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2016.5.12(木)土居清良公の本城である大森城の支城『松峯城』に登ってきました。



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大森城は西の麓、宮野下地区の板山地(いたやまち)から登るのが常ですが、この日は南東に連なる支城の麓に位置する元宗地区から『松峯城』に向かいました。



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元宗地区の西端にある満徳寺池から望む大森城。標高315メートル。満徳寺は大森城のほぼ真南に位置します。



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大森城から南東に張り出した支城『松峯城』は、標高260メートル。『清良記』巻二十三には遠見番を置く砦として描かれています。



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南南西の方角には、『三間富士』と呼び親しまれる泉ヶ森(標高755メートル)、その中腹には土居中地区の新城(標高335メートル)が望めます。



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元宗地区の『法雲山満徳寺』は、真宗大谷派の寺で、東本願寺を本寺としています。この場所は大森城と松峯城の中間にあり、大森城からは南南東、松峯城からは西に位置します。



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境内の入口に馬頭観音を祀る小祠。この右手から『松峯城』へ登って行きます。すぐ上には、江戸時代の古いお墓が数段並んでいます。



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すぐ上の平地までは堀切のような道が続いています。取り敢えず平地に辿り着くまで登って行きます。



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平地に辿り着いたら少し休みましょう。この先は暫く尾根を歩くと、『松峯城』に向けて急峻な上り坂となります。



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平地から少し下るように尾根が続く。



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尾根の中程に水準点。



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「胸突き八丁」と言うのでしょうか。岩肌が見えて来たら頂上が近い事が分かりますが、ここからがまた中々です。



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頂上が見えてきましたが、大きな岩に貼り付くように木が繁っています。



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『松峯城』の頂上は、大きな巨石であった事が分かりました。



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17:30頃『松峯城』にて暫し黄昏る一時。現在は木の茂みがあり周囲をよく見渡せませんが、東南東の正面にある『岡本城』や、その背後に続く『一の森城』や『高森城』に睨みを利かすには、腕付けの砦であったろうと思われました。



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急峻な岩山から下りるのは少し難儀。大杉を目当てに尾根に戻りましょう。



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最初の平地。



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満徳寺池を見下ろしたら一安心。昼下がりに登れば、太陽のある方角に下りて行けば良いので、迷う事はないと思います。



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「おまけ」麓の畑で咲いていた珍しい木の花。




ご視聴ありがとうございました。次回は『天神城』へ登ります〜(o^^o)ノ"



愛媛県宇和島市三間町/元宗地区の松峯城にて撮影。撮影者:松本敏幸©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-05-12 23:35 | 郷土史

「三間史談会」入会によせて

 

                                    土 居 秀 夫

 

このたび三間史談会に入会させて頂きました 土居秀夫 と申します。

よろしくお願い申し上げます。

 生まれは、土居垣内中の谷の入り口です。子供の頃、岡本城の本廓周辺で、畑仕事、山仕事の手伝いをした事もありましたが、多くの時間はテャンバラをしたり岡本城周辺の山を駆け廻っておりました。

本廓東側の直ぐ下にあったから雨に打たれ土の表面に出て来炭化した何度見つけて採取したりしたものでした

また、岡本城の事を単に「(じょう)と呼んましたから下界眺めると、麦の緑菜種の黄色、レンゲの赤三色に彩られた絨毯のような美しい田圃の中をゆったりと流れる三間川この景色を、今も世界一美しいと思い続けております。上京して、半世紀以上の歳月が過ぎ去ってしまいました。

現在東京都あきる野市第二の故郷して慣れ親しんでおります

あきる野市では、市認定解説員として、学芸員活動に従事しております。

の活動は、多摩西部地域を中心とした歴史文化、自然環境そして伝統産業等の調査研究を手弁当で行う学習ボランティアです。

 そんなある時ふと郷土の歴史も学びたいなあ漠然とうようになり、殆ど予備知識もないままに第1回 清良記シンポジウムに参加しました。

その帰り、歴博を訪れにも土居聡朋学芸員と親しく懇談させて頂く機会を得ました。その松本敏幸氏をご紹介頂きそれから約2年間、「紐解く会」の例会資料その他お送りく等清良公清良記について、少しずつ学んできましたしかし、まだまだ断片的、表面的な理解しかできておりません

会員諸氏のご指導をよろしくお願いいたします。

今回「第2回 清良記シンポジウム」に参加して感じました事は第1回シンポジウムにも増して宇和島市、鬼北町、松野町の学芸員諸氏が、清良記と真摯に向いあって調査・研究されその成果を高いレベルで発表された事を大変嬉しく思いました

また、発表内容が学研的かつ緻密で、特に、清良記の舞台の地域から遠く離れしまっているにとってまで描けなかった鬼北地域そして、山城の戦略的立地条件等活き活きと立体的空間伴って不十分ながらも出来つつあることは、清良記の理解を深めていく上において、このシンポジウムは、大変意義深いものとなりました。

加えて、松本敏幸氏の案内で「西城」、「中城」、「鼡の尾」史蹟を歩いて地形や風景そしてを肌身に感じる事ができことまた森城」、「岡本城の距離実感できたこと更に加えて「板島城址」を山平先生案内で登り

その位置と地形初めて知ることができました私にとって大きな収穫でした。

 ただ一つ残念だった事は、シンポジウムの中で「岡本城」「岡本合戦」には全く触れられなかったことでした。「紐解く会」の当面重要テーマとして今真剣に取り組まれている所謂岡本合戦年数問題」が、シンポジウムの主催参加者にとってノド元に刺さったのような存在になっているとしたら、またこの事『清良記』に対する信憑性を若干でも揺るがす要因の一つなっているとしたら「岡本合戦の年数問題」解決が焦眉の急となって来ているように思いました。

 私は、三間の歴史を学ぶにあたって、最初に「町誌」清良記に目を通すことから始めました(この時点では、ひろい読み程度したが・・・)

その時大変不思議思いましたのは、清良記に「岡本合戦は、天正9年5月23日」と書かれてるのにお膝元である三間町誌本合戦は、天正7年5月23日起こったと何の注記もな書かれている事に何故だろうと長い驚きとともに疑問を持ち続けておりました。

ようやくその背景について、知ることになりましたが、しかし知れば知る程、これで良いのかとう思いが強くなってきました

この問題に今更、私の立場で触れることは甚だ僭越な事とは思いますがこの誤記如何なる背景があったにしろ三間の中世史を語る上での汚点であろうと思っております。

これは過ぎ去った過去の事すが、こ反省の上に立って今「紐解く会」真剣に取り組んでおられる岡本合戦天正九年の正当性を発信し続ける活動が大切だと思っております。

また、三間史談会が、清良記に関心を寄せている三間地区のみならず鬼北地区の多くの方々とも連繋し、一緒に「清良記」の正当性を実証していく母体となれればと思います。

の事が、三間誇りである清良記の名誉回復つなる大きな一歩になる事を切に願っております

 史実は、当然の事ながら一つしかありません。その一つを探求し、実証してゆく活動に皆様と共に微力ながら関わって行ければと願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-23 21:43 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 April 2016

 三月二十日には『第二回清良記シンポジウム』が開催され、十九日『高森城址登山』、二十一日『大森城址登山』も併せて開催されました。連日七十名程の参加者が詰め掛ける賑わいを見せましたが、三間史談会においては、東京都あきる野市から、土居垣内出身の「土居秀夫氏」が参加され、懐かしい再会と新規入会に、大いに盛り上がりました。

 『清良記』は、郷土中世史において、三間の者が思う以上に影響力と存在感があることがあらためて確認できましたが、二年前は第一回を起こした原動力に感激し、今回は学芸員の研究発表の熱心さに感激しました。参加者の手元に配られた資料は最新の郷土史学習の宝であり、次回の展望が更に期待できる物となりました。

 今後、シンポジウムは一年おきの継続と伺っていますが、城址登山は毎年の事業になると伺っています。今回はテーマに上げられていなかった「岡本城址」「岡本合戦」についても早々に実現する筈だと思いますが、だからこそ三間史談会の『清良記』を紐解く活動に期待が大きくなるというものです。岡本合戦がいつの出来事かという年数問題だけでなく、西藤右衛門や久武内蔵助など登場する人物の問題、「裏仏」や「裏松の沖」などの場所を特定する問題等々、会員皆様の研究を大いに期待したいと思います。


□『巻二十四』を紐解く p.335~p.343

 四月は『巻二十四』を紐解くつもりですが、【よど第十七号】に投稿した「岡本合戦の年数問題」を解説しながら、本題を紐解きます。

 『巻二十四』は「堂ヶ内小七の最期」から始まりますが、この「堂ヶ内」こそ岡本合戦の戦場、現在の「土居垣内」に他なりません。元は河野領であった為、当時は「土居」を冠していなかった事が分かります。記事は天正十年正月の内容になっていますが、p.336上段の「去年六月よりは土居の御領となれり」という一文から「岡本合戦=天正九年」とされている事が確認できます。

 また、p.335上段の記述から、岡本合戦時も真吉新左衛門が岡本城代だったという誤解が広がっていますが、『巻二十三』のp.332上段を紐解けば、合戦後の普請(土木工事)が成就した後に、真吉新左衛門が岡本城を預かっている事が分かります。ここで、合戦時の城主は河野通賢、城代は西藤右衛門であった事をしっかり確認していただければと思います。そうする事で、『三間町誌』p.152の「長宗我部元親が久武内蔵助に下した命令の内容」が創作である事、p.208の「岡本城の割譲が土居と河野の不仲の原因という説」が本末転倒である事が分かるようになります。

                  文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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愛媛県宇和島市三間町/土居中地区より大森城址を遠望(2016.3.1撮影)








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by kiyoyoshinoiori | 2016-04-01 14:28 | 郷土史

2016.3.20(日)鬼北町近永公民館にて、主催、鬼北町・鬼北町教育委員会。共催、松野町教育委員会・宇和島市教育委員会。企画、鬼北の文化財利活用戦略会議による『第2回 清良記シンポジウム』ー鬼北地域の「城の読み方」を考えるーが開催されました。




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朝9時、宇和島市内に宿泊された「土居秀夫氏」を迎えに行き、道すがら戦国時代の古城『板島城』に登って来ました。城主は「板島志麻守」と言われますが、【清良記】では「家藤監物」が領しています。本郭に登ると分かりますが、ここからは鬼北方面の山が良く見えます。




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『上光満』にも登って来ました。近年ここは、元和元年に伊達秀宗公が五十七騎を伴って、板島へ入部したルートだったのではと関心が高まっています。地元の有力者「土居清良」は、伊達が入部するまでの領主「藤堂高虎」とも懇意であり、秀宗の入部を準備した「山家清兵衛」は間違いなく「土居清良」を訪ねたであろうと言われています。




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かつて「土居清良」が領地した『三間』の『土居中地区』から、遥かに『大森城址』を望みます。この土居中地区は、江戸時代に土居清良の末裔が土居中村庄屋となりましたが、土居家初代から数えて三十代目となる当主が、今も健在でおられます。




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『第2回 清良記シンポジウム』の会場、近永公民館へ到着。写真の紳士「土居秀夫氏」は、東京都で市民ボランティアの学芸員をされていますが、この日の為に帰郷して下さいました。




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シンポジウムで意見を求められる「松浦郁郎先生」。松浦郁郎先生は、愛媛県に2名しかいなかった農業普及委員をされていた頃、古文書であった『清良記』の翻刻、校訂を行い、自費で『清良記松浦郁郎校訂』を出版(昭和50年)されました。しかし、公務員であった松浦郁郎先生は版権を出版社に譲渡され、利益を一切受け取られませんでした。松浦郁郎先生は、まさに郷土史研究の恩人だと思います。




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今回は2回目でしたが、鬼北町は国史跡『旧等妙寺跡』、松野町は国史跡『河後森城跡』を持ち、宇和島市は今年度は『伊達秀宗公宇和島入部400年』で忙しく、この翌週からは『癒しの南予博』も始まるという多忙な中でありながら、『清良記』にかける情熱もまた一入である事を感じさせていただけました。




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そして、今回大変嬉しかったのは、凄く良い資料を作っていただけた事です。決して『清良記』に描かれている全てを網羅してある訳ではありませんが、この刺激は更なる研究意欲となって、郷土史研究を盛り上げて行く事は間違いないと思いました。




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シンポジウムの帰り道、『一の森城址』と『岡本城址』の間を走って増田地区に抜け、増田口に掛かる「三間川橋」で綺麗な夕焼けを見ました。「どこに住み、どんなに年を取ろうとも、幼き頃に見た郷土の景色が一番美しい…」と、そう思える光景でした。



以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-20 23:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 March 2016

【西南四国歴史文化研究会】の会誌『よど第17号』に、会員の松本が、「岡本合戦の年数問題」と題した論文を寄稿しました。未発表の稿に限る為、まだ内容を伝える事はできませんが、何分言葉足らずですので、少しだけ補足の意味を込めた説明をしておきたいと思います。


□「岡本合戦の年数問題」とは?

岡本合戦の年数には諸説あり、それを「岡本合戦の年数問題」と言います。先月の会報で紹介した『愛媛県編年史』を見ていただければ、「天正七年」七つ、「天正八年」が一つ、年数なしは八つありますが、「天正九年」の『清良記』も含めて天正七年五月の括りにされています。これが「岡本合戦=天正七年」という説の根拠となっているのですが、果たしてそれで良いのか疑問です。なぜなら『愛媛県編年史』は、岡本合戦が記述された『清良記』巻二十三を、『清良記』巻二十の前に持ってくるという混乱を生じさせてしまっているからです。

そこで再検証をしてみたいと思います。まず『清良記』についてですが、その前後の記述から『清良記』の岡本合戦の年数は、発行された承応二年(一六五三)の当時から天正九年であったと考えられます。次に、発行された順に他の史料を確認したいと思いますが、寛永八年(一六三一)発行『元親記』、萬治二年(一六五九)発行『長元物語』には年数が記述されていませんでした。寛文三年(一六六三)発行の『南海通記』で天正八年、元禄十五年(一七〇二)発行の『土佐軍記』では天正七年となりますが、どちらも先の二史料を底本に編集されており、当時の記録がない為、後世に混乱があった事が分かります。

この「岡本合戦の年数問題」を解決する為に、松本が目を付けたのが「三滝合戦」です。『清良記』では「三滝合戦」は天正八年の事となっており、その後の天正九年に起きるのが岡本合戦という流れです。ところが、土佐の文書では岡本合戦が先で、三滝合戦が後の記述となっている訳なのですが、登場する土佐の軍大将【久武内蔵助】に是非注目をしていただきたいと思います。久武内蔵助は岡本合戦で討死した大将で、その後は弟が同じ名前を受け継ぎ「久武後の内蔵助」と呼ばれています。それが三滝合戦では、どう呼ばれているかが問題です。

『清良記』では兄の内蔵助である為、当然、そう呼ばれてはいません。一方、『長元物語』『南海通記』『土佐軍記』では弟の内蔵助という意味で、「後の内蔵助」と呼ばれています。ところが、それらの底本である『元親記』には「後」という記述がなかったのでした。という事は、『元親記』の記述の並びが時系列ではなかった可能性が出てきました。上中下の三巻から成る『元親記』ですが、上巻の最後に登場するのが「久武兄内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事」です。『元親記』は、これらの話を上巻の最後に持って来る事で印象を強くしたかったのかもしれません。内蔵助が有馬温泉で秀吉に出会ったという話も生前の話である為、ここにも時系列に前後が生じています。更に、中巻の最後も不思議な事に、三間での合戦と秀吉の話で終わるという並びです。三間での合戦は、天正十四年に弟内蔵助が兄の弔い合戦をするという話であり、『清良記』にも同じ話が登場します。という事は、やはり「三滝合戦→岡本合戦→弔い合戦」という流れが自然である気がします。『元親記』より後の文書は、『元親記』の記述が時系列であると誤解し、その結果、岡本合戦を天正七年とする記述が広まったのではないでしょうか。「史料にない事を一人が記せば、数人が孫引きしてこれに習う」は、近現代だけの問題ではないという事を肝に銘じたいと思います。

                  (文責/三間史談会会員 松本敏幸)


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愛媛県宇和島市三間町/土居中の清良神社にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-03-01 00:11 | 郷土史

実は、高森城に登った翌日、迫目にある【迫目城】に登っておりました。迫目城は、土佐の一條兼定が、三間攻めをした時に、陣を張った城として【清良記】に登場します。*\(^o^)/*


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愛媛県宇和島市三間町の迫目地区にある【迫目城】は、『西城』『中城』『下城』からなる三連城。泉が森の北麓に位置し、さながら屏風のように見えます。


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迫目城の中ほどに見える白壁の長屋は、迫目の旧庄屋岡本家。三間河野家の末裔とも言われ、屋根瓦には、【隅切折敷縮三文字】の家紋も見えます。この裏山の頂が『中の城』であろうと思っていましたが、アンテナの立つ頂が【天守】と呼ばれているとの情報を入手しました。


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岡本家の裏山すぐ隣に立つアンテナ。その麓にお住いの赤松家ご主人から、「アンテナの立つ頂を天守(てんす)と呼んでいる」と教えていただきました。


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そのまた隣、元町長をされていた赤松家の横から真っ直ぐに伸びる山道。ここから右が『下城』になります。『下城』は、【清良記】では『鼡(ねずみ)の尾』と呼ばれています。


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山道は堀切のようにも見えます。尾根の手前ひ『中の城』に向かって登る道があり、その先に五輪塔を納めた祠と金毘羅社がお祭りされていました。


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赤い建物が金毘羅社。赤松元町長の息子さんから教えていただき、お参りしてきました。


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反対側に下ると、三間川が流れており、『蜂の巣橋』が架かっています。『蜂の巣』という地名は【清良記】にも登場しており、『鼡の尾』が『下城』である事を特定する決め手どなりました。


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『蜂の巣』から臨む土居清良の本城【大森城】。護岸が整備されるようになるまでは、大雨が降ると、【大森城】と【迫目城】の間は広い沼のようになったと言われます。


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場所は変わりまして、こちらの堀切は、『西城』と『中の城』の間にある山道です。『西城』は、【清良記】では『馬爪』と呼ばれていますが、丸い形の『西城』を馬の蹄に見立てての事なのだろうと思います。


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『西城』の頂は真ん丸くなっており、豊後石で造られたという小さな祠が祭られています。祠は『十二社さま』とも『きゅうねんさん』とも言われ、【迫目城】に家のある麓組の人達は、4月8日にお祭りをしています。『十二社』は熊野系のお社。『きゅうねんさん』は、貴船社の事で、もとは川の近くの山水が湧く場所にあったそうです。


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元々土居清良の廟は、江戸中期まで迫目地区の妙覚寺にあり、土居の先祖が熊野から来た事もあって、迫目地区には熊野権現や大刀自神社も祭られています。【清良記シンポジウム】で、3月19日の「高森城登山」の後には、有志を「岡本城」ど「迫目城」にも案内しますので、奮ってご参加ください。


追伸。お話をお伺いした、岡本様、赤松様、赤松様、二宮様、その節は誠にありがとうございました。


以上、松本敏幸©︎


愛媛県宇和島市三間町/迫目地区の迫目城址にて撮影©︎





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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-28 23:02 | 古城

地元(愛媛県宇和島市三間町)の兼近地区にある、【高森城址】に登って来ました。


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【高森城】は、『清良記』に登場する三間河野家の居城。城主は、中野殿と呼ばれる河野通賢でした。


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昨年、立派な案内板が立てられました。製作したのは【高森城を愛する会】です。


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三角に尖った本郭に、四方には長く伸びた支脈が幾つもあり、三間では最大規模の古城と言われています。


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本郭の周囲には巨大な岩肌が露出しており、白い笠をかぶっているような姿から、【衣笠(きぬかさ)城】の異名も持っています。


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本郭は広く開けており、標高は378mあります。(右奥の土塁が三角点のある頂上。)


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西北西の方角に見えるのは、三間町の二名小学校。その向こうに【岡本城址】と【大森城址】も見えます。


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南南東の方角に見えるのは、鬼北町の沢松地区と深田地区。左に【竹ヶ森城址】と【薄木城址】が並んでいます。


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真北の方角にあるのが、音地、黒川、中間、の告森三地区。右手前に見えるのが【告森城址】です。


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今年、平成28年3月には【第2回清良記シンポジウム】が開催される事になっており、【高森城址】は19日に登山が予定されています。案内人は、三間町大内の武田利康先生です。是非、振るってご参加ください!\(^o^)/


愛媛県宇和島市三間町/兼近地区の高森城址にて撮影©︎


以上、松本敏幸©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-27 19:19 | 古城

2月20日(土)の今夜は、三間公民館で『清良記』を紐解く会を行いました。内容は愈々、巻二十三「岡本合戦之事」に入っていきますが、前段階として【愛媛県編年史】に紹介されている『清良記』以外の文書(もんじょ)の内容を紹介しました。また、松浦郁郎先生が「新愛媛新聞」(昭和48年1月1日から昭和49年9月21日)に掲載されていたという、大変貴重な『清良記』のコラムを持って来て下さり拝見させていただきました。


以上、松本敏幸©︎


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愛媛県宇和島市三間町/三間公民館にて撮影©︎




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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-20 23:17 | 郷土史
※『清良記』は、軍記物語である為に史料としての価値を損ねており、鵜呑みにできないという批判があります。しかし、それは『清良記』に限ったことではありません。今回は、岡本合戦の年数をテーマに『愛媛県編年史』に紹介されている文書を批判してみたいと思います。


□『愛媛県編年史・第五篇』(p.65~p.80)より抜粋

1.『予陽河野家譜』
同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
天正七年五月廿八日 緒方与次兵衛殿

3.『高串土居家文書①』
今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
六月三日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

4.『高串土居家文書②』
去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
七月廿日 (河野)通直(花押)
土居式部太輔殿

5.『河野系図』
天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

6.『元親記』
久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

7.『長元物語』
宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

8.『南海通記』
天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

9.『土佐軍記』
天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

10.『土佐国編年紀事略』
竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤親光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
天正八年八月廿九日 竜沢俊派(花押)
進上 元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
三月十八日 (法花津)前延(花押)
進上 三善治部少輔殿

13.『宇和郡往昔城主記事』
一岡本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

14.『吉田古記』
一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
二月八日 御判
土居式部太輔との

15.『伊予二名集』
天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

16.『愛媛面影』
岡本城墟 古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


□『愛媛県編年史』について

 『愛媛県編年史』は、昭和四十四年に愛媛県から発行されました。時の知事は久松定武氏。久松氏は久松県政五期の内三期(十二年)県の教育委員長に三間の竹葉秀雄氏を抜擢しており、久松氏は竹葉氏から『清良記』について影響を受けただろう事が推測できます。『愛媛県編年史』を開くと、巻頭には『清良記』を紹介する文と写真があり、もしかすると次の知事、白石春樹氏が松浦郁郎先生から『清良記』の講義を熱心に聞かれたという話も、昭和五十九年に『愛媛県史』を発行していく上で、『愛媛県編年史』を読まれて影響を受けていたからではないかと想像を逞しくします。
 では、愈々、その内容について考察してみたいと思いますが、まず、抜粋しているのは第五篇のp.65~p.80「天正七年五月」とされた中で、【岡本合戦】に関係する文書だけとしました。(ただし、『清良記』だけは割愛しています。)まず疑問に思うのは、「文書には天正八年も天正九年もあり、月は二月もあるのに、どうして天正七年五月の括りにされたのか?」という事ですが、天正七年と書かれた文書が若干多いというだけの事のように思います。しかし、文書は全てが同等だと考えるべきではありません。一人の人が天正七年と書き、それを写した人が多かっただけとすれば天正七年が多くなるのは当然です。実際『清良記』にも多くの写本がありますが、それらは全てを合わせて一つとされている事からも分かると思います。つまり、文書の情報がオリジナルではなく、人から聴いたとか、何かの文書を見て写したという物を当てにしなければ、情報源は当事者に限られて来る訳です。ならば、まず先に紹介されている『予陽河野家譜』を書いた人物が【岡本合戦】の当事者といえるでしょうか。また、土佐方の文書で先に書かれている『元親記』、次に書かれている『長元物語』ではどうでしょうか。それらは読んで一目瞭然、全て当事者ではなく、人から得た情報を元にして纏められた文書なのです。ここにおいて、当事者の目線で書かれた文書は『清良記』しかないという事が分かるに至ったのでした。「『清良記』が軍記物語である為に、史料的価値を損ねており、そのまま鵜呑みにできない」という事が本当だとしても、この事実だけは認めるべきであろうと思います。
 さて、具体的な解説ですが、最も古い時期に【岡本合戦】を記した『元親記』は長宗我部元親の三十三回忌に当たる寛永八年(一六三一)五月十九日に正重ともいう高島孫右衛門尉重漸という者によって著され、次に古い『長元物語』は、二十八年後の萬治二年(一六五九)に立石正賀によって著されたと言われます。しかし、二つの史料には年数がなく、【岡本合戦】が正確に記録されていなかった事が分かります。そして、『長元物語』には、『元親記』になかった竹内舅聟の悲話が盛り込まれており疑問が膨らみます。『南海通記』は寛文三年(一六六三)に高松の香西成資によって著され、ここにおいて「天正八年」という年数が登場します。内容は『長元物語』とほぼ一緒です。『土佐軍記』は『四国軍記』とも言い、元禄十五年(一七○二)に小畠邦器によって校訂・発行がされたと言われていますが著者は不明。年数は変わり「天正七年二月」となります。そして、土佐の侍と中間の人数が倍になる等、内容に若干の誇張が見られます。
 ここでまた『伊豫史談』で久延彦氏が天正七年説の根拠として上げた三つの文書についてもふれておきたいと思います。まず『緒方家文書』ですが、河野通賢を中野通正としていたり「西」の名前が登場する等、『清良記』の影響を感じる他、非常に不自然な文書です。また、『音地松本家文書』は、『予陽河野家譜』や『伊予二名集』と内容がほぼ同じであり、情報の出処が土佐の史料にあることは言わずもがな。また、『土佐国編年記事略』に見る天正八年の『竜沢俊派文書』に至っては、なんら【岡本合戦】の天正七年説を裏付ける物ではありません。


 今回は少し難しい話になったかもしれませんが、歴史の細事は、一つを正として残りを誤りと決め付けないのが良いのではないかと感じています。ここでは決して天正九年説を正と主張しているのではありません。天正七年説を正として『清良記』を誤りと決め付けて来た、これまでの郷土史学習の姿勢に対して「そんな事ではいけないのではないですか?」と問題提起をしているのです。


                     文責/三間史談会会員松本敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-02-01 01:02 | 郷土史

□『巻二十二』後半p.310~p.315

 さて、一月は昨年残した『巻二十二』の続きを紐解きたいと思います。西園寺を旗頭とする南予の領主達の婚姻関係を理解する上で大変良い史料となっている『巻二十二』ですが、清良は中野との縁組を頑なに拒んでいました。その訳は既に承知の事と思います。そして起こる八章の【三滝城】の合戦。【北の川物語】とも言われる章が含まれているのは貴重なことで、【岡本合戦】より前の合戦とされている事が分かりますが、【岡本合戦】を考える上でも非常に重要な史料と言えます。つまり、【三滝城】の合戦は、土佐が宇和を侵略して行く過程の合戦であり、その侵略を頓挫させる事になるのが【岡本合戦】という流れです。故に、もし【岡本合戦】の天正七年説が正しいとすれば【三滝合戦】は天正六年が七年でなければならない筈です。しかし、通説では天正八年(もしくは天正十一年)とされており、天正八年の事とする『清良記』の記録の方が符合しているように思われます。これは【岡本合戦】の天正九年説を裏付ける一つの史料になるものではないかと思います。


□『巻二十三』p.316~p.334

 『巻二十三』は二月から紐解きますが、先行して解説しておきたいと思います。【岡本合戦】で有名な『巻二十三』ですが、『清良記』では土佐の侍が侵入した岡本城本丸を奪還する一章だけを【岡本合戦】としており、二章からは【橘合戦】となります。そして【橘合戦】は長編の章になっており、その場に居合わせた者にしか分からないような細かな息遣いまでが記録されている力の入れようです。まさしく【橘合戦】こそが、土居の侍が最も誇りたい合戦であったのでしょう。そして、章を変えて三章に【框越合戦】。ここでは大叔父の土居似水を失っており、大きな痛手を被っていますが、土居以外の領主が誰も加勢に駆け付けなかったのは情けない事と、能寿寺の僧であった薫蔵主の口を通して語らせています。また注目すべきは四章です。ここではもう一度、薫蔵主の目から見た【岡本合戦】を描いており、なんと『巻二十三』には二つの【岡本合戦】の物語が記録されていたのでした。そのお陰で、『清良記』では合戦を多角的に理解する事ができるのです。そして、五章では西園寺公が迫目妙覚寺に来られ、軍評定となります。

  『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく
  静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大
  功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ
  のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ
  加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど
  もなり。』

 このように【岡本合戦】を契機とし、天正九年六月より新しく土居領となったのが【堂ヶ内村】(後の土居垣内村)であったという事が分かります。天和元年に編纂された『吉田古記』では既に【土居垣内村】となっていますが、河野領であった【堂ヶ内】が【土居垣内】となったのは土居領になってからの事であろうと思われます。また、【岡本城址】と【八幡神社】が【古藤田村分】に記録されている事から、「まさか土居垣内は古藤田から分かれたのではあるまいか。」という疑問も浮かんで来るのです。このように【岡本合戦】は一つの村の誕生にまで関わっている出来事であり、当事者の多くいる土居が年数を勘違いするという事は少し考えにくいのではないかという気がします。

□おしらせ
 今年三月は『第二回清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。主催は、宇和島市、鬼北町、松野町の三市町合同による主催。会場は近永公民館となります。ぜひ参加して盛り上げましょう。
                    文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-01-16 14:54 | 郷土史

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