皇紀2678年
平成30年8月25日(土)
愛媛県宇和島市三間町宮野下
三間公民館第2研修室
三間公民館主催 郷土史学級『清良記を繙く』第3回目


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知られざる歴史の裏側
と言いましょうか、
既に知られた事
の中にも
一筋の光を当てると
また違った景色が
見えてくるものです。

中國の毛利と伊予の河野、また村上水軍
との切っても切れない関係を
信長、秀吉は調略の末
切り崩します。
調略には成功も失敗もあるでしょう
しかし様々に行われる
調略は戦さの裏の合戦と言えます。

先ず毛利元就には三人の子がいました。
有名な三本の矢
長男は隆元、
次男は母方を取り吉川元春、
そして三男は水軍大将小早川隆景。
隆元は幼少期、大内氏に人質に出されますが
高い教養を得て知将に成長
大内義隆の養女を妻とします。
但し早生で息子輝元に代が移り
それを支えた両川というのが、
叔父、吉川元春と小早川隆景でした。

そして毛利家の家臣団の雄に
宍戸隆家がおりますが、
隆家の妻は毛利元就の娘。そして
隆家の娘達は毛利輝元、吉川元長、村上通康、
河野通宣に嫁ぎます。

河野通宣は伊予河野氏の三十八代。しかし
子がなく村上通康の子を養子とします。
それが河野氏最期の当主となる
三十九代河野通直です。
その母は宍戸隆家の娘。
このように毛利、宍戸、河野、村上は
切っても切れない同族関係だったのでした。

【清良記】に描かれた時代
毛利氏の当主は輝元、河野氏は通直
この二人は伯父と甥の関係となります。

信長、秀吉が伊予の三島(さんとう)水軍の雄
来島水軍を調略したのは有名だと思いますが、
最近発見されて注目を集める石谷文書では
明智光秀は土佐の長宗我部元親を調略する担当
であったようです。
そして【清良記】には楠長庵が宇和郡の旗頭
西園寺公広を調略していた記事が出て来ます。

天正七年正月に楠長庵は宇和西園寺に毛利との
手切れを求めます。
信長に敵対する毛利への加勢をやめて
西国を治めるのを助けよと言うのです。
そして天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと
ありますが、
毛利は土佐の長宗我部を宇和へ攻め入らせない
後盾でもあったのです。

その為、西園寺十五将に数えられた内、国境の五将、
河原渕、定延、西の川、魚成、北之川が土佐方へ寝返ります。
その流れで天正八年冬に起きるのが城川の三滝合戦、
そして天正九年夏に三間で起きる岡本合戦です。

岡本合戦では誰も加勢がなく伊予方の領主まで
土佐に寝返った中、三間の土居清良がたった一将で
長宗我部軍を打破るという勝利を収めます。
もし此の時、三間の土居が負けていれば、
其の後の歴史も大きく変わっていたでしょう。
信長は天正九年夏から三好笑岩を立て、
阿波讃岐から長宗我部攻めを始めますが、
此の信長の動きによって宇和郡は元親に下らずに
済んだのです。

ところが歴史は大どんでん返し!
天正十年六月二日、本能寺の変が起こり
三好は四国から畿内へ逃走、
長宗我部は一時機運を取り戻しますが、
結局は秀吉によって四国征伐が為されます。

この本能寺の変で【清良記】には大変ユニークな
記事があります。
通説では、秀吉は信長の死を隠したまま毛利と和睦して
畿内へ帰る『中国大返し』をしたと言われます。
しかし【清良記】では、秀吉は信長の死を
毛利に伝え、仇打ちをする為に停戦を申し込んだ
と記述しているのです。
毛利は評議の結果、秀吉に恩を売り、後々の和睦へ
話を繋げて行く事ができたのでした。

これは何が正しい、何が間違いという話ではありません。
歴史の事実など結局誰にも分からないのです。
しかし【清良記】を知る事は、当時の人が認識している所を知る事ができる。
そのような意味で尊いのだと思います。

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# by kiyoyoshinoiori | 2018-09-03 22:06


    
第三回『清良記』・後半


 元亀三年正月、清良公が一条尊家と和議を結んだ事で三間に平和な一時が訪れます。清良公には嫡子太郎重清が誕生。翌年の天正元年には先祖の供養をする為、高野山、熊野三山、伊勢神宮に参詣しますが、戦国時代の最中にあって本当に驚くべき記事ではないかと思います。しかし、その十一月に元親は遂に土佐から尊家を追い出して、いよいよ清良公と元親との決戦が始まろとしていました。

 第三回は、このまま清良公の隠棲までを語りますが、全てを語り切れない事をご了承下さい。そして、またいつか一緒に勉強会できますように。



    
高野山参詣(巻十七)


 天正元年は、永禄三年に石城が陥落して十三年が過ぎた年、清良公は先祖の菩提を弔う為に高野山に参詣する許しをもらいます。船の案内は来島飛騨守。来島氏は、来島城主村上通康の四男通総が秀吉から重用されて祖となり、後に河野氏、村上氏、毛利氏に反旗を翻す事になります。

 出立は三月五日、来島の瀬戸より船を出し、道中は海賊共を打ち払いながら到着したのは「天保の津」という所。ここは現在の三重県津市と考えられます。戦国時代は信長の子信包の領地でしたが、慶長四年から十三年の間は富田信高が領地しています。

 清良公が高野山で宿泊した宿坊は小田原上蔵院。上蔵院は、河野氏が伊予国人の宿坊として定めており、清良公は一族と討死した被官の為に一万本、又、病死した者の為に二千本の卒塔婆を供養し、僧房に布施をして帰路に就いたとあります。

その道中に熊野参詣、伊勢参宮を果たし、大阪には行きも帰りも逗留し、大阪の出立は六月二十日、海上日和順風良く、来島へは同二十二日の帰着となりますが、実に三ヶ月を要する旅でありました。



    
清良の撫民(巻十八)


 天正元年は、また大旱魃と長雨を繰り返す年でもありました。四月二日から五月朔日まで雨降らず、二日から七月六日までは雨降り続くとあり、清良公が大雨の中で帰郷した事も分かります。そのような中で起きるのが飢饉です。清良公は宗案を呼び相談した上で十二月に領民に米を配りますが、その米は籠城する時に、兵糧米として備蓄しておかなければならない筈の米でした。しかし、清良公はこう言います。

「我が領民は、それぞれの家職上手にして、勇なる事は武士にも劣らず。彼ら物前にて勇み進んで敵の備えを打ち破る時は、金をして北斗を誘う如くなり。民を養う事は古の聖君、堯舜もなおやめりと言えり。懸る時を於いて民を救わずば領主たらず」と。



    
長宗我部元親との合戦


 巻十八に拠れば、元親勢が伊予に手を下した初めは、天正二年十月まで続いた渡川合戦にて、元親に従わなかった土佐者が、元親の機嫌を取る為に河原渕口に侵入したのを始まりに、十一月二日には元親の侍大将福富隼人が河後森城を巻き詰めます。

 困ったのは河原渕教忠です。尊家の時は戦わずに城を明け渡していた教忠も、此度は西園寺に後詰を願い、清良公には加勢を頼みますが、面白くないのは清良公です。

「旗頭の下知なくては、自分より計らいがたく候」と、西園寺から言われんと行かんでと返します。

そして十一月十一日が初合戦。敵大将は福富隼人と国吉刑部でした。巻十九からは山内外記が土佐の大将として登場します。山内外記は一条氏の旧臣の中では非常に評価の高い武将ですが、清良公を破る事はできず、三間は土居七口の鑓と言われます。

しかし、戦は武略だけが全てではなく、宇和郡は調略という形での切り崩しが進められて行きます。その内通者となって行くのが芝美作と一覚ですが、巻二十には「天正八年に芝美作が公広卿を欺きて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、此の五カ所元親に取られける」とあり、その最中に起きるのが有名な【岡本合戦】という事になります。



   
輝元への加勢と信長からの調略

岡本合戦は、天正九年五月二十三日の夜に起きる戦ですが、突然起きた合戦ではありません。先ず巻二十一には、天正七年正月に西園寺公広が信長の執事楠長庵に調略されており、毛利輝元との手切れを唆されています。そして同八年に手切れとなりますが、長宗我部に宇和郡を侵略させない後盾になってくれていたのも毛利輝元だったのです。その流れで天正八年の三滝合戦、天正九年の岡本合戦が起きたと見れば、直後に起こる信長の四国攻めも理解ができるのです。一度は元親に四国を好きにさせた筈を完全に反古にして三好松岸に阿讃を与えます。

ところが歴史はどんでん返し。信じられない謀反が起こりますが、明智光秀が率いた本能寺の変です。信長は自刃し、三好は畿内に逃げて形勢は元親有利。ところが光秀は討ち取られ、秀吉によって四国征伐が成されて行くのでした。


   下城(巻三十)

時は天正十五年十月下旬。清良公は「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔も懸る事のありけん、その名を「隠れ宿」という所に、細々と浅ましく、庵引き結ばせて入られける。嘆くべき道ならぬとは言いながら、昨日まではさも勇ましかり武士、旗下とは言いながら、六百余騎の大将、手前の士ばかりも二百余騎に守護せられし人の、いつしか今日は引き替えて、主従二十人ばかりの外は、出入りの事も無用なりとあるは、哀れとも言うばかりなり。と『清良記』は隠棲した清良公の悲しげな姿を描きます。

 隠棲した後の清良公は、戸田政信や藤堂高虎などからの「丸串城代に取り立てたい」という申し出は断わって、新領主に歯向かい謀反を起こそうとする古い仲間とも組みせず、ひたすら気を静めるように説得役を買って行きますが、それは賢く振る舞って殺されたくなかったからではありません。

 清良公は「古代の味方を狭めて、当代の強き方へ付き、褒美の米を受けては人の志す所なく恥ずかし」と言い、また「知行を取りて城を守るべきは政信の被官なり、知行とらで守るべきは門番に似たり」とて、遂に受けを申されざりと苦しい胸の内も漏らしていますが、このような清良公の内心は、下城する際に詠んだ歌の中に集約されています。

つまり、清良公は石城で親兄弟と一緒に死にたかったのですが、それが許されず、今日まで土居家の当代を勤めて来ました。故に、命を顧みぬ程の気概を持って、義を貫き通す生き方ができたのですが、遂にそれに背く時が来たという事なのです。(松本)


・富田信高(とみたのぶたか)

      生年不詳。寛永十年二月二十九日没

      秀吉の家臣。慶長四年に津藩主

      慶長十三年九月に宇和島藩主

・藤堂高虎(とうどうたかとら)

      弘治二年一月六日生。寛永七年十月

      五日没。秀吉の家臣。天正十九年に

      宇和島藩主。慶長十三年に津藩主

・河原渕教忠(かわらぶちのりただ)

      生没年不詳。河後森城主

土佐一条氏の東小路家から伊予の

河原渕家に養子に入る。蕨生に蟄居

・西園寺公広(さいおんじきんひろ)

      天文六年生。天正十五年十二月

      十一日没。来応寺の僧だったが

      還俗し宇和郡旗頭となる。

・河野通直(こうのみちなお)三十九代

      永禄七年生。天正十五年

      父村上通康、母宍戸隆家の。

      毛利輝元の甥に当たる。

・毛利輝元(もうりてるもと)

      天文二十二年生。寛永二年没

      祖父毛利元就。父毛利隆元

      妻宍戸隆家の娘。通直の伯父

・織田信長(おだのぶなが)清良記は将軍という

      天文三年生。天正十年六月二日没

      尾張国古渡城主。足利義昭を担ぐも

      元亀四年には義昭を畿内から追放。

・楠 長庵(くすのきちょうあん)楠木正虎

      永正十七年生。文禄五年一月没

      楠木正成の子孫と自称している。

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・三好松岸(みよししょうがん)父三好長秀

      生没年不詳。阿波岩倉城主

      別名に笑岩、咲岩、康長、康慶

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・明智光秀(あけちみつひで)惟任日向守光秀

      享禄元年生。天正十年六月十三日没

      織田信長の重臣。本能寺の変首謀者

      長宗我部元親を調略したとされる。

・豊臣秀吉(とよとみひでよし)戦国一の出世頭

      木下→羽柴→藤原→豊臣。関白→太閤

天文六年生。慶長三年八月十八日没

      天正五年中国攻め。十三年四国征伐

・戸田政信(とだまさのぶ)勝隆、氏繁、氏知

      生年不詳。文禄三年十月二十三日没

      豊臣秀吉に仕えた家臣。古参の直臣

      天正十五年伊予に入部。圧制を敷く






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# by kiyoyoshinoiori | 2018-08-11 22:06 | 公民館


    
第二回『清良記』・前半

 清良記の前半で絶対に外せない話は「石城合戦」です。ここに戦国武将としての土居清良公の原点があると言って過言ではありません。なぜ石城合戦で土居氏は自刃の道を選んだか。自刃にはどのような意味があったか。その時に清良公に託された使命と心の内を知れば、清良記の謎、その読み解き方が自ずと理解できるようになります。

 又、前半で欠かせないのが土佐の一条尊家公との関係です。清良公は土佐落ちして、一旦は一条公に仕えながら三間大森城に帰城を果たしますが、謀叛の嫌疑を掛けられて戦に突入。しかし、長宗我部氏の台頭が目に余るようになると、宇和の西園寺氏と土佐の一条氏に和議を結ばせて行きます。



    
石城合戦(巻三)

 石城合戦では土居氏の一族郎党上臈下婢に到るまで百二十二人が自刃します。その内訳は末座より腹を切りはじめますが、大将宗雲、嫡子清貞、二男雲影、四郎清永、五郎清象、六郎清由、七郎宗明、八郎宗真、九朗宗信、宗光、清延、為友、孫二十三人、郎党四十九人、上臈下婢三十八人でした。


   ・辞世 大将伊豆守清宗入道宗雲大居士

   柱石武門威気新 巻旗今去宝楼場

   安禅只豈借山水 除却気情火自涼


   ・辞世 嫡子備中守清貞

   挙旗法戦城 陣脚幾影名

   智劔出来看 心頭日日明


   ・辞世 二男真吉右衛門入道雲影

   長守鉄城定弱強 功成名遂別無望

   南軍左祖非吾事 覚了法身此戦場


 そもそも石城には天文十五年三月朔日、宇和旗頭西園寺公の懇願があって、立間、喜左方、立間尻、三百貫を領地したものでしたが、豊後大友の大寄せが始まると、永禄三年九月十一日に西園寺公が降伏してしまいます。土居氏がなぜ降伏せず自刃したかについては、巻二最後にある宗雲の言葉、また巻三の五章「石城崩れの事」にある妙栄の言葉に理由を探す事ができます。「侍は名こそ惜しまれ申し候え」という宗雲、「すべて心静かに自害して、首を敵にとられざるを高名にせよ」という妙栄の言葉からは、どこまでも名誉を重んじる土居氏の気魄を伺う事ができるでしょう。

 そして、妙栄は十五歳の清良公を土佐に落として家の再興を託す提案をしますが、聞き分けないのが清良公。共に死にたいという清良公を大いに叱り、九月二十九日夜から三十日暁に掛けて、四人の家老と姉お松、小姓衆を合わせ七十余人での土佐落ちを決行させて行くのでした。



   
土佐落ち(巻四)


 巻四の一章は「清良、土佐へ落ちられる事」ですが、すぐに土佐に出立できない清良公の姿が描かれています。そして、一族自刃の報を聞くと意を決し、土佐に向かいます。自刃は永禄三年十月五日朝の事だったといいます。

 土佐で頼りとするのは土佐一条氏初代房家の時から家老を勤める土居宗三=土居近江守家忠です。家忠は房家の弟でしたが、宇和西園寺と土佐一条の和議があった際に土居の娘お初を娶り、土居の武功にあやかって土居姓を名乗っていました。

 清良公はいくら祖父母の考えであったとしても、もし家忠に受け入れてもらえなければ、刺し違えて死ぬ覚悟をしていましたが、その心配もなく大変な歓迎を受ける事になります。そして、一条尊家から高島に百貫の領地を与えられ、高島岡の前に居住したとありますが、高島は現在の竹島の事で、当時は事情があって領主不在の地となり家忠の預かり分となっていました。



   
大森帰城(巻六)


 尊家に忠義が認められた清良公は永禄五年七月十二日に晴れて三間大森城への帰城を果たします。時に清良公十七歳、皆が喜びの余りに転げ回る程、上も下もなく飲食を持ち寄っての宴会となります。

 翌十三日は旧領主達との接見。十四日には魂祭りを準備。それは「生ける者どもを一飯にても助けん」という清良公の願いからでした。それに一花、法田両和尚も賛同し、十五日には大森城にて三間の全ての領民に赤飯が振舞われたのでした。



   
親民艦月集(巻七)


度々の飢饉に疲弊する領民の姿を見て、清良公が力を入れた一つが農業でした。巻七は「親民艦月集」と呼ばれる日本最古の農書として有名ですが、ただ農業技術だけを求めた清良公ではありません。先ず「上農」という言葉があり、「五戒五常」を行う事を第一とした国作りをして行かれました。

第一 神祇を祭り公儀を立て法に背かず

第二 五穀を時節相応に仕付け、小作として菜園

を能く仕、妻子に菜園の取り様を教え

第三 大作とて木竹を植え実を取り家の修理し

第四 野宝とて牛馬を持ち犬猫鶏をやしなひ、猫

   は鼠をおさへ、犬は火事盗人の用心、鹿兎

をして作を荒らさしめざるため、鳥は時を

知るため

 第五 下人小供等を扶持すべき心おこたらずし

    て賄をよくし

 第六 公事喧嘩をせず

 第七 見物、色好みをせず

 第八 居所、衣食を擅にせず

 第九 氏・系図・達をいはず

 第十 猟漁りをせず


 この末五つのせぬ事をせずして、上の五つに精を強く入れ、諸事倹約を本として衆寡孤独を憐れみ、夫婦納得仕るを上農の大筋目の心持に致し候。されば上農は居所を専らにする事武家にて屈強の城廓を構えられるが如し、上分の居所は背後に山を負って、前には田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畠を押え、云々と、これらは現代の私達の生活信条にも通じており、三間の気風にしてはと思えるような内容があります。



   
清良の謀反(巻八)


 
永禄七年正月二十日、清良公の心配事は長宗我部の台頭でした。このまま一条が長宗我部に下るような事が起これば、人質を取られている清良公もまた長宗我部に下らなければならなくなります。清良公は忍びに人質の奪還を命じますが、七月六日の夜半過ぎにお初とお松を忠家の屋敷から連れ出す事に成功。七日の暮れには輿で三間まで帰り三嶋神社に匿われますが、尊家の咎めたはなかったといいます。この出来事の前の月、尊家は諫言をした家忠を誅殺しており、何かしら負い目なり思うところなりがあったからではないかと思います。

 そして、十月十二から十四日に掛けて起きた一条の番手衆との諍いが発端となり、十二月には一条軍との合戦が始まります。これが清良公初めての軍法でした。



   
鉄砲鍛冶(巻九)


 合戦となり清良が力を入れたのが鉄砲鍛冶です。永禄八年に忍び丹波と丹後の才覚で、江州甲賀薬師堂玄蕃吉久という鉄砲鍛冶の一団を十三人、三間に招き入れ、昼夜を問わず鉄砲の生産と改良を行っていきます。石城合戦では水が勝敗を握ったとも言われますが、実際には鉄砲の数が決定的な敗因だったのです。



   
一条尊家との和睦(巻十五)


 巻十三を読むと、尊家は長宗我部への疑いを持ちながら、先ずは伊予の三間を従えようと考えていた事が分かりますが、巻十五では贈り物でも張り合う清良公と尊家の関係に驚きます。そして、長宗我部の侍江村備後が土居を調略し、共に手を組んで尊家を亡ぼすなら宇和の旗頭に取り立てようと話を持ち掛けてきた時、清良公は調略に乗ると見せかけて元親への密書を奪い取り、尊家に渡して元親の陰謀を明らかにします。清良公に感謝と信頼の思いしかなくなった尊家は、全ての人質を大森城に返すのでした。                (松本)



   
人物の紹介


・土居清宗(どいきよむね)石城で自刃

      土居家十一代。清良の祖父

      入道し宗雲と名乗る。石城の城主

      妻は河野通高の孫で通頼の娘妙栄


・土居清貞(どいきよさだ)石城で自刃

      土居家十二代。清宗の嫡男

      大森城主。娘にお初、お松がいる

      末の嫡男良元が後の真吉新左衛門


・真吉清影(さねよしきよかげ)石城で自刃

      入道し雲影と名乗る。嫡男影頼も自刃

      土居清宗の次男。真吉家の家嗣だった


・土居宗三(どいそうさん)土居近江守忠家

      土佐一条初代房家の弟で筆頭家老

      土居清貞の娘お初が後妻に嫁ぐ

      前妻との間に嫡男土居治部がいる


・一条尊家(いちじょうたかいえ)土佐一条四代

      天文十二年生で清良の三つ年上

      天正十三年七月一日没(四十三)

      母大友義艦の娘、後妻大友義鎮の次女


・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)十五代

      天文八年生で清良の七つ年上

      慶長四年五月十九日没(六一)




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# by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:57 | 公民館


清良記を紐解く会より August 2018


三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸  


 平成三十年七月二十一日(土)公民館事業【清良記を繙く】第二回が行われました。参加者は十八名。今回の勉強会が特別だったのは、西日本豪雨で被災した人や災害支援活動に従事する人がいる中での開催となった事です。「このような気の滅入る時だからこそ娯楽を大切にしよう」と、皆が納得して下さり、今回の勉強会は犠牲者に黙祷を捧げるところから始まりました。第二回の内容は、『清良記』の前半(巻一~十五)。「石城合戦」「土佐落ち」「大森帰城」「親民艦月集」「清良の謀反」「鉄砲鍛冶」「一条氏との和睦」等でしたが、永禄三年十月五日に土佐落ちした清良公が永禄五年七月十二日に三間の大森城に帰城を果たした時、先ず清良公が為したのは戦没者の供養です。しかし、それは大森城に赤飯を準備して「生ける者を一飯にても助けん」という思いがあったからでした。



 このように何か大きな災害があった時、一番疲弊しているのは家族を失った人達です。故に昔ながらの祭は慰霊や供養の目的があって、そのような祭を通して残された人達の心を慰労する事もできたのですが、今回の豪雨災害では和霊大祭を始め多くの祭が中止を余儀なくされました。それは、それだけ被害が甚大だったからではありますが、現代の祭が慰霊や供養という目的よりも遊びやイベント性を重視する向きが肥大していたからではないかと思うのです。それでも和霊神社では神事だけの復興祈願祭が行われましたが、それを見守った市民の声には「本当に重要な祭だった」「本物の和霊大祭を見た思いがした」等の声が聞かれました。今後の郷土の復興はまさに、このような祭から始まるのだと思ったような次第です。




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# by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:49 | 郷土史

□清良記を紐解く会より July 2018
 

         
 

 平成三十年度、遂に『清良記』の勉強会が三間公民館事業となりました。これは平成二十五年から五年間、三間史談会が取り組んで来た『清良記』を紐解く事業が一つの形として実を結んだ成果だと思います。

 公民館事業では『清良記を繙く』と題する四回シリーズの勉強会になっています。しかし、『清良記』の内容は膨大すぎて、その中でどの部分を紹介して行けば良いかという事が求められる所です。

 第一回目は六月二十三日(土)に第二研修室にて十九人の参加が見られました。内容は「清良記概観」「清良記の目的」「土居氏根源先祖」「登場人物」等でしたが、三間土居旧本の解説も行って大変な盛り上がりとなりました。

 次回は七月二十一日(土)ですが、「清良記前半」について解説をします。ここで外せないのはなんといっても「石城合戦」です。ここに戦国武将たる土居清良公の原点があると言っても過言ではありません。なぜ石城で土居氏は降伏せず自刃の道を選んだのか。自刃にどんな意味があったのか。その時の清良公の使命と心の内について解説したいと思います。そして、一条氏に仕える事になった清良公が大森帰城を果たして三間で真っ先に行ったのが農業と鉄砲改良ですが、それらが合戦に強い清良公の特有のイメージを作っており特筆したいと思います。又、前半の転機は長宗我部氏の台頭ですが、一条公に仕えながらその被官を調略して行く長宗我部氏の手先が土居に及んだ時、逆手に取って長宗我部氏の謀反を暴き、西園寺公と一条公の和議に結び付けた事は見過ごせない事件だと思います。さて何が飛び出しますか!七月も『清良記を繙く』へのご参加をよろしくお願い申し上げます。



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# by kiyoyoshinoiori | 2018-06-27 15:28 | 元親記

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん