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【平成二十六年八月に『巻十一』、九月に『巻十二』を紐解きましたがテキストを作らず、また十月は多忙を理由にお休みする事になりました。その為、三間史談会の会報にテキストを事後掲載させていただきまし。】


【清良記を紐解く会より】

    公私共に忙しく十月は清良記の勉強会をお休みさせていただきましたが、十一月より早速再開したいと思いますので宜しくお願いします。また、八月の巻十一、九月の巻十二はテキストを作らなかったので今回併せて纏めておきます。どうぞ復習にご活用下さい。


【巻十一を紐解く】

    まず巻十一は、法華津殿を懐柔しようとした豊後勢を騙し討ちする話から始まります。仲間になると見せかけて討ち取ったのですから、豊後から受けた恨みは相当な物だろうと思いますが、どんな有力な武将に懐柔されても決して主君を裏切らなかった法華津殿の美談と言えます。また年数は『六月九日』となっていますが、巻十からの続きという事から永禄九年の記事という事が分かります。また、二節では七月初め、七月十七日、七月二十二日。三節では七月二十六日と戦に暇がありませんが、戦場の舞台として『窓の峠』が登場する所は見逃せません。そして、四節に有名な三嶋神社の神罰の話が登場します。

    七節からは永禄十年となります。ここで登場するのは石城修理の話です。前年十月末より準備を始めれば、二月に工事開始とふれを回し、領民は正月の内に二月分の仕事まで仕回して、十五日には石城の修理を終えたとあります。領主に忠誠を尽くす良いエピソードだと思います。また、この時に、後の框越え合戦で討死する土居似水が石城の城代となります。

    また注目すべきは、九節の山内外記の登場です。山内は土佐一条氏の家臣で、七百騎の部下を引き連れて深田を打ち通り、土居中のふたつ森に陣取り大森城に迫ります。しかし、敵地に深入りし過ぎた山内は、敵に囲まれる事を恐れて夜の内に撤退。土居を攻め落とすには謀が必要と主張して田植え時期の五月に再来しますが、敢えなく敗北。しかし、この時の謀が、岡本合戦への伏線になっているように伺えます。


【巻十二を紐解く】

    巻十二は、永禄十年六月二日から始まります。そこには河後森殿の扱いに対する宇和郡の武将同士の葛藤が見え隠れします。河後森殿は土佐一条氏の甥の立場で土佐に組みする事が度々ある為、清良公は旗頭の西園寺殿に再三領主の交代を願い出ているのですが、それがうまく行かないのは、宇和郡の半分の領主が河後森殿の庇護を受けていたからでした。そして河後森殿は、被官であった芝一族に嵌められて行きます。それを四節の最後には『ついに被官の作州に殺されて、旗頭公広へも損とらせ申さんこと目前なり』と書かれています。

    五節では、永禄十一年正月からの土佐との戦で、旗頭の西園寺殿が後詰めしようとしなかった事が書かれています。遂に清良公は西園寺殿に直談判。西園寺殿は大森城へ渋々登り、松峰に旗を立てられて、それが二月二十三日だったと言います。面白いのは九節の扇の的です。那須与一の盗作と酷評する人はよくいますが、清良記自体が『那須が仕まつり候とは違いて矢間はるかに遠く候えば、鉄砲ならでは不定に存じ奉り候』と、鉄砲を使ってより長い距離の射的だった事に言及してあり面白く思います。

    そして巻十二では、遂に西園寺旗下の武将同士である清良公と芝四郎左衛門の争いが起こります。先ず正月二十日に四郎左衛門が大森城に攻め寄り、次に二月三日と二十七日に土居が西の川に攻め寄ります。互いに味方打ちであるので本気ではないにせよ、全くどうしようもなかったと言います。それが現在、面白い事が起きています。鬼北町の文化協会長をされていた芝令香先生は、土居清良公の菩提を祀る龍泉寺の前田家の長男でしたが、母方の里は天満神社の社家を勤める芝家の末裔でした。令香先生は母方の芝家を継ぐ養子となられた訳ですが、かつて仲悪だった二家を取り持つ立場ではないかと話すと大変喜んで下さいます。

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-18 08:00 | 郷土史
【第一回現地研修で四万十市の案内をして下さり、第二回現地研修では大学院の教授まて引き連れて岡本城址へ来て下さった西南四国歴史文化研究会の沢田副会長肝入りで、一条兼定公の四百三十回忌法要に参加しました。この回は、その報告をしながら、『巻十』を紐解きました。】


    □『一条兼定公430回忌法要』の報告


    6月28日(土)、松浦郁郎、池本覚、松本敏幸夫婦の4人が、宇和島市戸島の浄土宗龍集寺で行われた『一条兼定公430回忌法要』に参加しました。小雨の降る朝でしたが、戸島に着く頃には雨が上がり、法要が行われる中で空が晴れて来る不思議なご縁に預かりました。

    一条兼定公は、『清良記を紐解く会』でも勉強した通り、土佐一条家4代当主でしたが、かつては被官の1人であった長宗我部元親の諜略によって土佐中村を追われ、失地回復を願い舅大友宗麟の援助を受けてキリシタンとなり、天正2年に長宗我部元親軍との最後の決戦を行います。始めは勝利を重ね、四万十川以西までの土地を取り戻した兼定公でしたが、遂に四万十川を挟んだ合戦で大敗。敗戦後の兼定公は、伊予の領主達の庇護を受けて戸島に隠棲したと言います。

    浄土宗龍集寺では、江戸時代に戸島の庄屋であった田中家によって兼定公の供養が続けられ、現在も毎日蝋燭の火が灯らない日はなく、7月1日に法要が行われて来ました。兼定公を篤く信奉して来た田中家はキリスト教が解禁されると、キリシタンとなり、四国のカトリック教会の管区長にまでなったそうです。今日の430回忌法要の経を詠まれた和尚の言葉にも、キリシタンであった兼定公が寺での法要をどう思われてる事だろうか…という言葉があり、印象に残りました。

    今日の法要には、龍集寺の檀家と西南四国歴史文化研究会の会員の他、宇和島市長、四万十市長も我が事のように参加され、一条神社宮司も参加されていました。またメディアでは、愛媛新聞社と高知新聞社が取材を行い記事が出るのが楽しみです。法要の後は、参加者全員で海の幸を楽しみ、美酒に酔いしれ、兼定公への思いを篤くしました。



    □『清良記・巻十』を紐解く


    さて、岡本城の現地研修を終えて、紐解きは『巻十』に戻ります。先ず注目するのは三節の永禄九年卯月はじめに行われたという土佐との戦で、土居はかつてない不覚を取り、四十九人が討死。兼ねてよりの被官であった土居主水と観音寺佐渡を失ったとあります。

    問題は五節の『出目川の合戦』です。ここで月日が、また四月朔日の日となっているのですが、もし三節の『卯月』が四月という意味であれば、同じ戦を書き残した記事が二通りあった事になり、その矛盾点や関係性を探る事ができます。しかし、『卯月』が干支の『卯』の月ならば二月という意味にもなり、一連の流れと見る事ができます。

    しかして、その内容を読み比べるに、余りに違いがある事から『卯月』は『卯の月』と読むべきなのかと思われます。十節の『桜井、諸国物語の事』にも、『此度の合戦の次第を詮議ありけるは、勝つは勝ちても(両度)危うき働きして、惜しき者共を討たせ…』とあるように、三節から始まる戦と五節から始まる出目川の合戦は別の戦と読むのが良いでしょう。

    また最後の十一節『桜井、文武の沙汰の事』は、文武両道の意味や必要性について述べてある、大変意義深い文書です。江戸時代当時の三間の教育と道徳精神の高さを感じずにはおれない貴重な文書であろうと思います。





    □平成26年7月27日(日)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(携帯090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-17 15:00 | 郷土史
【この回は、特別編として、松浦郁郎先生が校訂された清良記に収録されている『清良記当時聞書追攷』について勉強をしました。三間は吉田藩でありながら、『清良記当時聞書追攷』は三代目の宇和島藩主の名前が見られる事から、宇和島藩の者が清良記を調査研究して記録した物と言われています。これは清良記が著された承応二年が吉田藩のできる前であった事を考えても、清良記は宇和島藩との関係が深かったのかもしれません。さて、ここで訂正が一つ。それは本文を読んでいただければと思います。】



□『清良記』を紐解く会・第十二回


    晴天に恵まれた五月二十四日(土)、念願の『岡本城〜橘合戦』の現地研修を行う事ができまして、只々感無量です。この研修の実現の為に、昨年は『清良記を紐解く会』を三間史談会で開催していただきましたし、一昨年は準備登山を中野中の白瀧氏と計画し、武田利康先生を招いて曲輪の調査をしていただきました。今回は、その皆さんのご苦労が結晶となった現地研修であったと思います。

    また岡本城は、岡本合戦〜橘合戦の古戦場跡ですが、ただ有名だから、ただ合戦で勝利したから、という理由で研修を計画した訳ではありませんでした。岡本合戦は有名な合戦である為、清良記以外の資料が存在していますが、これまで三間で紹介されて来た内容は、実は清良記以外の資料に依る事が殆どでした。その為、清良記自体を勉強し紹介する会が必要と考え、『清良記を紐解く会』を立ち上げたのでした。三間の指定文化財であるのは『清良記』です。これからは、清良記の内容を正しく紹介できるようにしなくてはいけないと考えます。その内容が史実としてどうかという話は、その後に続いて出て来れば良い話であると思います。

    岡本合戦の年数について少し述べますと、清良記では天正九年五月二十三日である事情が事細かくのべてありますが、三間河野家や土佐方の文書では、天正七年と書かれている物が多く、これまで三間では『天正七年五月二十七日』で岡本合戦を紹介して来ました。その根拠は天正七年説の裏付けにもなっている、西園寺公広卿が野村の緒方興次衛殿に岡本合戦の褒美として五十貫の領地を与えたという文書ですが、その日付が『天正七年五月二十八日』になっているのでした。この説は伊予史談で昭和十八年に発表されましたが、現在はこの文書の信憑性が疑わしいとされています。これまで昭和五十八年刊行の愛媛県誌も平成七年刊行の三間町誌も、これを踏襲してきましたが、愛媛県歴史文化博物館の学芸員土居聡朋氏は、『現段階で天正七年が正しく、天正九年が間違いとまでは言えない』と言われています。


□『清良記当時聞書追攷』を紐解く


    そこで六月の『清良記を紐解く会』は、特別編として、清良記の後ろに掲載されている『清良記当時聞書追攷』を紐解きたいと思います。これは作者不明の文書ですが、江戸時代における清良記研究の資料とされており、また江戸時代当時の様子が伺える貴重な文書です。江戸時代の研究者はどのように清良記を紐解いていたのでしょうか?ご賞味宜しくお願い致します。


□お詫び・訂正


    これまで『岡本合戦は432年前』と都度ある毎に述べて来ましたが、『正しくは433年前』でした。
    ここに心からご迷惑をお詫びし、速やかに訂正致します。

    天正9年:1581年

    2014年ー1581年=433年前







□平成26年6月27日(金)三間史談会主催『清良記を紐解く会』首座:松本敏幸/携帯:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-16 16:00 | 郷土史

□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地検証『岡本城〜橘合戦』


    時下益々御清祥の事と存じます。本日は待ちに待った『岡本城〜橘合戦』の現地検証です。清良記によれば、それは天正九年五月二十三日の宵の事。土佐に内通した中野の侍の手引きによって、岡本城本丸へ百騎の土佐勢が侵入。明けて二十四日、橘の森に仕掛けた六百挺の鉄砲が、総勢三千八百騎と雑兵一万三千の土佐本隊を迎え撃ちます。その舞台を『現地に足を運んで検証しょう』というのが今日の趣旨となっています。暦の違いはありますが、四百三十二年昔の今日の出来事に想いを馳せて、清良記の巻の二十三を紐解いて行きましょう。(松本)




        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇    スケジュール    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


        10:00〜開会の挨拶(高齢者コミュニティーセンターにて)

                ・三間史談会会長    羽藤明敏


        10:05〜スケジュール説明&資料学習


        11:00〜現地検証

                ①橘の森→②岡本城→③大内城→④奥屋敷→⑤新城


        13:00〜昼食(土居垣内集会所にて)

                ・各人自己紹介をお願いします。


        14:00〜基調講演

                『清良記校訂秘話』講師    松浦郁郎


        15:00〜閉会の挨拶

                ・三間史談会副会長    佐竹利夫


        17:00〜懇親会

                ・焼き肉『闘牛』にて行います。参加希望の方は事務局(伊井)へ申し出て下さい。


資料編

・資料①『地誌』

    1.古藤田…三間町誌を見ると、『吉田古記』には八幡神社と岡本城跡が古藤田村分で記録されている事が分かる。ここに、土居垣内が古藤田から分かれて出来た村でなないかという推測が立つ。

    2.土居垣内…『清良記』の巻二十四の一節に『堂ヶ内村』の名前が見え、『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とある。巻二十三の五節を見れば、『堂ヶ内村』は土居清良公の戦功によって誕生した村である事が分かる。

『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大巧を感じ褒美せられ、西園寺家重代の太刀、同刀、馬二疋、そのうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ加増し賜りけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることどもなり』


・資料②『岡本城』

    標高230m。比高差凡そ100m。元は中野殿河野通正の所領。城代は西藤右衛門であったが、土佐方に内通し、天正九年五月二十三日の宵、土佐勢を本丸に引き入れる。岡本城を取り戻した戦功により、天正九年六月からは土居清良公が所領。城代は真吉新左衛門となる。


・資料③『岡本合戦』

    天正九年五月二十三日の宵、大森城で二十三夜の月待ち講をしていた土居清良公は、土佐方に内通していた中野殿河野豊前守通正が、岡本城の本丸に土佐勢百騎を引き入れた事に気付いて東西より攻め登る。塀一重を隔て突き合い打ち合いし、三十八人討ち取り、旗差し物は残らず奪い取り、土佐勢を本丸に生け捕りとする。ちなみに岡本合戦では火攻めを行っていない。


・資料④『橘合戦』

    土居清良公は様々な知恵を働かせ、多勢に無勢の戦を有利に変える。土佐軍に油断あり、土佐方から奪った旗差し物を利用して騙し討ちする作戦。橘の岡の額には段々に四百五十挺の鉄砲を三重に引き隠し、また堂の後ろより西の井口には百五十挺の鉄砲を隠して、翌二十四日の早朝から押し寄せる土佐軍本隊を迎撃。大将久武内蔵助を始め、大将首を悉く討ち取り、清良記に『土居の橘合戦とて、近国、筑紫は言うに及ばず都までも隠れなく聞こえたるは、この時の軍なり』と言われる戦果を上げる。


・資料⑤『框越合戦』

    二十四日の戦は土佐軍だけではなく、土佐方に寝返っていた芝の軍勢が框(加町)坂峠を越えて土佐軍に加勢。ここで清良公の伯父(祖父清宗の弟)で石城の城代であった土居似水が討死。清良記の巻二十二の十節によれば、三月の初めには『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあり。北山にも新手の敵が控えていたが、有馬、中野、深田、家藤、奈良が駆け付ける。


現地編

・①『橘の森』

    土居垣内地区の八幡神社が鎮座する森を『橘の森』という。東の尾根筋が表参道となり石の鳥居も建てられていたが、現在は藪となって使われておらず、鳥居も壊れ倒されたままとなっている。しかし、まさにここが清良記にある『橘の岡の額』と考えられる。清良公は、ここに四百五十挺の鉄砲を段々に後ろ高く三重に引き隠し、橘の岸の下にささめき入った土佐勢を千余騎討ち取っている。また参道入口であったであろう麓は、個人宅の敷地となっているが、主久武蔵之介を討ち取られて血気に燃える小姓今藤又八郎と、土居の武者法師木ノ本円長坊との一騎打ちが繰り広げられたのは、この場所であったと考えられる。


・②『井口』

    橘の森と岡本城址の谷の間に『中の谷川』が流れている。この入口が岡本城址の登山口であり、橘八幡神社へは裏参道となっている。またすぐ上の森には土居垣内地区の墓所がある。清良公は橘の森の堂の後ろから西の『井口』の藪にも百五十挺の鉄砲を隠していたが、土佐勢の本隊が到着する前に三騎の侍と五十の兵が、岡本城麓の井口に近付き、先に岡本城に侵入している土佐勢へ口上を述べに来る。清良公は、井口に隠した鉄砲を発しないように指示し、三騎の部下を古藤田から来たように見せかけて六人の土佐勢を討ち取る。さらに土佐勢の振りをさせた部下三騎に、その三騎を追わせて土佐勢を騙し込む念の入れよう。


・③『岡本城本丸』

    岡本城の本丸へ土佐勢が侵入したのは、清良記によれば、天正九年五月二十三日の宵である。この宵、清良公は大森城にある権現堂で『二十三夜講』を行っている。二十三夜の月は下弦の月で、日没から深夜零時に月が上るまで闇夜となる。もし戦闘行為があって侵入したのであれば、即座に発見された筈であろうが、此度は中野通正が内通しての運びであったので、土佐勢の侵入は易かったと思われる。土佐勢の侵入に気付いた清良公は、東西から攻め上るが、土佐勢は鉄砲を打ち尽くし、必死に旗指し物まで使って応戦したので、それらを全て奪い取る。また、火を掛けて焼き殺せと言う者もいたが清良公がやめさせ、生け捕りにして岡本城の合戦が終わる。清良記によれば、土佐の侵入勢は百騎。塀一重を隔てて打ち合い突き合いとあり、本丸にある程度の広さを伺う事ができる。


・④『岡本城二、三の丸』

    本丸には火が灯っていたが、二、三の丸は静まり返っていたという。中野の侍で岡本城の城代であった西藤右衛門は、三の丸に出て警固していたが、土居の侍川添喜左衛門に詰め寄られて正気を取り戻す。また、二の丸か三の丸には、西藤右衛門と妻子が住む居館があった事が伺える。この事から、二、三の丸は大森城側からある程度伺える位置にあると思えるが、岡本城本丸と隣接した曲輪であったのか、それとも独立した曲輪であったのかは判断が着かない。それでも岡本城址のホノキ表には、本丸を示す『城』の他に『奥屋敷』『大内城』『新城』等のホノキがあり興味が唆られる。大内城を二の丸であると見れば、奥屋敷が三の丸か。それとも大内城を本丸の一部と見て、奥屋敷を二の丸と考えれば、新城が三の丸かもしれない。


・⑤『侵入ルート』

    土佐の先勢の侵入ルート、また本隊の進軍ルートは定かではないが、狼煙を上げた地点と合戦に内通していた伊代勢から、粗方の推測を立てる事が出来る。まず狼煙を上げた地点は、岡本、奥野々、原之森、奥之川、伽之森の五地点。岡本は土佐の侵入勢。奥野々は興野々で芝次男左京進。原之森は河原渕で当時は既に芝四男源三郎が領主となっている。奥之川は土佐との国境。伽之森は戸祇御前山で芝嫡男一覚政景の本拠地である。また、内通者中野殿河野通正は芝三男四郎右衛門を婿としており、土佐の進軍は芝源三郎と芝左京進を案内者として、芝領から中野領を進んだと見て間違いない。

    故に土佐本隊は薄木表に現れて、沢松→兼近→大内→岡本へ進んだと見られる。本隊前方の大将は久武内蔵助親信、後方の大将佐竹太郎兵衛親則は大内に控える。また、絡め手からは、芝美作守正輔、芝一覚政景、芝四郎右衛門が攻める。そして加勢に至らなかったが、北山から魚成と北の川が戦の動向を伺う。土居の鉄砲隊は橘の森で千余騎の土佐勢を討ち取ったというが、総数では本丸の生け捕り六十八を合わせ二千六百八十人を討ち取っている。その多くは、大内の『裏松の沖』とも『裏仏』とも言う場所での斬り合いであったというが、川端の田の中であったという以外は場所が定かではない。




□平成26年5月24日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』世話役:松本敏幸(090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-15 17:00 | 郷土史

□三間史談会主催『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』のご案内


    各位

    春暖の候、益々ご清祥の事と存じます。さて、三間史談会では、昨年より『清良記』を紐解く勉強会を開催して参りました。今年は清良記の中で最も大きな勝利として有名な『岡本合戦、橘合戦』から432年という年になります。つきましては、今年五月二十四日(土)に、岡本城址を巡る現地検証を行いたいと思います。どうかご理解いただけますと共に、関心ある方の多数の参加をお願い致します。

    清良記によれば、岡本合戦は天正九年五月二十三日の宵、橘合戦は翌二十四日に行われた合戦で、一日にして終わる合戦として描かれています。これまで清良記の内容に対する紹介が正しく行われて来なかった為、どんなにか凄い大合戦だったに違いないというイメージばかりが先に膨らみ、誤解による宣伝がされていました。この現地検証では、清良記の内容を確認し、岡本合戦と橘合戦の内容を正しく広める機会にしたいと考えています。

    参加費は無料ですが、資料と弁当を準備する関係があります。参加希望の方は、三間史談会会員、
清良記を紐解く会担当の松本敏幸まで電話を入れていただけますようお願い致します。連絡先は携帯で090-1320-1508】です。どうぞよろしくお願い致します。



    以下、日程


    題目『清良記を紐解く会現地検証・岡本城〜橘合戦』


    ・平成26年5月24日(土)10:00〜15:00


    ・09:30〜 二名小学校隣のコミュニティーセンターに集合


    ・10:00〜11:00 清良記より岡本合戦と橘合戦の講義


    ・11:00〜13:00 岡本城址と橘の森の現地検証


    ・13:00〜14:00 昼食 土居垣内地区集会所


    ・14:00〜15:00 松浦郁郎氏による記念公演、交流会


    ・15:00〜 解散、希望者で懇親会を行います。(17:00〜焼き肉闘牛)



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-14 18:00 | 郷土史
【前回が『巻二十三』の一節『岡本合戦の事』で大変盛り上がり、この回では本編となる二節『橘合戦の事』を紐解きました。これらは全て五月二十四日に実施する『岡本合戦現地研修』を成功させたい為です。私の清良記にかける思いは様々ですが、岡本合戦に関する様々な誤解をなくしたいという事が最大の願いとなっています。これは、ある意味、清良記の名誉を復帰させる為の取り組みだと言えます。】

□『清良記を紐解く会』第十一回

    前回は『巻二十三』を紐解きましたが、頁数としては二頁。その他、関連のある巻二十二や巻二十四も読み、大いに盛り上がりました。このように『紐解く会』は、どんどん先に進むだけではなく、時には大事な話題について深く考察してみる事も楽しみの一つではないかと思います。これからは参加者の方々がそれぞれに理解を深め、様々な疑問や見解の発表を交換するようになれば、会は更に盛り上がる物と期待を大きくする所です。

    さて、いよいよ来月は岡本合戦の現地検証が控えておりますので、今回は『巻二十三』を全て紐解いておきたいと思います。この現地検証は『清良記の現地の検証』が目的ですので、清良記をよく読み込んでおく事が必要です。岡本合戦の資料の違いで見解が分かれるのは当然ある事ですが、『三間の郷土史愛好者が清良記に何が書いてあるのか知らない』『現地に行った事がない』では、清良記を正しく紹介する事が出来ません。これから少しづつ課題をクリアして行きましょう。


□『巻二十三』を紐解く・其の二

    さて清良公が立てた作戦はこうです。それは、土居の本隊を古藤田に置き、土佐方の旗を持たせた偽土佐勢を橘の森に潜ませて、そこに土佐本隊を誘き寄せ、待ち伏せた鉄砲隊で討ち取ろうという物。ちなみに土佐方の旗を使っての騙し討ちは、この時が初めてではなく、巻十九の十節にも登場します。所謂、土居の軍法には『夜討ち』『騙し討ち』等のゲリラ戦法が多く、大敵を相手に少数で守るには有効な手段だったと言えます。

    ところで気になるのは、どこに鉄砲隊を布陣したかではないでしょうか。清良記には『新左衛門、右京進は南の尾崎八幡の前に引き分けて、足軽その他四百五十挺の鉄砲は、橘の額に柴、笹などをかぢし段々に後高く三重に引き隠し、残り百五十挺の筒をば堂の後ろより西の井口という所までの藪の中に隠し、彼此六百挺の筒は早込めの仕掛けにて、込め変え込め変え、三度放ちて一回り、三度放ちて一回りと絶え間なく打ち続くべし』とあります。つまり土居垣内の八幡神社のある山が橘の森で、橘の岡の額は白瀧家のある東側、堂の後ろより西の井口は土居家のある西側と見る事ができます。

    そのような守備万全の中、三騎の早馬と五十の兵が本隊を抜けて、岡本城の麓、井口まで近付きます。これは岡本城本丸に侵入していた先勢と連絡を取る為でしたが、ここで鉄砲を発砲しては作戦が暴露てしまいます。清良公は家来の侍三人に古藤田から来たように登場させて、三騎の大将を討ち取らせます。雑兵は慌てて本隊へと逃げ帰りますが、この間、橘の森に隠れている鉄砲隊は一度も鉄砲を放つ事はありませんでした。清良記には、この命令の統制こそが土居方へ勝利を引き寄せた鍵であり、後々まで讃えられたと書かれています。

    その上、清良公の作戦は、本当にこのような事があったのかと驚くばかりですが、土佐本隊を目の前にして、古藤田から善家と桜井が偽土佐勢に打ち掛かり、土佐勢を演じた清良公は橘の森に駆け上がって土佐方の旗を立てます。これを味方と心得た土佐本隊は、橘の岸の下へ近付き入りて、ここで初めて鉄砲隊が火を放つのでした。清良記には、『土佐方の大将久武内蔵助を始め国吉肥前守、佐川、谷脇、依岡、和食などいう者を先として暫時が間に雑兵合わせて千余人目の前に打ち伏せ』と、土佐本隊が総崩れになる様子が描かれています。

    その直後、真っ直ぐに走り寄る一人の若武者が登場。久武内蔵助の小姓であった今藤又八郎です。主を討たれた又八郎は既に命を捨てる覚悟ができており、誰も手に負えません。そこに武者法師木ノ本円長坊が太刀打ちに駆け付けますが、牛若丸と熊坂長伴になぞらえて、戦いの様子は非常に読み応えがあります。そして後陣の土佐勢は、『大内裏松の沖』という所に引き退きます。この後、主戦場は『大内』に移つり、また框越えから加勢して来た芝の軍勢との間で『框越え合戦』が起きて行くのでした。



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-13 19:00 | 郷土史

土居清良公の命日参り

【『第一回清良記シンポジウム』の翌日、清良廟のある土居中の牛河山龍泉寺の前田和尚にお願いし、清良公の命日参りをさせていただきました。前年の二十五年三月二十三日にはテレビ愛媛の番組『ふるさと絶賛バラエティーいーよ!』に清良公の大森城と清良記が紹介され、松浦郁郎先生がテレビ出演されました。そして、奇しくも一年後の同日に『清良記シンポジウム』が行われた事。これらを清良廟の前に報告させていただきました。】

    □土居清良公の命日参り

    土居式部大輔清良…天文15丙午(1546)年1月30日、土居伊豆守清宗の三男土居清晴の三男として生まれる。幼名三郎虎松。永禄3庚申(1560)年10月16日、土佐国幡多郡一条尊家の扶持を受ける。永禄5壬戌(1562)年7月12日、三間領主として大森城へ帰城。天正15丁亥(1587)年10月下旬、戸田民部少輔政信の命令により下城。『背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん』と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔もかかる事のありけん、その名を隠れ宿という所に、細々と浅ましく庵引き結ばせて入られける。また代にありし時の下屋敷に住む。寛永6己巳(1629)年3月24日の暮れ、清良84歳。臨終正念にして往生の素懐をぞ遂げられる。本年没後386年。2028年が400回忌となる。


    □『巻二十三』を紐解く

    一、岡本合戦之事
    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて』…清良記によれば、岡本合戦は天正九年の出来事。巻二十四の天正十年の記事には堂ケ内村は『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とあり、巻二十六の天正十一年の記事には『去々年、元親が侍あまた清良に打たれて』とある。土佐方の軍記には正確な年月日を記す物はないと云われる。また清良記によれば、清良公等は毎月二十三日の暮れより大森城の本丸にある権現堂の六間の座敷に集まり、月待ち、日待ちの御講をしていた事が伺える。二十三夜の月は下弦の月で、凡そ深夜零時に昇って来、それまでは闇夜となる。注:六間は約10メートル。大森城本丸は東西に約70メートル、南北に約15メートル。


    二、橘合戦之事
    『敵は人数立つともなく、武者押しの体も見えず、味方に手引きするものあれば、先勢には城を取らせて合図の火を立て、その上、度々の軍に西園寺殿後詰めはなくて、公広の領内三分の一は土佐へ取りければ、今日の大将は我が領内なりと思い心緩くぞあらん』…清良記によれば、土佐勢は川霧に紛れて薄木表の東西二十余町、南北へ五六町の間隙間もなく進んで来るが、我が物顔で戦にもならないと油断した様子が伺える。土佐方を手引きしたのは中野豊前守通正。また巻二十二によれば、芝一族は天正九年三月より既に土佐方に寝返っており『元親より加番の武士五百余騎差し籠りて置きければ、河原渕、定延、西之川、魚成、北之川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とある。合図の狼煙は、岡本、奧野々(興野々か)、原之森(河原渕か)、奥之川、伽之森(戸祇御前山か)。


    三、框越合戦之事。
    『似水、息の下より。今はこうと覚ゆるなり、さて軍は如何し給うやと、問われければ、清良、お心安かれ、敵四千余騎にお中野、有馬よりは一騎も助け来らず、清良一手にて敵の大将三人を始め、彼此二千六百余人討切取り、その他追い散らし、味方も討たれず候』…框越えを守っていた土居似水が矢傷を負い、大内村で陣頭指揮を取る清良公の元へ運ばれる。戦局を案ずる似水に戦功を告げると、似水は安心し、笑いながら眠りに着く。似水は祖父清宗の末の弟で、清良公には大叔父の一人。


    橘合戦之事によれば、兜首八百七十五、雑兵千七百三十七、生け捕り六十八、都合二千六百八十を持って勝鬨を挙げる。大高島新蔵人の口上によれば、土佐勢は三千八百余騎、雑兵一万三千人。よって兜首の23%、雑兵の13.36%、全体では15.54%を失った計算となる。土居方は一人に敵十四人当ての軍とあるので、土居の軍勢を単純計算すると二百七十一騎の雑兵九百二十九人となる。これが前代未聞の手柄といわれ、都まで隠れなく聴こえた橘合戦の戦果だったといわれている。




    □平成26年3月24日(月)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-12 20:00 | 郷土史
【平成二十六年三月は、本来であれば『巻十』を紐解く所ですが、五月に岡本城址の現地研修を行う予定であった事から、岡本合戦について書かれた『巻二十三』を勉強する事にしました。また、三月二十三日は、鬼北町の近永公民館にて宇和島市・鬼北町・松野町共同主催の『第一回清良記シンポジウム』が開催されました。】

□『祝!清良記シンポジウム』

    この度は『清良記シンポジウム』の実現おめでとうございます。そして本当にありがとうございます。私達は三間史談会と言います。三間は『清良記』の主人公、土居清良公が誕生した地であり、戦国時代の領主、清良公を親しく誇らしく思っています。本来であれば、三間が発起し、主催となってシンポジウムをすべきであったと思うのですが、古代や中世の調査研究の著しい鬼北町に『清良記』を取り上げていただき本当に感謝の思いが致します。今後、このシンポジウムは多岐に渡って展開して行くと伺っており、益々の発展を心から期待する所です。

    また三間史談会では、毎月第四土曜日の夜七時〜九時に三間公民館で『清良記を紐解く会』を開催しています。そして『清良記』を声に出して読み、一つ一つの物語りを解説して、『清良記』への理解を深めています。会員でない方も参加していただけますので、関心ある方は是非三間公民館までお越し下さい。


□『清良記を紐解く会』お知らせ

    ① 三月二十四日(月)午前十時〜十一時『土居清良公墓参』土居中龍泉寺
    ② 四月二十六日(土)午後七時〜九時『第11回清良記を紐解く会』三間公民館
    ③ 五月二十四日(土)午前十時〜午後四時『岡本城〜橘合戦現地研修』

    (注意:予定が変更される場合があります。参加希望者は必ず会報で確認をお願いします。)


□『巻二十三』を紐解く

    『巻二十三』は『岡本合戦之事』から始まります。時は天正九年五月二十三日の夜、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛宕講の勤めあり。とあるように、一族の供養に勤めて信心深かった清良公は、毎月二十三日の夜から翌二十四日に掛けて、月待ちと日待ちの御講をしていた事が分かります。月待ちは二十三夜の下弦の月を御仏の化身として迎える御講の事で、下弦の月はおよそ深夜零時ほどに昇って来るので、日没から月が昇るまでは闇夜となります。その闇に乗じて岡本城本丸に侵入したのが土佐の長宗我部元親の侍百騎。しかし、それは松宗の遠見番の見逃す所ではありませんでした。

    岡本城本丸に土佐勢が侵入出来たのは、中野殿の侍が土佐に寝返って手引きをした為です。故に、岡本城本丸は争って奪われたのではなく、闇に紛れて招き入れたと理解すべきでしょう。そのような岡本城の異変に一早く気付いた清良公は、東西より攻め登り、土佐勢の旗や差し物を全て奪い取ると後は取り合わず、そのまま本丸に押し込めて置くのでした。これにて『岡本合戦之事』は終わりです。つまり、都まで隠れなく聞こえた軍というのは岡本合戦ではなく、この後、二百騎の土居の侍が橘の森で三千騎の土佐勢を謀りを持って打ち破るという橘合戦の事なのです。

    第二節は『橘合戦之事』となりますが、ここが『巻二十三』のメインとなります。この時、敵は土佐勢だけではありません。既に三国を手中に収めている元親の勢いは物凄く、阿波、讃岐の侍まで加勢していたのは勿論ですが、味方である筈の西園寺の武将達までが土佐方に寝返っており、『巻二十二』の第十節を見れば、天正九年三月初めに『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあります。故に清良公は中野殿が土佐に内通している事を知りながら、気取られぬよう知らぬ振りをして周りの武将の加勢も西園寺卿の後詰も当てにせず、一将と二百騎のみで三千騎を相手にする謀りを講じるのでした。



□平成26年3月22日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-11 21:00 | 郷土史
【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史
【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん