であった薫蔵主の口を通して語らせています。また注目すべきは四章です。ここではもう一度、薫蔵主の目から見た【岡本合戦】を描いており、なんと『巻二十三』には二つの【岡本合戦】の物語が記録されていたのでした。そのお陰で、『清良記』では合戦を多角的に理解する事ができるのです。そして、五章では西園寺公が迫目妙覚寺に来られ、軍評定となります。

  『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく
  静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大
  功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ
  のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ
  加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど
  もなり。』

 このように【岡本合戦】を契機とし、天正九年六月より新しく土居領となったのが【堂ヶ内村】(後の土居垣内村)であったという事が分かります。天和元年に編纂された『吉田古記』では既に【土居垣内村】となっていますが、河野領であった【堂ヶ内】が【土居垣内】となったのは土居領になってからの事であろうと思われます。また、【岡本城址】と【八幡神社】が【古藤田村分】に記録されている事から、「まさか土居垣内は古藤田から分かれたのではあるまいか。」という疑問も浮かんで来るのです。このように【岡本合戦】は一つの村の誕生にまで関わっている出来事であり、当事者の多くいる土居が年数を勘違いするという事は少し考えにくいのではないかという気がします。

□おしらせ
 今年三月は『第二回清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。主催は、宇和島市、鬼北町、松野町の三市町合同による主催。会場は近永公民館となります。ぜひ参加して盛り上げましょう。
                    文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-01-16 14:54 | 郷土史


□『清良記を紐解く会』November.2015


 いよいよ今年のラストスパートは、巻二十三に向けての準備作業です。前回の続き、巻二十の後半から巻二十二には、天正七年から天正九年に掛けての出来事が事細かく述べてあり、『清良記』における【岡本合戦】は、天正九年以外に考えられない事となっています。そこで、十一月は、巻二十の後半から巻二十二をひとまとめにし、【岡本合戦】を検証する特別講義をしてみたいと思います。



□『巻二十』の後半p.279~p.291


 さて、十一章「向山、謀叛の事」では、土佐に内通した向山下野を西園寺殿が咎められず、天正七年には下浄土城に帰城させたと述べられていますが、それまでに、長宗我部と土居の手合わせは十度以上、せり合いは二十四度あり、その内総大将を討取ったのは、天正三年二月の外記と丹後の二度であったとも述べられています。つまり、この記事は天正三年から七年の出来事を振り返っている訳ですが、天正七年に【岡本合戦】が起こったような雰囲気は感じられません。


十二章「元親うわさの事」では、元親の次男五郎次郎が香川氏の養子になる話が紹介されていますが、五郎次郎とは香川親和の事で、天正六年の出来事と思われます。その後の記述は、天正十四年に起きる戸次川の合戦の事であって、最初に述べられている「天正三年乙亥の春」の出来事ではありませんので、誤解しないように注意して下さい。


また、河野領北伊予の情勢で再び天正七年の記述が見られますが、小田久万の領主大野直重も長宗我部に内通しており、その弟であった大洲の領主大野直行も言い合わせていたともありますが、河野は長宗我部や大友の調略や軍略から伊予を守る為に、伯父の毛利輝元を後ろ盾にしていた事が述べられています。故に、宇和の西園寺も輝元からの援軍の依頼を断れず、以下の話へと続いて行きます。


そして、282ページに天正八年の記述があるのですが、「天正八年に芝美作が公広卿をあざむきて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、この五カ所元親にとられけるが、その後、天正十五年まで八カ年の間、元親手をさすこともなかりし。」とある訳です。そのままに解すると、天正九年の【岡本合戦】が存在しない事になってしまいます。しかし、芝が公広を裏切るのが天正八年だとすると、【岡本合戦】が天正七年である事もありえない訳です。さて、僅か一日とは言え、都までも聴き及んだという【岡本合戦】を、「元親手をさすこともなかりし」と言えるものだろうか?と謎は深まります。


また、巻二十から織田信長の動向に対する記事が増えてきますが、十三章では土居右京進の話として、【本能寺の変】が出てきます。しかし、それは天正十年の事ですので、『清良記』は底本の記録や回想を元に編集された物語である事が分かります。故に、記事の年数が行ったり来たりする書き方となっています。


 ところで、織田信長と毛利輝元との戦は、宇和の武将達にとって、身の処し方を悩ませる事でした。十五章では誰が遠征に行くかでくじを引かされ、たびたびの役に清良の難儀している姿が描かれています。清良は小早川の配下として従軍しており【石川谷】を請け持って防戦していますが、隆景が逗留した【亀山】が、後の天正六年に明智光秀が信長の命令で築城した【亀山城】の前身なのかどうかについては些か疑問が残ります。



□『巻二十一』p.292~p.304


 巻二十一から天正五年の事となりますが、話題は変わらず中国への遠征です。ここで登場人物の関係性を少し説明しておきたいと思います。安芸の毛利元就には三人の子供がおり、嫡男が毛利隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景となります。毛利輝元は十一歳の時に父隆元が急死し、家督を継ぐ事になりますが、三本の矢の教えの如く、輝元を支えて行ったのが吉川元春と小早川隆景でした。


 三章からは【上月城の合戦】が登場。「同年六、七、八の三ヶ月」というのが秀吉が【上月城】を攻略する合戦で、「あくる天正六年」からの合戦が、輝元が【上月城】を奪還する合戦となります。出雲の尼子義久が毛利元就に屈した事から、お家再興を願っていた家臣山中鹿之助が秀吉軍となって尼子勝久と【上月城】に籠っていましたが、『清良記』では土居との競り合いが描かれ面白く思います。


五章に【室町殿】とあるのは注目すべき点です。と言うのは、室町幕府は信長が室町将軍足利義昭を追放させた事で終焉したと思われていましたが、現在では京を追放された後も将軍職を行っていたと見る向きが主となっているからです。室町将軍足利義昭が最終的に下向した地は備後国【沼隈の鞆】。毛利輝元の所領する地であり【鞆幕府】とも呼ばれています。


そして、十一章から十章が天正七年の記事となっています。現在、愛媛県史の定説によれば【岡本合戦】は天正七年の事とされていますが、『清良記』では当然、天正七年の記事とはなっておらず、そこには全く別の状況による出来事が綴られています。しかし、それが【岡本合戦】に繋がって行く事になります。


さて、十二章で注目すべきは、信長の家臣であった楠長庵(楠長諳、楠木正虎)と西園寺公広とのやり取りです。楠長庵が言うには、「信長が西国に出馬する時には、西園寺に頼りとなって欲しいのに、なぜ度々毛利へ加勢するのですか?」と言うのですが、公広卿は「土佐や豊後との戦に暇ない状況であるのに、郡内や道後が属している毛利と仲違いしていては、信長公が出馬するより先に西園寺は持ちません。それを分かっていただけなければ、西園寺も信長公の願いを聴いてはいられません。」と答えています。そして、天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと言うのですが、最近まことしやかになってきた【本能寺の変】の四国征伐阻止説を考えてみた時に、まさか西園寺には信長の四国征伐待望論があったのではなかろうかという疑問も頭を過ぎります。そして、『清良記』からだけの見方とはなる訳ですが、天正八年に毛利輝元の後ろ盾がなくなった事で、天正九年に【岡本合戦】が起きる事になったのだろうかとも思うのです。


十三章は、天正七年の七月に起きたという【一の森城】でのクーデターです。竹林院の被官、御手洗図書と言う者が土佐勢を二百余人【一の森城】に引き入れた為、竹林院公義は【深田の上城】へ逃れますが、勇敢であった弟の竹林院公明が【一の森城】を取り戻しています。これは小競り合い程度の小規模な合戦ではあったようですが、長宗我部による伊予の切り崩しが宇和にも及んできた証拠と言えるでしょう。



□『巻二十二』p.305~p.315


 いよいよ【岡本合戦】まで残す所、この巻二十二のみとなりましたが、ここで登場するのが、芝作州こと芝美作守政輔です。『清良記』によれば、長宗我部の宇和郡への調略は、この芝一族によって行われます。【岡本合戦】で本丸へ侵入できたのは、城主河野通賢が内通していたからかもしれませんが、芝一族の三男四郎右衛門が河野通賢の聟であった事が理由として考えられます。【橘合戦】では土佐勢の本隊を手引きしたのは四男芝源三郎と次男芝左京進であったし、長男芝一覚と三男四郎右衛門は土佐勢に加勢して【框越え合戦】を起こしています。合図ののろしが上がった場所は、①岡本(土佐先発隊)、②奥野々(芝左京進)、③原の森(芝源三郎)、④奥の川(土佐本隊)、⑤伽の森(芝一覚)であり、土佐勢の侵攻ルートが芝一族の領地であった事が伺いしれますが、その準備が調って行く動向が、巻二十二の内容ではないかと思います。


 さて、一章には「天正七年の暮れより元親に内通す」とあり、『清良記』の通りであったとすれば【岡本合戦】も天正七年には起こりえなかったと思われます。そして、天正八年に行ったと思われるのが、三章の河原渕領主庄林日向守法忠を蟄居に追い込んだ【河後の森城】のクーデターです。五章、天正八年七月の末には、芝作州は土佐、阿波、讃岐から二千騎領内に陣取らせ、西園寺殿が後詰しない事を計算した上で、「土佐勢一万騎寄せ来たり、急ぎ後詰あれ」と、たばかりの早馬を走らせたとあります。


 西園寺に代わり駆け付けたのが土居清良です。そして六章で芝源三郎と問答。


「それがし清良、別して敵にあらず。西園寺の仰せをもってかくのごとくなれば、西園寺よりかくとこれなき内は、かこみをとくことも、その陣を引くこともまかりならず。そのうえ、奥野々に敵六七百も見えたり。その方の城を攻め落として後、奥野々の敵は打ち果たすべき」

とありければ、源三郎たえかね

「さらば、それがし二心なき証拠には、この城を明けて渡し申すべし」

 とて、源三郎甲をぬぎて弓をふせ、清良の陣へぞ出たりける。


 清良は源三郎を討ち果たすべきと思われてはいましたが、土居も勢力ぎりぎりの所で戦っていた為に、被官が一人でも打たれるよりは、と源三郎を捕虜にして【河後の森城】を占拠。まだ土佐方を引き込んでいる【竹の森城】に矛先を移す事にします。しかし、芝美作守が西園寺に免文を出し西園寺が赦免すると、流石の清良も呆れ果ててしまいます。このように、西園寺は勇猛果敢な武将ではなく律儀な仁将であった為、長宗我部の調略を受け続ける事になって行きます。


 その一つが、また、八章「北の川対馬守通安、最期の事」です。北の川通安は天正八年八月二十一日、【三滝城】で果敢に土佐勢と戦いますが、西園寺の後詰はなく、魚成が土佐方に寝返った事で、野村、赤浜が援軍を送れず、大番、甲の森、猿ヶ嶽の三城が落城。九月一日には僅かな勢が【三滝城】に集まり、土佐の大将久武内蔵助、桑名太郎左衛門、依岡左京を三度打ち破りますが、九月十日、遂に【三滝城】は落城してしまいます。


 九章、『清良記』は、その背後にも芝美作守の謀計があった事を伝えています。驚いた西園寺は芝作州の本拠、西の川【鳥屋の森城】を包囲。芝美作守は久しく連れた妻を一人、人質に出したようですが、一覚、左京進、四郎右衛門の妻子を人質に取るのでなければ全く意味がないと、西園寺のおろかさが再三嘆かれています。


 十章からは天正九年の記事に入ります。先ず正月には西園寺に取り入って人質となっていた妻を取り戻した芝美作守ですが、三月の初めには掌を返し土佐方の加番の武士を五百余騎も置き込ませて、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は完全に土佐分となってしまうのでした。


 そして、巻二十二の最後、十二章は意味深げな言葉で終わります。

「これより以後、土佐方より小勢にては一度もかかり得ざりける」と。


 これは、天正九年三月九日、土佐の加番衆五百余騎によって清延の【薄木城】が取り囲まれたのを、土居外記、真吉新左衛門、善家八十郎、桜井五左衛門、等が駈け付けて土佐勢を討ち散らした事によるものですが、この二ヶ月後が、総勢三千八百余騎、雑兵一万三千人によって押し寄せる【岡本・橘・框越え合戦】となります。



□【岡本合戦】に向けてNEXT.2016


 岡本合戦は、「激戦」「大合戦」「最大の勝利」という謳い文句ばかりが有名で、その本当の姿を大変誤解させてしまっています。岡本合戦は、僅か一夜昼の合戦であり、土居清良は名将といえども、常に崖渕の戦を余儀なくされていました。岡本合戦が「最大の勝利」であったと言うのは、敵の大将を討ち取る事により、少数の兵で大軍を破ったという戦ぶりによるものですが、その中で最も称賛されたのは、橘の丘に隠れていた鉄砲隊が、合図が下るまで絶対に動かなかったという完璧な指示系統でした。勝鬨が挙がった「申の中刻」は午後四時。「瞬殺」と言って良い勝利でしょう。また、その勝利は元親征伐を目前としていた信長にも伝わったと言われます。来年春の『第二回清良記シンポジウム』は、河後森城の発掘調査が主と聴いていますが、いつか岡本合戦でも一旗挙げてみたいものです。



(文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-11-01 22:37

□『清良記を紐解く会』より


 二年前の平成二十五年は、『清良記』の紐解きを始めた年でもありましたが、バスをチャーターし、三間史談会の念願でもあった「清良、土佐へ落ちられる事」の現地研修をしたことが何よりの思い出となっています。準備の為に六回も高知まで足を運び、現地の視察や聞き込み、そして資料集めを行いました。そのような中で沢田勝行氏(西南四国歴史文化研究会副会長)との出会いがありました。今月の課題「巻二十」では、その時に宿題として残した【土居宗三】が再び登場します。今月も『清良記』の世界を一緒に堪能いたしましょう。



□『巻二十』を紐解く


 第一章「西園寺殿より安芸毛輝元への加勢の事」は、地元を離れまして日本史のよい勉強です。また、『清良記』の記述が、日本史の理解といかなる違いがあるかにも注目していただけると、更に楽しく読む事が出来ると思います。先ず、河野通直と毛利輝元の関係が気になると思いますが、「叔父甥の間なれば」と書いてあると通直が叔父で輝元が甥のようですが、実は逆で、輝元の奥方と通直の母親が共に宍戸隆家の娘なので、輝元が叔父で通直が甥の関係であったようです。


 そして、輝元と織田信長の合戦。そこに登場するのが「九鬼右馬之丞」です。九鬼右馬之丞とは、織田信長に仕え、水軍大名と呼ばれた、九鬼水軍の当主にて志摩国主となった九鬼嘉隆の事です。毛利水軍とは「木津川口の合戦」を戦っていますが、九鬼水軍は三千隻。対する毛利水軍は倍の六千隻を有しており、数で劣っていた九鬼水軍は毛利水軍に苦戦していますが、その後、鉄甲船を完成させる事に成功し、天正六年の合戦で毛利水軍を打ち破ることになって行きます。


 第三章に「閏月」の記述がありますので、少し説明しておきたいと思います。旧暦である「太陰太陽暦」では、一ヶ月が三十日、もしくは二十九日(小の月)なのですが、それでは次第に月と季節にズレが生じて来ます。これを修正するのが、十九年に七回の割合で「閏月」を入れるという方法でした。大まかに言うと、「およそ三年に一度、十三ヶ月の年がある」という事になります。「二十四節気」は「正節」と「中気」が交互に並んでいるのですが、「中気」が含まれない月が現れた場合、その月が「閏月」となります。


 以下、線を引いているのが「中気」

「立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒


 第八章「刀、脇指に寸袋用いる事」では、あの【土居宗三】の名前が再び登場しています。

『長宗我部元親の侍に、土居治部とてありしは、清良の姉むこ、一条家門の伯父土居宗三なり。家門の父、房家卿の代に、清良の姉を所望ありて、また、その後、土居の名字をぜひにと懇望して土居近江守と言いしを、後に宗三と名乗りける。家門の伯父にて、そのうえ、一かどの侍なれば、一条家の一の家老なり。この宗三、元親が武略をさとり、たびたび家門へ諫言しければ、かえって仇となりて、家門、宗三を追放ちにせられけり。それより土居治部は立ち退きて元親へ奉公す。この治部は清良の姉の子にはあらず、先の腹にて、清良の実の甥にはあらねども、右の由縁によって内々元親の様子を聞き合わせては土居へひそかに告げ知らせ、また、土居よりも尋ね問われけることたびたびなり。』



□参考資料として


織田信長 天文 3(1534)年 5月12日生

      天正10(1582)年 6月 2日没享年49歳


九鬼嘉隆 天文11(1542)年      生

     慶長 5(1600)年10月12日没享年59歳


毛利輝元 天文22(1553)年 1月22日生

     寛永 2(1625)年 4月27日没享年73歳


河野通直 永禄 7(1564)年      生

      天正15(1587)年 7月14日没享年24歳



文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸



※【三間史談会会報併せ三間郷土史研究会だより】だけでは十分な記事が書けませんので、ここで少し説明をしておきたいと思います。先ず、この記事は論文や資料という類の位置付けにはなっておらず、あくまで【清良記を紐解く会】の呼び込み用として興味を引く為に書いています。なお、【清良記】に対する詳細な解説は紐解く会の中で、【清良記】を読みながらしていますので、ここに書いてある事を勉強している訳ではないのでご理解ください。それでも、今回は、【土居宗三】について誤解がないように少し述べておきたいと思います。


 先ず、「清良の姉むこ」とあるのは【お初上臈】の事ですが、正確には「清良の従姉むこ」で、祖父【土居清宗】の嫡男【土居清貞】の長女が【お初】です。ちなみに、【清良】は【清宗】の三男【土居清晴】の三男になります。

次に「一条家門の伯父土居宗三」とありますが、【一条家門】とは、土佐一条家四代にして、最後の当主となった【一条兼定】を指しており、【家門】というのは、【兼定】の戒名と思われます。キリシタン大名としてカトリック式の葬儀を懇願した【兼定】でしたが、願いは叶わず、伊予国宇和郡の戸島にある龍集寺に墓地があります。その【兼定】の伯父が【土居宗三】であったというのですが、土佐一条家は、京の五摂家である一条家八代【一条兼良】の嫡男にて九代の【一条教房】の次男【房家】が、土佐一条家の初代となります。その後は、二代【房冬】、三代【房基】となって、四代【兼定】となりますが、二代【房冬】は父【房家】が亡くなって間もなく自殺しており、粗忽者であった三代【房基】もなぞの死を遂げてしまう事で、京一条家の後継として養子に出されていた【兼定】は離縁され、土佐一条家四代として、六、七歳の幼少期に土佐中村に帰ります。その後見人として名前が出て来る者の中に、【清良記】では、【房家】の弟【土居近江守忠家】、後の【土居宗三】が登場するのですが、一説では【一条康政】という人物もおり、【宗三】と【康政】が同一人物なのか、それとも別人なのかと疑問でしたが、【清良記】を読む範囲では、【宗三】が亡くなった後にも【康政】の出陣があり、二人が別人であった事が確認されています。【宗三】の事を、他の家老よりは後の時代に、三間の土居家からヘッドハンティングしてきたのではないかと言う人もいるようですが、私はそうは思いません。【敷地軍記】を読めば、【宗三】は土佐一条家初代【房家】の時からの筆頭家老だったことが分かります。【長宗我部地検帳】に、【宗三】の領地が分散してあるという見立ては、新参者が空いた土地を領したのではなく、問題のある土地の管理を全て引き請けていたからではないだろうかという気がします。また、幡多郡の郷土史料では、【宗三】は、【兼定】が平田のお幸という百姓の娘に執心して政務を疎かにしている事を責めた事が咎となって首を斬られたという話がありますが、【清良記】では一切そのような話になっておらず、土佐一条家の名誉を重んじる姿勢が感じられます。そして、【巻二十】では、【宗三】には、【お初】ではなく、先妻との間に【治部】という嫡子がいた事が記事となっています。中筋川沿いに、土佐中村から宿毛へ向かう途中、【上ノ土居】という地区の一つ前に【江ノ村】という地区があり、【小松山長法寺】に土居家の墓所がありますが、【宗三】は本来は一条家でしたので、墓には【楓】ではなく【下り藤】の家紋が彫られています。そして、この【長法寺】を開基したのが、【小松谷寺殿】とも呼ばれていた【一条康政】でした。【康政】は、長宗我部の時代になってからも領地を有した唯一の一条家だったとも言われています。【長法寺】には【康政】の墓と言われている大きな宝篋印塔が一基あります。中村には一条家代々の墓は各所にありますが、宝篋印塔はこの一基だけなのだそうです。



※参考資料として


一条兼良 応永 9(1402)年 5月 7日生

      文明13(1481)年 4月 2日没享年80歳


一条教房 応永30(1423)年      生

     文明12(1480)年10月 5日没享年58歳


一条房家 文明 7(1475)年      生

      天文 8(1539)年11月13日没享年65歳


一条房冬 明応 7(1498)年      生

     天文10(1541)年11月 6日没享年44歳


一条房基 大永 2(1522)年      生

      天文18(1549)年 4月12日没享年28歳


一条兼定 天文12(1543)年      生

     天正13(1585)年 7月 1日没享年43歳



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 高知県四万十市江ノ村にある【小松山長法寺】にて、小松谷寺殿の宝篋印塔を見上げる、羽藤氏と沢田氏。












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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-01 22:52 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より


 今年の夏は思いのほか短く、早涼しい秋風に目を覚まします。九月一日は旧暦の八朔を曽根地区の天満神社がお祭りしますが、宇和島市指定の無形民俗文化財【天神花踊り】が奉納されています。時は戦国時代の天正年間。曽根天満神社の八朔祭に、祭りの踊りを見に来た歯長城の殿様が、里人に紛れて踊っていた土佐の侍に囲まれて討取られたことから、その殿様を供養する為に踊り継がれてきたものです。秀吉の四国征伐がもう少し早ければ命を落とさず済んだのかもしれませんが、その故事によって今があるのもまた事実。【天神花踊り】は、今年でおよそ四三○年を迎えるそうです。



□『巻十九』を紐解く p.253p.269


 巻十九は重要です。十一節の山本左馬進の記事から【岡本合戦】の天正七年説を主張される方もいますが、それ以上に山内外記の記事が問題です。


 巻十九は一節「山内外記武勇の事」から始まりますが、山内外記は土佐の史料では【岡本合戦】で討取られたとされている武将です。しかし、『清良記』では、天正三年二月二十八日に討取ったとあり、【岡本合戦】では、山内外記の仇討ちをしようとした甥の山内左近と四郎兵衛が討取られています。天正三年は亥の年。【土居七口の鑓】と名を揚げた、清良三十歳の春のことであったといいます。


 巻十九は巻十八とも矛盾点があります。巻十九では、十一月十日に山内外記が河後の森を攻めた時、「清良、こたびはわずらいなれば出合われず。西園寺殿出馬ありて」とあって西園寺卿の活躍が伺えますが、巻十八では、十一月十一日に福富隼人と国吉刑部が河後の森城を攻めたことになっており、「こたびもまた、黒瀬殿よりは後詰め無くして、清良へぞ仰せ越されたり」と、ニュアンスが真逆になっています。


 五節では、清良の元親やその被官に対する厳しい批判が記事となっていますが、一方で一条の旧臣であった安並左京と石黒若狭が謀反を起こして討死したことを高く評価。「一条の侍には安並、石黒、さては山内なりと言われしこと、いまこそ思いしられたれ」と言われています。


 さて、また巻十九は、古城のことがいろいろ確認できるので紹介しておきます。先ず六節、天正三年正月に宇和島城の前身【板島丸串城】の城主が西園寺宣久となり、家藤監物は【道免の城】へ帰りますが、【道免城】は高串川の上流です。そして、一節にある西園寺卿が陣を敷いた【迫目村中の城】は迫目岡本家の裏山で、巻十四では、元亀二年に三間を攻めた一条兼定も陣を敷いています。このことから【鼡の尾】と呼ばれていた城が迫目の【下城】であることを確認。十節には【蜂の巣】の地名も記述されていました。この地名は三間川に架かる橋に残されています。また、【西城】が【馬爪】と呼ばれていることは初めて知りましたが、昔ながらの地名が今なお残されることの大切さを感じた次第です。


 そして、この【迫目城】を舞台として土佐の軍大将山内外記率いる二百騎と、清良の被官川添喜兵衛率いる五十騎が激突。川添喜兵衛が山内外記を討取れば、善家八十郎、桜井五左衛門は元宗口、有馬兵庫、土居似水、土居三河、安並藤蔵は陣が森の敵を追い落とす。【土居七口の鑓】とは、この七人のことでしょうか。



□お知らせ


『清良記を紐解く会』では、松浦郁郎校訂『清良記』の内容を紹介することを目的にしています。歴史的事実は、誰にも分からないことですが、私達は、先ず史料として『清良記』に何が書いてあるのかを正確に把握して行くことを目標にしたいと思っています。公民館の工事が終わりましたら『三間土居旧本』の紐解きも準備しておきますので楽しみにお待ちください。



                    文責/三間史談会々員松 本 敏 幸









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by kiyoyoshinoiori | 2015-09-01 18:07 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん