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【清良記を紐解く会は、平成二十八年三月の『巻二十三』の紐解きに向けて、毎月のテキストを会報上で公開して行く事となりました。それは『岡本合戦』の年数問題に決着を付ける為であり、清良記の名誉を回復する為でもあります。また、この日は宇和島伊達400年祭の前夜でもありましたが、武者行列に参加する為に家内の従弟が福島県郡山市から来ており、清良記を紐解く会にも出席してくれました。】


□『清良記を紐解く会』より
 
   二年前、平成二十五年六月から始まった『清良記を紐解く会』も、今年で三年目に入ろうとしています。一年目には、三間史談会の念願であった『清良公の土佐落ち』のルートと土佐で領地したという『高島』、そして一条公や土居宗三所縁の地を訪問。二年目は、清良記に見る『岡本合戦』を現地に入って検証してみましたが、愈々三年目では、宿敵長宗我部元親の史跡めぐりを計画したいと思います。ちょうど清良記の紐解きも後半に差し掛かり、これからは長宗我部元親との合戦がメインとなって行きます。今回からは予習の意味を込め、会報上でテキストを公開して行きますので、よろしくお願い致します。
 
註1.清良記を紐解く会は、『清良記』に書かれた内容について紹介する事を目的
としています。
註2.清良記を紐解く会は、松浦郁郎校訂『清良記』をメインの教材としています。
 
□『巻十四の上』p.178〜190を紐解く
 
   歴史研究者から様々に批判を受ける清良記ですが、巻十四の上も疑問が挟まれます。p.178に「北条九代目平高時」とありますが、高時は鎌倉幕府の執権十四代目。父貞時が九代目です。このように清良記には小さな間違いが見られます。一方後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕をした人物。土居家が後醍醐天皇に取り立てられた事から、清良記は高時を悪逆無道と誹り、後醍醐天皇を奉る立場を取ります。それを義理に思い西園寺卿に仕える清良公でしたが、大分この頃は失望していた感が伺えます。
 
   さて問題は下の段から。去年というのは元亀元年の事で、巻十四の上は元亀二年の出来事という事になります。ここに出て来るは「宗案」の名前です。松浦宗案が巻七にしか登場しない事から「宗案は架空の人物ではないか」との説も在る訳ですが、宗案は侍というよりは百姓。この頃活躍していたのは宗案の子で、二十二歳の松浦八郎兵衛が巻十四の上にて登場となります。

   此度の土佐との合戦は、まだ一条の旗本であった長宗我部元親が参るとの情報。元親との初合戦は絶対仕損じてはならないと清良公の気合が滲みますが、公広卿の戦況が理解できない様子にもどかしいさが広がります。二節では元親の陣地として「二つ森」が登場。清良公は直前に「陣ヶ森に駆けんぞ」とも言われており、一条の陣取った「中の城」や元親の陣取った「二つ森」が松野であったのか?それとも深田であったのか?はたまた三間の土居中であったのか?と考えると不明です。
 
   四節では土居の侍玉木源蔵と一条兼定の従弟入江兵部の悪口争いがあります。入江の悪口は源蔵が「鞠の源蔵」と呼ばれている事への冷やかしですが、源蔵が言い返している落書きの事を理解する為に巻五第四節p.50の読み返しをお勧めします。この後も入江兵部は度々登場しますが、巻十七の最後p.239には元親の手先として、遂に一条兼定公暗殺の刺客となる憐れな様子が描かれています。
 
   さて五節。源蔵がなぜ「鞠の源蔵」と呼ばれるようになったのかという話です。事の始まりは、全国を行脚し能を致す虎屋の小太夫なる一行が大森城を訪れた時の事。諸人が珍しがり多くの者が稽古した時期があった折、袴を踏まれた源蔵が相手を笑って許した事から、腰抜け呼ばわりの悪口が広がったようです。その源蔵の袴を踏んだのが松浦八郎兵衛でした。八郎兵衛は心苦しく思い直接謝罪もしますが、咎めもしない源蔵。その為に六節では三間総奉行土居左兵衞に事の次第を伝えたとあります。この八郎兵衛が松浦宗案公の子で、以後、二人は清良公より特別な恩義を受ける事になりました。
 
   さて土佐との合戦は、九月十二日に深田一の森城が落城します。巻十三第七節p.171では、深田殿は元亀元年八月十三日に土佐に降参したとありますが、十五節p.175で土佐へ落ち行きてからは、元亀二年正月から土居の番城となっていました。番手だった公広ご一家衆は皆土居の大森城へ引き上げたようですが、土佐勢は中村石原の平地に集まって陣取ります。この「中村石原」は、現在の土居中と増田です。また、この記事で巻十一第三節p.149にある「鼡の尾」「下森」「土合」は三間川の南岸である事が分かります。

   八節からは五左衛門が活躍します。しかし、八節や九節で言う「両の向かい城」が何処かは不明です。十節では活躍を清良公から褒められますが、謙遜し、皆が一人の人間が手足を動かすが如く、また能の楽器に例えて、「丹波が夏雪、冬螢の両火、敵を焼く事ただ人間の技にて御座なく候」と、当家の夜打ちこそ讃える五左衛門でした。
 
   十二節は真吉新左衛門の活躍です。大軍の土佐勢は、小勢の土居を侮って三間川を渡る事を予測し、難所を守って渡り口と勘違いさせる策略を立てます。しかし、川幅は二町に及んでいたとありますから約220メートル…護岸がない時代の三間は本当に水沼だったという事が分かります。またここで歌を詠むのも面白いです。
 
   『土佐武者は 皆人威しの 鎧着て 渦の辺りに 流れ寄るかな』
   『漲りて 落とす河水深ければ たけ一条の 節は流れり』
   『土佐武者の 丈は一丈あるなれば 鬼神とこそは 敵は見るらん』
   『漲ると 三間の河水深からし ただ猛勢に せつ所なければ』
 
   十三節は二回目の「扇の的」の登場です。昨年十月に、巻十二第九節で登場した「扇の的」が単に源平合戦に登場する那須与一の焼き直しでない事を説明しましたが、今回はその時の仕返しをしようというもの。吉野川では鉄砲の助が扇の的を撃ち落としましたが、今回は二町程もあって誰も撃ち落とせないというオチです。創作であれば何の為?と不思議に思います。p.161
 
   十四節が出陣より十日目です。しかし、出陣しただけで戦もせず、土佐勢に占領され続けるというのも嫌なものです。ここで清良記は、清良公が打ち出す機会を失っている理由を「旗頭西園寺殿とは近年不通と聞いたり」と土佐方に喋らせています。「不通」というのは「仲が悪い」という意味で、気持ちが通じていないとか、最近ご無沙汰したままという事です。ならば土居を孤立させる為にと金山の有馬に攻め寄せた土佐勢でしたが、そこは有馬も土居の同族です。敢え無く退散を余儀なくされた土佐勢でした。

   十五節で土佐勢は、金山、岩倉から歯長を越えて黒瀬城へ向かい「鬼窪合戦」が起こります。しかし、「ここを押し返さでは土居清良に笑われるべきぞ」などと、西園寺卿は一体誰をライバル視しているのか呆れます。そして十六節で「松葉合戦」となり、奮闘する宇和勢に、土佐勢は引き上げる事となります。ここでまた一句。
 
   『一畳の たたみを三間に 敷き余し 東小路を うわ敷きにする』
   『一畳の たたみの三間に 余りなば 軒端にさぐる くもの家門』
   『一畳の たたみを三間に 敷き余す その家門ぞ 思いしらるめ』
 
   巻十四の上は、二十節、九月二十三日の記事で終わりとなりますが、十八節で土佐勢に内輪もめがあったり、十九節で同士討ちがあったり、土佐勢には良い事がありません。二十節では円長坊の出過ぎた判断を諌める話もありますが、清良記の物語は作られた部分も多い事は確かでしょう。しかし、作られたにしては出来過ぎなくらいに面白い。そう思えるのは私だけでしょうか。
 
 
 
 
 
□参加者からの意見や気付きも楽しみにしています。予習よろしくお願い致します。 文責・三間史談会々員 松 本 敏 幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-22 12:00 | 郷土史
【清良記を紐解く会は、特別講義①が第16回、特別講義②が第17回、平成二十七年正月が第18回ですが『巻十三』であったので、大内地区で『お六の事』の資料を持っており、清良記の研究もされている武田利康先生にお越しいただき、講義をしていただきました。しかし、紐解く会顧問の松浦郁郎先生が怪我をして来られ、私は郁郎先生を連れて病院巡り。その後は皆んなで新年の親睦を行い、大変思い出深いお正月となりました。そして、二月の第19回で改めて『巻十三』の紐解きを行いました。尚、今後のタイトルは巻数で表記します。】


□新年の挨拶

    あけましておめでとうございます。一月は武田利康先生をお招きし、『お六』の話について講義していただき大変良い交流をすることができました。また松浦郁郎先生がお怪我され、心配もありましたが、無事お元気になられております。さて、愈々『清良記を紐解く会』も三年目に突入しようとしております。一昨年は一条公所縁の四万十市(旧中村市)、昨年は岡本城址の現地研修を行ってきましたが、今年は長宗我部の本拠地へ乗り込んでみようと考えております。五月の第三土曜日と日曜日が『長宗我部まつり』、浦戸城址『桂浜荘』に一泊しての研修を提案したいと考えておりますので予定に入れておかれて下さい。


□『巻十三』を紐解く

    巻十三は、一条兼定が東に台頭する長宗我部を警戒しながら、土居との戦に腐心する様子から始まります。しかし、清良公には勝てず、長宗我部の勢いは益々強くなり、遂に巻十六では宇和との和睦をすることになっていきます。また巻十三と巻十六の一節は、『清良記がなぜここまで長宗我部を悪むのか』という理由が良く分かる記事となっています。

    四節は元亀元年に、土居外記が初陣を果たします。甥とはありますが、清宗の四男清永の子であるので『従弟』と見るのが本当かと思います。また土居外記は岡本合戦の後、討ち死にした土居似水の後を継いで石城主となっていきます。五節には、一条、西園寺、土居の侍が詠み上げた歌が記録されています。
『公広の かざしの土居の あつければ 一条二丈の やりはみじかし』
『つらくにや 土居めに敵は さるまなこ 犬にあいては いかがあるべき』
『にらまえば 敵さえ土居へ さるまなこ 犬に似たらん 人は死すべき』
歌でも張り合うなんて、清良記の記事は本当に面白いと思います。

    七節は深田一の森城の陥落です。深田殿は一条公の甥になる河後森殿に養子を出していましたが、遂に一条方となり、これによって、土居中の二つ森が敵に攻め込まれやすくなってしまったようです。その為、八節では『女、童、五百人を三手に分けて旗立てさせ城の麓へ出す』とあり、女までが軍に加わった記事に驚きますが、『清良の姉、土居宗三後家は、女なれども歴々の武士のかなわざる智略ありければ新城の城代に差し置かれける』と、清貞の長女で清良には従姉となる『お初』が城代であったことと、土居近江守家忠が『宗三』であったことが分かる記事となっています。

    気になる記事もありますが、飛ばしまして十五節。ここに『中野お六の事』という記事が登場します。同十二月始めは元亀元年。『小塚』という場所でも出来事となっていますが、現在の四万十市では、田野川小学校のある地番が『小塚』となっています。十三歳の若さで七、八人切り伏せ、腹を切って自刃しており、中野にも武勇のある若者がいたと敵も味方も讃えたといいますが、清良公は『武士は若くひ弱なる時より遅れては、稀の手柄をしてもその時、前の恥を数え立てられ面目を失う、ということここなり。通正、家代々遅れたる故に今また然りなり』と言われています。

    さて、十六節では、西園寺家に一条家との和睦を勧め、一条公に加勢しようとした清良公でしたが、西園寺公が納得しようとしません。天正二年、遂に土佐は長宗我部の手中に落ちたとあります。十七節の読みは方には慎重を帰します。一説で土居は、実は西園寺ではなく一条に仕えていたという説もある訳です。土居は西園寺の旗下でありながら、それと対等の勢力を今の北宇和、南宇和地域に持っており、西園寺の被官には煙たい存在にもなっていたようですが、夢にも逆心の意地なきは、思えば浅ましく、また思えば強みなり。切るべきに、切りまじきば切らざりきをもって重宝といえり。


□平成27年2月21日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』連絡先:090-1320-1508(松本)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-21 11:00 | 郷土史
【平成二十六年のラストは『岡本合戦』に纏わる資料批判です。それは清良記の名誉を取り戻す為の取り組みであり、私が清良記を研究する第一のテーマとなっています。】


    □岡本合戦の史料考察(『清良記』特別講義その②)2014.12.13  sat  文責:松本敏幸


    ①岡本合戦とは

    岡本合戦は、『清良記』によれば、天正九年五月二十三日夜、大森城本丸の権現堂に土居の侍が月待ち講をする為に集まっていた所、宵の闇に乗じて中野の侍が岡本城本丸に土佐勢を手引きした事に始まる岡本城の本丸奪還の夜戦です。それに続く翌二十四日の軍は、土佐勢を橘の森で迎え討つ橘合戦と言われています。
    ところが三間の郷土史学習では、清良記の内容で岡本合戦を紹介する事が全くありません。これは清良記を読まなければ気付かない事であり、大変深刻な問題と言わざるを得ません。まさにここに三間の清良記研究の課題が集約されていると言えます。それは『清良記が史料として正しく用いられていない』という意味です。

    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。(巻二十三の一、岡本合戦の事)』

    『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるはこの時の軍なり。(巻二十三の二、橘合戦の事)』


    ②岡本合戦を記述した郷土の書籍

    『南豫史』久保盛丸著(大正四年)p.255-269  p.289-291
    『土居清良』竹葉秀雄著(昭和十年)記述なし
    『伊豫史談118号』(昭和十八年)p.54-55
    『愛媛県編年史』(昭和三十八年〜)第五篇p.65-80
    『旧三間町誌』岡本千戈著(昭和三十九年)p.34-36
    『清良記』松浦郁郎校訂(昭和五十年)p.316-334
    『土居清良公三百五十年祭記念誌』(昭和五十三年)p.4-6
    『愛媛県史』古代Ⅱ・中世(昭和五十九年)p.676-677
    『三間町二名地区遺跡詳細分布調査報告書』(平成二年)p.90  p.92-94
    『三間町誌』(平成六年)p.152-156
    『土のさむらい』岡本文良著(平成八年)p.153-156
    『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第五3号』(平成十年)p.67
    『城の中世』薬師寺孝男著(平成十六年)p.38
    『伊豫史談339号』(平成十七年)p.21-22


    ③清良記以外の史料(『愛媛県編年史』より)

    1.『予陽河野家譜』
    同五月、長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤次等進兵、囲岡本城、々主兼通志於土州之間、各束手帰降、土州勢乃楯籠于彼城、構要害、当城者、中野新蔵人・河野蔵人・河野通賢牙城也、故通賢自率数百騎馳来、大森城主土居清良同来加焉(以下略)

    2.『緒方家文書』愛媛県立図書館所蔵
    今度中野通政実子之末男并西両人企謀反、土州衆引籠岡本之城切取候処、当日切帰候刻、其方無比類手柄被仕候ニ付、豊州土州従両国、取懸候砌、及加勢腹之所、凌海陸対当家数度之忠節候間、ほうひとして、知行十貫分可差遺候、請取次第可有言上候者也(西園寺)公広(花押)
    天正七年五月廿八日  緒方与次兵衛殿

    3.『高串土居家文書①』
    今度土州衆、岡本城忍捕之所、自身被砕手之段、長曾我部随身之者共不残被討取、剰要害被斬返之段、戦功無比類事ニ候、御辛労之様躰、重塁可申候、仍太刀一振金覆輪馬代進之候、猶飛脚可申候、恐々謹言、
    六月三日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    4.『高串土居家文書②』
    去夏土州以調略、岡本城雖忍捕候、
旁依為近辺、不移時日、被迨防戦、久武内蔵介為始、彼凶徒等即被討捕、高名之至、殊絶之功、誠無比類候、仍具足一領甲一列進之候、猶公広申達候、恐々謹言、
    七月廿日  (河野)通直(花押)
    土居式部太輔殿

    5.『河野系図』
    天正七年己卯歳夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、為大将率七千余騎、先陣竹之内鹿之助、同人聟竹之内弥藤次、内通之者為案内忍入岡本城、乗取本丸処、通賢自高森馳来防戦、土居式部大夫清良者土居大森城主、因為近所早速加勢、以調略土居勢、敗軍於深田表、大将三人討取之、其外数千騎討死、

    6.『元親記』
    久武内蔵助討死之事付内蔵助有馬湯治之事
    去程に此内蔵助と云者は、家老頭武篇才覚、旁無比類者にて有し也、依之予州中郡より南伊予分の軍代を被申付、先予州河原淵城主一覚、西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無城主共、内蔵助簱下へ降参す、斯りける処に、南伊与美間郡の内城数五ツ有、其内岡本と云城、手合する者有て忍入て取之、内蔵助此城へ人数を可差籠とて懸助候処、残城より取出合戦す、爰にて内蔵助打果たり、其後は前内蔵助跡を弟彦七に被云付、又内蔵助に被成し也、

    7.『長元物語』
    宇和郡三間郷ニ土居・金山・岡本・深田・高森此五ヶ所、敵道ノ間一里二里又半道也、其中ニテ岡本城忍取才覚、久武内蔵介仕リ陣立シテ、敵ノ存モヨラヌ大山三日路続タル谷峰ヲ越、其間ニ人馬食物拵煙ノタタヌ様ニトテ、五日ノ用意シテ兵粮、馬ノ飼等小者ノ腰ニ付ケサセ、竹内虎之助ト云武辺功者大将ニテ、一騎当千ノ侍廿人小者モ撰テ二十人、此ノ城へ忍ヨリ乗入ラントスル所ヲ、城中ノ者聞ツケ出相、散々ニ切アヒ突アフ、虎之助ムコノ弥藤次深手ヲ負、其外手負有トイへトモ本丸ヲハ乗取(以下略)

    8.『南海通記』
    天正八年月日、宇和郡美間郡ニ土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ノ敵城アリ、其間一里二里或ハ半里モアリ、其中ニ岡本ノ城ヲ以テ取ベキ才覚シテ、久武内蔵助出陣シ、又竹内虎之介ト云士ヲ大将トシテ、功者ノ士二十人、下僕二十人仕立テ(以下略)

    9.『土佐軍記』
    天正七年二月、久武内蔵介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の辛労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣領頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひければ、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和郡三間郷に陣をとり、軍評定する(以下略)

   10.『土佐国編年紀事略』
    竜沢寺俊派ガ天正六年ノ書ニ、山内俊光ト記リ、又高岡郡多郷村賀茂ノ棟札ニモ小外記首藤俊光ト記セルヲ、天正七年ノ棟札に至テ始メテ小外記首藤俊光ト記シテ、俊光ノ名復所見ナキハ、今年ニ俊光戦死セシヲ其子親父ニ継モノ疑ナキ歟、故ニ佐竹系図ニヨツテ七年トス(中略)
    天正八年八月廿九日  竜沢俊派(花押)
    進上  元亨院寿鑑大和尚衣鉢閣下

   11.『佐竹系図』
(前略)天正七年夏五月、土佐勢取河原淵、拠 岡本城振武威是也、土居清良聞急馳来奮戦(以下略)

   12.『阿波国徴古雑抄』法花津前延書状
(前略)殊去夏之比、到三間表、土州衆罷出候所、即時及防戦、土州久武為初宗徒之者、数百人討取之、庄内一味中勝利不及申候、就中土州太体之ニ候間、公広家中太義迄候、於都合公広進退無恙候、信長公御奉行衆被仰分候者、諸家中可為安堵、於様子者、彼御上使可有御演説候、此等之趣宜可預御披露候、恐惶謹言、
    三月十八日  (法花津)前延(花押)
    進上  三善治部少輔殿

   13.『宇和郡往昔城主記事』
    一岡本本城敗軍は天正七年己卯年夏、土州長曾我部元親家臣久武内蔵助・佐竹太郎兵衛・山内外記三人、大将として押寄、一戦有之由(以下略)

   14.『吉田古記』
    一天正七年五月、岡本城に於て清良謀略を以て、土佐の名将久武内蔵助を討取りたる時(中略)
    二月八日  御判
    土居式部太輔との

   15.『伊予二名集』
    天正七年五月、長曾我部元親家臣久武内蔵・佐竹太郎兵衛・山口外記等率七千余騎攻宇和郡、先陣竹内虎之助、同弥藤治等進兵囲当城、城兵兼通志土州之間、各束手帰陣、土州勢乃楯籠于彼城而構要害、当城者中野通賢牙城也、故中野蔵人通賢自率数百騎来、大森城主土居清義同来加焉、各先士卒攻戦実親等率大勢襲来之間、久武以下無益于構塞、失力廻謀忽以抜落味方、乗勝頻襲迹之間、於于深田表、返合発矢、土居清義中野通賢等振武威拋身命相闘、久武以下三将及宗徒勇士被疵迯去訖(以下略)

   16.『愛媛面影』
    岡本城墟  古藤田村に在り、元中野家の持城なりしを、後に土居清良に属しけるよし、永禄の頃、土佐一条家より軍勢を催して伺はれし事ども土佐軍記に見えたり、土佐軍記曰、久武内蔵介与力此外ニ幡多郡ノ侍衆ヲ加へ七千余騎ニテ与衆へ出陣也、宇和郡三間ニ陣ヲ取軍評定スル(以下略)


    ④年数問題『なぜ天正七年となったのか?』

    岡本合戦の年数が天正七年となったのは一目瞭然、明らかに天正七年と記述された文書が多い為と思われます。しかし、それに最終的な決定を与えたのは石野弥栄氏で、平成十年発行『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第3号』に「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする『清良記』の誤りは明白である。」と述べた事によります。また先学の指摘とは、昭和十八年発行『伊豫史談118号』に掲載された、久延彦氏の『岡本合戦の年月に就いて』の事だと言われています。
    その記事には、「この戦の年月に就いては従来異説があって適従する處を知らない」としながら四つの説を併記しています。つまり
    一、天正五年説『四国軍記(坂本土佐軍記)』
    二、天正七年説『土佐軍記(土佐群書類従所三巻本)』『陰徳太平記』『土佐國編年紀事略』『宇和郡往昔城主紀事』
    三、天正八年説『南海通記』
    四、天正九年説『清良記』『土佐物語』
(尚、『長元物語』『元親記』には年月が記されていません。)
    その上で検証に入りますが、判断材料に使われたのが、西園寺公広から緒方與次衛に送られた『天正七年五月廿八日』付けの手紙です。しかし、手紙は何ら批判される事なく、「この文書によって天正七年説が正しいことが證される」と直ちに結論付けています。次に傍証として『二名村音地松本宮太郎氏所蔵旧書』を紹介し、『四国軍記』に天正八年に登場する久武内蔵助が、弟彦七親直が襲名した物であるという説を立て、最後に天正七年当時の龍澤寺の和尚俊派が、山内俊光の名前のあるなしから岡本合戦が天正七年であったと推測したという文書からも、「恐らく天正七年を以て正とすべきであらう。」と述べています。


    ⑤反論

    石野弥栄氏は、自分の岡本合戦天正七年説を通説としたい動機から、久延彦氏の記事を無批判に利用したと言われても仕方がないように思えます。同様に久延彦氏も天正七年説支持者である為に、緒方家文書、松本家文書、四国軍記、龍澤寺文書を批判せず利用したように伺えます。なぜならそれらの文書は、本当に突っ込み所が満載だからです。批判をすれば、緒方氏が岡本合戦に馳せ参じ、領地を与えられる程の働きをしたというのは本当でしょうか。音地松本家は中野通賢の領地にあり、中野殿は土佐に内通していただけあって文書の内容は土佐方の史料を書き写したかのように瓜二つです。天正七年の文書が多いからと言って、それが本当であるとは限りません。率直に言って、中野方と土佐方が話を合わせて天正七年の記述を広めたのではないかと言われれば、誰も否めないと思えます。龍澤寺も曹洞宗を信仰していた中野氏の影響下です。大体よく考えてみて、天正八年のほぼ当時の出来事なのに、山内外記が何年に亡くなったのかを佐竹系図等から推測しなければいけないという文書がある事自体が不自然です。
    『清良記』では中野氏は土佐方に内通して手引きした事になっており、その為に土佐方には油断があったとされています。ところが中野方や土佐方の文書は、それを打ち消すかのように、土佐方には入念な下準備があった事になっており、それに一早く気付いた中野通賢は自らが岡本城に駆け付けて勇敢に戦った事になっています。ならば敵同士の記事で違いがあって良いような物ですが、両者は内容まで大変似かよっています。そして、中野通賢が一番に岡本城に駆け付けて武功を立てたのが本当であれば、河野通直も西園寺公広も土居清良ではなく中野通賢にこそ褒美を取らせたであろうし、何より岡本城が土居の所領になるような事態は起こらない筈です。また、戦の勝敗においても、土佐が本気で準備をしたのであれば、普通に考えてみて、いくら鉄砲隊を備えた土居であっても、小勢で土佐の大軍を迎え討つ事は到底できなかった事でしょう。岡本合戦は京の都までも織田信長の元までも伝わったという有名な合戦となりました。中野方としても土佐方としても、無様であった事を必死で取り繕いたかったのではないでしょうか。
    一方、真吉水也は三嶋神社神主であり、歴史、算用、学問全般においても長けていたと言います。どうして岡本合戦の年数を間違える理由があるでしょうか。水也が承応三年に八十数歳で亡くなったとすれば、天正九年は十歳前後です。清良公の一代記である『清良記』は、明らかに複数人による記録を水也が晩年に綴り合わせた物でしょう。中には登場人物等の会話が生き生きと綴られていますが、敵方の会話まで記述されている事から著者の創作がある事は推測できます。しかし、『清良記』は宇和島藩主の目に止まるであろう事を想定して書かれているでしょうし、翌天正十年には『本能寺の変』が起きており、水也が岡本合戦の年数を間違えたと考える方が不自然なように思われます。


    ⑥結論

    古文書は、それ自体に歴史的価値があると言えるので、それぞれの文書が何を伝えているのかを正しく理解する事が大事であり、どれが本当で、どれが間違いという不毛な争いはあまりしたくありません。しかし、「岡本合戦は天正七年を正とすべきであって、天正九年とする『清良記』は明らかに間違っている」等と言われるのであれば、ただで済ます訳には行きません。これまでの三間の郷土史の先生方は、他の文書の記述を「清良記の記述」と誤魔化しながら、「岡本合戦は天正七年」と教えて来ました。『三間町誌』を始め全ての郷土史料がそうなっています。後進者としては、これまでの事は許さざるを得ませんが、これからは『清良記では岡本合戦は天正九年』と教える事の意味の大きさを感じて、今後の態度を改めていただきたいと思います。これが『清良記』の復権運動であり、名誉を挽回する重要な問題になろうと思います。


    ⑦清良記シンポジウム

    来年度、第二回『清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。第一回の時も、愛媛県歴史文化博物館の土居学芸員や鬼北町の幡上学芸員からの相談を受けたり、連絡を取り合ってシンポジウムの成功に協力させていただきました。当日は三間史談会で行っている『清良記を紐解く会』を紹介させていただく話にもなっていましたが、羽藤会長からストップが掛かり実現されませんでした。しかし、次回こそは、三間に『清良記』を勉強する会がある事を紹介しなければと思います。そして、それは『清良記を紐解く会』でしか出来ない勉強会です。水也が『清良記』を著した動機、同時期に起きている歴史的な出来事は11/29の特別講義①で述べましたが、これらをきちんと紹介し、『清良記』の持つ価値について広く理解を求めたいと思います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-20 10:00 | 郷土史
【平成二十六年十一月と十二月は、清良記の特別講義を行いました。先ず『その①』は、清良記の成立についてです。今一度『紐解く会』を発起した原点に立ち返り、清良記が何であるかをはっきりとさせ、刺激として動機を正し、一年を飾りたいと考えました。】


    □『清良記』特別講義その①  2014.11.29  sat  文責:松本敏幸


    ▪︎『清良記』とは

    ①作者→真吉水也、土居家の一族で土居水也とも云う(真吉家は清良の祖父清宗の二男清影が後継になっていたが、石城で親子共に自刃した為、三嶋神社神主河野修理に預けていた清貞の子、新左衛門が真吉家を継いでいる。)
                    宮ノ下村に居住し、三嶋神社の神主であったと云う(三嶋神社蔵『豫章記』より)
                    承応三年(1654)三月十七日、八十数歳にて死去したと云う(『清良記当時聞書追攷』より)
                    清良公が天文十五年(1546)に生まれ寛永六年(1629)に八十四歳で死去されている事から、水也は清良公よりおよそ25歳近く若い事になる。よって水也の生まれは元亀二年(1571)以後となり、天正年間の清良公の姿を直に見てきた事が伺える。
                    その10年後の寛文元年(1662)清良神社が創建される。この年は清良公の三十三回忌の翌年に当たるが、戦国時代の武将であった個人が祭神となる事は非常に稀である。

    (資料1)『宇和旧記』吉良本より

        清良記と云ハ土居式部大夫清良の事を書記したるものなり、此記者宮下村住居せし真吉水也と云ものなり

    (資料2)土居甚右衛門、同長兵衛、同六之助等宛津田理右衛門尉兼康書状より

        清良記土居水也御作立候由及承候、少拝見申度候


    ②成立年→承応二年(1653)伊達宗利が二代藩主となり和霊神社が創建された年でもある

    (資料3)『櫻田家所蔵記録  下』宇和島伊達文化保存会蔵  宇和島藩関係史料より

        清良記と申書ハ三間宮ノ下村水也と申者慶安三年(1650)ゟ作立其以後四年目ニ清書仕廻、頓而、水也相果、今年迄十年ニ罷成候由、水也弟高串村庄屋甚右衛門右之通申候、尤甚右衛門並三間屋市兵衛なと打寄仕申候事(中略)
        猶十郎右衛門口上ニ可被申候、恐惶謹言
        十月廿一日(万治二年  1659)
                古谷九太夫判
                櫻田主水
            病気無判形御氣遣成
            義ニてハ無之候
                鈴木仲右衛門判
        櫻田監物殿様
        櫻田数馬様
        小原三左衛門様


    ③現存する清良記→(資料)清良記松浦郁郎校訂より

        緒方古本、緒方新本、三間土居旧本、三間土居新本、龍泉寺本、赤松本、魚成土居本、高光土居本、伊尾喜本、川添本、吉良本、西園寺本、大三島本、伊達家本、郡鑑本、松山商大本、愛媛県庁本、国会図書館本、渡辺本(校訂本に紹介されているだけで19の『清良記』がある。)


    ④指定文化財としての清良記→(資料)三間町誌より

        『清良記全30巻』古本、及び新本
        土居享市氏より寄贈
        三間町教育委員会蔵
        昭和37年11月3日指定
        指定番号7号有形文化財(典籍)


    ⑤松浦郁郎氏校訂『清良記』→(聴取)松浦郁郎氏より

        三間土居本の古本と新本、及び高串土居本を校訂してみると、古本の表現が簡素であるのに対し、新本には古本にない修飾がされてある。また三間本と高串本とに若干の表現の違いや、三間本には抜け落ち文があり、高串本によって補っている。


    ▪︎『清良記』の内容

    ①動機→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』


    ②土居家の根元先祖→(資料)『清良記』巻一の一節より

    『それ土居氏は鈴木党にて実名は重氏なり。鈴木の三郎重家の来由は、あまねく人の知れる事なれば、野海の大臣重尊の噂をもこれを除く。重家、あけくれ重清の事をかなしく思われ、奥州下りの心ざし深くして、世間の行後を案じつづけ、今はかくとや思われけん、三人の若の有りしに、太郎千代松殿を文治五年己酉二月はじめに、伊予河野四郎越智通信を頼み、あずけ下されける。この通信も、同国新井の紀四郎近清も、重家の従弟なる故なり。』

    『水上のにごらば末の川すすき清き、流れにいつかすむべき』


    ③土居家の領地→(資料)『清良記』より

    『多くの所領を分かちてつかわしぬ。』(巻一の一節)

    『土居徳能の両家かくの如くなる故、代々一家にて互いにむつび合い、土居家へしたわれければ、いずれもおろそかなかりけり。』(巻一の一節)

    『三月朔日、真光より山田治元御使にて宗雲へ、立間、喜佐方、立間尻、彼之三百貫知行してすなわち石城持たせられ候え。』(巻一の三節)

    『宮下、石原、末森、この三カ村をぞ書き出されける。』(巻六の三節)

    『宮の下村宗案、黒井地村久兵衛、務田村五郎左衛門彼等三人大森へ登城す、』(巻七の一節)

    『去年六月よりは土居殿の御領となれり。』(巻二十四の一節)


    ④土居家の本城→(資料)『清良記』より

    『備中守清貞、わが城を捨てて父と一緒にこもる事』(巻三の一節)

    『土居の両城落としては、西園寺の滅亡うたがいなし。』(巻三の一節)

    『年ごろ日ごろ住みなれし土居の御城を弓手にして、心細くも落ちさせ給う。』(巻四の一節)

    『しかるべし、前表にて雄々しき御帰城なり。錦は飾らざれども人数を飾りぬ。それ武士は人を得ることをもっぱらにすれば、錦を飾りたらんよりはるかにまされり。』(巻六の四節)


    ⑤土居家の家系→(資料)『清良記』より

    (別紙参照)


    □次回、12/    (    )に『清良記』特別講義その②(岡本合戦編)を行います。


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-19 09:00 | 郷土史
【平成二十六年八月に『巻十一』、九月に『巻十二』を紐解きましたがテキストを作らず、また十月は多忙を理由にお休みする事になりました。その為、三間史談会の会報にテキストを事後掲載させていただきまし。】


【清良記を紐解く会より】

    公私共に忙しく十月は清良記の勉強会をお休みさせていただきましたが、十一月より早速再開したいと思いますので宜しくお願いします。また、八月の巻十一、九月の巻十二はテキストを作らなかったので今回併せて纏めておきます。どうぞ復習にご活用下さい。


【巻十一を紐解く】

    まず巻十一は、法華津殿を懐柔しようとした豊後勢を騙し討ちする話から始まります。仲間になると見せかけて討ち取ったのですから、豊後から受けた恨みは相当な物だろうと思いますが、どんな有力な武将に懐柔されても決して主君を裏切らなかった法華津殿の美談と言えます。また年数は『六月九日』となっていますが、巻十からの続きという事から永禄九年の記事という事が分かります。また、二節では七月初め、七月十七日、七月二十二日。三節では七月二十六日と戦に暇がありませんが、戦場の舞台として『窓の峠』が登場する所は見逃せません。そして、四節に有名な三嶋神社の神罰の話が登場します。

    七節からは永禄十年となります。ここで登場するのは石城修理の話です。前年十月末より準備を始めれば、二月に工事開始とふれを回し、領民は正月の内に二月分の仕事まで仕回して、十五日には石城の修理を終えたとあります。領主に忠誠を尽くす良いエピソードだと思います。また、この時に、後の框越え合戦で討死する土居似水が石城の城代となります。

    また注目すべきは、九節の山内外記の登場です。山内は土佐一条氏の家臣で、七百騎の部下を引き連れて深田を打ち通り、土居中のふたつ森に陣取り大森城に迫ります。しかし、敵地に深入りし過ぎた山内は、敵に囲まれる事を恐れて夜の内に撤退。土居を攻め落とすには謀が必要と主張して田植え時期の五月に再来しますが、敢えなく敗北。しかし、この時の謀が、岡本合戦への伏線になっているように伺えます。


【巻十二を紐解く】

    巻十二は、永禄十年六月二日から始まります。そこには河後森殿の扱いに対する宇和郡の武将同士の葛藤が見え隠れします。河後森殿は土佐一条氏の甥の立場で土佐に組みする事が度々ある為、清良公は旗頭の西園寺殿に再三領主の交代を願い出ているのですが、それがうまく行かないのは、宇和郡の半分の領主が河後森殿の庇護を受けていたからでした。そして河後森殿は、被官であった芝一族に嵌められて行きます。それを四節の最後には『ついに被官の作州に殺されて、旗頭公広へも損とらせ申さんこと目前なり』と書かれています。

    五節では、永禄十一年正月からの土佐との戦で、旗頭の西園寺殿が後詰めしようとしなかった事が書かれています。遂に清良公は西園寺殿に直談判。西園寺殿は大森城へ渋々登り、松峰に旗を立てられて、それが二月二十三日だったと言います。面白いのは九節の扇の的です。那須与一の盗作と酷評する人はよくいますが、清良記自体が『那須が仕まつり候とは違いて矢間はるかに遠く候えば、鉄砲ならでは不定に存じ奉り候』と、鉄砲を使ってより長い距離の射的だった事に言及してあり面白く思います。

    そして巻十二では、遂に西園寺旗下の武将同士である清良公と芝四郎左衛門の争いが起こります。先ず正月二十日に四郎左衛門が大森城に攻め寄り、次に二月三日と二十七日に土居が西の川に攻め寄ります。互いに味方打ちであるので本気ではないにせよ、全くどうしようもなかったと言います。それが現在、面白い事が起きています。鬼北町の文化協会長をされていた芝令香先生は、土居清良公の菩提を祀る龍泉寺の前田家の長男でしたが、母方の里は天満神社の社家を勤める芝家の末裔でした。令香先生は母方の芝家を継ぐ養子となられた訳ですが、かつて仲悪だった二家を取り持つ立場ではないかと話すと大変喜んで下さいます。

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-18 08:00 | 郷土史
【第一回現地研修で四万十市の案内をして下さり、第二回現地研修では大学院の教授まて引き連れて岡本城址へ来て下さった西南四国歴史文化研究会の沢田副会長肝入りで、一条兼定公の四百三十回忌法要に参加しました。この回は、その報告をしながら、『巻十』を紐解きました。】


    □『一条兼定公430回忌法要』の報告


    6月28日(土)、松浦郁郎、池本覚、松本敏幸夫婦の4人が、宇和島市戸島の浄土宗龍集寺で行われた『一条兼定公430回忌法要』に参加しました。小雨の降る朝でしたが、戸島に着く頃には雨が上がり、法要が行われる中で空が晴れて来る不思議なご縁に預かりました。

    一条兼定公は、『清良記を紐解く会』でも勉強した通り、土佐一条家4代当主でしたが、かつては被官の1人であった長宗我部元親の諜略によって土佐中村を追われ、失地回復を願い舅大友宗麟の援助を受けてキリシタンとなり、天正2年に長宗我部元親軍との最後の決戦を行います。始めは勝利を重ね、四万十川以西までの土地を取り戻した兼定公でしたが、遂に四万十川を挟んだ合戦で大敗。敗戦後の兼定公は、伊予の領主達の庇護を受けて戸島に隠棲したと言います。

    浄土宗龍集寺では、江戸時代に戸島の庄屋であった田中家によって兼定公の供養が続けられ、現在も毎日蝋燭の火が灯らない日はなく、7月1日に法要が行われて来ました。兼定公を篤く信奉して来た田中家はキリスト教が解禁されると、キリシタンとなり、四国のカトリック教会の管区長にまでなったそうです。今日の430回忌法要の経を詠まれた和尚の言葉にも、キリシタンであった兼定公が寺での法要をどう思われてる事だろうか…という言葉があり、印象に残りました。

    今日の法要には、龍集寺の檀家と西南四国歴史文化研究会の会員の他、宇和島市長、四万十市長も我が事のように参加され、一条神社宮司も参加されていました。またメディアでは、愛媛新聞社と高知新聞社が取材を行い記事が出るのが楽しみです。法要の後は、参加者全員で海の幸を楽しみ、美酒に酔いしれ、兼定公への思いを篤くしました。



    □『清良記・巻十』を紐解く


    さて、岡本城の現地研修を終えて、紐解きは『巻十』に戻ります。先ず注目するのは三節の永禄九年卯月はじめに行われたという土佐との戦で、土居はかつてない不覚を取り、四十九人が討死。兼ねてよりの被官であった土居主水と観音寺佐渡を失ったとあります。

    問題は五節の『出目川の合戦』です。ここで月日が、また四月朔日の日となっているのですが、もし三節の『卯月』が四月という意味であれば、同じ戦を書き残した記事が二通りあった事になり、その矛盾点や関係性を探る事ができます。しかし、『卯月』が干支の『卯』の月ならば二月という意味にもなり、一連の流れと見る事ができます。

    しかして、その内容を読み比べるに、余りに違いがある事から『卯月』は『卯の月』と読むべきなのかと思われます。十節の『桜井、諸国物語の事』にも、『此度の合戦の次第を詮議ありけるは、勝つは勝ちても(両度)危うき働きして、惜しき者共を討たせ…』とあるように、三節から始まる戦と五節から始まる出目川の合戦は別の戦と読むのが良いでしょう。

    また最後の十一節『桜井、文武の沙汰の事』は、文武両道の意味や必要性について述べてある、大変意義深い文書です。江戸時代当時の三間の教育と道徳精神の高さを感じずにはおれない貴重な文書であろうと思います。





    □平成26年7月27日(日)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(携帯090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-17 15:00 | 郷土史
【この回は、特別編として、松浦郁郎先生が校訂された清良記に収録されている『清良記当時聞書追攷』について勉強をしました。三間は吉田藩でありながら、『清良記当時聞書追攷』は三代目の宇和島藩主の名前が見られる事から、宇和島藩の者が清良記を調査研究して記録した物と言われています。これは清良記が著された承応二年が吉田藩のできる前であった事を考えても、清良記は宇和島藩との関係が深かったのかもしれません。さて、ここで訂正が一つ。それは本文を読んでいただければと思います。】



□『清良記』を紐解く会・第十二回


    晴天に恵まれた五月二十四日(土)、念願の『岡本城〜橘合戦』の現地研修を行う事ができまして、只々感無量です。この研修の実現の為に、昨年は『清良記を紐解く会』を三間史談会で開催していただきましたし、一昨年は準備登山を中野中の白瀧氏と計画し、武田利康先生を招いて曲輪の調査をしていただきました。今回は、その皆さんのご苦労が結晶となった現地研修であったと思います。

    また岡本城は、岡本合戦〜橘合戦の古戦場跡ですが、ただ有名だから、ただ合戦で勝利したから、という理由で研修を計画した訳ではありませんでした。岡本合戦は有名な合戦である為、清良記以外の資料が存在していますが、これまで三間で紹介されて来た内容は、実は清良記以外の資料に依る事が殆どでした。その為、清良記自体を勉強し紹介する会が必要と考え、『清良記を紐解く会』を立ち上げたのでした。三間の指定文化財であるのは『清良記』です。これからは、清良記の内容を正しく紹介できるようにしなくてはいけないと考えます。その内容が史実としてどうかという話は、その後に続いて出て来れば良い話であると思います。

    岡本合戦の年数について少し述べますと、清良記では天正九年五月二十三日である事情が事細かくのべてありますが、三間河野家や土佐方の文書では、天正七年と書かれている物が多く、これまで三間では『天正七年五月二十七日』で岡本合戦を紹介して来ました。その根拠は天正七年説の裏付けにもなっている、西園寺公広卿が野村の緒方興次衛殿に岡本合戦の褒美として五十貫の領地を与えたという文書ですが、その日付が『天正七年五月二十八日』になっているのでした。この説は伊予史談で昭和十八年に発表されましたが、現在はこの文書の信憑性が疑わしいとされています。これまで昭和五十八年刊行の愛媛県誌も平成七年刊行の三間町誌も、これを踏襲してきましたが、愛媛県歴史文化博物館の学芸員土居聡朋氏は、『現段階で天正七年が正しく、天正九年が間違いとまでは言えない』と言われています。


□『清良記当時聞書追攷』を紐解く


    そこで六月の『清良記を紐解く会』は、特別編として、清良記の後ろに掲載されている『清良記当時聞書追攷』を紐解きたいと思います。これは作者不明の文書ですが、江戸時代における清良記研究の資料とされており、また江戸時代当時の様子が伺える貴重な文書です。江戸時代の研究者はどのように清良記を紐解いていたのでしょうか?ご賞味宜しくお願い致します。


□お詫び・訂正


    これまで『岡本合戦は432年前』と都度ある毎に述べて来ましたが、『正しくは433年前』でした。
    ここに心からご迷惑をお詫びし、速やかに訂正致します。

    天正9年:1581年

    2014年ー1581年=433年前







□平成26年6月27日(金)三間史談会主催『清良記を紐解く会』首座:松本敏幸/携帯:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-16 16:00 | 郷土史

□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地検証『岡本城〜橘合戦』


    時下益々御清祥の事と存じます。本日は待ちに待った『岡本城〜橘合戦』の現地検証です。清良記によれば、それは天正九年五月二十三日の宵の事。土佐に内通した中野の侍の手引きによって、岡本城本丸へ百騎の土佐勢が侵入。明けて二十四日、橘の森に仕掛けた六百挺の鉄砲が、総勢三千八百騎と雑兵一万三千の土佐本隊を迎え撃ちます。その舞台を『現地に足を運んで検証しょう』というのが今日の趣旨となっています。暦の違いはありますが、四百三十二年昔の今日の出来事に想いを馳せて、清良記の巻の二十三を紐解いて行きましょう。(松本)




        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇    スケジュール    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


        10:00〜開会の挨拶(高齢者コミュニティーセンターにて)

                ・三間史談会会長    羽藤明敏


        10:05〜スケジュール説明&資料学習


        11:00〜現地検証

                ①橘の森→②岡本城→③大内城→④奥屋敷→⑤新城


        13:00〜昼食(土居垣内集会所にて)

                ・各人自己紹介をお願いします。


        14:00〜基調講演

                『清良記校訂秘話』講師    松浦郁郎


        15:00〜閉会の挨拶

                ・三間史談会副会長    佐竹利夫


        17:00〜懇親会

                ・焼き肉『闘牛』にて行います。参加希望の方は事務局(伊井)へ申し出て下さい。


資料編

・資料①『地誌』

    1.古藤田…三間町誌を見ると、『吉田古記』には八幡神社と岡本城跡が古藤田村分で記録されている事が分かる。ここに、土居垣内が古藤田から分かれて出来た村でなないかという推測が立つ。

    2.土居垣内…『清良記』の巻二十四の一節に『堂ヶ内村』の名前が見え、『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とある。巻二十三の五節を見れば、『堂ヶ内村』は土居清良公の戦功によって誕生した村である事が分かる。

『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大巧を感じ褒美せられ、西園寺家重代の太刀、同刀、馬二疋、そのうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ加増し賜りけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることどもなり』


・資料②『岡本城』

    標高230m。比高差凡そ100m。元は中野殿河野通正の所領。城代は西藤右衛門であったが、土佐方に内通し、天正九年五月二十三日の宵、土佐勢を本丸に引き入れる。岡本城を取り戻した戦功により、天正九年六月からは土居清良公が所領。城代は真吉新左衛門となる。


・資料③『岡本合戦』

    天正九年五月二十三日の宵、大森城で二十三夜の月待ち講をしていた土居清良公は、土佐方に内通していた中野殿河野豊前守通正が、岡本城の本丸に土佐勢百騎を引き入れた事に気付いて東西より攻め登る。塀一重を隔て突き合い打ち合いし、三十八人討ち取り、旗差し物は残らず奪い取り、土佐勢を本丸に生け捕りとする。ちなみに岡本合戦では火攻めを行っていない。


・資料④『橘合戦』

    土居清良公は様々な知恵を働かせ、多勢に無勢の戦を有利に変える。土佐軍に油断あり、土佐方から奪った旗差し物を利用して騙し討ちする作戦。橘の岡の額には段々に四百五十挺の鉄砲を三重に引き隠し、また堂の後ろより西の井口には百五十挺の鉄砲を隠して、翌二十四日の早朝から押し寄せる土佐軍本隊を迎撃。大将久武内蔵助を始め、大将首を悉く討ち取り、清良記に『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるは、この時の軍なり』と言われる戦果を上げる。


・資料⑤『框越合戦』

    二十四日の戦は土佐軍だけではなく、土佐方に寝返っていた芝の軍勢が框(加町)坂峠を越えて土佐軍に加勢。ここで清良公の伯父(祖父清宗の弟)で石城の城代であった土居似水が討死。清良記の巻二十二の十節によれば、三月の初めには『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあり。北山にも新手の敵が控えていたが、有馬、中野、深田、家藤、奈良が駆け付ける。


現地編

・①『橘の森』

    土居垣内地区の八幡神社が鎮座する森を『橘の森』という。東の尾根筋が表参道となり石の鳥居も建てられていたが、現在は藪となって使われておらず、鳥居も壊れ倒されたままとなっている。しかし、まさにここが清良記にある『橘の岡の額』と考えられる。清良公は、ここに四百五十挺の鉄砲を段々に後ろ高く三重に引き隠し、橘の岸の下にささめき入った土佐勢を千余騎討ち取っている。また参道入口であったであろう麓は、個人宅の敷地となっているが、主久武蔵之介を討ち取られて血気に燃える小姓今藤又八郎と、土居の武者法師木ノ本円長坊との一騎打ちが繰り広げられたのは、この場所であったと考えられる。


・②『井口』

    橘の森と岡本城址の谷の間に『中の谷川』が流れている。この入口が岡本城址の登山口であり、橘八幡神社へは裏参道となっている。またすぐ上の森には土居垣内地区の墓所がある。清良公は橘の森の堂の後ろから西の『井口』の藪にも百五十挺の鉄砲を隠していたが、土佐勢の本隊が到着する前に三騎の侍と五十の兵が、岡本城麓の井口に近付き、先に岡本城に侵入している土佐勢へ口上を述べに来る。清良公は、井口に隠した鉄砲を発しないように指示し、三騎の部下を古藤田から来たように見せかけて六人の土佐勢を討ち取る。さらに土佐勢の振りをさせた部下三騎に、その三騎を追わせて土佐勢を騙し込む念の入れよう。


・③『岡本城本丸』

    岡本城の本丸へ土佐勢が侵入したのは、清良記によれば、天正九年五月二十三日の宵である。この宵、清良公は大森城にある権現堂で『二十三夜講』を行っている。二十三夜の月は下弦の月で、日没から深夜零時に月が上るまで闇夜となる。もし戦闘行為があって侵入したのであれば、即座に発見された筈であろうが、此度は中野通正が内通しての運びであったので、土佐勢の侵入は易かったと思われる。土佐勢の侵入に気付いた清良公は、東西から攻め上るが、土佐勢は鉄砲を打ち尽くし、必死に旗指し物まで使って応戦したので、それらを全て奪い取る。また、火を掛けて焼き殺せと言う者もいたが清良公がやめさせ、生け捕りにして岡本城の合戦が終わる。清良記によれば、土佐の侵入勢は百騎。塀一重を隔てて打ち合い突き合いとあり、本丸にある程度の広さを伺う事ができる。


・④『岡本城二、三の丸』

    本丸には火が灯っていたが、二、三の丸は静まり返っていたという。中野の侍で岡本城の城代であった西藤右衛門は、三の丸に出て警固していたが、土居の侍川添喜左衛門に詰め寄られて正気を取り戻す。また、二の丸か三の丸には、西藤右衛門と妻子が住む居館があった事が伺える。この事から、二、三の丸は大森城側からある程度伺える位置にあると思えるが、岡本城本丸と隣接した曲輪であったのか、それとも独立した曲輪であったのかは判断が着かない。それでも岡本城址のホノキ表には、本丸を示す『城』の他に『奥屋敷』『大内城』『新城』等のホノキがあり興味が唆られる。大内城を二の丸であると見れば、奥屋敷が三の丸か。それとも大内城を本丸の一部と見て、奥屋敷を二の丸と考えれば、新城が三の丸かもしれない。


・⑤『侵入ルート』

    土佐の先勢の侵入ルート、また本隊の進軍ルートは定かではないが、狼煙を上げた地点と合戦に内通していた伊代勢から、粗方の推測を立てる事が出来る。まず狼煙を上げた地点は、岡本、奥野々、原之森、奥之川、伽之森の五地点。岡本は土佐の侵入勢。奥野々は興野々で芝次男左京進。原之森は河原渕で当時は既に芝四男源三郎が領主となっている。奥之川は土佐との国境。伽之森は戸祇御前山で芝嫡男一覚政景の本拠地である。また、内通者中野殿河野通正は芝三男四郎右衛門を婿としており、土佐の進軍は芝源三郎と芝左京進を案内者として、芝領から中野領を進んだと見て間違いない。

    故に土佐本隊は薄木表に現れて、沢松→兼近→大内→岡本へ進んだと見られる。本隊前方の大将は久武内蔵助親信、後方の大将佐竹太郎兵衛親則は大内に控える。また、絡め手からは、芝美作守正輔、芝一覚政景、芝四郎右衛門が攻める。そして加勢に至らなかったが、北山から魚成と北の川が戦の動向を伺う。土居の鉄砲隊は橘の森で千余騎の土佐勢を討ち取ったというが、総数では本丸の生け捕り六十八を合わせ二千六百八十人を討ち取っている。その多くは、大内の『裏松の沖』とも『裏仏』とも言う場所での斬り合いであったというが、川端の田の中であったという以外は場所が定かではない。




□平成26年5月24日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』世話役:松本敏幸(090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-15 17:00 | 郷土史

□三間史談会主催『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』のご案内


    各位

    春暖の候、益々ご清祥の事と存じます。さて、三間史談会では、昨年より『清良記』を紐解く勉強会を開催して参りました。今年は清良記の中で最も大きな勝利として有名な『岡本合戦、橘合戦』から432年という年になります。つきましては、今年五月二十四日(土)に、岡本城址を巡る現地検証を行いたいと思います。どうかご理解いただけますと共に、関心ある方の多数の参加をお願い致します。

    清良記によれば、岡本合戦は天正九年五月二十三日の宵、橘合戦は翌二十四日に行われた合戦で、一日にして終わる合戦として描かれています。これまで清良記の内容に対する紹介が正しく行われて来なかった為、どんなにか凄い大合戦だったに違いないというイメージばかりが先に膨らみ、誤解による宣伝がされていました。この現地検証では、清良記の内容を確認し、岡本合戦と橘合戦の内容を正しく広める機会にしたいと考えています。

    参加費は無料ですが、資料と弁当を準備する関係があります。参加希望の方は、三間史談会会員、
清良記を紐解く会担当の松本敏幸まで電話を入れていただけますようお願い致します。連絡先は携帯で090-1320-1508】です。どうぞよろしくお願い致します。



    以下、日程


    題目『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』


    ・平成26年5月24日(土)10:00〜15:00


    ・09:30〜 二名小学校隣のコミュニティーセンターに集合


    ・10:00〜11:00 清良記より岡本合戦と橘合戦の講義


    ・11:00〜13:00 岡本城址と橘の森の現地検証


    ・13:00〜14:00 昼食 土居垣内地区集会所


    ・14:00〜15:00 松浦郁郎氏による記念公演、交流会


    ・15:00〜 解散、希望者で懇親会を行います。(17:00〜焼き肉闘牛)



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-14 18:00 | 郷土史
【前回が『巻二十三』の一節『岡本合戦の事』で大変盛り上がり、この回では本編となる二節『橘合戦の事』を紐解きました。これらは全て五月二十四日に実施する『岡本合戦現地研修』を成功させたい為です。私の清良記にかける思いは様々ですが、岡本合戦に関する様々な誤解をなくしたいという事が最大の願いとなっています。これは、ある意味、清良記の名誉を復帰させる為の取り組みだと言えます。】

□『清良記を紐解く会』第十一回

    前回は『巻二十三』を紐解きましたが、頁数としては二頁。その他、関連のある巻二十二や巻二十四も読み、大いに盛り上がりました。このように『紐解く会』は、どんどん先に進むだけではなく、時には大事な話題について深く考察してみる事も楽しみの一つではないかと思います。これからは参加者の方々がそれぞれに理解を深め、様々な疑問や見解の発表を交換するようになれば、会は更に盛り上がる物と期待を大きくする所です。

    さて、いよいよ来月は岡本合戦の現地検証が控えておりますので、今回は『巻二十三』を全て紐解いておきたいと思います。この現地検証は『清良記の現地の検証』が目的ですので、清良記をよく読み込んでおく事が必要です。岡本合戦の資料の違いで見解が分かれるのは当然ある事ですが、『三間の郷土史愛好者が清良記に何が書いてあるのか知らない』『現地に行った事がない』では、清良記を正しく紹介する事が出来ません。これから少しづつ課題をクリアして行きましょう。


□『巻二十三』を紐解く・其の二

    さて清良公が立てた作戦はこうです。それは、土居の本隊を古藤田に置き、土佐方の旗を持たせた偽土佐勢を橘の森に潜ませて、そこに土佐本隊を誘き寄せ、待ち伏せた鉄砲隊で討ち取ろうという物。ちなみに土佐方の旗を使っての騙し討ちは、この時が初めてではなく、巻十九の十節にも登場します。所謂、土居の軍法には『夜討ち』『騙し討ち』等のゲリラ戦法が多く、大敵を相手に少数で守るには有効な手段だったと言えます。

    ところで気になるのは、どこに鉄砲隊を布陣したかではないでしょうか。清良記には『新左衛門、右京進は南の尾崎八幡の前に引き分けて、足軽その他四百五十挺の鉄砲は、橘の額に柴、笹などをかぢし段々に後高く三重に引き隠し、残り百五十挺の筒をば堂の後ろより西の井口という所までの藪の中に隠し、彼此六百挺の筒は早込めの仕掛けにて、込め変え込め変え、三度放ちて一回り、三度放ちて一回りと絶え間なく打ち続くべし』とあります。つまり土居垣内の八幡神社のある山が橘の森で、橘の岡の額は白瀧家のある東側、堂の後ろより西の井口は土居家のある西側と見る事ができます。

    そのような守備万全の中、三騎の早馬と五十の兵が本隊を抜けて、岡本城の麓、井口まで近付きます。これは岡本城本丸に侵入していた先勢と連絡を取る為でしたが、ここで鉄砲を発砲しては作戦が暴露てしまいます。清良公は家来の侍三人に古藤田から来たように登場させて、三騎の大将を討ち取らせます。雑兵は慌てて本隊へと逃げ帰りますが、この間、橘の森に隠れている鉄砲隊は一度も鉄砲を放つ事はありませんでした。清良記には、この命令の統制こそが土居方へ勝利を引き寄せた鍵であり、後々まで讃えられたと書かれています。

    その上、清良公の作戦は、本当にこのような事があったのかと驚くばかりですが、土佐本隊を目の前にして、古藤田から善家と桜井が偽土佐勢に打ち掛かり、土佐勢を演じた清良公は橘の森に駆け上がって土佐方の旗を立てます。これを味方と心得た土佐本隊は、橘の岸の下へ近付き入りて、ここで初めて鉄砲隊が火を放つのでした。清良記には、『土佐方の大将久武内蔵助を始め国吉肥前守、佐川、谷脇、依岡、和食などいう者を先として暫時が間に雑兵合わせて千余人目の前に打ち伏せ』と、土佐本隊が総崩れになる様子が描かれています。

    その直後、真っ直ぐに走り寄る一人の若武者が登場。久武内蔵助の小姓であった今藤又八郎です。主を討たれた又八郎は既に命を捨てる覚悟ができており、誰も手に負えません。そこに武者法師木ノ本円長坊が太刀打ちに駆け付けますが、牛若丸と熊坂長伴になぞらえて、戦いの様子は非常に読み応えがあります。そして後陣の土佐勢は、『大内裏松の沖』という所に引き退きます。この後、主戦場は『大内』に移つり、また框越えから加勢して来た芝の軍勢との間で『框越え合戦』が起きて行くのでした。



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-13 19:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん