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【平成二十六年三月は、本来であれば『巻十』を紐解く所ですが、五月に岡本城址の現地研修を行う予定であった事から、岡本合戦について書かれた『巻二十三』を勉強する事にしました。また、三月二十三日は、鬼北町の近永公民館にて宇和島市・鬼北町・松野町共同主催の『第一回清良記シンポジウム』が開催されました。】

□『祝!清良記シンポジウム』

    この度は『清良記シンポジウム』の実現おめでとうございます。そして本当にありがとうございます。私達は三間史談会と言います。三間は『清良記』の主人公、土居清良公が誕生した地であり、戦国時代の領主、清良公を親しく誇らしく思っています。本来であれば、三間が発起し、主催となってシンポジウムをすべきであったと思うのですが、古代や中世の調査研究の著しい鬼北町に『清良記』を取り上げていただき本当に感謝の思いが致します。今後、このシンポジウムは多岐に渡って展開して行くと伺っており、益々の発展を心から期待する所です。

    また三間史談会では、毎月第四土曜日の夜七時〜九時に三間公民館で『清良記を紐解く会』を開催しています。そして『清良記』を声に出して読み、一つ一つの物語りを解説して、『清良記』への理解を深めています。会員でない方も参加していただけますので、関心ある方は是非三間公民館までお越し下さい。


□『清良記を紐解く会』お知らせ

    ① 三月二十四日(月)午前十時〜十一時『土居清良公墓参』土居中龍泉寺
    ② 四月二十六日(土)午後七時〜九時『第11回清良記を紐解く会』三間公民館
    ③ 五月二十四日(土)午前十時〜午後四時『岡本城〜橘合戦現地研修』

    (注意:予定が変更される場合があります。参加希望者は必ず会報で確認をお願いします。)


□『巻二十三』を紐解く

    『巻二十三』は『岡本合戦之事』から始まります。時は天正九年五月二十三日の夜、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛宕講の勤めあり。とあるように、一族の供養に勤めて信心深かった清良公は、毎月二十三日の夜から翌二十四日に掛けて、月待ちと日待ちの御講をしていた事が分かります。月待ちは二十三夜の下弦の月を御仏の化身として迎える御講の事で、下弦の月はおよそ深夜零時ほどに昇って来るので、日没から月が昇るまでは闇夜となります。その闇に乗じて岡本城本丸に侵入したのが土佐の長宗我部元親の侍百騎。しかし、それは松宗の遠見番の見逃す所ではありませんでした。

    岡本城本丸に土佐勢が侵入出来たのは、中野殿の侍が土佐に寝返って手引きをした為です。故に、岡本城本丸は争って奪われたのではなく、闇に紛れて招き入れたと理解すべきでしょう。そのような岡本城の異変に一早く気付いた清良公は、東西より攻め登り、土佐勢の旗や差し物を全て奪い取ると後は取り合わず、そのまま本丸に押し込めて置くのでした。これにて『岡本合戦之事』は終わりです。つまり、都まで隠れなく聞こえた軍というのは岡本合戦ではなく、この後、二百騎の土居の侍が橘の森で三千騎の土佐勢を謀りを持って打ち破るという橘合戦の事なのです。

    第二節は『橘合戦之事』となりますが、ここが『巻二十三』のメインとなります。この時、敵は土佐勢だけではありません。既に三国を手中に収めている元親の勢いは物凄く、阿波、讃岐の侍まで加勢していたのは勿論ですが、味方である筈の西園寺の武将達までが土佐方に寝返っており、『巻二十二』の第十節を見れば、天正九年三月初めに『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあります。故に清良公は中野殿が土佐に内通している事を知りながら、気取られぬよう知らぬ振りをして周りの武将の加勢も西園寺卿の後詰も当てにせず、一将と二百騎のみで三千騎を相手にする謀りを講じるのでした。



□平成26年3月22日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-11 21:00 | 郷土史
【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史
【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史
【この翌十二月は松浦郁郎先生には『巻七』の特別講義を依頼。その時、四十年前に作ったという貴重な清良記の校訂過程の資料を拝見。先生のご苦労がどれ程大変なものであったかを思い知った参加者でした。その後しばらく懇親の時間を楽しみました。】


□『中村行き』その後②


    先月は高知県四万十市へ『清良記』に著された土居清良公の足跡を訪ねる現地研修を行う事が出来、三間史談会の清良記研究にとって大きなステップとなりました。また『敷地軍記』との出会いで幡多郡で領地した『高島』が現在の竹島と分かり、頼りにした義理の叔父土居近江守家忠(土居宗珊)が、安並、為松、羽生と共に四天王と呼ばれ、土佐一條家初代からの筆頭家老であった事も分かりました。
    土居宗珊が執政官であった一條康政と同一人物では?という疑問については可能性が低くなりましたが、清良記が述べる『土居近江守家忠=房家の弟』という件は今後も研究して参りたいと思います。



□『巻六』を紐解く


    前回は巻五を紐解きました。不破八幡の宵宮祭に石礫が投げ込まれた事件であらぬ嫌疑を掛けられた清良公でしたが、近江守が盾となり、姉お初(北の方)が知恵を付け真犯人を挙げる事に成功。一條公は清良公に謝罪され、清良公の幡多郡での立場が高められる事になりました。
    さて、今回巻六では土居清宗の弟民部少輔清治の三男『善家六郎兵衛』が登場します。善家六郎兵衛は一之森城主深田殿竹林院真清の弟である善家備後の家継となっていましたが、周囲との生き方の違いから幡多郡に落ち延びた清良公の元へ駆け付けます。
    また巻六で注目すべきは、清良公の『帰城』がなされた事です。一條家配下における数々の謀反を鎮めて来た清良公でしたが、今回は和食九郎兵衛を討ち取った事への褒美もあり、百五十貫で本国土居に帰るか二百五十貫で幡多郡に留まるかの選択を任せられます。しかし百五十貫の領地は、宮下、石原、末森の三村で、故郷に錦を飾る事にはならず侍衆の生活もどうなるかと心配する清良公でしたが、『百五十貫が二貫であっても帰りましょう』と侍衆は心を一つにするのでした。清良公一行は永禄五年七月十日に中村を発ち、十日は若藤、十一日は川崎に泊まり、十二日の朝に須山を越えて三間の『大森城』に帰城されました。
    また帰城後は『土居似水』も清良公の元へと馳せ参じます。土居似水は清宗の末の弟で民部少輔重信といい西園寺真光の御雇となっていましたが、土居一族自刃の後は出家して『似水』と名乗っていました。こうして清良公は暫しの平和の中に領民を大切にする国造りをされて行くのですが、土居似水の生き方にしても善家六郎兵衛の生き方にしても清良公の侍衆の生き方にしても、一つ一つが同様に教訓を与える為の物語である事がよく分かります。



□次回の予定


    次回は『巻七』となりますが、いよいよ『親民鑑月集』となりますので松浦郁郎先生に特別に解説をお願いしています。また12月は年末ですので参加者を中心に忘年会を企画したいと思います。そこで次回の『清良記を紐解く会』は開始時間を(17:30〜19:30)、忘年会を焼肉闘牛にて(19:30〜21:30)で行いますので是非お間違いなく、ご参加よろしくお願いします。予定日『12月        日(    )』








平成25年11月26日(火)『清良記を紐解く会』座長:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-08 14:00 | 郷土史
【二週間ほど前に『中村行き』の現地研修を終えたばかりでしたが、帰路バスの中で羽藤明敏会長から文化祭の出展を頼まれ、現地研修を記事に伊井事務局長と二人で連日徹夜。展示物を準備したのが思い出されます。また文化祭をしながら清良記の紐解きも休みませんでした。研修を見て来たお陰で大変勉強もしやすくなりました。】


□三間史談会主催『中村行き』現地研修を振り返って


    平成22年度に現地研修をして依頼、2年も企画倒れになって来た『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修でしたが、本年度は若手に企画立案実行を任せて欲しいという提案をさせていただき、遂に『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修を実現できたことは誠に感無量の出来事となりました。『清良記』は三間の宝であり『土居清良』は三間の誇る戦国武将です。その清良記に記述されている清良公土佐落ち所縁の土地を尋ねることは、今後の清良記研究にとって非常に意義のあることと言えます。

    先ず訪ねた四万十市の竹島地区は、清良公が領地した『高島』ではないかという思いからの訪問でしたが、後日に竹島にある金亀山菩提寺の和尚から竹島の史料としていただいた『敷地軍記』の中に竹島が明らかに『高島』であったことが明記されており、また『敷地軍記』の評議をした一條家の家老が土居宗珊であったことが分かり、宗珊が土佐一條家の古くからの家臣であることも確認できました。故に竹島地区は清良公とはけっして無縁な地ではないのです。

    今後の研究課題としては『土居宗珊の人となり』、また『土居宗珊と小松谷寺殿と一條康政の関係』について研究をしたいと思います。土居宗珊は一條家の筆頭の家臣であったと言われており、一方、一條康政は一條家の執政官であったと言われています。この二人は同時期の人物であり、関係がなかった筈がありません。あるいは二人が同一人物である可能性も捨てきれません。今後は『長宗我部地検帳』や『敷地軍記』を中心により研究を深めて課題の究明をして行きたいと思います。


□清良記を紐解く会『巻の五』


    今回の紐解きは先日『清良公土佐に落ちらるる事』の現地研修でも訪問した『不破八幡宮』が舞台となります。清良記では不破八幡宮の事を『中村八幡宮』と呼んでいます。不破八幡宮というのは不破村の八幡宮という意味ですが、京から土佐に下向した一條教房が京の石清水八幡宮から勧請して幡多郡の中心神社として創建したのですから、清良記が呼ぶように中村八幡宮が本当だったのかもしれません。
    さて時は永禄四年の八月十五日の中村八幡宮の祭日の前夜となる宵宮祭のこと。中村八幡宮では宵の相撲大会が開かれていました。土居の侍達も多いに活躍し大勝して気分良く清良は屋敷に帰ります。すると後に相撲大会の会場目掛けて石を投げ込む者達がおり、男も女も神主までもが血を流す怪我を負わされるという事件が起こるのでした。
   誰の仕業かとなった時、どこの誰が言い出したのか土居の侍衆が怪しいと清良にその嫌疑が着せられてしまいます。その窮地を知恵を働かせて救ったのが土居近江守家忠でした。それはその次に行われる天神の祭礼の時に清良始め土居の侍を一人も祭礼の場へは出さず、もし石を投げ込む者がいればそれを真犯人として挙げようというものです。その為には真犯人を騙さなくてはいけません。土居の侍には『八幡の神事の礫打ちと人の沙汰する由ならば、今また天神祭に思う様打つべし』等と言いふらさせる念の入れようでした。
    しかしてその結末は案の定。二十四日の晩に三十人を越える礫打ちを捕らえることに成功。その内二十六人は近江守の謀に乗せられての犯行と判断されて放免に、内五人は八幡宮の礫打ちと分かり尋問すれば、同類三人が芋づる式に明らかになり、その宿主段兵衛は東郡の元親に成敗させ、八人の者共は真犯人として八幡宮の河原に磔とせられるのでした。
    この頃はちと不吟味にて不審申し掛け候、その段御免候え。若き衆はか様の事心に掛けられては悪しく候。かく申し晴らし候えば、尊家は少しも不審残さず候、その段は安並と江州に問われ候え。此度の尊家が咎めかど合いの申し訳には、兵法、軍法、底を叩いて教え申すべし。とありて、それよりは毎日、兵法の執り行い他事なく、かようにあれば、人のかねがね思いし心も変わり、いづれも用い奉りて、清良公今は重き人になりおわします。『用いる時は鼠も虎なり、用いざる時は虎も鼠なり』と言う事、実にこの時の言葉なり。と、 この件に関しては短気で有名な兼定も清良を召して謝られたと言います。



平成25年10月26日(土)清良記を紐解く会座長:松本敏幸(090-1320-1508)

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-07 13:00 | 郷土史
三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』


□資料①『清良記』


巻の一の一。清良根源先祖の事より
『ああ土居家代々の武名挙げて数うべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を誰にか見せん。梅の花の散り惚れたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし』

巻の一の二。清宗繁盛の事より
『また土佐の幡多、一条房家は豊後大友と縁者ににり給い、度々この処へ手入れあるべき御企てなりしかども、須山よりこの地へ踏み入ることなし。掛りける所に房家、真光御和睦ありて、土居清貞の娘、清良の姉お初上臈を土州房家の弟近江守家忠に嫁しおわします。また河原渕の領主、河後の森政忠は後無しの人なればとて、房家の三男東小路法行の子息を養子に取り組み、法忠と名乗られし。他領よりかように親み寄り申すことは、悉く清宗の軍功によれり』

巻の二の四。真光、石城の加勢を呼び返される事より
御諚の如く某等、数年武士の真似を致し旗頭真光の御前にても人に知られ申すこと、単にお陰に御座候。今更その御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候えども、先年万年も長らえ申すまじ。例え長らえ候えども、大将を捨てて逃げたりなどと、万年までも悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく長らえて、奇怪不思議と浦島などがように候を人の申し伝えて尚悪名表れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えは、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。宗雲父子、かねて仁信深く、礼を厚くして専らに用い、有智の大将にて、下々まで掛かるとぞ見えし』

巻の三の五。石城くずれの事より
『大友、今威勢ある最中なれば、運尽くるとも大名なる故五年十年の内に滅亡ということはあるまじ。さてこの度、宗雲一類果てては三間、河原渕、板島、一辺に豊後へ従うべし。真光も大友の旗下になられんこと疑いなし。さあらばこの国を始めその他皆々、我が事をようやくせいさいにして、誰を頼みても長く浪人になりて、土居の家立て直ること遅かるべし。土佐一条尊家は大友の婿なり。思えば敵にして敵にあらず。さて、一条家の家老近江には、清良が姉婿の上に流石の武士なり。頼むと言わばよも如才はあるまじ。その上、豊後よりこのあたり支配ならば、海上を隔てては如何にも不自由にして治まりにくかるべし。大方は尊家の支配になりて、一条の申され次第たるべし。さようにあらば名ある者の末なりとて本地に帰すべきと思うなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『江州夫婦、御嘆きの中のお喜びとて、御馳走なかなか言葉にも及び難し。さて、一条殿へかくと申し上げられければ、内々、土居殿のこと頼もしき弓取りなれば、叔父近江を縁者に取り組み、名字をさえ所望せしに、これまた八幡の御恵みなりとてお喜びなされ、まず籾俵二百俵御合力あり。また、江州の積りをもって御知行進ぜらるべしとて、清良公へ御使いを遣わされ、その後ご対面なされ、種々御心入れの御馳走浅からず。その後、大かみ御案の如く、大友より尊家へご飛脚あって、南伊予の内、宇和の郡は悉皆一条殿ご支配になり、入り番の衆、皆土佐より仰せつけられしなり』

巻の四の一。清良、土佐へ落ちられる事より
『その後、尊家より、まず浪人分とあって高島あたりにて百貫の領地を清良公へ進ぜられ、お松上臈上下四人、土居主水は大津の城へぞ上がりける。次郎もお城へ上がりしかども、清良公惜しみて次郎は呼び下ろしぬ。その年の暮れは高島岡の前という所にて越されける』

巻の六の四。清良公御帰城の事より
『永禄五年七月十日、清良公十七歳にして土佐の幡多高島をお立ちあり。各々名残惜しみて中村に出合い酒迎えすれば、その日も暮れ若藤に泊りて、十一日の晩、川崎泊りにて十二日の朝、須山をこえられければ、奈良摂津守、薄木三河守、その他古の諸将ら走せ重なり、随喜の涙を流して我先にと、足下を見れば倒るる者も多かりし』


□資料②土佐一条家


①一条兼良…応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日( 1481年4月30日
一条本家八代。500年に1人の才人と言われ、源氏物語注釈書『花鳥余情』等を著す。一条神社の主祭神。

②一条教房…応永30年(1423年)-文明12年10月5日(1480年11月6日
一条本家九代。一条兼良の嫡男。応仁の乱の時に土佐へ下向。

③一条房家…文明7年(1475年)-天文8年11月13日(1539年12月23日
一条教房の次男。土佐一条家初代となる。本山氏に敗北した長宗我部兼序の嫡男国親を庇護し、長宗我部家の再興を援ける。

④一条房冬…明応7年(1498年)-天文10年11月6日(1541年11月23日
一条房家の嫡男。土佐一条家二代。父の後を追うように二年後に亡くなる。一説には、重用していた敷地氏を無実の罪で自害させてしまった事を後悔して病死したとも言われる。

⑤一条房基…大永2年(1522年)-天文18年4月12日(1549年5月9日
一条房冬の嫡男。土佐一条家三代。智勇に優れ津野氏を伐ち高岡郡を所領した。戦国大名のような振る舞いが疎まれ、京の一条家から暗殺されたとも自殺をしたとも言われる。

⑥一条兼定…天文12年(1543年)-天正13年7月1日(1585年7月27日
一条房基の嫡男。土佐一条家四代。京の一条本家の養子にされていたが、父の死で土佐に戻され7歳にして家督を継ぐ。養父でもあった祖父房冬の弟房道が後見人となる。重臣土居宗珊を誅殺した事で信頼を失う。天正元年に羽生、為松、安並の三家老の合議で蟄居。天正2年に豊後臼杵へ追放されると、中村で家臣同士の内戦が起こり長宗我部が進駐。天正3年に洗礼を受けドンパウロと名乗る。同年四万十川の戦で長宗我部に敗北。天正13年伊予国の戸島で亡くなる。

⑦土居宗珊…生年不詳 - 永禄12年(1569年)、又は元亀3年(1572年)
土佐一条氏の重臣。一条氏の筆頭家臣で、智勇兼備の名将。兼定を必死に支えたが、主君兼定に聞き入れられず誅殺。中村市誌に『清良記』の土居近江守家忠が土居宗珊である事は確かとの記述あり。

⑧土居宗明…弘化2年9月7日(1845年)-昭和6年12月24日(1931年)
土居宗珊の末裔。軍医となり日清戦争にも従軍。後備陸軍三等軍医正従六位勲四等。帰郷後は中村の幼稚園設立や県立第三中学校等の運営に寄与したと言われる。江ノ村の『小松山長法寺』の境内に土居家墓地がある。

⑨一条康政…生没年不詳。
『小松山長法寺』を開基。宗覚とも小松谷寺殿とも称される。同寺にある宝篋印塔が一条康政の墓と言われている。康政は一条房基の弟で兼定の叔父に当たると言われてきたが異説あり。房基の死後兼定を支えて執権を握り兼定の放逸を諌めたが、聞き入れられず隠居したという。


□資料③神社仏閣


①一条神社:戦国時代に土佐一条家の中村御所であった場所。初代房家が祖父兼良と父教房を始め代々の先祖を祀る為に作った霊廟があったが、長宗我部元親に敗れた四代兼定が中村を離れてから花を咲かせなくなっていたという『咲かず藤』が、文久元年に300年振りに花を咲かせるという吉事が起って一条神社創立のきっかけとなる。創立は江戸時代文久2年(1862年)。昨年150年祭が行われている。


②不破八幡宮:一条教房が京から土佐に下向した時、石清水八幡宮から勧請し幡多郡の一宮とした。体育の日の前々日の祭礼では、初崎にある一宮神社から女の神様が船に乗り、不破八幡宮の男の神様と出会って結婚式をするという特殊神事を行う。蛮習があった土地に、京風の結婚式の習慣を根付かせる目的があったと言う。創建は室町時代中期の文明年間(1469年 - 1487年)。


③岩越四所神社:戦国時代の竹島村の領主岩越五兵衛を祭神として祀る。岩越五兵衛は一条の重臣であった敷地藤安が伐たれた時、敷地党として共に伐たれ焚死。後に祟りが起こり、不破八幡宮の祭礼日に竹島の前を通る船が沈没したと言われる。岩越五兵衛の死後は領主不在の地となる。現在は竹島神社を合祀して、竹島地区の中心神社となっている。地番を天神山城山と言い、竹島城の詰と思われる。


④竹島神社:室町時代に竹島村の領主岩越五兵衛によって勧請された神社。江戸時代までは天満神社であった為に、竹島神社のある山は天神山と呼ばれていた。天神山全体が戦国時代の竹島城であったと思われる。明治3年に竹島神社と改称し同5年に村社となるが、現在は岩越四所神社に合祀されている。昭和26年まで土居守蔵という神主がおられたが、土居宗珊との関係は不明。


⑤金亀山菩提寺:臨済宗妙心寺派の竹島村の寺。竹島村の寺は火事で消失していたが、明治27年に愛媛県大洲市の冨士山如法寺とのご縁をいただき、大洲市にあった末寺で当時廃寺となっていた金亀山菩提寺を竹島村の寺として復興させて今に至る。九州緒方家の磐珪和尚が住職となり中興の祖となる。金亀山菩提寺には岩越五兵衛の位牌を祀っており戒名は『崇福寺殿儀山将翁大居士』。


⑥小松山長法寺:戦国時代末期に一条康政によって開基された無宗派の寺。小松山は一条康政が小松谷寺殿と呼ばれていた事に由来。境内に一条康政の墓と言われる宝篋印塔や、中村市誌が土居宗珊の末裔として紹介している土居宗明の墓所がある。土佐一条家の執権を握っていたと言われる一条康政と、筆頭家臣であったと言う土居宗珊の末裔の土居家墓所が同じ長法寺にあるのは大変興味が唆られると言える。


□MEMO










□三間史談会主催・清良記を紐解く会現地研修『中村行き』担当:松本敏幸(2013.10.14mon)


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-06 12:00 | 郷土史
【『巻四』の紐解きです。ここでは土居清良の土佐落ちの様子が描かれていますが、10月にその土佐落ちルート、土佐で領地したという高島、そして土佐一条家所縁の史跡を訪問する現地研修を企画させていただいた事もあり、勉強に合わせて現地調査を行ってきました。調査は実に研修を合わせて7回に及び、そこで色んな人から協力を得て、それまで不明とされてきた『高島』については場所をほぼ特定する事ができました。また土居宗三が土居近江守家忠である事はその後の清良記の記事を見ても間違いありませんが、ここで疑問を残している小松谷寺殿一条康政とは同一人物ではない事が確認できています。


□清良記を紐解く会『巻の四』

    今回は『巻の四』を紐解きます。巻の四は豊後の大友勢に包囲された石城を脱出した土居清良が、土佐国幡多郡の一条兼定の領地へ落ち延びるという話です。
といっても清良は、すぐ土佐に向かったのではありません。自刃を決め石城に残った一族の動向を案じ、使いの者を石城に返しては様子を伺って土佐に落ちるより石城に引き返す事を考えます。
しかし、そこはそれ、土居主水、観音寺佐渡、大内越後、伊藤肥前、四人の長老は大殿清宗から清良を助け一族の主として教育するよう命を受けいます。15歳。多感で血気も盛んな清良は思いを断ちながら土佐へと向かいます。

    三間から土佐へ向かう土居清良の一向は70人を超える大所帯です。その中に姉の松姫もおり、仕える女中も同行しています。松姫は一条兼定に差し出す人質としての役割を果たすよう祖母から諭されて、裾を涙に濡らしながらの土佐落ちでした。
一向はいったん目黒の支持者に身を寄せます。目黒は現在松野町。伊予と土佐の国堺にあり、滑床渓谷から流れる目黒川は土佐の四万十川へ流れる支流の一つです。
10月5日の昼に一族天晴れの報を受けた清良は、目黒川伝いに船を使って土佐に出発しました。

    さて土居清良の土佐落ちで問題なのが清良が上陸したという『種崎』と一条兼定から与えられて領地した『高嶋』の場所の特定です。
    先ず『種崎』は『崎』が着く事から海側の土地であると考えられます。その場所は『大津の城より一里こなた』とあるのですが、四万十川沿いで『崎』の付く場所は、実崎、間崎、角崎、等々…しかし、『種崎』という場所は見当たりません。
これは桂浜の近くの『種崎』が有名である為に、名前の勘違いをしたのではないかとも考えられます。
    すると断然候補に上がるのが『実崎』です。実崎は中村城より一里南に位置しており、陸路で城下を訪ねるには『実崎』が一番適していると思われるからです。

    土居一族の復活を賭けて土居清良を土佐に落とすと決めたのは、祖父土居清宗と祖母妙栄でしたが、闇雲にそう考えたのではありません。伊予の宇和郡が豊後に下っても、豊後と伊予は海に隔てられて陸続きではありません。そのうちに必ず大友宗麟の婿に当たる、土佐中村の一条兼定に宇和郡を所領させるに違いない。一条兼定はまだ若く18歳。後見人となっている父一条房基の弟で兼定の叔父は、土居清貞の娘を娶り土居を名乗る言わば身内同然でした。この一条の家老土居近江守忠家を頼りに清良を土佐落ちさせたのでした。
    しかし、清良も決死の覚悟。もし拒まれでもしていたら刺し違える覚悟であったと清良記は語っています。

    さて土居清良は晴れて土居近江守との面会を果たし、近江守の庇護によって清良は一条兼定の被官として仕える事となります。
    そこで与えられた領地が『高嶋』で、住した地が『高嶋の岡の前』と言います。
さあ、その『高嶋』がどこなのか?それを突き止める為に四万十市に訪問し、先ずは現在市内に残された『土居』という場所を訪ねてみました。
    『土居』のある場所は『竹島』と呼ばれる地域…なにかにおいますね。竹島交番のお巡りさんに尋ねると、そこから郷土史に詳しい方に片っ端から電話をして下さって、近くの竹島神社と臨済宗妙心寺派金亀山菩提寺まで案内して下さり、近所のお年寄りの聴き込みにも付き合って下さいました。

    その最中、交番にお客が来たとの事でお巡りさんは交番に戻られましたが、交番に来てくれたのが先祖が宮大工で竹島神社等の所縁を調査されていた男の方でした。
そして、竹島神社を勧請したのは岩越五兵衛である事。岩越五兵衛は天文二年か三年頃に一条房基との折り合いが悪く、周りの領主から攻められて竹島城で焚死した事。その後岩越五兵衛は祟り神となり、不破八幡宮の祭礼の日に竹島城の前を行く船が沈没した事。また、岩越五兵衛も岩越四所神社に神として祀られた事。そして、その後竹島村は領主が不在であった事等を教えていただきました。これだけ聴けば、誰でもピン!と来ますよね。

    『高嶋は竹島ではないのか!』率直にそう思いました。しかし、そこまでの事はその船大工さんにも分からないとの事。次に向かったのは四万十市庁舎の図書館です。
    そこで手にしたのは、長宗我部元親地検帳、下田村郷土史料、不破八幡宮神事、中村市誌、土佐國幡多郡神社帳、ゼンリン住宅地図。決定的だったのは、中村市誌に『山内時代の地検帳には今の竹島村は高嶋村』との記述を確認できた事です。これで確率が更に上がりました。
    『高嶋』は竹島であり『高嶋の岡の前』は竹島城の向かいに位置する竹島の土居地区であると言う説を紹介するには、考察できる資料が十分出揃いました。

  土居清良が一条の被官となった時にも、当然竹島は領主が不在であったのでしょう。突然伊予から来た侍に領地を分けなければならなくなる領主がいたら、いざこざは起きなかっただろうかという疑問があったのですが、元から領主不在の村であったと言う事であれば納得です。またそこは不破八幡宮から一里程の場所なので、清良記の記述とも矛盾しません。
    これまで郷土史の先生方が『種崎も高嶋も場所が特定できない』と言って来ただけに、この発見は率直に驚き本当に感動した発見でした。
種崎=実崎、高嶋=竹島。説として良いんじゃないでしょうか?因みに『実崎』は『竹島』より四万十川を挟んで少し下流となります。

    残された課題としては、一条の家老土居近江守忠家の特定です。中村市誌の人物の項目には、それが土居宗珊とも宗算とも宗三とも言う、一条の家老と同一人物であると言って良かろうと書いてありました。そしてその末裔がおられ、明治期には土居宗明という軍医がおり、帰郷の後は学校や幼稚園の運営に貢献した人物であったそうです。その土居家墓所は江ノ村にあると言われます。
    その江ノ村には『長法寺』という無宗派の寺があるのですが、家老『一条康政』によって開基されています。その号が『宗覚』、一条の家老であった事、兼定に意見して失脚する事、また時代的にも同時代である事から土居近江守忠家と同一人物ではないかと疑問を抱かざるを得ません。


平成25年9月27日(金)清良記を紐解く会・座長  松本敏幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-05 08:00 | 郷土史
【テキストでは『第四回』としていますが、三間史談会では第三回とされており、ここでは『巻さん』としておきます。ところでその前の回『巻二』のテキストは作っていませんでした。テキストはそれを書いた人の主観で書かれています。またテキストだけ読んで清良記を読まない人が多かったのも問題です。本当はテキストは作らないつもりでしたので、内容は簡単にし、清良記が読みたくなるように作ってあります。】


□  清良記を紐解く会・第四回  □


    第四回は巻の三を紐解きます。巻の三は土居志摩守清晴の討死と西園寺真光卿の降伏を知った土居の家副清貞が、嫡子を三嶋神社神主修理太夫通信に預け、大森城を出て石城に籠城する土居清宗入道宗雲の所へ駆け付ける所から始まります。
    ここで特筆するべき事は、宇和郡の旗頭西園寺真光卿が豊後大友に降伏したにも関わらず、なぜ孤軍奮闘し降伏しなかったのか?そしてなぜ一族自害という道を選択したのか?という理由です。実は、その理由は巻の二の最後に書いてあります。

    『御諚の如く某等、数年武士の真似を致し、旗頭真光の御前にても人に知られ申す事、単にお陰に御座候。今更の御恩を忘れ、何方へ落ち行き申し候とも、千年万年も永らえ申すまじ。譬え永らえ候とも、大将を捨てて逃げたり等と、万年迄も悪名唐土の盗石が如く、さてまた久しく永らえて、奇怪不思議と浦島等がように候を人の申し伝えて尚悪名現れ申すべく候。侍は名こそ惜しまれ申し候え。三界無安と申し候えば、何国も火宅にて御座候わん。槿花一日の栄、ただこの時にありとて、落ちんと言う者一人もなかりけり。』

    つまり土居家は昔より名誉を重んじると共に、主君への忠節を非常に重んじており、逃げたり降伏したりして、これ迄と違う新しい主君へ仕える事を非常に恥とした事が分かります。そして、ここで述べておきたいのは、土居清良が天正十五年に大森城を下城して後、新しい領主からリーダーとして用いられようとしながら悉く断ったという理由もまたそれと同じであったであろうという事です。
    巻の三の最後は9月28日に一族の自害と土居清晴の三男清良と清貞の娘お松を土佐の幡多へ落とす案を練り、能寿寺の住職鉄首座を石城へ呼んで後の弔いを頼みます。そして脱出は29日の夜に決行。脱出は70人以上の大掛かりな物だったと書かれています。
    そして遂に自害の時…それは10月5日の朝の出来事でした。このように見てみれば清宗始め、息子11人、孫23人、郎党49人、女官38人、合わせ122人の自害は一族が滅びる為ではなく、清良をして土居家を再興させる為の名誉の死であった事が分かります。以上


平成25年8月25日(日)『清良記を紐解く会』座長、松本敏幸

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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-04 06:00 | 郷土史
【テキストでは『第二回』としていますが、三間史談会の記録では第一回となっています。どちらでも良いような物ですが、ここでは『巻いち』としておきます。このようなズレというものは、今も昔も少なからずできて来るものだと思います。さて、しかし『巻一』の扱いは大事です。校訂本清良記には『まえがき』がいくつもありますが、では清良記自体にはそれがあるのか?私は『巻一』が清良記のまえがき部分にあたると位置付けています。そして、そこには清良記を著した意味と動機が明確に記されており、清良記の性格を理解する上で非常に重要な内容である事に気が付いたのです。松浦郁郎先生からも『よく発見してくれた!』と大変に喜んでいただきました。】


□  清良記を紐解く会  第二回

*  はじめに  *
    今回からいよいよ清良記の読み合わせに入ります。清良記に関する資料は数々ありますが、清良記そのものを知らなくてはなりませんので、清良記松浦郁郎校訂版をテキストに用い清良記についての知識を深めたいと思います。
    今回は巻1ー1『清良根元先祖の事』です。この部分は土居水也が著した清良記の前書き部分に当たります。ここを良く理解する事で清良記全体を理解できるようになります。

*  鈴木三郎重家  *
    清良記は、土居家の根元先祖は、紀州の生まれで源義経に仕えてた鈴木三郎重家だと紹介しています。しかも、鈴木三郎重家が伊予国主河野四郎通信と従兄弟であった事になっています。

*  河野四郎通信  *
    鈴木三郎重家から嫡子千代松を預かった伊予国主河野四郎通信は、千代松が利発なのをたいそう気に入り、河野家の後継者にしようとして問題を起こしています。結果、通信は千代松に娘を娶らせて三間郷を所領させる事にします。

*  初代土居清行  *
    千代松は元服し土居清行と名乗ります。由来は先祖が紀州国牟婁郡土居の出身であった事によります。清良記巻30ー10には、初代清行が奈良山等妙寺に金剛劍を寄進したという記事も登場。

*  土居備中守清時  *
    土居家中興の祖と紹介されている七代土居備中守清時は、楠木多聞兵衛正成の弟子であり秘密の軍法を学んだとされています。

*  得能三郎能行・得能弾正忠能宗  *
    紀州に残した二人の弟が清行を頼って伊予に来ると、母方の名字を取り得能三郎能行と名乗ったと言います。また七代目が絶えた所、土居備中守清時の弟が得能の家継となり、得能弾正忠能宗と名乗ります。得能家は後に家名を変え今城家となります。

*  土居志摩守清晴  *
    清良の祖父土居伊豆守清宗の武功は大きく天皇に覚えいただく所となり、宇和郡の領主西園寺卿の推薦によって清良の父親に当たる三男清晴が征夷大将軍足利義輝公に仕えて志摩守を名乗ったと言います。

*  鈴木孫市  *
    鈴木孫市は雑賀衆の惣領です。鈴木孫市もまた鈴木三郎重家の子孫になる為、三間の土居家に鈴木氏の根元を尋ねる文書を寄こしたとあります。なかなか納得しない鈴木孫市に土居家十代に当たる重宗が歌を詠んで書き送ると、どう思ったかそれ以降尋ねては来なかったようです。

    『水上の濁らば末の川ススキ
        清き流れにいつか澄むべき』

    鈴木三郎重家は、伊予守であった源義経の命で伊吹八幡宮に双樹のイブキを植えた事でも名前が知られています。伊予国に残す子孫がいたとしても不思議ではないかもしれません…。

*  清良記を著した動機  *
    土居水也は清良記を著した動機について、次のように述べて巻1ー1『清良根元先祖の事』を締め括っています。

    『ああ土居家代々の武名を挙げて数ぞうべからず。されども讃える者、そしる者、ともに不賎の例えあり。真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰れにか見せん。梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。しかはあれど遼東の亥にやありなまし。』

    水也が清良記を著した動機を伺うと、土居清良公を中心に土居の侍の活躍を世間に紹介したかったという事が明らかに分かります。故に、清良記は、歴史的事実を書き連ねただけの歴史の教科書ではなく、河野家など他家の活躍について紹介する事も目的とはしていません。紐解く会では、歴史的根拠を尋ねながらも、清良記がどのように土居の侍を紹介しているのかについて紐解きたいと思います。


平成25年6月28日(金)松本  敏幸


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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-03 07:00 | 郷土史
【どのようにして清良記の勉強を進めるのかを発表。三間の郷土史の先生方に一同に会していただき、三間史談会は新しい歩みを始めました。】

第一回『清良記』を紐解く会

 ◇挨拶◇
    本日は雨の中お集まりいただき誠にありがとうございます。本会を始めるに前に一言挨拶申し上げます。
    本会は三間史談会の本年度事業ですが、三間史談会は三間町誌の刊行に合わせて発足し、二年後の平成27年に二十周年を迎えます。また去る3月23日にテレビ愛媛の番組で『大森城と清良記』が大々的に取り上げられる事があり、『清良記』を学ぶなら今が一番適切と考えました。
    本会は毎月一回、二年間続ける事を目標に行います。三間の宝物『清良記』を、一人でも多くの人と一緒に学びたいと思いますので何卒宜しくお願いします。

◇清良記概観◇
    室町時代の天文十五(1546)年から江戸時代の寛永六(1629)年までの土居清良の八十四年の生涯を主に、戦国期の土居一族の活躍が収められています。
    著者は土居水也。土居一族で三嶋神社の神主をしていました。伊達文化保存会蔵の桜田家所蔵記録によれば、承応二(1653)年に『清良記』を書き上げ、翌三年に亡くなられています。

◇テキスト◇
    本会のテキストは松浦郁郎氏校訂の『清良記』です。江戸時代に書き上げられた『清良記』を、私達が読める本にして下さった松浦郁郎氏の苦労と功績は大きく、このテキストもまた三間の宝物と言えます。

◇進め方◇
    多くの歴史研究家は「清良記は軍記物語であり史実とは考えにくい」と評価していますが、本会は史実か否かを批判する事が目的ではなく、『清良記』が何を語っているかを紐解く事を目的とします。
    挨拶の後、項目毎に音読。参加者に疑問・質問・意見をいただいた後、内容の解説を行ないます。解説できなかった内容については次に回します。テキストの購入を勧めます。順に進めて行くので予習していただけると有難いです。以上



                平成25年5月28日(火)『清良記』を紐解く会・座長(松本 敏幸)













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by kiyoyoshinoiori | 2015-04-02 21:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん