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□『清良記を紐解く会』November.2015


 いよいよ今年のラストスパートは、巻二十三に向けての準備作業です。前回の続き、巻二十の後半から巻二十二には、天正七年から天正九年に掛けての出来事が事細かく述べてあり、『清良記』における【岡本合戦】は、天正九年以外に考えられない事となっています。そこで、十一月は、巻二十の後半から巻二十二をひとまとめにし、【岡本合戦】を検証する特別講義をしてみたいと思います。



□『巻二十』の後半p.279~p.291


 さて、十一章「向山、謀叛の事」では、土佐に内通した向山下野を西園寺殿が咎められず、天正七年には下浄土城に帰城させたと述べられていますが、それまでに、長宗我部と土居の手合わせは十度以上、せり合いは二十四度あり、その内総大将を討取ったのは、天正三年二月の外記と丹後の二度であったとも述べられています。つまり、この記事は天正三年から七年の出来事を振り返っている訳ですが、天正七年に【岡本合戦】が起こったような雰囲気は感じられません。


十二章「元親うわさの事」では、元親の次男五郎次郎が香川氏の養子になる話が紹介されていますが、五郎次郎とは香川親和の事で、天正六年の出来事と思われます。その後の記述は、天正十四年に起きる戸次川の合戦の事であって、最初に述べられている「天正三年乙亥の春」の出来事ではありませんので、誤解しないように注意して下さい。


また、河野領北伊予の情勢で再び天正七年の記述が見られますが、小田久万の領主大野直重も長宗我部に内通しており、その弟であった大洲の領主大野直行も言い合わせていたともありますが、河野は長宗我部や大友の調略や軍略から伊予を守る為に、伯父の毛利輝元を後ろ盾にしていた事が述べられています。故に、宇和の西園寺も輝元からの援軍の依頼を断れず、以下の話へと続いて行きます。


そして、282ページに天正八年の記述があるのですが、「天正八年に芝美作が公広卿をあざむきて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、この五カ所元親にとられけるが、その後、天正十五年まで八カ年の間、元親手をさすこともなかりし。」とある訳です。そのままに解すると、天正九年の【岡本合戦】が存在しない事になってしまいます。しかし、芝が公広を裏切るのが天正八年だとすると、【岡本合戦】が天正七年である事もありえない訳です。さて、僅か一日とは言え、都までも聴き及んだという【岡本合戦】を、「元親手をさすこともなかりし」と言えるものだろうか?と謎は深まります。


また、巻二十から織田信長の動向に対する記事が増えてきますが、十三章では土居右京進の話として、【本能寺の変】が出てきます。しかし、それは天正十年の事ですので、『清良記』は底本の記録や回想を元に編集された物語である事が分かります。故に、記事の年数が行ったり来たりする書き方となっています。


 ところで、織田信長と毛利輝元との戦は、宇和の武将達にとって、身の処し方を悩ませる事でした。十五章では誰が遠征に行くかでくじを引かされ、たびたびの役に清良の難儀している姿が描かれています。清良は小早川の配下として従軍しており【石川谷】を請け持って防戦していますが、隆景が逗留した【亀山】が、後の天正六年に明智光秀が信長の命令で築城した【亀山城】の前身なのかどうかについては些か疑問が残ります。



□『巻二十一』p.292~p.304


 巻二十一から天正五年の事となりますが、話題は変わらず中国への遠征です。ここで登場人物の関係性を少し説明しておきたいと思います。安芸の毛利元就には三人の子供がおり、嫡男が毛利隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景となります。毛利輝元は十一歳の時に父隆元が急死し、家督を継ぐ事になりますが、三本の矢の教えの如く、輝元を支えて行ったのが吉川元春と小早川隆景でした。


 三章からは【上月城の合戦】が登場。「同年六、七、八の三ヶ月」というのが秀吉が【上月城】を攻略する合戦で、「あくる天正六年」からの合戦が、輝元が【上月城】を奪還する合戦となります。出雲の尼子義久が毛利元就に屈した事から、お家再興を願っていた家臣山中鹿之助が秀吉軍となって尼子勝久と【上月城】に籠っていましたが、『清良記』では土居との競り合いが描かれ面白く思います。


五章に【室町殿】とあるのは注目すべき点です。と言うのは、室町幕府は信長が室町将軍足利義昭を追放させた事で終焉したと思われていましたが、現在では京を追放された後も将軍職を行っていたと見る向きが主となっているからです。室町将軍足利義昭が最終的に下向した地は備後国【沼隈の鞆】。毛利輝元の所領する地であり【鞆幕府】とも呼ばれています。


そして、十一章から十章が天正七年の記事となっています。現在、愛媛県史の定説によれば【岡本合戦】は天正七年の事とされていますが、『清良記』では当然、天正七年の記事とはなっておらず、そこには全く別の状況による出来事が綴られています。しかし、それが【岡本合戦】に繋がって行く事になります。


さて、十二章で注目すべきは、信長の家臣であった楠長庵(楠長諳、楠木正虎)と西園寺公広とのやり取りです。楠長庵が言うには、「信長が西国に出馬する時には、西園寺に頼りとなって欲しいのに、なぜ度々毛利へ加勢するのですか?」と言うのですが、公広卿は「土佐や豊後との戦に暇ない状況であるのに、郡内や道後が属している毛利と仲違いしていては、信長公が出馬するより先に西園寺は持ちません。それを分かっていただけなければ、西園寺も信長公の願いを聴いてはいられません。」と答えています。そして、天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと言うのですが、最近まことしやかになってきた【本能寺の変】の四国征伐阻止説を考えてみた時に、まさか西園寺には信長の四国征伐待望論があったのではなかろうかという疑問も頭を過ぎります。そして、『清良記』からだけの見方とはなる訳ですが、天正八年に毛利輝元の後ろ盾がなくなった事で、天正九年に【岡本合戦】が起きる事になったのだろうかとも思うのです。


十三章は、天正七年の七月に起きたという【一の森城】でのクーデターです。竹林院の被官、御手洗図書と言う者が土佐勢を二百余人【一の森城】に引き入れた為、竹林院公義は【深田の上城】へ逃れますが、勇敢であった弟の竹林院公明が【一の森城】を取り戻しています。これは小競り合い程度の小規模な合戦ではあったようですが、長宗我部による伊予の切り崩しが宇和にも及んできた証拠と言えるでしょう。



□『巻二十二』p.305~p.315


 いよいよ【岡本合戦】まで残す所、この巻二十二のみとなりましたが、ここで登場するのが、芝作州こと芝美作守政輔です。『清良記』によれば、長宗我部の宇和郡への調略は、この芝一族によって行われます。【岡本合戦】で本丸へ侵入できたのは、城主河野通賢が内通していたからかもしれませんが、芝一族の三男四郎右衛門が河野通賢の聟であった事が理由として考えられます。【橘合戦】では土佐勢の本隊を手引きしたのは四男芝源三郎と次男芝左京進であったし、長男芝一覚と三男四郎右衛門は土佐勢に加勢して【框越え合戦】を起こしています。合図ののろしが上がった場所は、①岡本(土佐先発隊)、②奥野々(芝左京進)、③原の森(芝源三郎)、④奥の川(土佐本隊)、⑤伽の森(芝一覚)であり、土佐勢の侵攻ルートが芝一族の領地であった事が伺いしれますが、その準備が調って行く動向が、巻二十二の内容ではないかと思います。


 さて、一章には「天正七年の暮れより元親に内通す」とあり、『清良記』の通りであったとすれば【岡本合戦】も天正七年には起こりえなかったと思われます。そして、天正八年に行ったと思われるのが、三章の河原渕領主庄林日向守法忠を蟄居に追い込んだ【河後の森城】のクーデターです。五章、天正八年七月の末には、芝作州は土佐、阿波、讃岐から二千騎領内に陣取らせ、西園寺殿が後詰しない事を計算した上で、「土佐勢一万騎寄せ来たり、急ぎ後詰あれ」と、たばかりの早馬を走らせたとあります。


 西園寺に代わり駆け付けたのが土居清良です。そして六章で芝源三郎と問答。


「それがし清良、別して敵にあらず。西園寺の仰せをもってかくのごとくなれば、西園寺よりかくとこれなき内は、かこみをとくことも、その陣を引くこともまかりならず。そのうえ、奥野々に敵六七百も見えたり。その方の城を攻め落として後、奥野々の敵は打ち果たすべき」

とありければ、源三郎たえかね

「さらば、それがし二心なき証拠には、この城を明けて渡し申すべし」

 とて、源三郎甲をぬぎて弓をふせ、清良の陣へぞ出たりける。


 清良は源三郎を討ち果たすべきと思われてはいましたが、土居も勢力ぎりぎりの所で戦っていた為に、被官が一人でも打たれるよりは、と源三郎を捕虜にして【河後の森城】を占拠。まだ土佐方を引き込んでいる【竹の森城】に矛先を移す事にします。しかし、芝美作守が西園寺に免文を出し西園寺が赦免すると、流石の清良も呆れ果ててしまいます。このように、西園寺は勇猛果敢な武将ではなく律儀な仁将であった為、長宗我部の調略を受け続ける事になって行きます。


 その一つが、また、八章「北の川対馬守通安、最期の事」です。北の川通安は天正八年八月二十一日、【三滝城】で果敢に土佐勢と戦いますが、西園寺の後詰はなく、魚成が土佐方に寝返った事で、野村、赤浜が援軍を送れず、大番、甲の森、猿ヶ嶽の三城が落城。九月一日には僅かな勢が【三滝城】に集まり、土佐の大将久武内蔵助、桑名太郎左衛門、依岡左京を三度打ち破りますが、九月十日、遂に【三滝城】は落城してしまいます。


 九章、『清良記』は、その背後にも芝美作守の謀計があった事を伝えています。驚いた西園寺は芝作州の本拠、西の川【鳥屋の森城】を包囲。芝美作守は久しく連れた妻を一人、人質に出したようですが、一覚、左京進、四郎右衛門の妻子を人質に取るのでなければ全く意味がないと、西園寺のおろかさが再三嘆かれています。


 十章からは天正九年の記事に入ります。先ず正月には西園寺に取り入って人質となっていた妻を取り戻した芝美作守ですが、三月の初めには掌を返し土佐方の加番の武士を五百余騎も置き込ませて、河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は完全に土佐分となってしまうのでした。


 そして、巻二十二の最後、十二章は意味深げな言葉で終わります。

「これより以後、土佐方より小勢にては一度もかかり得ざりける」と。


 これは、天正九年三月九日、土佐の加番衆五百余騎によって清延の【薄木城】が取り囲まれたのを、土居外記、真吉新左衛門、善家八十郎、桜井五左衛門、等が駈け付けて土佐勢を討ち散らした事によるものですが、この二ヶ月後が、総勢三千八百余騎、雑兵一万三千人によって押し寄せる【岡本・橘・框越え合戦】となります。



□【岡本合戦】に向けてNEXT.2016


 岡本合戦は、「激戦」「大合戦」「最大の勝利」という謳い文句ばかりが有名で、その本当の姿を大変誤解させてしまっています。岡本合戦は、僅か一夜昼の合戦であり、土居清良は名将といえども、常に崖渕の戦を余儀なくされていました。岡本合戦が「最大の勝利」であったと言うのは、敵の大将を討ち取る事により、少数の兵で大軍を破ったという戦ぶりによるものですが、その中で最も称賛されたのは、橘の丘に隠れていた鉄砲隊が、合図が下るまで絶対に動かなかったという完璧な指示系統でした。勝鬨が挙がった「申の中刻」は午後四時。「瞬殺」と言って良い勝利でしょう。また、その勝利は元親征伐を目前としていた信長にも伝わったと言われます。来年春の『第二回清良記シンポジウム』は、河後森城の発掘調査が主と聴いていますが、いつか岡本合戦でも一旗挙げてみたいものです。



(文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-11-01 22:37

□『清良記を紐解く会』より


 二年前の平成二十五年は、『清良記』の紐解きを始めた年でもありましたが、バスをチャーターし、三間史談会の念願でもあった「清良、土佐へ落ちられる事」の現地研修をしたことが何よりの思い出となっています。準備の為に六回も高知まで足を運び、現地の視察や聞き込み、そして資料集めを行いました。そのような中で沢田勝行氏(西南四国歴史文化研究会副会長)との出会いがありました。今月の課題「巻二十」では、その時に宿題として残した【土居宗三】が再び登場します。今月も『清良記』の世界を一緒に堪能いたしましょう。



□『巻二十』を紐解く


 第一章「西園寺殿より安芸毛輝元への加勢の事」は、地元を離れまして日本史のよい勉強です。また、『清良記』の記述が、日本史の理解といかなる違いがあるかにも注目していただけると、更に楽しく読む事が出来ると思います。先ず、河野通直と毛利輝元の関係が気になると思いますが、「叔父甥の間なれば」と書いてあると通直が叔父で輝元が甥のようですが、実は逆で、輝元の奥方と通直の母親が共に宍戸隆家の娘なので、輝元が叔父で通直が甥の関係であったようです。


 そして、輝元と織田信長の合戦。そこに登場するのが「九鬼右馬之丞」です。九鬼右馬之丞とは、織田信長に仕え、水軍大名と呼ばれた、九鬼水軍の当主にて志摩国主となった九鬼嘉隆の事です。毛利水軍とは「木津川口の合戦」を戦っていますが、九鬼水軍は三千隻。対する毛利水軍は倍の六千隻を有しており、数で劣っていた九鬼水軍は毛利水軍に苦戦していますが、その後、鉄甲船を完成させる事に成功し、天正六年の合戦で毛利水軍を打ち破ることになって行きます。


 第三章に「閏月」の記述がありますので、少し説明しておきたいと思います。旧暦である「太陰太陽暦」では、一ヶ月が三十日、もしくは二十九日(小の月)なのですが、それでは次第に月と季節にズレが生じて来ます。これを修正するのが、十九年に七回の割合で「閏月」を入れるという方法でした。大まかに言うと、「およそ三年に一度、十三ヶ月の年がある」という事になります。「二十四節気」は「正節」と「中気」が交互に並んでいるのですが、「中気」が含まれない月が現れた場合、その月が「閏月」となります。


 以下、線を引いているのが「中気」

「立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒


 第八章「刀、脇指に寸袋用いる事」では、あの【土居宗三】の名前が再び登場しています。

『長宗我部元親の侍に、土居治部とてありしは、清良の姉むこ、一条家門の伯父土居宗三なり。家門の父、房家卿の代に、清良の姉を所望ありて、また、その後、土居の名字をぜひにと懇望して土居近江守と言いしを、後に宗三と名乗りける。家門の伯父にて、そのうえ、一かどの侍なれば、一条家の一の家老なり。この宗三、元親が武略をさとり、たびたび家門へ諫言しければ、かえって仇となりて、家門、宗三を追放ちにせられけり。それより土居治部は立ち退きて元親へ奉公す。この治部は清良の姉の子にはあらず、先の腹にて、清良の実の甥にはあらねども、右の由縁によって内々元親の様子を聞き合わせては土居へひそかに告げ知らせ、また、土居よりも尋ね問われけることたびたびなり。』



□参考資料として


織田信長 天文 3(1534)年 5月12日生

      天正10(1582)年 6月 2日没享年49歳


九鬼嘉隆 天文11(1542)年      生

     慶長 5(1600)年10月12日没享年59歳


毛利輝元 天文22(1553)年 1月22日生

     寛永 2(1625)年 4月27日没享年73歳


河野通直 永禄 7(1564)年      生

      天正15(1587)年 7月14日没享年24歳



文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸



※【三間史談会会報併せ三間郷土史研究会だより】だけでは十分な記事が書けませんので、ここで少し説明をしておきたいと思います。先ず、この記事は論文や資料という類の位置付けにはなっておらず、あくまで【清良記を紐解く会】の呼び込み用として興味を引く為に書いています。なお、【清良記】に対する詳細な解説は紐解く会の中で、【清良記】を読みながらしていますので、ここに書いてある事を勉強している訳ではないのでご理解ください。それでも、今回は、【土居宗三】について誤解がないように少し述べておきたいと思います。


 先ず、「清良の姉むこ」とあるのは【お初上臈】の事ですが、正確には「清良の従姉むこ」で、祖父【土居清宗】の嫡男【土居清貞】の長女が【お初】です。ちなみに、【清良】は【清宗】の三男【土居清晴】の三男になります。

次に「一条家門の伯父土居宗三」とありますが、【一条家門】とは、土佐一条家四代にして、最後の当主となった【一条兼定】を指しており、【家門】というのは、【兼定】の戒名と思われます。キリシタン大名としてカトリック式の葬儀を懇願した【兼定】でしたが、願いは叶わず、伊予国宇和郡の戸島にある龍集寺に墓地があります。その【兼定】の伯父が【土居宗三】であったというのですが、土佐一条家は、京の五摂家である一条家八代【一条兼良】の嫡男にて九代の【一条教房】の次男【房家】が、土佐一条家の初代となります。その後は、二代【房冬】、三代【房基】となって、四代【兼定】となりますが、二代【房冬】は父【房家】が亡くなって間もなく自殺しており、粗忽者であった三代【房基】もなぞの死を遂げてしまう事で、京一条家の後継として養子に出されていた【兼定】は離縁され、土佐一条家四代として、六、七歳の幼少期に土佐中村に帰ります。その後見人として名前が出て来る者の中に、【清良記】では、【房家】の弟【土居近江守忠家】、後の【土居宗三】が登場するのですが、一説では【一条康政】という人物もおり、【宗三】と【康政】が同一人物なのか、それとも別人なのかと疑問でしたが、【清良記】を読む範囲では、【宗三】が亡くなった後にも【康政】の出陣があり、二人が別人であった事が確認されています。【宗三】の事を、他の家老よりは後の時代に、三間の土居家からヘッドハンティングしてきたのではないかと言う人もいるようですが、私はそうは思いません。【敷地軍記】を読めば、【宗三】は土佐一条家初代【房家】の時からの筆頭家老だったことが分かります。【長宗我部地検帳】に、【宗三】の領地が分散してあるという見立ては、新参者が空いた土地を領したのではなく、問題のある土地の管理を全て引き請けていたからではないだろうかという気がします。また、幡多郡の郷土史料では、【宗三】は、【兼定】が平田のお幸という百姓の娘に執心して政務を疎かにしている事を責めた事が咎となって首を斬られたという話がありますが、【清良記】では一切そのような話になっておらず、土佐一条家の名誉を重んじる姿勢が感じられます。そして、【巻二十】では、【宗三】には、【お初】ではなく、先妻との間に【治部】という嫡子がいた事が記事となっています。中筋川沿いに、土佐中村から宿毛へ向かう途中、【上ノ土居】という地区の一つ前に【江ノ村】という地区があり、【小松山長法寺】に土居家の墓所がありますが、【宗三】は本来は一条家でしたので、墓には【楓】ではなく【下り藤】の家紋が彫られています。そして、この【長法寺】を開基したのが、【小松谷寺殿】とも呼ばれていた【一条康政】でした。【康政】は、長宗我部の時代になってからも領地を有した唯一の一条家だったとも言われています。【長法寺】には【康政】の墓と言われている大きな宝篋印塔が一基あります。中村には一条家代々の墓は各所にありますが、宝篋印塔はこの一基だけなのだそうです。



※参考資料として


一条兼良 応永 9(1402)年 5月 7日生

      文明13(1481)年 4月 2日没享年80歳


一条教房 応永30(1423)年      生

     文明12(1480)年10月 5日没享年58歳


一条房家 文明 7(1475)年      生

      天文 8(1539)年11月13日没享年65歳


一条房冬 明応 7(1498)年      生

     天文10(1541)年11月 6日没享年44歳


一条房基 大永 2(1522)年      生

      天文18(1549)年 4月12日没享年28歳


一条兼定 天文12(1543)年      生

     天正13(1585)年 7月 1日没享年43歳



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 高知県四万十市江ノ村にある【小松山長法寺】にて、小松谷寺殿の宝篋印塔を見上げる、羽藤氏と沢田氏。












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by kiyoyoshinoiori | 2015-10-01 22:52 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より


 今年の夏は思いのほか短く、早涼しい秋風に目を覚まします。九月一日は旧暦の八朔を曽根地区の天満神社がお祭りしますが、宇和島市指定の無形民俗文化財【天神花踊り】が奉納されています。時は戦国時代の天正年間。曽根天満神社の八朔祭に、祭りの踊りを見に来た歯長城の殿様が、里人に紛れて踊っていた土佐の侍に囲まれて討取られたことから、その殿様を供養する為に踊り継がれてきたものです。秀吉の四国征伐がもう少し早ければ命を落とさず済んだのかもしれませんが、その故事によって今があるのもまた事実。【天神花踊り】は、今年でおよそ四三○年を迎えるそうです。



□『巻十九』を紐解く p.253p.269


 巻十九は重要です。十一節の山本左馬進の記事から【岡本合戦】の天正七年説を主張される方もいますが、それ以上に山内外記の記事が問題です。


 巻十九は一節「山内外記武勇の事」から始まりますが、山内外記は土佐の史料では【岡本合戦】で討取られたとされている武将です。しかし、『清良記』では、天正三年二月二十八日に討取ったとあり、【岡本合戦】では、山内外記の仇討ちをしようとした甥の山内左近と四郎兵衛が討取られています。天正三年は亥の年。【土居七口の鑓】と名を揚げた、清良三十歳の春のことであったといいます。


 巻十九は巻十八とも矛盾点があります。巻十九では、十一月十日に山内外記が河後の森を攻めた時、「清良、こたびはわずらいなれば出合われず。西園寺殿出馬ありて」とあって西園寺卿の活躍が伺えますが、巻十八では、十一月十一日に福富隼人と国吉刑部が河後の森城を攻めたことになっており、「こたびもまた、黒瀬殿よりは後詰め無くして、清良へぞ仰せ越されたり」と、ニュアンスが真逆になっています。


 五節では、清良の元親やその被官に対する厳しい批判が記事となっていますが、一方で一条の旧臣であった安並左京と石黒若狭が謀反を起こして討死したことを高く評価。「一条の侍には安並、石黒、さては山内なりと言われしこと、いまこそ思いしられたれ」と言われています。


 さて、また巻十九は、古城のことがいろいろ確認できるので紹介しておきます。先ず六節、天正三年正月に宇和島城の前身【板島丸串城】の城主が西園寺宣久となり、家藤監物は【道免の城】へ帰りますが、【道免城】は高串川の上流です。そして、一節にある西園寺卿が陣を敷いた【迫目村中の城】は迫目岡本家の裏山で、巻十四では、元亀二年に三間を攻めた一条兼定も陣を敷いています。このことから【鼡の尾】と呼ばれていた城が迫目の【下城】であることを確認。十節には【蜂の巣】の地名も記述されていました。この地名は三間川に架かる橋に残されています。また、【西城】が【馬爪】と呼ばれていることは初めて知りましたが、昔ながらの地名が今なお残されることの大切さを感じた次第です。


 そして、この【迫目城】を舞台として土佐の軍大将山内外記率いる二百騎と、清良の被官川添喜兵衛率いる五十騎が激突。川添喜兵衛が山内外記を討取れば、善家八十郎、桜井五左衛門は元宗口、有馬兵庫、土居似水、土居三河、安並藤蔵は陣が森の敵を追い落とす。【土居七口の鑓】とは、この七人のことでしょうか。



□お知らせ


『清良記を紐解く会』では、松浦郁郎校訂『清良記』の内容を紹介することを目的にしています。歴史的事実は、誰にも分からないことですが、私達は、先ず史料として『清良記』に何が書いてあるのかを正確に把握して行くことを目標にしたいと思っています。公民館の工事が終わりましたら『三間土居旧本』の紐解きも準備しておきますので楽しみにお待ちください。



                    文責/三間史談会々員松 本 敏 幸









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by kiyoyoshinoiori | 2015-09-01 18:07 | 郷土史


□『清良記を紐解く会』より


 新規会員も増え、益々、【三間史談会】の存在意義を感じているところですが、『清良記を紐解く会』は、まだまだ序の口。来年三月に『清良記シンポジウム』に参加し、来年内に全巻の紐解きを終えましたら、再来年は、愈々、三間公民館に保管されている、宇和島市指定有形文化財『清良記』(三間古本)の紐解きを進めて参りたいと思います。現在、三間公民館は耐震工事中。新しい三間支所の完成も楽しみにお待ちください。



□『巻十八』を紐解く


「天正元年はいかなる年ぞや。五畿内より東は万作なるよし聞こえけれるが、山陰、山陽、南海、西海は大旱魃にて、前の元亀三年壬申秋八、九月は晴れて雲なく、雨降らず。十月の節に入る日より晴れて、冬至の三日前よりまた雨降る。十二月は春雨のごとく暖かなり。さて天正元年癸酉正月初めより二月彼岸まで雨降らずして、所々の井水かわき難儀せり。彼岸より雨降りて四月朔日までやまず。二日に天晴れしより、また五月朔日まで照りつづき、麦作ことごとく損じ腐りて熟実なし。五月朔日より七月六日まで雨やまず降りつづき、同月五日の午の刻ばかりより雷電おびただしく鳴り響き、天地振動して今にも傾けるがごとく、男女童衆は気を失い、人家ことごとく扉を閉ざし、臥して頭をもたげることあたわず、魂を失う。翌六日の昼まで昼夜十二時の間鳴りつづきたり。大洪水にして野原海のごとく、七夕より晴れて九月九日まで一滴も降らず。」


 巻十八の記事は天候の厳しさを述べる記事から始まります。その刻々と述べられる記録から、『清良記』の底本は膨大な日記だったのではないかと思わされるのですが、『清良記』が農書という形で当時の生活を記録した唯一の資料であったように、おそらくは、これ程天候の記録を述べた資料も、また『清良記』だけなのではないかという気がします。


巻十八で気になるのは巻十七との関連です。巻十七の高野参詣、巻十八の領民に食事を振舞う話は、どちらも有名ですが、同じ天正元年正月から始まっており、記事に矛盾がないか気になるところです。しかし、土居の領内は、宗案の指導によって他領より何倍もの備蓄があります。四ヶ月間掛けて高野参詣できたのも、領民に米を分け与えることができたのも、正に清良の御徳であったと言えます。


 二節は天正二年一月三十日。清良は数え二十九歳を迎えます。しかし、戦国の世にあって領主の誕生日を領民共々祝うとは、どんなに深い情で結ばれていたかと驚かされます。戦国乱世は日本統一の為に避けられない道だったかもしれませんが、良い領主に恵まれた村は本当に理想的な共同体だったのではいかと思います。その後につづく、事細やかな諭しと奨励は金言であると言って良いでしょう。


 四節は元親の伊予攻めの始めとなりますが、よく読めば、ここが『清良記』の【四万十川合戦】のようにも思えて興味を引きます。天正二年十一月二日には河後森城も標的にされたようで、これまでと違い法忠もたまらず後詰を願いますが、「家門は土居が請け取りたる敵なれば言うに及ばず、元親はこたび初めてなれば西園寺殿より下知しだいなり」と家老と詮議する清良でした。しかし、結局今回も下知を待つことなく元親勢をねじ伏せるのでした。



□お知らせ


 なかなか進んでいなかった『よど第十七号』の原稿が完成しました。事務局に届けたところ、「一番乗りだよ」と大変喜んでいただけました。内容は未発表の論文とされていますから、ここでは具体的な内容については申せませんが、遂に岡本合戦の年数問題で『清良記』を取り巻いてきた事情を公にすることができました。それは、また、【私達自身が、しっかりしなくてはいけない】ということでもあります。皆様、今後ともよろしくお願いします。



文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸










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by kiyoyoshinoiori | 2015-08-01 23:31 | 郷土史


□『清良記を紐解く会』より


 先月の【清良記を紐解く会】では、松浦郁郎先生が昭和四十年代~五十年代に新聞社や雑誌社から受けたインタビュー記事を持って来て下さり、また大変貴重なお話を伺う事ができました。その当時私は三間小学生でしたが、それで学校の先生方も郷土の歴史や昔話で盛り上がっていたのだなと思わされました。そして、どの記事を読んでみても思うのは、清良記と松浦郁郎先生との運命的な出会いが本当にドラマチックに紹介されていて、大変感動的だったという事です。是非、私達も負けないように郷土の宝物【清良記】を感動的に紐解いて参りましょう。



□『巻十七』を紐解く


 巻十七は天正元年正月からの始まりとなります。【天正元年】は織田信長によって足利義昭が追放され、室町時代から安土桃山時代となる大きな節目です。ところで、年号が【天正】に改元されたのは元亀四年七月二十八日。もし清良記の原本が日記であれば、そこには元亀四年正月と書かれていたのかもしれませんが、天正元年正月の記述から、水也によって記録がきちんと編集されていた事が分かります。このような改元を【立年改元】と言います。日本の改元は明治までが立年改元でしたが、大正と昭和は当日改元、平成は翌日改元となっています。もう一つ暦のお話をさせていただければ、天正年間には【西暦】がユリウス暦からグレゴリオ暦に変更される出来事が起こります。それが天正十年。理由は割愛しますが、【本能寺の変】の年と覚えていただければ覚えやすいと思います。そして、その前年、天正九年が清良記では【岡本合戦】の年となります。「ここで出すか!」と思っていただければ

本懐ですが、本能寺の変と一年しか違わない岡本合戦の年数を水也が間違えたりするのか!と言いたい訳です。もしも間違いでないのなら、意図があって嘘を書いたとしか思えません。しかし、水也に嘘をつく理由はないのです。嘘をつく理由があったとすれば、それは、中野殿の方だったのではないか…それが私の天正七年説批判です。ですが私は歴史学者ではありません。決して天正九年説という説を主張してはいないのです。単に清良記には天正九年と書いてあると言っているだけに過ぎません。しかし、それが重要です。岡本合戦の年数を二年前倒しにした年表もありますが、それでは清良記が成り立たない訳です。歴史学者は歴史を研究するのが仕事ですが、同時に文化財を守る事も大切な役目ではないでしょうか?どうして誰もそこに気が付かなかったのか?郷土の文化財であれば否定的批判ではなく、肯定的批判の立場に立つべきでした。せめて郷土史家はそうあるべきだと思います。


 さて、巻十七の内容に戻ります。しかし、よくわからない事だらけというのが巻十七の特徴です。一節に「三好長張、信長の随身のゆえ」とありますが、天正元年の当日は阿波の三好氏と信長は対立をしていた筈…三好も信長もまだ伊予を攻める段取りではなかったのでしょう。宇和の武将は度々道後に詰めたようですが、寄せ来る敵もなく、清良公高野山参詣の話となります。本当に清良公が高野山参詣に行ったのかという疑問もあると思いますが、ここで関心を持つと面白いのは、戦国時代にどのようなルートで高野山参詣をしたのかという事です。また、その道中の物語も興味深い物となっています。これまでは、清良記の価値を史実か否かという尺度で評価し過ぎてはいなかったでしょうか。直ちに史実として理解するなという忠告は、何方も良く分かった事と思います。これからは清良記の【物語】としての価値を高く評価して行くのも良いのではないでしょうか。その後、清良公は伊勢参宮にも参ります。これは史実か?それとも水也の空想か?どちらにしても、郷土の宝物の古事に興味津々、心ウキウキな我々は、遼東の猪達なのであります。


 そして、巻十七で忘れてはならない事は十一節『長宗我部元親、一条家を破る事』です。「長宗我部覚世、その子元親、二代共に前の一条房家卿、同家門卿の高恩をもって人となりしを、たちまち恩を忘れて、蓮池の城をば弟の左京進親泰、粗忽者にて取りたるようにしなし、また、佐竹信濃守は家門の内にては一の大身なれば、これを日頃、元親、計策にてくり付けしと聞こえしによって、家門よりその子細どもを咎めて、打ち向かいて攻め亡ぼすべしと議定せられしかば、全く某逆心なきと、いろいろの弁口をもってし、度々の起請文を出し、その上に人質を出してその難を免れたり。」と権力では敵わぬ元親でしたが、次第にその計策は功を奏し、遂に「天正元年十一月末に、大将家門卿を持て成す振りにして、上下三十人ばかり、下田という所より船に乗せ奉り、直に追い出したるこそ恐ろしけれ。」中村市誌では、その後、豊後の大友宗麟と伊予から支援を得た家門卿が元親と土佐の雌雄を決すべく【四万十川合戦】に挑むのですが、なぜか清良記には記述がありません。しかし、清良記を読めば、清良公を始め伊予の領主が家門卿を良く庇護し奉っており、この上なく大事に思っていた事が分かる記事となっています。



□お知らせ


 先月お知らせした「三輪田俊助氏」の名前が間違っておりました。訂正しお詫び申し上げます。 「介×→助○」


 さて、次回は巻十八です。ここではもう一度【天正元年正月】の記事から始めとなります。原本の記録を二つに分けたのか?それとも記者が複数人いたのか?それは分かりませんが、天正元年をもう一度別の角度から読める貴重な記事となっています。八月に紐解きますので楽しみにしていて下さい。


 また現在【よど第十七号】に向けて記事を執筆中なのですが、実は全く筆が進んでおりません。偉そう過ぎたり、謙虚になり過ぎたり、子供の頃の思い出から始まったり、清良記を紐解く会の紹介から始まったりと、何度も何度も原稿を書きボツにしています。ごちゃごちゃさせ過ぎず簡素にするのも良いかもしれません。なにしろ私は歴史学者ではありません。知識も史料も使わずに、心一つ、感性一つで歴史と文化【清良記】を大切に思う気持ちについて書けたらと思っています。少しでも何かを批判しようとするとかどが立つのですが、もうこうなったら仕方ないですね。精一杯頑張りたいと思います。


 清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。コメントを入れていただければ必ず返信しますので宜しくお願いします。


 註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事

   を目的としています。

 註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材として

います。



                  文責・三間史談会々員松 本 敏 幸


















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by kiyoyoshinoiori | 2015-07-01 16:29 | 郷土史
    六月二十日の『清良記を紐解く会』では【巻十六】を紐解きましたが、松浦郁郎先生が先月の長宗我部まつりの折に約束してくれておりました、新聞社や雑誌社から受けた取材の記事というのを持って来て下さいました。今回は紐解きを早々に終いつけ、皆で先生の当時の思い出話に耳を傾けました。以下は、その時の様子です。

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    この日、松浦郁郎先生はまた大変喜んでおられ、沢山の思い出を話して下さいました。また、当時の新聞記者の記事や雑誌社に掲載した先生の記事は大変感動する物です。私達は、このように感動的に『清良記』を紹介して行かなくてはいけないなと思わされました。記事は先生のお許しを得て全文コピーを取らせていただきましたが、このブログでもアップさせていただく事にしました。楽しみにしておって下さいませ〜


    松本より(^_−)−☆




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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-20 22:34 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より

 

    五月十六日〜十七日、念願叶いまして、初めて【長宗我部まつり】に行って参りました。『清良記を紐解く会』の勉強は、これから長宗我部元親との合戦がメインとなって行きますが、『清良記』では合戦の相手である長宗我部元親の事を良く書いている事がなく、郷土に攻めて来た事を憎む気持ちになる人もいるでしょう。しかし、現代を生きている私達が争ったり憎み合って良い筈がありません。『清良記を紐解く会』を始める前には二回長宗我部氏の史跡めぐりをしましたが、高知の人達から愛され誇りに思われている長宗我部元親が大変羨ましく、また大変好きになりました。これからは仇同士の関係ではなく、共に高め合える関係になる事が大切だと思いました。

 


□『巻十六』を紐解く

 

    さて、巻十六は土佐一条家と宇和領主達の和睦から話が始まります。ところで、なぜ清良記は土居の事ばかり良く書いて、中野、深田、定延など他家の事は良く書かないのだろうと疑問に思われている方もいるでしょう。その理由については、著者【水也】が清良記を著そうとした動機を巻一の一節最後の一文に明記していますので、是非紐解かれてみて下さい。清良記の全ては、正しくその為に書かれていると言えます。そして、清良記で憎まれ役になっている領主に共通して言える事は、皆土佐の長宗我部元親に内通していたという事です。西園寺十四将とは言われますが、その約半数が長宗我部の調略を受けて寝返っていたのですから、清良記とは土佐や豊後の武略だけではなく、十四将を二分する調略からも宇和郡を守った清良公の生き様であったと言えるのです。

    そして、清良記がなぜ長宗我部元親を憎むのかという理由が巻十六の一節です。つまり長宗我部は兼序の代に本山との戦に敗北し、国親と元親が土佐一条家の元へ身を寄せており、一条家が仲介してくれた事で岡豊城主に戻る事ができたのですが、そのような恩義がありながら、元親は近隣の領主を従えるばかりか、一条の家臣まで調略し、遂には一条家に変わって土佐に君臨するようになります。房家の弟で兼定の伯父、筆頭家老だった宗三は、逸早く元親の調略に気付き兼定に諫言しますが、それが原因となり手打ちになります。宗三は清良公にとっても伯父でしたが、豊後大友の大寄せに宇和郡が敗れた時には、それを頼った清良公にも一条から受けた恩義があります。元亀三年に和睦の儀が調ったのは、一条家を倒せばその恩義が無駄になり、元親が宇和郡の直接の脅威になるという判断でした。この和睦により豊後との和睦も進み、宇和郡の領主達は一条家に加勢して元親と対峙するようになって行きます。このように清良記は一貫して主君への恩義や忠義を説く教科書となっており、その反面教師が元親だったと言えます。しかし、土居に元親と同じような考えがなかったのかといえばそうではありません。巻の二を思い出してみると、清良公の祖母妙栄が「土居がその気になれば西園寺も河野も従えて、四国でも天下でも取る事ができるぞ」と夫土居清宗を唆しておりました。それに対する清宗の答は「NO」。このように下克上の時代にあっても絶対的な忠義を尽くす土居でした。


 

□『伊代千句』について

 

    また、巻十六で見逃せないのが【伊代千句】です。伊代千句とは、金山城主であった有馬殿今城能親が文才に秀でおり、その評判から京にまで上り連歌を連ねたという話です。

 

    『ここに今城肥前守能親とて、徳能弾正忠能宗より七代の孫に、文武両道、和歌の達者あり。天文年号の初め、千句の連歌をつらね、そのころの好子、京の周桂の披見に入りければ、まことに殊勝なり、田舎の叡聞にはべり、この能親を伊代千句と召されける。それより諸人、能親と言わずして伊代千句とぞ呼びける。その後、能親、礼儀のために上洛して、また京都において千句を催す。巻頭の御発句、関白殿、

    「宿りとへ 都ぞたらね ほととぎす」 梅

    「月の御空の 夏ちかきかげ」    能親

    「朝みどり 日も夕立の 水晴れて」 周桂

    この末に関白松殿御句どもあり。また回り発句に

    「風を手に 心としむる 扇かな」 能親 (以下省略)』

 

    伊代千句といえば、熱心に教えて下さったのが池本覺先生です。池本先生は私が三間小学生の時の音楽教諭。課外授業では郷土の史跡めぐりをして下さいました。また福鹿定公民館長時代の公民館事業で郷土史学級が開講され、三間町誌や清良記について教えて下さいました。本当は【伊代千句】の紐解きは是非とも池本先生にお願いしたかったのですが、今回は私がするという事になりましたのでよろしくお願いします。

 

 

□『西南四国歴史文化研究会』の記念講演に参加して

 

    これもまた私の念願が叶ったという話です。五月三十日、愛南町の御荘文化センターで行われた西南四国歴史文化研究会の記念講演、石野弥栄氏の『天正期宇和郡の政治情勢と戦国領主たち』に行って参りました。石野弥栄氏は愛媛県の中世研究の第一人者です。仕事の為に遅れて会場入りしましたが、話は「最近インターネットで岡本合戦天正七年説を批判し、天正九年説を唱えている人がいる」「これまで天正七年説の根拠を省略し、説明して来なかった事も悪かった」と言われ出した所で、その根拠を蕩々と説明し始めたのです。

    得たりや!私は大変感激しました。それは三年前に石野氏に初めてお会いした時には、「もう長く清良記の研究に関わってないから」と質問に答えていただけなかったからです。清良記を紐解く会は、その半年後にスタートした訳ですが、どうすれば石野氏に清良記について語っていただく事ができるかと、昨年十二月の特別講義②は、その為の賭けでした。今回こそ質疑応答しなければと思っていましたが、講演中に岡本合戦の年数問題に触れていただいて、予想を遥かに超えた結果となりました。今回の講演は来年発行される『よど17号』の記事となります。私も愈々本領を発揮させていただき『清良記』への関心を盛り上げて参りたいと思います。



□お知らせ

 

五月三十日、三輪田俊助氏がお亡くなりになられました。氏は松浦郁郎校訂『清良記』の挿し絵を描いて下さいました。謹んでご冥福をお祈り致します。

 

 

 

清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。

コメントを入れていただければ、必ず返信しますので宜しくお願いします。

 

 

 

註一清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的としています。

註二清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。

 

 

 

文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

 


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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-04 16:02 | 郷土史
【このブログの記事は、三間史談会主催『清良記を紐解く会』のテキストとして作ったものですが、手元に清良記をお持ちでない方には意味不明であろうと思います。また、文法や表現に至っては、自由奔放を良しとしていますのでお許し下さい。これからも当ブログを宜しくお願いします。】清良の菴

□『清良記を紐解く会』より

高知県では、五月十六・十七日の二日間、【第四回長宗我部まつり】が行われます。清良記の紐解きも、これからは、長宗我部元親との合戦がメインとなって行きますが、長宗我部元親がどのような人物であったのかを知る事は、清良記の理解や郷土史学習に大いに役に立つ事だと思います。十六日は岡豊城址でもある高知県立歴史民俗資料館、十七日は元親初陣の像がある長浜若宮八幡宮を中心に見学して来ますので、報告を楽しみにされていて下さい。


□『巻十五』を紐解く

さて、今月の清良記は【巻十五】を紐解きますが、六年間に及ぶ土居と一条の合戦もこれが最後の合戦となります。巻八の二節、永禄七年十月十二日から十四日に起きた一条の番手衆との争いから始まった国の取り合いは、巻十六の一節、元亀三年正月三日に和睦という形で決着して行きますが、それがどのようにしてそうなったのかというのが【巻十五】の内容になります。

当時、土佐には長宗我部の勢いが増しており誰の目にも脅威となっていましたが、清良公と一条公の共通する点は、どちらも長宗我部の相手をするより土居と一条の決着を付ける事が先だと考えていた事でした。しかし、その考えも少しずつ様子が変わって来たようで、清良公は「元親は我が敵ならねども、武略計策のみにして、あたら武士を手もなく倒しければ、思えばあくまで憎し、家門はまさしく敵なれども強きばかりにて計策なし、思えばいたわしきことなり。さるを謀とは言いながら、元親と両手にて討たんか、末代までの名折れなり。元親を討ちて後、家門を討つべきこそ本意なれ」と考えるようになって行きます。

巻十五は巻十四と期間が重なっていますが、面白いのは土佐と合戦をしながら、海の産物やうどんを一条公や元親方の家臣に送り届けている事です。そして、江村備後には一文字の太刀を送ります。そのように存在感を示して、敵の気持ちを靡かせる策略なのでしょう。まさに気を良くした江村備後は、使いの安並藤蔵を引き止めて「清良いかに弓矢は上手にても公広と仲悪しくては一大事なり。元親の旗下になられたるにおいては、今の領地をばその方へとらせ、西園寺をば残らず清良へ参らせんこと、この江村しだいなり」と持ち掛けています。

そのようにして持たれたのが二節の元亀二年九月二十四日の江村備後と桜井武蔵の密談です。翌日、江村は元親に飛脚を走らせますが、土居はこれを襲って文書を奪い、江村の策略を確認します。四節で一条との戦準備となり、五節では合戦となりますが、十節にて一条公に江村の文書を届けさせ、土居には元親に与する考えがない事を伝えます。すると元親方への不審が深刻となり、土佐勢を二分する事に成功。その後、二の森で土佐勢同士の同士討ちが起こります。土居には一条公を討ち滅ぼそうと言う者もいましたが、清良公はそうはさせず、元親こそ討つべき敵と定めます。

十四節で清良公は『五つの大損』として、その理由を説明しています。巻十五の最後の十七節では、一条公が伊予からの人質を皆解放。そこに「岡本の藤右衛門子竹森」の名前が出て来る事に驚きますが、竹森は巻二十三で岡本城に元親勢を招き入れる「西藤右衛門」の子と思われます。人質は土居の大森城へ連れて来られ、清良公が召すも良し、元の城主に帰すも良しと言われますが、清良公は元の城主へ人質を皆帰されたと云います。それ以後、一条との合戦はなくなり和睦が調って行くのでした。


□追記として

清良公の嫡男【太郎重清】は元亀三年の生まれです。土居と一条が和睦した年に生まれていますが、この同じ頃に生まれたもう一人の人物が、清良記の著者【水也】でした。同じ頃に生まれ育った二人には、記事に残るエピソードがなかっただろうかと気になる所です。重清については巻二十九に生い立ちから性格、天正十五年九月二十一日の暁に怨霊と闘った末に自刃するというエピソードが紹介されていますが、水也本人については明らかにされていません。清良記は水也の生まれる前の記事がある事からも、原本となった記事が存在していたのは明らかですが、水也が成長してからの記事には細部に主観が入るでしょうし、その足跡を訪ねながら清良記を読むのも良いかと思います。ちなみに巻二十三の天正九年、岡本合戦は水也が十歳頃の出来事となります。



                                       文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸




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by kiyoyoshinoiori | 2015-05-09 10:12 | 郷土史

【今回『清良記を紐解く会』よりで紹介している内容は、前代未聞の発表ではないかと思います。山家清兵衛が元和六年に亡くなった事や、和霊神社が承応二年に創建されている事を知っている人はいますが、間が三十三年間ある事や、土居清良公が山家清兵衛の亡くなった九年後に亡くなっており、清良神社も和霊神社創建の九年後に創建されている符号性を指摘した記事は先ずないからです。また、山家公は秀宗公が宇和島に入部する前に来宇していますが、秀宗公を卯之町から歯長峠を越え、三間を経由して上光満から宇和島に入部させており、山家公が清良公に会見しているのは間違いないだろうと言われます。しかし、清良記には江戸時代の十五年間が一切語られておらず不思議です。そして、七代藩主宗紀公は百歳の長命を祈願して清良神社に扁額を寄進したという話もあり、宇和島伊達家と土居清良公には、何か特別な関係があったのではないかという気がして来ます。】



□『清良記を紐解く会』より

 

   三月二十九日、宇和島伊達四百年祭オープニングセレモニーが華々しく開催。姉妹都市「大崎市」から借用した甲冑を身に付けた伊達五十七騎、大洲鉄砲隊、牛鬼、太鼓集団、宮本真希演じるお姫様、腰元等が宇和島の街を練り歩きました。この一年、宇和島城下は伊達四百年祭に染まるでしょう。しかし、今年は宇和島・鬼北・松野が共同主催となる『第二回清良記シンポジウム』が鬼北町で予定されていると聞くと、清良記を紐解く会としては、否が応でも戦国時代の宇和島や鬼北の動向に胸が熱くなるのです。とはいえ、清良記が書き上げられたのは江戸期に入って四十年の承応二年です。宇和島では藩主は秀宗から宗利への代替わり、吉田藩の分藩問題等が起きて行く中で、秀宗の中風、執権を代行していた宗時の早生、後継となった宗利には後継者がいなかった事から伊吹八幡宮に卜占を頼み、得た御神託が和霊神社の創建でした。伊吹八幡宮の社名の所縁となった伊吹の双樹は、清良の先祖鈴木重家の手植え。また清良は宇和郡を土佐長宗我部の侵略から守った戦の勝ち神様であり、戦国時代の武将としては長命の八十四歳まで長生きされました。和霊神社の御祭神山家清兵衛が亡くなった九年後まで生きていたのですから、宗利も当然その人となりを聴かされて知っていた筈でしょう。そして、実に不思議な事に、清良神社も和霊神社創建の九年後に創建となっています。その為に私は、何か深い関係があるように感じてしまうのです。

 

   元和六年1620:山家清兵衛没 承応二年1653:和霊神社創建

   寛永六年1629:土居清良没  ○寛文二年1662:清良神社創建

 

□『巻十四の下』を紐解くp.190~p.204

 

   今回紐解く『巻十四の下』は清良記のへそとなりますが、『巻十四の下』は「あるとき」「このごろ」から始まる年月を特定していない記事が続くのが特徴で、その内容は当時の価値観や清良公の性格を知り理解する上で大変重要な位置を占めていると言えます。


   さてあるとき、清良公は重臣の土居佐兵衛、土居蔵人、善家六郎兵衛、桜井武蔵、土居右京進の五人と様々に意見を交わします。一節『剛臆のうわさの事』では、胆が座った者と臆病者との違いについてです。前回『巻十四の上』の玉木源蔵の話が思い起こされますが、心が健やかで健気な者は、言葉が遅れたり足らなかったりするが心根はしゃんとしておる。一方そうでない者は、言葉数ばかり多くて行動が伴っておらず心が弱いという指摘をしています。また健気な者は遅れを取る事が多いが、それを馬鹿にしたり陰口を言う者は愚かであるとも言われています。

 

   二節『太平記うわさの事』も大変ユニークで驚きます。そして、清良記の事を「太平記の模倣ではないか」と批判する人がいますが、ここを読めば全くそうではない事が分かります。つまり、清良公は、「太平記」「平家物語」を大変批判されている訳です。平家物語は「いか様武士の作りたる物ならん」と言い、太平記は「法師などにても武道心なき人の作ること一定なり」と言い切っています。そして「世間に流布して諸人面白く思いたらば、いとど行にくき末世、いよいよ侍のきっかけはずし、軍法立ちにくくなりぬと思うはいかに」と疑問を投げ掛けています。清良記はまさに、そのアンサーとして書き上げられた軍記物語であるのでしょう。

 

   その後『巻十四の下』は、胎児や子供の育ち方、鳥や植物の育ち方の洞察が述べられていたり、人の心の有り様について様々に述べられています。最後、二十節の『愛きょう(愛敬/愛嬌)の事』で終わりとなりますが、「愛敬」とは人を慈しみ敬う仏教用語。堀口蔵進という清良公秘蔵の侍が、戦う事を捨て、かといって仏道には入らず、人々の喜びと幸せの為に生きた話が紹介されており、戦ばかりの清良記のようですが、その根底に人を愛する精神を見る事ができます。

 

□お知らせ

『清良記を紐解く会』で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。コメントを入れていただければ、必ず返信しますので宜しくお願いします。

                   文責・三間史談会々員   


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-23 23:00 | 郷土史
【清良記を紐解く会は、平成二十八年三月の『巻二十三』の紐解きに向けて、毎月のテキストを会報上で公開して行く事となりました。それは『岡本合戦』の年数問題に決着を付ける為であり、清良記の名誉を回復する為でもあります。また、この日は宇和島伊達400年祭の前夜でもありましたが、武者行列に参加する為に家内の従弟が福島県郡山市から来ており、清良記を紐解く会にも出席してくれました。】


□『清良記を紐解く会』より
 
   二年前、平成二十五年六月から始まった『清良記を紐解く会』も、今年で三年目に入ろうとしています。一年目には、三間史談会の念願であった『清良公の土佐落ち』のルートと土佐で領地したという『高島』、そして一条公や土居宗三所縁の地を訪問。二年目は、清良記に見る『岡本合戦』を現地に入って検証してみましたが、愈々三年目では、宿敵長宗我部元親の史跡めぐりを計画したいと思います。ちょうど清良記の紐解きも後半に差し掛かり、これからは長宗我部元親との合戦がメインとなって行きます。今回からは予習の意味を込め、会報上でテキストを公開して行きますので、よろしくお願い致します。
 
註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的
としています。
註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。
 
□『巻十四の上』p.178〜190を紐解く
 
   歴史研究者から様々に批判を受ける清良記ですが、巻十四の上も疑問が挟まれます。p.178に「北条九代目平高時」とありますが、高時は鎌倉幕府の執権十四代目。父貞時が九代目です。このように清良記には小さな間違いが見られます。一方後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕をした人物。土居家が後醍醐天皇に取り立てられた事から、清良記は高時を悪逆無道と誹り、後醍醐天皇を奉る立場を取ります。それを義理に思い西園寺卿に仕える清良公でしたが、大分この頃は失望していた感が伺えます。
 
   さて問題は下の段から。去年というのは元亀元年の事で、巻十四の上は元亀二年の出来事という事になります。ここに出て来るは「宗案」の名前です。松浦宗案が巻七にしか登場しない事から「宗案は架空の人物ではないか」との説も在る訳ですが、宗案は侍というよりは百姓。この頃活躍していたのは宗案の子で、二十二歳の松浦八郎兵衛が巻十四の上にて登場となります。

   此度の土佐との合戦は、まだ一条の旗本であった長宗我部元親が参るとの情報。元親との初合戦は絶対仕損じてはならないと清良公の気合が滲みますが、公広卿の戦況が理解できない様子にもどかしいさが広がります。二節では元親の陣地として「二つ森」が登場。清良公は直前に「陣ヶ森に駆けんぞ」とも言われており、一条の陣取った「中の城」や元親の陣取った「二つ森」が松野であったのか?それとも深田であったのか?はたまた三間の土居中であったのか?と考えると不明です。
 
   四節では土居の侍玉木源蔵と一条兼定の従弟入江兵部の悪口争いがあります。入江の悪口は源蔵が「鞠の源蔵」と呼ばれている事への冷やかしですが、源蔵が言い返している落書きの事を理解する為に巻五第四節p.50の読み返しをお勧めします。この後も入江兵部は度々登場しますが、巻十七の最後p.239には元親の手先として、遂に一条兼定公暗殺の刺客となる憐れな様子が描かれています。
 
   さて五節。源蔵がなぜ「鞠の源蔵」と呼ばれるようになったのかという話です。事の始まりは、全国を行脚し能を致す虎屋の小太夫なる一行が大森城を訪れた時の事。諸人が珍しがり多くの者が稽古した時期があった折、袴を踏まれた源蔵が相手を笑って許した事から、腰抜け呼ばわりの悪口が広がったようです。その源蔵の袴を踏んだのが松浦八郎兵衛でした。八郎兵衛は心苦しく思い直接謝罪もしますが、咎めもしない源蔵。その為に六節では三間総奉行土居左兵衞に事の次第を伝えたとあります。この八郎兵衛が松浦宗案公の子で、以後、二人は清良公より特別な恩義を受ける事になりました。
 
   さて土佐との合戦は、九月十二日に深田一の森城が落城します。巻十三第七節p.171では、深田殿は元亀元年八月十三日に土佐に降参したとありますが、十五節p.175で土佐へ落ち行きてからは、元亀二年正月から土居の番城となっていました。番手だった公広ご一家衆は皆土居の大森城へ引き上げたようですが、土佐勢は中村石原の平地に集まって陣取ります。この「中村石原」は、現在の土居中と増田です。また、この記事で巻十一第三節p.149にある「鼡の尾」「下森」「土合」は三間川の南岸である事が分かります。

   八節からは五左衛門が活躍します。しかし、八節や九節で言う「両の向かい城」が何処かは不明です。十節では活躍を清良公から褒められますが、謙遜し、皆が一人の人間が手足を動かすが如く、また能の楽器に例えて、「丹波が夏雪、冬螢の両火、敵を焼く事ただ人間の技にて御座なく候」と、当家の夜打ちこそ讃える五左衛門でした。
 
   十二節は真吉新左衛門の活躍です。大軍の土佐勢は、小勢の土居を侮って三間川を渡る事を予測し、難所を守って渡り口と勘違いさせる策略を立てます。しかし、川幅は二町に及んでいたとありますから約220メートル…護岸がない時代の三間は本当に水沼だったという事が分かります。またここで歌を詠むのも面白いです。
 
   『土佐武者は 皆人威しの 鎧着て 渦の辺りに 流れ寄るかな』
   『漲りて 落とす河水深ければ たけ一条の 節は流れり』
   『土佐武者の 丈は一丈あるなれば 鬼神とこそは 敵は見るらん』
   『漲ると 三間の河水深からし ただ猛勢に せつ所なければ』
 
   十三節は二回目の「扇の的」の登場です。昨年十月に、巻十二第九節で登場した「扇の的」が単に源平合戦に登場する那須与一の焼き直しでない事を説明しましたが、今回はその時の仕返しをしようというもの。吉野川では鉄砲の助が扇の的を撃ち落としましたが、今回は二町程もあって誰も撃ち落とせないというオチです。創作であれば何の為?と不思議に思います。p.161
 
   十四節が出陣より十日目です。しかし、出陣しただけで戦もせず、土佐勢に占領され続けるというのも嫌なものです。ここで清良記は、清良公が打ち出す機会を失っている理由を「旗頭西園寺殿とは近年不通と聞いたり」と土佐方に喋らせています。「不通」というのは「仲が悪い」という意味で、気持ちが通じていないとか、最近ご無沙汰したままという事です。ならば土居を孤立させる為にと金山の有馬に攻め寄せた土佐勢でしたが、そこは有馬も土居の同族です。敢え無く退散を余儀なくされた土佐勢でした。

   十五節で土佐勢は、金山、岩倉から歯長を越えて黒瀬城へ向かい「鬼窪合戦」が起こります。しかし、「ここを押し返さでは土居清良に笑われるべきぞ」などと、西園寺卿は一体誰をライバル視しているのか呆れます。そして十六節で「松葉合戦」となり、奮闘する宇和勢に、土佐勢は引き上げる事となります。ここでまた一句。
 
   『一畳の たたみを三間に 敷き余し 東小路を うわ敷きにする』
   『一畳の たたみの三間に 余りなば 軒端にさぐる くもの家門』
   『一畳の たたみを三間に 敷き余す その家門ぞ 思いしらるめ』
 
   巻十四の上は、二十節、九月二十三日の記事で終わりとなりますが、十八節で土佐勢に内輪もめがあったり、十九節で同士討ちがあったり、土佐勢には良い事がありません。二十節では円長坊の出過ぎた判断を諌める話もありますが、清良記の物語は作られた部分も多い事は確かでしょう。しかし、作られたにしては出来過ぎなくらいに面白い。そう思えるのは私だけでしょうか。
 
 
 
 
 
□参加者からの意見や気付きも楽しみにしています。予習よろしくお願い致します。 文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-22 12:00 | 郷土史

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