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□『清良記を紐解く会』より


 新規会員も増え、益々、【三間史談会】の存在意義を感じているところですが、『清良記を紐解く会』は、まだまだ序の口。来年三月に『清良記シンポジウム』に参加し、来年内に全巻の紐解きを終えましたら、再来年は、愈々、三間公民館に保管されている、宇和島市指定有形文化財『清良記』(三間古本)の紐解きを進めて参りたいと思います。現在、三間公民館は耐震工事中。新しい三間支所の完成も楽しみにお待ちください。



□『巻十八』を紐解く


「天正元年はいかなる年ぞや。五畿内より東は万作なるよし聞こえけれるが、山陰、山陽、南海、西海は大旱魃にて、前の元亀三年壬申秋八、九月は晴れて雲なく、雨降らず。十月の節に入る日より晴れて、冬至の三日前よりまた雨降る。十二月は春雨のごとく暖かなり。さて天正元年癸酉正月初めより二月彼岸まで雨降らずして、所々の井水かわき難儀せり。彼岸より雨降りて四月朔日までやまず。二日に天晴れしより、また五月朔日まで照りつづき、麦作ことごとく損じ腐りて熟実なし。五月朔日より七月六日まで雨やまず降りつづき、同月五日の午の刻ばかりより雷電おびただしく鳴り響き、天地振動して今にも傾けるがごとく、男女童衆は気を失い、人家ことごとく扉を閉ざし、臥して頭をもたげることあたわず、魂を失う。翌六日の昼まで昼夜十二時の間鳴りつづきたり。大洪水にして野原海のごとく、七夕より晴れて九月九日まで一滴も降らず。」


 巻十八の記事は天候の厳しさを述べる記事から始まります。その刻々と述べられる記録から、『清良記』の底本は膨大な日記だったのではないかと思わされるのですが、『清良記』が農書という形で当時の生活を記録した唯一の資料であったように、おそらくは、これ程天候の記録を述べた資料も、また『清良記』だけなのではないかという気がします。


巻十八で気になるのは巻十七との関連です。巻十七の高野参詣、巻十八の領民に食事を振舞う話は、どちらも有名ですが、同じ天正元年正月から始まっており、記事に矛盾がないか気になるところです。しかし、土居の領内は、宗案の指導によって他領より何倍もの備蓄があります。四ヶ月間掛けて高野参詣できたのも、領民に米を分け与えることができたのも、正に清良の御徳であったと言えます。


 二節は天正二年一月三十日。清良は数え二十九歳を迎えます。しかし、戦国の世にあって領主の誕生日を領民共々祝うとは、どんなに深い情で結ばれていたかと驚かされます。戦国乱世は日本統一の為に避けられない道だったかもしれませんが、良い領主に恵まれた村は本当に理想的な共同体だったのではいかと思います。その後につづく、事細やかな諭しと奨励は金言であると言って良いでしょう。


 四節は元親の伊予攻めの始めとなりますが、よく読めば、ここが『清良記』の【四万十川合戦】のようにも思えて興味を引きます。天正二年十一月二日には河後森城も標的にされたようで、これまでと違い法忠もたまらず後詰を願いますが、「家門は土居が請け取りたる敵なれば言うに及ばず、元親はこたび初めてなれば西園寺殿より下知しだいなり」と家老と詮議する清良でした。しかし、結局今回も下知を待つことなく元親勢をねじ伏せるのでした。



□お知らせ


 なかなか進んでいなかった『よど第十七号』の原稿が完成しました。事務局に届けたところ、「一番乗りだよ」と大変喜んでいただけました。内容は未発表の論文とされていますから、ここでは具体的な内容については申せませんが、遂に岡本合戦の年数問題で『清良記』を取り巻いてきた事情を公にすることができました。それは、また、【私達自身が、しっかりしなくてはいけない】ということでもあります。皆様、今後ともよろしくお願いします。



文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸










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by kiyoyoshinoiori | 2015-08-01 23:31 | 郷土史


□『清良記を紐解く会』より


 先月の【清良記を紐解く会】では、松浦郁郎先生が昭和四十年代~五十年代に新聞社や雑誌社から受けたインタビュー記事を持って来て下さり、また大変貴重なお話を伺う事ができました。その当時私は三間小学生でしたが、それで学校の先生方も郷土の歴史や昔話で盛り上がっていたのだなと思わされました。そして、どの記事を読んでみても思うのは、清良記と松浦郁郎先生との運命的な出会いが本当にドラマチックに紹介されていて、大変感動的だったという事です。是非、私達も負けないように郷土の宝物【清良記】を感動的に紐解いて参りましょう。



□『巻十七』を紐解く


 巻十七は天正元年正月からの始まりとなります。【天正元年】は織田信長によって足利義昭が追放され、室町時代から安土桃山時代となる大きな節目です。ところで、年号が【天正】に改元されたのは元亀四年七月二十八日。もし清良記の原本が日記であれば、そこには元亀四年正月と書かれていたのかもしれませんが、天正元年正月の記述から、水也によって記録がきちんと編集されていた事が分かります。このような改元を【立年改元】と言います。日本の改元は明治までが立年改元でしたが、大正と昭和は当日改元、平成は翌日改元となっています。もう一つ暦のお話をさせていただければ、天正年間には【西暦】がユリウス暦からグレゴリオ暦に変更される出来事が起こります。それが天正十年。理由は割愛しますが、【本能寺の変】の年と覚えていただければ覚えやすいと思います。そして、その前年、天正九年が清良記では【岡本合戦】の年となります。「ここで出すか!」と思っていただければ

本懐ですが、本能寺の変と一年しか違わない岡本合戦の年数を水也が間違えたりするのか!と言いたい訳です。もしも間違いでないのなら、意図があって嘘を書いたとしか思えません。しかし、水也に嘘をつく理由はないのです。嘘をつく理由があったとすれば、それは、中野殿の方だったのではないか…それが私の天正七年説批判です。ですが私は歴史学者ではありません。決して天正九年説という説を主張してはいないのです。単に清良記には天正九年と書いてあると言っているだけに過ぎません。しかし、それが重要です。岡本合戦の年数を二年前倒しにした年表もありますが、それでは清良記が成り立たない訳です。歴史学者は歴史を研究するのが仕事ですが、同時に文化財を守る事も大切な役目ではないでしょうか?どうして誰もそこに気が付かなかったのか?郷土の文化財であれば否定的批判ではなく、肯定的批判の立場に立つべきでした。せめて郷土史家はそうあるべきだと思います。


 さて、巻十七の内容に戻ります。しかし、よくわからない事だらけというのが巻十七の特徴です。一節に「三好長張、信長の随身のゆえ」とありますが、天正元年の当日は阿波の三好氏と信長は対立をしていた筈…三好も信長もまだ伊予を攻める段取りではなかったのでしょう。宇和の武将は度々道後に詰めたようですが、寄せ来る敵もなく、清良公高野山参詣の話となります。本当に清良公が高野山参詣に行ったのかという疑問もあると思いますが、ここで関心を持つと面白いのは、戦国時代にどのようなルートで高野山参詣をしたのかという事です。また、その道中の物語も興味深い物となっています。これまでは、清良記の価値を史実か否かという尺度で評価し過ぎてはいなかったでしょうか。直ちに史実として理解するなという忠告は、何方も良く分かった事と思います。これからは清良記の【物語】としての価値を高く評価して行くのも良いのではないでしょうか。その後、清良公は伊勢参宮にも参ります。これは史実か?それとも水也の空想か?どちらにしても、郷土の宝物の古事に興味津々、心ウキウキな我々は、遼東の猪達なのであります。


 そして、巻十七で忘れてはならない事は十一節『長宗我部元親、一条家を破る事』です。「長宗我部覚世、その子元親、二代共に前の一条房家卿、同家門卿の高恩をもって人となりしを、たちまち恩を忘れて、蓮池の城をば弟の左京進親泰、粗忽者にて取りたるようにしなし、また、佐竹信濃守は家門の内にては一の大身なれば、これを日頃、元親、計策にてくり付けしと聞こえしによって、家門よりその子細どもを咎めて、打ち向かいて攻め亡ぼすべしと議定せられしかば、全く某逆心なきと、いろいろの弁口をもってし、度々の起請文を出し、その上に人質を出してその難を免れたり。」と権力では敵わぬ元親でしたが、次第にその計策は功を奏し、遂に「天正元年十一月末に、大将家門卿を持て成す振りにして、上下三十人ばかり、下田という所より船に乗せ奉り、直に追い出したるこそ恐ろしけれ。」中村市誌では、その後、豊後の大友宗麟と伊予から支援を得た家門卿が元親と土佐の雌雄を決すべく【四万十川合戦】に挑むのですが、なぜか清良記には記述がありません。しかし、清良記を読めば、清良公を始め伊予の領主が家門卿を良く庇護し奉っており、この上なく大事に思っていた事が分かる記事となっています。



□お知らせ


 先月お知らせした「三輪田俊助氏」の名前が間違っておりました。訂正しお詫び申し上げます。 「介×→助○」


 さて、次回は巻十八です。ここではもう一度【天正元年正月】の記事から始めとなります。原本の記録を二つに分けたのか?それとも記者が複数人いたのか?それは分かりませんが、天正元年をもう一度別の角度から読める貴重な記事となっています。八月に紐解きますので楽しみにしていて下さい。


 また現在【よど第十七号】に向けて記事を執筆中なのですが、実は全く筆が進んでおりません。偉そう過ぎたり、謙虚になり過ぎたり、子供の頃の思い出から始まったり、清良記を紐解く会の紹介から始まったりと、何度も何度も原稿を書きボツにしています。ごちゃごちゃさせ過ぎず簡素にするのも良いかもしれません。なにしろ私は歴史学者ではありません。知識も史料も使わずに、心一つ、感性一つで歴史と文化【清良記】を大切に思う気持ちについて書けたらと思っています。少しでも何かを批判しようとするとかどが立つのですが、もうこうなったら仕方ないですね。精一杯頑張りたいと思います。


 清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。コメントを入れていただければ必ず返信しますので宜しくお願いします。


 註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事

   を目的としています。

 註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材として

います。



                  文責・三間史談会々員松 本 敏 幸


















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by kiyoyoshinoiori | 2015-07-01 16:29 | 郷土史
    六月二十日の『清良記を紐解く会』では【巻十六】を紐解きましたが、松浦郁郎先生が先月の長宗我部まつりの折に約束してくれておりました、新聞社や雑誌社から受けた取材の記事というのを持って来て下さいました。今回は紐解きを早々に終いつけ、皆で先生の当時の思い出話に耳を傾けました。以下は、その時の様子です。

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    この日、松浦郁郎先生はまた大変喜んでおられ、沢山の思い出を話して下さいました。また、当時の新聞記者の記事や雑誌社に掲載した先生の記事は大変感動する物です。私達は、このように感動的に『清良記』を紹介して行かなくてはいけないなと思わされました。記事は先生のお許しを得て全文コピーを取らせていただきましたが、このブログでもアップさせていただく事にしました。楽しみにしておって下さいませ〜


    松本より(^_−)−☆




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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-20 22:34 | 郷土史

□『清良記を紐解く会』より

 

    五月十六日〜十七日、念願叶いまして、初めて【長宗我部まつり】に行って参りました。『清良記を紐解く会』の勉強は、これから長宗我部元親との合戦がメインとなって行きますが、『清良記』では合戦の相手である長宗我部元親の事を良く書いている事がなく、郷土に攻めて来た事を憎む気持ちになる人もいるでしょう。しかし、現代を生きている私達が争ったり憎み合って良い筈がありません。『清良記を紐解く会』を始める前には二回長宗我部氏の史跡めぐりをしましたが、高知の人達から愛され誇りに思われている長宗我部元親が大変羨ましく、また大変好きになりました。これからは仇同士の関係ではなく、共に高め合える関係になる事が大切だと思いました。

 


□『巻十六』を紐解く

 

    さて、巻十六は土佐一条家と宇和領主達の和睦から話が始まります。ところで、なぜ清良記は土居の事ばかり良く書いて、中野、深田、定延など他家の事は良く書かないのだろうと疑問に思われている方もいるでしょう。その理由については、著者【水也】が清良記を著そうとした動機を巻一の一節最後の一文に明記していますので、是非紐解かれてみて下さい。清良記の全ては、正しくその為に書かれていると言えます。そして、清良記で憎まれ役になっている領主に共通して言える事は、皆土佐の長宗我部元親に内通していたという事です。西園寺十四将とは言われますが、その約半数が長宗我部の調略を受けて寝返っていたのですから、清良記とは土佐や豊後の武略だけではなく、十四将を二分する調略からも宇和郡を守った清良公の生き様であったと言えるのです。

    そして、清良記がなぜ長宗我部元親を憎むのかという理由が巻十六の一節です。つまり長宗我部は兼序の代に本山との戦に敗北し、国親と元親が土佐一条家の元へ身を寄せており、一条家が仲介してくれた事で岡豊城主に戻る事ができたのですが、そのような恩義がありながら、元親は近隣の領主を従えるばかりか、一条の家臣まで調略し、遂には一条家に変わって土佐に君臨するようになります。房家の弟で兼定の伯父、筆頭家老だった宗三は、逸早く元親の調略に気付き兼定に諫言しますが、それが原因となり手打ちになります。宗三は清良公にとっても伯父でしたが、豊後大友の大寄せに宇和郡が敗れた時には、それを頼った清良公にも一条から受けた恩義があります。元亀三年に和睦の儀が調ったのは、一条家を倒せばその恩義が無駄になり、元親が宇和郡の直接の脅威になるという判断でした。この和睦により豊後との和睦も進み、宇和郡の領主達は一条家に加勢して元親と対峙するようになって行きます。このように清良記は一貫して主君への恩義や忠義を説く教科書となっており、その反面教師が元親だったと言えます。しかし、土居に元親と同じような考えがなかったのかといえばそうではありません。巻の二を思い出してみると、清良公の祖母妙栄が「土居がその気になれば西園寺も河野も従えて、四国でも天下でも取る事ができるぞ」と夫土居清宗を唆しておりました。それに対する清宗の答は「NO」。このように下克上の時代にあっても絶対的な忠義を尽くす土居でした。


 

□『伊代千句』について

 

    また、巻十六で見逃せないのが【伊代千句】です。伊代千句とは、金山城主であった有馬殿今城能親が文才に秀でおり、その評判から京にまで上り連歌を連ねたという話です。

 

    『ここに今城肥前守能親とて、徳能弾正忠能宗より七代の孫に、文武両道、和歌の達者あり。天文年号の初め、千句の連歌をつらね、そのころの好子、京の周桂の披見に入りければ、まことに殊勝なり、田舎の叡聞にはべり、この能親を伊代千句と召されける。それより諸人、能親と言わずして伊代千句とぞ呼びける。その後、能親、礼儀のために上洛して、また京都において千句を催す。巻頭の御発句、関白殿、

    「宿りとへ 都ぞたらね ほととぎす」 梅

    「月の御空の 夏ちかきかげ」    能親

    「朝みどり 日も夕立の 水晴れて」 周桂

    この末に関白松殿御句どもあり。また回り発句に

    「風を手に 心としむる 扇かな」 能親 (以下省略)』

 

    伊代千句といえば、熱心に教えて下さったのが池本覺先生です。池本先生は私が三間小学生の時の音楽教諭。課外授業では郷土の史跡めぐりをして下さいました。また福鹿定公民館長時代の公民館事業で郷土史学級が開講され、三間町誌や清良記について教えて下さいました。本当は【伊代千句】の紐解きは是非とも池本先生にお願いしたかったのですが、今回は私がするという事になりましたのでよろしくお願いします。

 

 

□『西南四国歴史文化研究会』の記念講演に参加して

 

    これもまた私の念願が叶ったという話です。五月三十日、愛南町の御荘文化センターで行われた西南四国歴史文化研究会の記念講演、石野弥栄氏の『天正期宇和郡の政治情勢と戦国領主たち』に行って参りました。石野弥栄氏は愛媛県の中世研究の第一人者です。仕事の為に遅れて会場入りしましたが、話は「最近インターネットで岡本合戦天正七年説を批判し、天正九年説を唱えている人がいる」「これまで天正七年説の根拠を省略し、説明して来なかった事も悪かった」と言われ出した所で、その根拠を蕩々と説明し始めたのです。

    得たりや!私は大変感激しました。それは三年前に石野氏に初めてお会いした時には、「もう長く清良記の研究に関わってないから」と質問に答えていただけなかったからです。清良記を紐解く会は、その半年後にスタートした訳ですが、どうすれば石野氏に清良記について語っていただく事ができるかと、昨年十二月の特別講義②は、その為の賭けでした。今回こそ質疑応答しなければと思っていましたが、講演中に岡本合戦の年数問題に触れていただいて、予想を遥かに超えた結果となりました。今回の講演は来年発行される『よど17号』の記事となります。私も愈々本領を発揮させていただき『清良記』への関心を盛り上げて参りたいと思います。



□お知らせ

 

五月三十日、三輪田俊助氏がお亡くなりになられました。氏は松浦郁郎校訂『清良記』の挿し絵を描いて下さいました。謹んでご冥福をお祈り致します。

 

 

 

清良記を紐解く会で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。

コメントを入れていただければ、必ず返信しますので宜しくお願いします。

 

 

 

註一清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的としています。

註二清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。

 

 

 

文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

 


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by kiyoyoshinoiori | 2015-06-04 16:02 | 郷土史
【このブログの記事は、三間史談会主催『清良記を紐解く会』のテキストとして作ったものですが、手元に清良記をお持ちでない方には意味不明であろうと思います。また、文法や表現に至っては、自由奔放を良しとしていますのでお許し下さい。これからも当ブログを宜しくお願いします。】清良の菴

□『清良記を紐解く会』より

高知県では、五月十六・十七日の二日間、【第四回長宗我部まつり】が行われます。清良記の紐解きも、これからは、長宗我部元親との合戦がメインとなって行きますが、長宗我部元親がどのような人物であったのかを知る事は、清良記の理解や郷土史学習に大いに役に立つ事だと思います。十六日は岡豊城址でもある高知県立歴史民俗資料館、十七日は元親初陣の像がある長浜若宮八幡宮を中心に見学して来ますので、報告を楽しみにされていて下さい。


□『巻十五』を紐解く

さて、今月の清良記は【巻十五】を紐解きますが、六年間に及ぶ土居と一条の合戦もこれが最後の合戦となります。巻八の二節、永禄七年十月十二日から十四日に起きた一条の番手衆との争いから始まった国の取り合いは、巻十六の一節、元亀三年正月三日に和睦という形で決着して行きますが、それがどのようにしてそうなったのかというのが【巻十五】の内容になります。

当時、土佐には長宗我部の勢いが増しており誰の目にも脅威となっていましたが、清良公と一条公の共通する点は、どちらも長宗我部の相手をするより土居と一条の決着を付ける事が先だと考えていた事でした。しかし、その考えも少しずつ様子が変わって来たようで、清良公は「元親は我が敵ならねども、武略計策のみにして、あたら武士を手もなく倒しければ、思えばあくまで憎し、家門はまさしく敵なれども強きばかりにて計策なし、思えばいたわしきことなり。さるを謀とは言いながら、元親と両手にて討たんか、末代までの名折れなり。元親を討ちて後、家門を討つべきこそ本意なれ」と考えるようになって行きます。

巻十五は巻十四と期間が重なっていますが、面白いのは土佐と合戦をしながら、海の産物やうどんを一条公や元親方の家臣に送り届けている事です。そして、江村備後には一文字の太刀を送ります。そのように存在感を示して、敵の気持ちを靡かせる策略なのでしょう。まさに気を良くした江村備後は、使いの安並藤蔵を引き止めて「清良いかに弓矢は上手にても公広と仲悪しくては一大事なり。元親の旗下になられたるにおいては、今の領地をばその方へとらせ、西園寺をば残らず清良へ参らせんこと、この江村しだいなり」と持ち掛けています。

そのようにして持たれたのが二節の元亀二年九月二十四日の江村備後と桜井武蔵の密談です。翌日、江村は元親に飛脚を走らせますが、土居はこれを襲って文書を奪い、江村の策略を確認します。四節で一条との戦準備となり、五節では合戦となりますが、十節にて一条公に江村の文書を届けさせ、土居には元親に与する考えがない事を伝えます。すると元親方への不審が深刻となり、土佐勢を二分する事に成功。その後、二の森で土佐勢同士の同士討ちが起こります。土居には一条公を討ち滅ぼそうと言う者もいましたが、清良公はそうはさせず、元親こそ討つべき敵と定めます。

十四節で清良公は『五つの大損』として、その理由を説明しています。巻十五の最後の十七節では、一条公が伊予からの人質を皆解放。そこに「岡本の藤右衛門子竹森」の名前が出て来る事に驚きますが、竹森は巻二十三で岡本城に元親勢を招き入れる「西藤右衛門」の子と思われます。人質は土居の大森城へ連れて来られ、清良公が召すも良し、元の城主に帰すも良しと言われますが、清良公は元の城主へ人質を皆帰されたと云います。それ以後、一条との合戦はなくなり和睦が調って行くのでした。


□追記として

清良公の嫡男【太郎重清】は元亀三年の生まれです。土居と一条が和睦した年に生まれていますが、この同じ頃に生まれたもう一人の人物が、清良記の著者【水也】でした。同じ頃に生まれ育った二人には、記事に残るエピソードがなかっただろうかと気になる所です。重清については巻二十九に生い立ちから性格、天正十五年九月二十一日の暁に怨霊と闘った末に自刃するというエピソードが紹介されていますが、水也本人については明らかにされていません。清良記は水也の生まれる前の記事がある事からも、原本となった記事が存在していたのは明らかですが、水也が成長してからの記事には細部に主観が入るでしょうし、その足跡を訪ねながら清良記を読むのも良いかと思います。ちなみに巻二十三の天正九年、岡本合戦は水也が十歳頃の出来事となります。



                                       文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸




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by kiyoyoshinoiori | 2015-05-09 10:12 | 郷土史

【今回『清良記を紐解く会』よりで紹介している内容は、前代未聞の発表ではないかと思います。山家清兵衛が元和六年に亡くなった事や、和霊神社が承応二年に創建されている事を知っている人はいますが、間が三十三年間ある事や、土居清良公が山家清兵衛の亡くなった九年後に亡くなっており、清良神社も和霊神社創建の九年後に創建されている符号性を指摘した記事は先ずないからです。また、山家公は秀宗公が宇和島に入部する前に来宇していますが、秀宗公を卯之町から歯長峠を越え、三間を経由して上光満から宇和島に入部させており、山家公が清良公に会見しているのは間違いないだろうと言われます。しかし、清良記には江戸時代の十五年間が一切語られておらず不思議です。そして、七代藩主宗紀公は百歳の長命を祈願して清良神社に扁額を寄進したという話もあり、宇和島伊達家と土居清良公には、何か特別な関係があったのではないかという気がして来ます。】



□『清良記を紐解く会』より

 

   三月二十九日、宇和島伊達四百年祭オープニングセレモニーが華々しく開催。姉妹都市「大崎市」から借用した甲冑を身に付けた伊達五十七騎、大洲鉄砲隊、牛鬼、太鼓集団、宮本真希演じるお姫様、腰元等が宇和島の街を練り歩きました。この一年、宇和島城下は伊達四百年祭に染まるでしょう。しかし、今年は宇和島・鬼北・松野が共同主催となる『第二回清良記シンポジウム』が鬼北町で予定されていると聞くと、清良記を紐解く会としては、否が応でも戦国時代の宇和島や鬼北の動向に胸が熱くなるのです。とはいえ、清良記が書き上げられたのは江戸期に入って四十年の承応二年です。宇和島では藩主は秀宗から宗利への代替わり、吉田藩の分藩問題等が起きて行く中で、秀宗の中風、執権を代行していた宗時の早生、後継となった宗利には後継者がいなかった事から伊吹八幡宮に卜占を頼み、得た御神託が和霊神社の創建でした。伊吹八幡宮の社名の所縁となった伊吹の双樹は、清良の先祖鈴木重家の手植え。また清良は宇和郡を土佐長宗我部の侵略から守った戦の勝ち神様であり、戦国時代の武将としては長命の八十四歳まで長生きされました。和霊神社の御祭神山家清兵衛が亡くなった九年後まで生きていたのですから、宗利も当然その人となりを聴かされて知っていた筈でしょう。そして、実に不思議な事に、清良神社も和霊神社創建の九年後に創建となっています。その為に私は、何か深い関係があるように感じてしまうのです。

 

   元和六年1620:山家清兵衛没 承応二年1653:和霊神社創建

   寛永六年1629:土居清良没  ○寛文二年1662:清良神社創建

 

□『巻十四の下』を紐解くp.190~p.204

 

   今回紐解く『巻十四の下』は清良記のへそとなりますが、『巻十四の下』は「あるとき」「このごろ」から始まる年月を特定していない記事が続くのが特徴で、その内容は当時の価値観や清良公の性格を知り理解する上で大変重要な位置を占めていると言えます。


   さてあるとき、清良公は重臣の土居佐兵衛、土居蔵人、善家六郎兵衛、桜井武蔵、土居右京進の五人と様々に意見を交わします。一節『剛臆のうわさの事』では、胆が座った者と臆病者との違いについてです。前回『巻十四の上』の玉木源蔵の話が思い起こされますが、心が健やかで健気な者は、言葉が遅れたり足らなかったりするが心根はしゃんとしておる。一方そうでない者は、言葉数ばかり多くて行動が伴っておらず心が弱いという指摘をしています。また健気な者は遅れを取る事が多いが、それを馬鹿にしたり陰口を言う者は愚かであるとも言われています。

 

   二節『太平記うわさの事』も大変ユニークで驚きます。そして、清良記の事を「太平記の模倣ではないか」と批判する人がいますが、ここを読めば全くそうではない事が分かります。つまり、清良公は、「太平記」「平家物語」を大変批判されている訳です。平家物語は「いか様武士の作りたる物ならん」と言い、太平記は「法師などにても武道心なき人の作ること一定なり」と言い切っています。そして「世間に流布して諸人面白く思いたらば、いとど行にくき末世、いよいよ侍のきっかけはずし、軍法立ちにくくなりぬと思うはいかに」と疑問を投げ掛けています。清良記はまさに、そのアンサーとして書き上げられた軍記物語であるのでしょう。

 

   その後『巻十四の下』は、胎児や子供の育ち方、鳥や植物の育ち方の洞察が述べられていたり、人の心の有り様について様々に述べられています。最後、二十節の『愛きょう(愛敬/愛嬌)の事』で終わりとなりますが、「愛敬」とは人を慈しみ敬う仏教用語。堀口蔵進という清良公秘蔵の侍が、戦う事を捨て、かといって仏道には入らず、人々の喜びと幸せの為に生きた話が紹介されており、戦ばかりの清良記のようですが、その根底に人を愛する精神を見る事ができます。

 

□お知らせ

『清良記を紐解く会』で配布したテキストを保存・管理する為のブログを立ち上げました。ブログタイトル【清良の菴】URL http://seiryouki.exblog.jp です。コメントを入れていただければ、必ず返信しますので宜しくお願いします。

                   文責・三間史談会々員   


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-23 23:00 | 郷土史
【清良記を紐解く会は、平成二十八年三月の『巻二十三』の紐解きに向けて、毎月のテキストを会報上で公開して行く事となりました。それは『岡本合戦』の年数問題に決着を付ける為であり、清良記の名誉を回復する為でもあります。また、この日は宇和島伊達400年祭の前夜でもありましたが、武者行列に参加する為に家内の従弟が福島県郡山市から来ており、清良記を紐解く会にも出席してくれました。】


□『清良記を紐解く会』より
 
   二年前、平成二十五年六月から始まった『清良記を紐解く会』も、今年で三年目に入ろうとしています。一年目には、三間史談会の念願であった『清良公の土佐落ち』のルートと土佐で領地したという『高島』、そして一条公や土居宗三所縁の地を訪問。二年目は、清良記に見る『岡本合戦』を現地に入って検証してみましたが、愈々三年目では、宿敵長宗我部元親の史跡めぐりを計画したいと思います。ちょうど清良記の紐解きも後半に差し掛かり、これからは長宗我部元親との合戦がメインとなって行きます。今回からは予習の意味を込め、会報上でテキストを公開して行きますので、よろしくお願い致します。
 
註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的
としています。
註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。
 
□『巻十四の上』p.178〜190を紐解く
 
   歴史研究者から様々に批判を受ける清良記ですが、巻十四の上も疑問が挟まれます。p.178に「北条九代目平高時」とありますが、高時は鎌倉幕府の執権十四代目。父貞時が九代目です。このように清良記には小さな間違いが見られます。一方後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕をした人物。土居家が後醍醐天皇に取り立てられた事から、清良記は高時を悪逆無道と誹り、後醍醐天皇を奉る立場を取ります。それを義理に思い西園寺卿に仕える清良公でしたが、大分この頃は失望していた感が伺えます。
 
   さて問題は下の段から。去年というのは元亀元年の事で、巻十四の上は元亀二年の出来事という事になります。ここに出て来るは「宗案」の名前です。松浦宗案が巻七にしか登場しない事から「宗案は架空の人物ではないか」との説も在る訳ですが、宗案は侍というよりは百姓。この頃活躍していたのは宗案の子で、二十二歳の松浦八郎兵衛が巻十四の上にて登場となります。

   此度の土佐との合戦は、まだ一条の旗本であった長宗我部元親が参るとの情報。元親との初合戦は絶対仕損じてはならないと清良公の気合が滲みますが、公広卿の戦況が理解できない様子にもどかしいさが広がります。二節では元親の陣地として「二つ森」が登場。清良公は直前に「陣ヶ森に駆けんぞ」とも言われており、一条の陣取った「中の城」や元親の陣取った「二つ森」が松野であったのか?それとも深田であったのか?はたまた三間の土居中であったのか?と考えると不明です。
 
   四節では土居の侍玉木源蔵と一条兼定の従弟入江兵部の悪口争いがあります。入江の悪口は源蔵が「鞠の源蔵」と呼ばれている事への冷やかしですが、源蔵が言い返している落書きの事を理解する為に巻五第四節p.50の読み返しをお勧めします。この後も入江兵部は度々登場しますが、巻十七の最後p.239には元親の手先として、遂に一条兼定公暗殺の刺客となる憐れな様子が描かれています。
 
   さて五節。源蔵がなぜ「鞠の源蔵」と呼ばれるようになったのかという話です。事の始まりは、全国を行脚し能を致す虎屋の小太夫なる一行が大森城を訪れた時の事。諸人が珍しがり多くの者が稽古した時期があった折、袴を踏まれた源蔵が相手を笑って許した事から、腰抜け呼ばわりの悪口が広がったようです。その源蔵の袴を踏んだのが松浦八郎兵衛でした。八郎兵衛は心苦しく思い直接謝罪もしますが、咎めもしない源蔵。その為に六節では三間総奉行土居左兵衞に事の次第を伝えたとあります。この八郎兵衛が松浦宗案公の子で、以後、二人は清良公より特別な恩義を受ける事になりました。
 
   さて土佐との合戦は、九月十二日に深田一の森城が落城します。巻十三第七節p.171では、深田殿は元亀元年八月十三日に土佐に降参したとありますが、十五節p.175で土佐へ落ち行きてからは、元亀二年正月から土居の番城となっていました。番手だった公広ご一家衆は皆土居の大森城へ引き上げたようですが、土佐勢は中村石原の平地に集まって陣取ります。この「中村石原」は、現在の土居中と増田です。また、この記事で巻十一第三節p.149にある「鼡の尾」「下森」「土合」は三間川の南岸である事が分かります。

   八節からは五左衛門が活躍します。しかし、八節や九節で言う「両の向かい城」が何処かは不明です。十節では活躍を清良公から褒められますが、謙遜し、皆が一人の人間が手足を動かすが如く、また能の楽器に例えて、「丹波が夏雪、冬螢の両火、敵を焼く事ただ人間の技にて御座なく候」と、当家の夜打ちこそ讃える五左衛門でした。
 
   十二節は真吉新左衛門の活躍です。大軍の土佐勢は、小勢の土居を侮って三間川を渡る事を予測し、難所を守って渡り口と勘違いさせる策略を立てます。しかし、川幅は二町に及んでいたとありますから約220メートル…護岸がない時代の三間は本当に水沼だったという事が分かります。またここで歌を詠むのも面白いです。
 
   『土佐武者は 皆人威しの 鎧着て 渦の辺りに 流れ寄るかな』
   『漲りて 落とす河水深ければ たけ一条の 節は流れり』
   『土佐武者の 丈は一丈あるなれば 鬼神とこそは 敵は見るらん』
   『漲ると 三間の河水深からし ただ猛勢に せつ所なければ』
 
   十三節は二回目の「扇の的」の登場です。昨年十月に、巻十二第九節で登場した「扇の的」が単に源平合戦に登場する那須与一の焼き直しでない事を説明しましたが、今回はその時の仕返しをしようというもの。吉野川では鉄砲の助が扇の的を撃ち落としましたが、今回は二町程もあって誰も撃ち落とせないというオチです。創作であれば何の為?と不思議に思います。p.161
 
   十四節が出陣より十日目です。しかし、出陣しただけで戦もせず、土佐勢に占領され続けるというのも嫌なものです。ここで清良記は、清良公が打ち出す機会を失っている理由を「旗頭西園寺殿とは近年不通と聞いたり」と土佐方に喋らせています。「不通」というのは「仲が悪い」という意味で、気持ちが通じていないとか、最近ご無沙汰したままという事です。ならば土居を孤立させる為にと金山の有馬に攻め寄せた土佐勢でしたが、そこは有馬も土居の同族です。敢え無く退散を余儀なくされた土佐勢でした。

   十五節で土佐勢は、金山、岩倉から歯長を越えて黒瀬城へ向かい「鬼窪合戦」が起こります。しかし、「ここを押し返さでは土居清良に笑われるべきぞ」などと、西園寺卿は一体誰をライバル視しているのか呆れます。そして十六節で「松葉合戦」となり、奮闘する宇和勢に、土佐勢は引き上げる事となります。ここでまた一句。
 
   『一畳の たたみを三間に 敷き余し 東小路を うわ敷きにする』
   『一畳の たたみの三間に 余りなば 軒端にさぐる くもの家門』
   『一畳の たたみを三間に 敷き余す その家門ぞ 思いしらるめ』
 
   巻十四の上は、二十節、九月二十三日の記事で終わりとなりますが、十八節で土佐勢に内輪もめがあったり、十九節で同士討ちがあったり、土佐勢には良い事がありません。二十節では円長坊の出過ぎた判断を諌める話もありますが、清良記の物語は作られた部分も多い事は確かでしょう。しかし、作られたにしては出来過ぎなくらいに面白い。そう思えるのは私だけでしょうか。
 
 
 
 
 
□参加者からの意見や気付きも楽しみにしています。予習よろしくお願い致します。 文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-22 12:00 | 郷土史
【清良記を紐解く会は、特別講義①が第16回、特別講義②が第17回、平成二十七年正月が第18回ですが『巻十三』であったので、大内地区で『お六の事』の資料を持っており、清良記の研究もされている武田利康先生にお越しいただき、講義をしていただきました。しかし、紐解く会顧問の松浦郁郎先生が怪我をして来られ、私は郁郎先生を連れて病院巡り。その後は皆んなで新年の親睦を行い、大変思い出深いお正月となりました。そして、二月の第19回で改めて『巻十三』の紐解きを行いました。尚、今後のタイトルは巻数で表記します。】


□新年の挨拶

    あけましておめでとうございます。一月は武田利康先生をお招きし、『お六』の話について講義していただき大変良い交流をすることができました。また松浦郁郎先生がお怪我され、心配もありましたが、無事お元気になられております。さて、愈々『清良記を紐解く会』も三年目に突入しようとしております。一昨年は一条公所縁の四万十市(旧中村市)、昨年は岡本城址の現地研修を行ってきましたが、今年は長宗我部の本拠地へ乗り込んでみようと考えております。五月の第三土曜日と日曜日が『長宗我部まつり』、浦戸城址『桂浜荘』に一泊しての研修を提案したいと考えておりますので予定に入れておかれて下さい。


□『巻十三』を紐解く

    巻十三は、一条兼定が東に台頭する長宗我部を警戒しながら、土居との戦に腐心する様子から始まります。しかし、清良公には勝てず、長宗我部の勢いは益々強くなり、遂に巻十六では宇和との和睦をすることになっていきます。また巻十三と巻十六の一節は、『清良記がなぜここまで長宗我部を悪むのか』という理由が良く分かる記事となっています。

    四節は元亀元年に、土居外記が初陣を果たします。甥とはありますが、清宗の四男清永の子であるので『従弟』と見るのが本当かと思います。また土居外記は岡本合戦の後、討ち死にした土居似水の後を継いで石城主となっていきます。五節には、一条、西園寺、土居の侍が詠み上げた歌が記録されています。
『公広の かざしの土居の あつければ 一条二丈の やりはみじかし』
『つらくにや 土居めに敵は さるまなこ 犬にあいては いかがあるべき』
『にらまえば 敵さえ土居へ さるまなこ 犬に似たらん 人は死すべき』
歌でも張り合うなんて、清良記の記事は本当に面白いと思います。

    七節は深田一の森城の陥落です。深田殿は一条公の甥になる河後森殿に養子を出していましたが、遂に一条方となり、これによって、土居中の二つ森が敵に攻め込まれやすくなってしまったようです。その為、八節では『女、童、五百人を三手に分けて旗立てさせ城の麓へ出す』とあり、女までが軍に加わった記事に驚きますが、『清良の姉、土居宗三後家は、女なれども歴々の武士のかなわざる智略ありければ新城の城代に差し置かれける』と、清貞の長女で清良には従姉となる『お初』が城代であったことと、土居近江守家忠が『宗三』であったことが分かる記事となっています。

    気になる記事もありますが、飛ばしまして十五節。ここに『中野お六の事』という記事が登場します。同十二月始めは元亀元年。『小塚』という場所でも出来事となっていますが、現在の四万十市では、田野川小学校のある地番が『小塚』となっています。十三歳の若さで七、八人切り伏せ、腹を切って自刃しており、中野にも武勇のある若者がいたと敵も味方も讃えたといいますが、清良公は『武士は若くひ弱なる時より遅れては、稀の手柄をしてもその時、前の恥を数え立てられ面目を失う、ということここなり。通正、家代々遅れたる故に今また然りなり』と言われています。

    さて、十六節では、西園寺家に一条家との和睦を勧め、一条公に加勢しようとした清良公でしたが、西園寺公が納得しようとしません。天正二年、遂に土佐は長宗我部の手中に落ちたとあります。十七節の読みは方には慎重を帰します。一説で土居は、実は西園寺ではなく一条に仕えていたという説もある訳です。土居は西園寺の旗下でありながら、それと対等の勢力を今の北宇和、南宇和地域に持っており、西園寺の被官には煙たい存在にもなっていたようですが、夢にも逆心の意地なきは、思えば浅ましく、また思えば強みなり。切るべきに、切りまじきば切らざりきをもって重宝といえり。


□平成27年2月21日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』連絡先:090-1320-1508(松本)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-21 11:00 | 郷土史
【平成二十六年のラストは『岡本合戦』に纏わる資料批判です。それは清良記の名誉を取り戻す為の取り組みであり、私が清良記を研究する第一のテーマとなっています。】


    □岡本合戦の史料考察(『清良記』特別講義その②)2014.12.13  sat  文責:松本敏幸


    ①岡本合戦とは

    岡本合戦は、『清良記』によれば、天正九年五月二十三日夜、大森城本丸の権現堂に土居の侍が月待ち講をする為に集まっていた所、宵の闇に乗じて中野の侍が岡本城本丸に土佐勢を手引きした事に始まる岡本城の本丸奪還の夜戦です。それに続く翌二十四日の軍は、土佐勢を橘の森で迎え討つ橘合戦と言われています。
    ところが三間の郷土史学習では、清良記の内容で岡本合戦を紹介する事が全くありません。これは清良記を読まなければ気付かない事であり、大変深刻な問題と言わざるを得ません。まさにここに三間の清良記研究の課題が集約されていると言えます。それは『清良記が史料として正しく用いられていない』という意味です。

    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。(巻二十三の一、岡本合戦の事)』

    『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるはこの時の軍なり。(巻二十三の二、橘合戦の事)』


    ②岡本合戦を記述した郷土の書籍

    『南豫史』久保盛丸著(大正四年)p.255-269  p.289-291
    『土居清良』竹葉秀雄著(昭和十年)記述なし
    『伊豫史談118号』(昭和十八年)p.54-55
    『愛媛県編年史』(昭和三十八年〜)第五篇p.65-80
    『旧三間町誌』岡本千戈著(昭和三十九年)p.34-36
    『清良記』松浦郁郎校訂(昭和五十年)p.316-334
    『土居清良公三百五十年祭記念誌』(昭和五十三年)p.4-6
    『愛媛県史』古代Ⅱ・中世(昭和五十九年)p.676-677
    『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』(平成二年)p.90  p.92-94
    『三間町誌』(平成六年)p.152-156
    『土のさむらい』岡本文良著(平成八年)p.153-156
    『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第五3号』(平成十年)p.67
    『城の中世』薬師寺孝男著(平成十六年)p.38
    『伊豫史談339号』(平成十七年)p.21-22


    ③清良記以外の史料(『愛媛県編年史』より)

    1.『予陽河野家譜』
    同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

    2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
    今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
    天正七年五月廿八日  緒方与次兵衛殿

    3.『高串土居家文書①』
    今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
    六月三日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    4.『高串土居家文書②』
    去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
    七月廿日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    5.『河野系図』
    天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

    6.『元親記』
    久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
    去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

    7.『長元物語』
    宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

    8.『南海通記』
    天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

    9.『土佐軍記』
    天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

   10.『土佐国編年紀事略』
    竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤俊光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
    天正八年八月廿九日  竜沢俊派(花押)
    進上  元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

   11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠 岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

   12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
    三月十八日  (法花津)前延(花押)
    進上  三善治部少輔殿

   13.『宇和郡往昔城主記事』
    一岡本本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

   14.『吉田古記』
    一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
    二月八日  御判
    土居式部太輔との

   15.『伊予二名集』
    天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

   16.『愛媛面影』
    岡本城墟  古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


    ④年数問題『なぜ天正七年となったのか?』

    岡本合戦の年数が天正七年となったのは一目瞭然、明らかに天正七年と記述された文書が多い為と思われます。しかし、それに最終的な決定を与えたのは石野弥栄氏で、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第3号』に「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白である。」と述べた事によります。また先学の指摘とは、昭和十八年発行『伊豫史談118号』に掲載された、久延彦氏の『岡本合戦の年月に就いて』の事だと言われています。
    その記事には、「この戦の年月に就いては従来異説があって適従する處を知らない」としながら四つの説を併記しています。つまり
    一、天正五年説『四国軍記(坂本土佐軍記)』
    二、天正七年説『土佐軍記(土佐群書類従所三巻本)』『陰徳太平記』『土佐國編年紀事略』『宇和郡往昔城主紀事』
    三、天正八年説『南海通記』
    四、天正九年説『清良記』『土佐物語』
(尚、『長元物語』『元親記』には年月が記されていません。)
    その上で検証に入りますが、判断材料に使われたのが、西園寺公広から緒方與次衛に送られた『天正七年五月廿八日』付けの手紙です。しかし、手紙は何ら批判される事なく、「この文書によって天正七年説が正しいことが證される」と直ちに結論付けています。次に傍証として『二名村音地松本宮太郎氏所蔵旧書』を紹介し、『四国軍記』に天正八年に登場する久武内蔵助が、弟彦七親直が襲名した物であるという説を立て、最後に天正七年当時の龍澤寺の和尚俊派が、山内俊光の名前のあるなしから岡本合戦が天正七年であったと推測したという文書からも、「恐らく天正七年を以て正とすべきであらう。」と述べています。


    ⑤反論

    石野弥栄氏は、自分の岡本合戦天正七年説を通説としたい動機から、久延彦氏の記事を無批判に利用したと言われても仕方がないように思えます。同様に久延彦氏も天正七年説支持者である為に、緒方家文書、松本家文書、四国軍記、龍澤寺文書を批判せず利用したように伺えます。なぜならそれらの文書は、本当に突っ込み所が満載だからです。批判をすれば、緒方氏が岡本合戦に馳せ参じ、領地を与えられる程の働きをしたというのは本当でしょうか。音地松本家は中野通賢の領地にあり、中野殿は土佐に内通していただけあって文書の内容は土佐方の史料を書き写したかのように瓜二つです。天正七年の文書が多いからと言って、それが本当であるとは限りません。率直に言って、中野方と土佐方が話を合わせて天正七年の記述を広めたのではないかと言われれば、誰も否めないと思えます。龍澤寺も曹洞宗を信仰していた中野氏の影響下です。大体よく考えてみて、天正八年のほぼ当時の出来事なのに、山内外記が何年に亡くなったのかを佐竹系図等から推測しなければいけないという文書がある事自体が不自然です。
    『清良記』では中野氏は土佐方に内通して手引きした事になっており、その為に土佐方には油断があったとされています。ところが中野方や土佐方の文書は、それを打ち消すかのように、土佐方には入念な下準備があった事になっており、それに一早く気付いた中野通賢は自らが岡本城に駆け付けて勇敢に戦った事になっています。ならば敵同士の記事で違いがあって良いような物ですが、両者は内容まで大変似かよっています。そして、中野通賢が一番に岡本城に駆け付けて武功を立てたのが本当であれば、河野通直も西園寺公広も土居清良ではなく中野通賢にこそ褒美を取らせたであろうし、何より岡本城が土居の所領になるような事態は起こらない筈です。また、戦の勝敗においても、土佐が本気で準備をしたのであれば、普通に考えてみて、いくら鉄砲隊を備えた土居であっても、小勢で土佐の大軍を迎え討つ事は到底できなかった事でしょう。岡本合戦は京の都までも織田信長の元までも伝わったという有名な合戦となりました。中野方としても土佐方としても、無様であった事を必死で取り繕いたかったのではないでしょうか。
    一方、真吉水也は三嶋神社神主であり、歴史、算用、学問全般においても長けていたと言います。どうして岡本合戦の年数を間違える理由があるでしょうか。水也が承応三年に八十数歳で亡くなったとすれば、天正九年は十歳前後です。清良公の一代記である『清良記』は、明らかに複数人による記録を水也が晩年に綴り合わせた物でしょう。中には登場人物等の会話が生き生きと綴られていますが、敵方の会話まで記述されている事から著者の創作がある事は推測できます。しかし、『清良記』は宇和島藩主の目に止まるであろう事を想定して書かれているでしょうし、翌天正十年には『本能寺の変』が起きており、水也が岡本合戦の年数を間違えたと考える方が不自然なように思われます。


    ⑥結論

    古文書は、それ自体に歴史的価値があると言えるので、それぞれの文書が何を伝えているのかを正しく理解する事が大事であり、どれが本当で、どれが間違いという不毛な争いはあまりしたくありません。しかし、「岡本合戦は天正七年を正とすべきであって、天正九年とする『清良記』は明らかに間違っている」等と言われるのであれば、ただで済ます訳には行きません。これまでの三間の郷土史の先生方は、他の文書の記述を「清良記の記述」と誤魔化しながら、「岡本合戦は天正七年」と教えて来ました。『三間町誌』を始め全ての郷土史料がそうなっています。後進者としては、これまでの事は許さざるを得ませんが、これからは『清良記では岡本合戦は天正九年』と教える事の意味の大きさを感じて、今後の態度を改めていただきたいと思います。これが『清良記』の復権運動であり、名誉を挽回する重要な問題になろうと思います。


    ⑦清良記シンポジウム

    来年度、第二回『清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。第一回の時も、愛媛県歴史文化博物館の土居学芸員や鬼北町の幡上学芸員からの相談を受けたり、連絡を取り合ってシンポジウムの成功に協力させていただきました。当日は三間史談会で行っている『清良記を紐解く会』を紹介させていただく話にもなっていましたが、羽藤会長からストップが掛かり実現されませんでした。しかし、次回こそは、三間に『清良記』を勉強する会がある事を紹介しなければと思います。そして、それは『清良記を紐解く会』でしか出来ない勉強会です。水也が『清良記』を著した動機、同時期に起きている歴史的な出来事は11/29の特別講義①で述べましたが、これらをきちんと紹介し、『清良記』の持つ価値について広く理解を求めたいと思います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-20 10:00 | 郷土史
【平成二十六年十一月と十二月は、清良記の特別講義を行いました。先ず『その①』は、清良記の成立についてです。今一度『紐解く会』を発起した原点に立ち返り、清良記が何であるかをはっきりとさせ、刺激として動機を正し、一年を飾りたいと考えました。】


    □『清良記』特別講義その①  2014.11.29  sat  文責:松本敏幸


    ▪︎『清良記』とは

    ①作者→真吉水也、土居家の一族で土居水也とも云う(真吉家は清良の祖父清宗の二男清影が後継になっていたが、石城で親子共に自刃した為、三嶋神社神主河野修理に預けていた清貞の子、新左衛門が真吉家を継いでいる。)
                    宮ノ下村に居住し、三嶋神社の神主であったと云う(三嶋神社蔵『豫章記』より)
                    承応三年(1654)三月十七日、八十数歳にて死去したと云う(『清良記当時聞書追攷』より)
                    清良公が天文十五年(1546)に生まれ寛永六年(1629)に八十四歳で死去されている事から、水也は清良公よりおよそ25歳近く若い事になる。よって水也の生まれは元亀二年(1571)以後となり、天正年間の清良公の姿を直に見てきた事が伺える。
                    その10年後の寛文元年(1662)清良神社が創建される。この年は清良公の三十三回忌の翌年に当たるが、戦国時代の武将であった個人が祭神となる事は非常に稀である。

    (資料1)『宇和旧記』吉良本より

        清良記と云ハ土居式部大夫清良の事を書記したるものなり、此記者宮下村住居せし真吉水也と云ものなり

    (資料2)土居甚右衛門、同長兵衛、同六之助等宛津田理右衛門尉兼康書状より

        清良記土居水也御作立候由及承候、少拝見申度候


    ②成立年→承応二年(1653)伊達宗利が二代藩主となり和霊神社が創建された年でもある

    (資料3)『櫻田家所蔵記録  下』宇和島伊達文化保存会蔵  宇和島藩関係史料より

        清良記と申書ハ三間宮ノ下村水也と申者慶安三年(1650)ゟ作立其以後四年目ニ清書仕廻、頓而、水也相果、今年迄十年ニ罷成候由、水也弟高串村庄屋甚右衛門右之通申候、尤甚右衛門並三間屋市兵衛なと打寄仕申候事(中略)
        猶十郎右衛門口上ニ可被申候、恐惶謹言
        十月廿一日(万治二年  1659)
                古谷九太夫判
                櫻田主水
            病気無判形御氣遣成
            義ニてハ無之候
                鈴木仲右衛門判
        櫻田監物殿様
        櫻田数馬様
        小原三左衛門様


    ③現存する清良記→(資料)清良記松浦郁郎校訂より

        緒方古本、緒方新本、三間土居旧本、三間土居新本、龍泉寺本、赤松本、魚成土居本、高光土居本、伊尾喜本、川添本、吉良本、西園寺本、大三島本、伊達家本、郡鑑本、松山商大本、愛媛県庁本、国会図書館本、渡辺本(校訂本に紹介されているだけで19の『清良記』がある。)


    ④指定文化財としての清良記→(資料)三間町誌より

        『清良記全30巻』古本、及び新本
        土居享市氏より寄贈
        三間町教育委員会蔵
        昭和37年11月3日指定
        指定番号7号有形文化財(典籍)


    ⑤松浦郁郎氏校訂『清良記』→(聴取)松浦郁郎氏より

        三間土居本の古本と新本、及び高串土居本を校訂してみると、古本の表現が簡素であるのに対し、新本には古本にない修飾がされてある。また三間本と高串本とに若干の表現の違いや、三間本には抜け落ち文があり、高串本によって補っている。


    ▪︎『清良記』の内容

    ①動機→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』


    ②土居家の根元先祖→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『それ土居氏は鈴木党にて実名は重氏なり。鈴木の三郎重家の来由は、あまねく人の知れる事なれば、野海の大臣重尊の噂をもこれを除く。重家、あけくれ重清の事をかなしく思われ、奥州下りの心ざし深くして、世間の行後を案じつづけ、今はかくとや思われけん、三人の若の有りしに、太郎千代松殿を文治五年己酉二月はじめに、伊予河野四郎越智通信を頼み、あずけ下されける。この通信も、同国新井の紀四郎近清も、重家の従弟なる故なり。』

    『水上のにごらば末の川すすき清き、流れにいつかすむべき』


    ③土居家の領地→(資料)『清良記』より

    『多くの所領を分かちてつかわしぬ。』(巻一の一節)

    『土居徳能の両家かくの如くなる故、代々一家にて互いにむつび合い、土居家へしたわれければ、いずれもおろそかなかりけり。』(巻一の一節)

    『三月朔日、真光より山田治元御使にて宗雲へ、立間、喜佐方、立間尻、彼之三百貫知行してすなわち石城持たせられ候え。』(巻一の三節)

    『宮下、石原、末森、この三カ村をぞ書き出されける。』(巻六の三節)

    『宮の下村宗案、黒井地村久兵衛、務田村五郎左衛門彼等三人大森へ登城す、』(巻七の一節)

    『去年六月よりは土居殿の御領となれり。』(巻二十四の一節)


    ④土居家の本城→(資料)『清良記』より

    『備中守清貞、わが城を捨てて父と一緒にこもる事』(巻三の一節)

    『土居の両城落としては、西園寺の滅亡うたがいなし。』(巻三の一節)

    『年ごろ日ごろ住みなれし土居の御城を弓手にして、心細くも落ちさせ給う。』(巻四の一節)

    『しかるべし、前表にて雄々しき御帰城なり。錦は飾らざれども人数を飾りぬ。それ武士は人を得ることをもっぱらにすれば、錦を飾りたらんよりはるかにまされり。』(巻六の四節)


    ⑤土居家の家系→(資料)『清良記』より

    (別紙参照)


    □次回、12/    (    )に『清良記』特別講義その②(岡本合戦編)を行います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-19 09:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん