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【三間公民館事業・郷土史学級】

今年度も前年度に引き続き『清良記を繙く』をさせていただく事となりました。前回は全体の概要について解説をしましたが今回は有名な合戦をピックアップして解説致します。

第1回目の今日は巻11、巻19、巻23の合戦の現地研修で土居中の清良神社、迫目の妙覚寺、土居垣内の岡本城で三間の地形を視察しました。

『清良記を繙く』は後3回。毎月第4土曜日の午後1時半から行います。7月は巻11、8月は巻19、9月は巻23となりますので関心ある方は是非三間公民館までお問い合わせ下さい。(^_−)−☆



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Photo:令和元年6月22日(土)三間町土居中『清良神社』にて



いしょう

# by kiyoyoshinoiori | 2019-06-22 17:08 | 郷土史
西南四国歴史文化論叢『よど』第二十号掲載論稿

『土佐史料に見る岡本合戦』

松 本 敏 幸    

はじめに

 よど第十七号、第十九号では『岡本合戦の年数問題』について筆を執りましたが、今回は『元親記』『長元物語』『土佐軍記』『土佐物語』に目を向けます。
 実は『元親記』『長元物語』には岡本合戦の年数が記述されていませんが、『元親記』は簡潔で『清良記』と内容に矛盾がないのが特徴です。内容に矛盾が見えてくるのは『長元物語』からですが、関連史料を一つ書きにして並べており、『土佐軍記』はそれを一つの物語にまとめているのが特徴です。そして、この時に初めて岡本合戦の「天正七年説」が登場するのですが、直後に発表された『土佐物語』では『清良記』と同じ「天正九年説」を採用しています。つまり、土佐には岡本合戦の年数に関する史料がなかった事が分かるのです。
そこで、今回は、なぜ「七年」という年数が登場するに至ったか、土佐史料を成立した順番に考察してみたいと思います。

第一章 元親記

『元親記』は孫右衛門正重ともいう高島重漸によって寛文八年(一六三一)に発表されていますが、この年は長宗我部元親公の三十三回忌に当たりました。

・史料①『久武兄内蔵助討死之事并蔵助有馬湯治事去程ニ此蔵助ト云者ハ家老頭武篇才覺無比類者ニシテ豫州中郡ヨリ南伊與分軍代ヲ申付ラレ則豫州川原淵城主一學西川四郎右衛門菅田登川魚成此城主共蔵助旗下ヘ降参ス斯ケル處ニ南伊與美間郡ノ内城數五ツアリ其内岡本ト云城手合スル者アツテ忍入テ取蔵助此城ヘ人數ヲ可差籠トテ掛助候處ニ残城ヨリ取出合戦ス爰ニテ蔵助討死仕ル其後前蔵助跡ヲ弟彦七ニ云付ラレ則任蔵助兄蔵助先年有馬湯治ニ上リ三七日入湯ノ折節太閤イマタ筑前守ト申シ時御湯治ナサレ蔵助恩相湯入申扨下國之後元親卿ヘ申様今度不思議之仕合ニテ羽柴筑前殿相湯ニ入申候此人ヲ能能見申ニ只人ニテ無御座候ト存候必以来ハ天下ノ主ニモ成給ヘキ人ト見申候只今迄信長卿ヘノ御奏ハ明智日向守殿一篇ニ被成候儀是非是ヨリ御分別ナサレ筑前殿ヘモ被仰通候テ可然候ハント申其後ヨリ其補ヲモ仕給シナリ此蔵助ト云者ハ萬事案深キ者ニテ元親モ恥ラレ候テ残老共ヨリハ挨拶格別ナリシ也』
(国立公文書館所蔵『元親記』より)

このように『元親記』は岡本合戦の内容が簡潔で、優秀な家老頭であった久武内蔵助が討死した程度の情報ですが、『清良記』と共通するのは南予の一部の領主が土佐方に寝返っており、岡本城には内通する者がいたという点。これは非常に重要で、寝返った時期は岡本合戦の年数を考察する重要な鍵と言えます。そして、『元親記』は負け戦の説明をするよりも、後半に続く有馬湯治で久武内蔵助が太閤になる前の羽柴筑前守秀吉に出会ったという話に重点を置いていきます。そして優秀な久武内蔵助に秀吉を褒めちぎらせて『元親記』の「上巻」が終わるのですが、これと同じ並びで印象を同じくする場面がもう一回登場します。それが「中巻」の最後に並ぶ二つの話「與州美間陣之事」と「太閤ヘ降参之事」です。先の話は久武内蔵助の弟が兄の名前を継いで弔い合戦をする話で高森城が舞台の中心となります。そして「太閤ヘ降参之事」で「中巻」が終わるのですが、「下巻」が「太閤ヱ降参以後之事」として編集されている事を考慮すれば、『元親記』は秀吉との出会いを節目に編集されている事が分かります。
ところで『元親記』には一つだけ『清良記』との決定的な違いがあり、それが岡本合戦と三瀧合戦の紹介される順番です。『清良記』では天正八年暮れに三瀧合戦が起きており、翌九年夏に岡本合戦が起こります。ところが『元親記』では三瀧合戦が「中巻」の中程に記述されているのです。三瀧合戦が問題となるのは、実はこの合戦にも久武内蔵助が登場しているからで、もし岡本合戦が三瀧合戦より前に起きていたとすれば、この内蔵助は同名の弟の可能性があり、岡本合戦が三瀧合戦の後であれば内蔵助本人という事になります。『元親記』では三瀧合戦の事を「豫州北川陣之事」と言いますが、どう紹介しているかを見てみれば、内蔵助の名前が登場するのみで、前年の岡本合戦で討死したとも弟が名前を継いだとも書かれていないのです。それに対し弔い合戦とも言われる「與州美間陣之事」には「先年久武兄蔵助不覺取所也」「弔矢ト號シ」「久武二男蔵助」と書かれていますが、もし三瀧合戦が岡本合戦の翌年なのであれば、三瀧合戦こそ内蔵助の討死に言及しなければ不自然というものです。このように『元親記』は、久武内蔵助と太閤秀吉の話で各巻の印象を整えており、岡本合戦と三瀧合戦の年数を記述せずに、その並びを時系列とは逆に紹介した可能性があるのです。

第二章 長元物語

 『長元物語』は立石正賀が萬治二年(一六五九)に発表しました。『元親記』からは二十八年が経っており、元親公の没後六十年という節目でもありました。『長元物語』は題目毎に伝承を寄せ集め、一つ書きにしてまとめる編集方法が特徴となっています。岡本合戦は「伊豫十一郡へ元親公弓箭取出の事」という題目中に四十五ある内の八番目・十三・十四・十五番目が関連記事となっています。又、それに続いて十六・十七・十八・十九番目に三瀧合戦があり、二十から二十四番目に高森合戦が並んでいますが、地元の地理と事情を知らない者が批判する事は困難だろうと思われます。似たような話がいくつもあって、それぞれに違う伝承は見知らぬ他所の出来事であり、多くの混乱や誤解が生じる原因を作ったように思います。

・史料②『伊豫十一郡へ元親公弓箭取出の事(十四番目)一、宇和郡三間の郷に、土居、金山、岡本、深田、高森、この五ヶ所、敵城道の間、一里、二里又は半道なり。その中にて岡本の城忍び取る才覚、久武内蔵介在り、陳立して、敵の存じもよらぬ大山、三日路続きたる谷峯を越え、その間に人馬の食物拵へ、煙のたゝぬ様にとて、五日の用意して、兵糧馬の飼等、小者の腰に付けさせ、竹ノ内虎之助と云ふ武辺巧者、大将にて、一騎当千の侍廿人、小者も撰びて二十人、この城へ忍び寄り、乗入らんとする所を、城中の者聞きつけ出相、散々に切あひ、突あふ。虎之助むこの弥藤次深手を負ふ。その外手負いありといへども、本丸をば乗取る。二ノ丸を敵暫く持ちかゝへ鉄炮合戦。その音を聞き、久武が陳所半道ほど隔たる所より、敵の城深田、高森を跡になして、この両城の中なる道を、諸人一騎懸にかくる。この岡本の城は、敵方の土居と云ふ人の知行くるめの城なれば、土居もこの火の手を上るを見て、岡本の城へかけ来る。土佐衆も、この城より十町計手前の坂にて、馬をのり捨て、息をつかず岡本の城へとはせきたる所を、土居清義土佐衆の来るを見て、鉄炮をふせて持ちかけ放ちければ、久武内蔵介、佐竹太郎兵衛、山内外記、三人の大将爰にて討死す。その雑兵共大勢討たれ、岡本の本丸も明のきけり。敵弥勝にのり、此辺暫く降参仕らざる事。』
(山本大校注『四国資料集』一四七頁より)

 まず『長元物語』で違和感があるのは「敵の存じもよらぬ大山」とは一体どの山なのだろうという事です。それは「三日路続きたる谷峯」とも言われていますが、岡本城の南側は「一の森城」と「二つ森」であり、大山と言えば「鬼ヶ城」を思い浮かべるしかありません。そして忍び取る才覚があるというのに鉄砲の打ち掛け合いが始まり、その音を聞きつけた久武が深田城と高森城の間の道を十町手前で馬を降り馳せ来る所を、やはり音を聞き付けた土居が岡本城へ駆け来たが、久武らの方を鉄砲で待ち伏せ、久武、佐竹、山内という三人の大将を討ち取ったとあります。話の材料は『清良記』を連想させもしますが、骨格があまりに成り立っていない印象が否めません。『長元物語』の六年前に『清良記』が発表されており、作者が『清良記』を意識して適当に話を拝借しようとしたのかもしれないとは思いますが、『元親記』になかった情報が増えており、特に討ち取られた三人の大将の内、山内は『清良記』に登場しておらず根拠が気になります。又、『長元物語』が岡本城を「土居の知行くるめの城」と記述している為、それを鵜呑みした『土佐軍記』や『土佐物語』は辻褄を合わせようと大変な混乱を来しています。 実際の岡本城は中野通政の城で、土居の城になったのは合戦の後です。それを知ってか知らずしてか、『四国資料集』を校注した山本大先生は、それに対する指摘を一切しておられません。
 そしてより大きな問題が十六番目の記事に起こります。それが三瀧合戦で、「久武後の内蔵佐大将にて」と大将久武を「後の内蔵助」として、兄ではなく弟であるように記述した事です。普通は討死した人物が次の記事に登場していれば、並びが逆と気が付く筈ですが、久武内蔵助は弟が同じ名前を受け継いでいました。『長元物語』の作者は『元親記』を読み、岡本合戦の後に来る三瀧合戦に久武内蔵助が討死した情報がない事には気が付いたでしょうが、記事の並びを時系列と考えて「後の」という言葉を追記したのではないでしょうか。    

第三章 土佐軍記

 『土佐軍記』の作者は不明と言われていますが、元禄十三年(一七〇〇)に小畑邦器によって版本されました。『元親記』の発表からは七十年、岡本合戦からは百二十年が経過しており、既に当時を知る者の手による作品でない事は明白ですが、その特徴は『長元物語』で一つ書きされた文書を張り合わせ、一つの物語にした所にあります。それは既に二次的創作と言える物ですが、岡本城へ侵入した人数が倍になる、現地の地理や事情を確認せぬまま話の辻褄を合わるなどして更に混乱が生じます。

・史料③『久武内蔵之介出陣之事 附リ討死天正七年二月、久武内蔵之介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の心労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣物頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひなれば、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和島三間郷に陣をとり、軍評定する、宇和郡土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ト、敵の城一里或は一里半道隔て有、此城責取べし、先岡本の城へしのびて入て討と、久武思案して、竹内虎之介と云功者と談有りて、虎之介は岡本の城へ三日路続きたる大山有、此谷峰を通る、其間けふりのみへぬよううに食を腰に付すべしとて、侍四十人撰み、中間も撰み、四十人都合八十人にて、本丸へ乗入火をかくべし、其けふりをみて惣勢かけ付乗取給へ、此城取らば残る城々大略は降参有べしと云、久武ばかりさけすみなりとて侍四十人撰み、虎之介婿の弥藤次をはしめ、屈強の侍四十人仲間四十人主従八十人大山へ行、敵のおもひもよらぬ山よりしのび入、用心調しき時分なれば、城中のものはやく聞付出合ふせぎたゝかふ、されども本丸をとられ、二の丸へ引取り、虎之介本丸へ火をかけ焼立、鉄炮の音聞ゆ、久武陣所より今道有内の相図の事なれば、是をみて土佐勢深田・高森の城を跡になし、城の中間の細道を一騎かけに通ひ、此岡本城主岡本土佐守高森の城に居りしが、是を聞きておなしくかけ付る、城より十町ほどなる小坂にて土佐衆馬をのり捨、息をもつかず馳走る、土佐清義城より出で、土佐衆馳来る見て鉄炮をふせて打かくる、久武内蔵之介、佐竹太郎兵衛、山内外記、三人の大将討死する、諸勢下々迄で大勢打れて迯帰るに、取て岡本の城を明けて退散り、土佐衆敗軍なり、(以下略)」
(『愛媛県編年史・第五』七三頁より)

 この更に辻褄の合わない『土佐軍記』の岡本合戦が、その後の伊予の郷土史研究に多大な影響を与え『清良記』の運命を翻弄して行く事になるのですが、『宇和旧記』も『予陽河野家譜』も『愛媛面影』も『土佐軍記』の「天正七年説」と三間へ攻め入った土佐勢が「七千余騎」であった話を引用している為、『愛媛県編年史』や『愛媛県史』はその内容を定説として採用して行く事になるのでした。    

第四章 土佐物語

 高知県で重要な郷土史料である筈の『土佐物語』ですが、『愛媛県編年史』や『愛媛県史』はその内容に触れません。岡本合戦の年数問題について、何か不都合な事情があったのではないかという疑問が生じます。
『土佐物語』は宝永五年(一七〇八)吉田孝世によって著されます。『土佐軍記』の発表から僅か八年しか経っていませんが、私が思っていた通りの事が書いてありました。ここでは三瀧合戦と岡本合戦の二つを紹介いたします。

・史料④ 『(二)北の川氏の討死 同じく天正八年(一五八〇)夏、伊予国の北の川左衛門太夫は、訴訟事があって、家臣永山伯耆を岡豊へ派遣した。事の詮議をしているところに、波川玄蕃の謀反が露顕して、行方知れずに落ち失せたという知らせが入り、誰もが大騒ぎした。 北の川左衛門太夫は玄蕃の婿なので、彼も内通し同意しているに違いないという噂が立ち、詮議は後回しにされ、玄蕃の行方、北の川左衛門太夫の反逆の真偽について、取り取り様々に風説が流れた。永山はこれを聞き、主君が玄蕃殿と父子の親しみをしているので、諸人が疑うのだと思い、主君には全く野心のない事を様々に弁明したけれども、確かな証拠はないので、取り上げる人もいなかった。「こんな所に長居してはよくなかろう」永山は取る物も取り敢えず国許へ帰り、事の次第を伝えると、左衛門太夫は大いに驚き、起請文を書き、野心のない事を誓ったので、元親は不審を晴らした。「さては、虚説であったにちがいない。ああ、人の口ほど質が悪いものはない」こうして波川一族は退冶され、北の川氏は難を逃れたところに、日下の里人が一つの文箱を道で拾ったと、岡豊に持ってきた。見ると、波川玄蕃謀反の時に一条内政が同意の署名をした廻し文と、北の川左衛門太夫が波川玄蕃に内通したという要件を伝える書状であった。どうして落ちたのか、きっと、北の川氏が起請文を書いた罰であろうと思われた。 元親は、見終わって下知をした。「身中の虫、腹心の病。もし緩々の処置をすれば、後日の災いは量りしれない」久武親信五千余騎、桑名太郎左衛門三千余騎、幡多郡の人数六千余騎が十二月中旬、土佐を発って、北の川へと押し寄せた。(以下略)』
(中島重勝抄訳『土佐物語』三三七頁より)

・史料⑤ 『(七)久武内蔵助の討死天正九年(一五八一)四月下旬、元親は久武内蔵助親信を呼び出して命じた。「東伊予は存分に従えたが、西伊予には未だ帰属せぬ者が多い。国家草創の功績は武略と智謀にある。汝は二つとも兼ね備えているので、予州の総軍代に任ずる。急ぎ馳せ向かい、伊予平定の功を致せ。万事任せる。指図を仰ぐ必要はない」久武親信は頭を地に付け、畏まって申し上げた。「有り難いお言葉でございます。家の面目、身の誉れ、これに優る事はございません。一命を抛(なげう)ち、無二の忠勤を励みます。ただこの度討死致しましても、弟親直には跡目相続をさせないでください。弟は役に立たず、御家の障りとなるでしょう」後に思い当る事が多く、親信は只の人ではなかったと、皆深く感じ入った。 久武親信は手勢に幡多郡の兵を加え、総勢七千余騎で予州へ出陣した。宇和郡美間の郷に着陣して、軍評定をした。竹ノ内虎之助が進み出て申し述べた。「土居・金山・岡本・高森・深田の各城の間は各々一里ばかりで、常に助け合い、攻めにくいです。岡本城の後ろの大山を回れば三日の行程です。敵は後ろへ回ってくるとは思いも寄らないでしょう。私が忍び入り、城に火を付けます。その煙を見て、総軍駆けつけられませ。岡本城さえ取れば、残る城は手間はかかるまい。屈強の兵をお貸しいただきたい」 親信は悦び、竹ノ内虎之助・竹ノ内弥藤次に屈強の侍・中間を付け、山中に送り出した。一行は困難を乗り越え、うまく岡本城へ忍び込み、詰の段に火を付け、時の声を挙げた。城中の兵は驚き、上を下へとひっくり返った。親信は城に火の手を見て、「続け者ども」と真っ先に駆け出し、全軍が続いた。 岡本城主土居義清は高森城にいたが、土佐勢が駆けるのを見て、兵を隠し、鉄砲を伏せさせて、鳴りを静めて待ち構えた。そうとは知らぬ土佐勢が我先にと進む所へ、一斉に鉄砲を打ち込むと、久武親信を始め屈強の侍が多数討たれ、残った土佐勢も散り散りになって逃げた。忍び込んだ者達は、味方が来ず、敵が増え、大方討たれ、残った者も深手を負い、ほうほうの体で逃げ出したのであった。』
(中島重勝抄訳『土佐物語』三五〇頁より)

 史料④、⑤は中島重勝氏によって現代語訳されたものですが、『土佐物語』では三瀧合戦と岡本合戦の年数と紹介されている順番が『清良記』と同じであり、久武内蔵助は兄親信だったのです。
 『土佐軍記』は、小畑邦器が出版する前から写本が存在していますが作者は不明の代物です。版権を握っていた小畑邦器にとって『土佐物語』の存在は面白くなかった筈です。一方、『土佐物語』の著者である吉田孝世は、長宗我部国親・元親二代に仕えた家臣吉田重俊の子孫です。岡本合戦の年数を見ただけでも違いがあるという事は、『土佐軍記』が出回る事への危機感と、主君の功績を正しく伝え残さねばという使命感があったに違いありません。    

あとがき

 『元親記』が編集の都合上、岡本合戦と三瀧合戦の順番を逆に紹介した所、『長元物語』ではその並びを時系列と判断し、三瀧合戦に登場する久武内蔵助を弟親直としてしまいます。三瀧合戦は北の川氏が謀反を疑われた重大事件であり天正八年とする見解は共通していますが、『土佐軍記』は前年の天正七年を岡本合戦の年数として流布。遅れて『土佐物語』が天正九年を明記しますが、僅か八年遅れた年の差がこれ程大きな問題になるとは、郷土史料の研究は本当に面白いものだと驚かされます。




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以上

# by kiyoyoshinoiori | 2019-06-20 07:59 | 郷土史

皇紀2678年
平成30年8月25日(土)
愛媛県宇和島市三間町宮野下
三間公民館第2研修室
三間公民館主催 郷土史学級『清良記を繙く』第3回目


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知られざる歴史の裏側
と言いましょうか、
既に知られた事
の中にも
一筋の光を当てると
また違った景色が
見えてくるものです。

中國の毛利と伊予の河野、また村上水軍
との切っても切れない関係を
信長、秀吉は調略の末
切り崩します。
調略には成功も失敗もあるでしょう
しかし様々に行われる
調略は戦さの裏の合戦と言えます。

先ず毛利元就には三人の子がいました。
有名な三本の矢
長男は隆元、
次男は母方を取り吉川元春、
そして三男は水軍大将小早川隆景。
隆元は幼少期、大内氏に人質に出されますが
高い教養を得て知将に成長
大内義隆の養女を妻とします。
但し早生で息子輝元に代が移り
それを支えた両川というのが、
叔父、吉川元春と小早川隆景でした。

そして毛利家の家臣団の雄に
宍戸隆家がおりますが、
隆家の妻は毛利元就の娘。そして
隆家の娘達は毛利輝元、吉川元長、村上通康、
河野通宣に嫁ぎます。

河野通宣は伊予河野氏の三十八代。しかし
子がなく村上通康の子を養子とします。
それが河野氏最期の当主となる
三十九代河野通直です。
その母は宍戸隆家の娘。
このように毛利、宍戸、河野、村上は
切っても切れない同族関係だったのでした。

【清良記】に描かれた時代
毛利氏の当主は輝元、河野氏は通直
この二人は伯父と甥の関係となります。

信長、秀吉が伊予の三島(さんとう)水軍の雄
来島水軍を調略したのは有名だと思いますが、
最近発見されて注目を集める石谷文書では
明智光秀は土佐の長宗我部元親を調略する担当
であったようです。
そして【清良記】には楠長庵が宇和郡の旗頭
西園寺公広を調略していた記事が出て来ます。

天正七年正月に楠長庵は宇和西園寺に毛利との
手切れを求めます。
信長に敵対する毛利への加勢をやめて
西国を治めるのを助けよと言うのです。
そして天正八年に西園寺は毛利と手切れしたと
ありますが、
毛利は土佐の長宗我部を宇和へ攻め入らせない
後盾でもあったのです。

その為、西園寺十五将に数えられた内、国境の五将、
河原渕、定延、西の川、魚成、北之川が土佐方へ寝返ります。
その流れで天正八年冬に起きるのが城川の三滝合戦、
そして天正九年夏に三間で起きる岡本合戦です。

岡本合戦では誰も加勢がなく伊予方の領主まで
土佐に寝返った中、三間の土居清良がたった一将で
長宗我部軍を打破るという勝利を収めます。
もし此の時、三間の土居が負けていれば、
其の後の歴史も大きく変わっていたでしょう。
信長は天正九年夏から三好笑岩を立て、
阿波讃岐から長宗我部攻めを始めますが、
此の信長の動きによって宇和郡は元親に下らずに
済んだのです。

ところが歴史は大どんでん返し!
天正十年六月二日、本能寺の変が起こり
三好は四国から畿内へ逃走、
長宗我部は一時機運を取り戻しますが、
結局は秀吉によって四国征伐が為されます。

この本能寺の変で【清良記】には大変ユニークな
記事があります。
通説では、秀吉は信長の死を隠したまま毛利と和睦して
畿内へ帰る『中国大返し』をしたと言われます。
しかし【清良記】では、秀吉は信長の死を
毛利に伝え、仇打ちをする為に停戦を申し込んだ
と記述しているのです。
毛利は評議の結果、秀吉に恩を売り、後々の和睦へ
話を繋げて行く事ができたのでした。

これは何が正しい、何が間違いという話ではありません。
歴史の事実など結局誰にも分からないのです。
しかし【清良記】を知る事は、当時の人が認識している所を知る事ができる。
そのような意味で尊いのだと思います。

# by kiyoyoshinoiori | 2018-09-03 22:06


    
第三回『清良記』・後半


 元亀三年正月、清良公が一条尊家と和議を結んだ事で三間に平和な一時が訪れます。清良公には嫡子太郎重清が誕生。翌年の天正元年には先祖の供養をする為、高野山、熊野三山、伊勢神宮に参詣しますが、戦国時代の最中にあって本当に驚くべき記事ではないかと思います。しかし、その十一月に元親は遂に土佐から尊家を追い出して、いよいよ清良公と元親との決戦が始まろとしていました。

 第三回は、このまま清良公の隠棲までを語りますが、全てを語り切れない事をご了承下さい。そして、またいつか一緒に勉強会できますように。



    
高野山参詣(巻十七)


 天正元年は、永禄三年に石城が陥落して十三年が過ぎた年、清良公は先祖の菩提を弔う為に高野山に参詣する許しをもらいます。船の案内は来島飛騨守。来島氏は、来島城主村上通康の四男通総が秀吉から重用されて祖となり、後に河野氏、村上氏、毛利氏に反旗を翻す事になります。

 出立は三月五日、来島の瀬戸より船を出し、道中は海賊共を打ち払いながら到着したのは「天保の津」という所。ここは現在の三重県津市と考えられます。戦国時代は信長の子信包の領地でしたが、慶長四年から十三年の間は富田信高が領地しています。

 清良公が高野山で宿泊した宿坊は小田原上蔵院。上蔵院は、河野氏が伊予国人の宿坊として定めており、清良公は一族と討死した被官の為に一万本、又、病死した者の為に二千本の卒塔婆を供養し、僧房に布施をして帰路に就いたとあります。

その道中に熊野参詣、伊勢参宮を果たし、大阪には行きも帰りも逗留し、大阪の出立は六月二十日、海上日和順風良く、来島へは同二十二日の帰着となりますが、実に三ヶ月を要する旅でありました。



    
清良の撫民(巻十八)


 天正元年は、また大旱魃と長雨を繰り返す年でもありました。四月二日から五月朔日まで雨降らず、二日から七月六日までは雨降り続くとあり、清良公が大雨の中で帰郷した事も分かります。そのような中で起きるのが飢饉です。清良公は宗案を呼び相談した上で十二月に領民に米を配りますが、その米は籠城する時に、兵糧米として備蓄しておかなければならない筈の米でした。しかし、清良公はこう言います。

「我が領民は、それぞれの家職上手にして、勇なる事は武士にも劣らず。彼ら物前にて勇み進んで敵の備えを打ち破る時は、金をして北斗を誘う如くなり。民を養う事は古の聖君、堯舜もなおやめりと言えり。懸る時を於いて民を救わずば領主たらず」と。



    
長宗我部元親との合戦


 巻十八に拠れば、元親勢が伊予に手を下した初めは、天正二年十月まで続いた渡川合戦にて、元親に従わなかった土佐者が、元親の機嫌を取る為に河原渕口に侵入したのを始まりに、十一月二日には元親の侍大将福富隼人が河後森城を巻き詰めます。

 困ったのは河原渕教忠です。尊家の時は戦わずに城を明け渡していた教忠も、此度は西園寺に後詰を願い、清良公には加勢を頼みますが、面白くないのは清良公です。

「旗頭の下知なくては、自分より計らいがたく候」と、西園寺から言われんと行かんでと返します。

そして十一月十一日が初合戦。敵大将は福富隼人と国吉刑部でした。巻十九からは山内外記が土佐の大将として登場します。山内外記は一条氏の旧臣の中では非常に評価の高い武将ですが、清良公を破る事はできず、三間は土居七口の鑓と言われます。

しかし、戦は武略だけが全てではなく、宇和郡は調略という形での切り崩しが進められて行きます。その内通者となって行くのが芝美作と一覚ですが、巻二十には「天正八年に芝美作が公広卿を欺きて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、此の五カ所元親に取られける」とあり、その最中に起きるのが有名な【岡本合戦】という事になります。



   
輝元への加勢と信長からの調略

岡本合戦は、天正九年五月二十三日の夜に起きる戦ですが、突然起きた合戦ではありません。先ず巻二十一には、天正七年正月に西園寺公広が信長の執事楠長庵に調略されており、毛利輝元との手切れを唆されています。そして同八年に手切れとなりますが、長宗我部に宇和郡を侵略させない後盾になってくれていたのも毛利輝元だったのです。その流れで天正八年の三滝合戦、天正九年の岡本合戦が起きたと見れば、直後に起こる信長の四国攻めも理解ができるのです。一度は元親に四国を好きにさせた筈を完全に反古にして三好松岸に阿讃を与えます。

ところが歴史はどんでん返し。信じられない謀反が起こりますが、明智光秀が率いた本能寺の変です。信長は自刃し、三好は畿内に逃げて形勢は元親有利。ところが光秀は討ち取られ、秀吉によって四国征伐が成されて行くのでした。


   下城(巻三十)

時は天正十五年十月下旬。清良公は「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔も懸る事のありけん、その名を「隠れ宿」という所に、細々と浅ましく、庵引き結ばせて入られける。嘆くべき道ならぬとは言いながら、昨日まではさも勇ましかり武士、旗下とは言いながら、六百余騎の大将、手前の士ばかりも二百余騎に守護せられし人の、いつしか今日は引き替えて、主従二十人ばかりの外は、出入りの事も無用なりとあるは、哀れとも言うばかりなり。と『清良記』は隠棲した清良公の悲しげな姿を描きます。

 隠棲した後の清良公は、戸田政信や藤堂高虎などからの「丸串城代に取り立てたい」という申し出は断わって、新領主に歯向かい謀反を起こそうとする古い仲間とも組みせず、ひたすら気を静めるように説得役を買って行きますが、それは賢く振る舞って殺されたくなかったからではありません。

 清良公は「古代の味方を狭めて、当代の強き方へ付き、褒美の米を受けては人の志す所なく恥ずかし」と言い、また「知行を取りて城を守るべきは政信の被官なり、知行とらで守るべきは門番に似たり」とて、遂に受けを申されざりと苦しい胸の内も漏らしていますが、このような清良公の内心は、下城する際に詠んだ歌の中に集約されています。

つまり、清良公は石城で親兄弟と一緒に死にたかったのですが、それが許されず、今日まで土居家の当代を勤めて来ました。故に、命を顧みぬ程の気概を持って、義を貫き通す生き方ができたのですが、遂にそれに背く時が来たという事なのです。(松本)


・富田信高(とみたのぶたか)

      生年不詳。寛永十年二月二十九日没

      秀吉の家臣。慶長四年に津藩主

      慶長十三年九月に宇和島藩主

・藤堂高虎(とうどうたかとら)

      弘治二年一月六日生。寛永七年十月

      五日没。秀吉の家臣。天正十九年に

      宇和島藩主。慶長十三年に津藩主

・河原渕教忠(かわらぶちのりただ)

      生没年不詳。河後森城主

土佐一条氏の東小路家から伊予の

河原渕家に養子に入る。蕨生に蟄居

・西園寺公広(さいおんじきんひろ)

      天文六年生。天正十五年十二月

      十一日没。来応寺の僧だったが

      還俗し宇和郡旗頭となる。

・河野通直(こうのみちなお)三十九代

      永禄七年生。天正十五年

      父村上通康、母宍戸隆家の。

      毛利輝元の甥に当たる。

・毛利輝元(もうりてるもと)

      天文二十二年生。寛永二年没

      祖父毛利元就。父毛利隆元

      妻宍戸隆家の娘。通直の伯父

・織田信長(おだのぶなが)清良記は将軍という

      天文三年生。天正十年六月二日没

      尾張国古渡城主。足利義昭を担ぐも

      元亀四年には義昭を畿内から追放。

・楠 長庵(くすのきちょうあん)楠木正虎

      永正十七年生。文禄五年一月没

      楠木正成の子孫と自称している。

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・三好松岸(みよししょうがん)父三好長秀

      生没年不詳。阿波岩倉城主

      別名に笑岩、咲岩、康長、康慶

      織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣

・明智光秀(あけちみつひで)惟任日向守光秀

      享禄元年生。天正十年六月十三日没

      織田信長の重臣。本能寺の変首謀者

      長宗我部元親を調略したとされる。

・豊臣秀吉(とよとみひでよし)戦国一の出世頭

      木下→羽柴→藤原→豊臣。関白→太閤

天文六年生。慶長三年八月十八日没

      天正五年中国攻め。十三年四国征伐

・戸田政信(とだまさのぶ)勝隆、氏繁、氏知

      生年不詳。文禄三年十月二十三日没

      豊臣秀吉に仕えた家臣。古参の直臣

      天正十五年伊予に入部。圧制を敷く






# by kiyoyoshinoiori | 2018-08-11 22:06 | 公民館


    
第二回『清良記』・前半

 清良記の前半で絶対に外せない話は「石城合戦」です。ここに戦国武将としての土居清良公の原点があると言って過言ではありません。なぜ石城合戦で土居氏は自刃の道を選んだか。自刃にはどのような意味があったか。その時に清良公に託された使命と心の内を知れば、清良記の謎、その読み解き方が自ずと理解できるようになります。

 又、前半で欠かせないのが土佐の一条尊家公との関係です。清良公は土佐落ちして、一旦は一条公に仕えながら三間大森城に帰城を果たしますが、謀叛の嫌疑を掛けられて戦に突入。しかし、長宗我部氏の台頭が目に余るようになると、宇和の西園寺氏と土佐の一条氏に和議を結ばせて行きます。



    
石城合戦(巻三)

 石城合戦では土居氏の一族郎党上臈下婢に到るまで百二十二人が自刃します。その内訳は末座より腹を切りはじめますが、大将宗雲、嫡子清貞、二男雲影、四郎清永、五郎清象、六郎清由、七郎宗明、八郎宗真、九朗宗信、宗光、清延、為友、孫二十三人、郎党四十九人、上臈下婢三十八人でした。


   ・辞世 大将伊豆守清宗入道宗雲大居士

   柱石武門威気新 巻旗今去宝楼場

   安禅只豈借山水 除却気情火自涼


   ・辞世 嫡子備中守清貞

   挙旗法戦城 陣脚幾影名

   智劔出来看 心頭日日明


   ・辞世 二男真吉右衛門入道雲影

   長守鉄城定弱強 功成名遂別無望

   南軍左祖非吾事 覚了法身此戦場


 そもそも石城には天文十五年三月朔日、宇和旗頭西園寺公の懇願があって、立間、喜左方、立間尻、三百貫を領地したものでしたが、豊後大友の大寄せが始まると、永禄三年九月十一日に西園寺公が降伏してしまいます。土居氏がなぜ降伏せず自刃したかについては、巻二最後にある宗雲の言葉、また巻三の五章「石城崩れの事」にある妙栄の言葉に理由を探す事ができます。「侍は名こそ惜しまれ申し候え」という宗雲、「すべて心静かに自害して、首を敵にとられざるを高名にせよ」という妙栄の言葉からは、どこまでも名誉を重んじる土居氏の気魄を伺う事ができるでしょう。

 そして、妙栄は十五歳の清良公を土佐に落として家の再興を託す提案をしますが、聞き分けないのが清良公。共に死にたいという清良公を大いに叱り、九月二十九日夜から三十日暁に掛けて、四人の家老と姉お松、小姓衆を合わせ七十余人での土佐落ちを決行させて行くのでした。



   
土佐落ち(巻四)


 巻四の一章は「清良、土佐へ落ちられる事」ですが、すぐに土佐に出立できない清良公の姿が描かれています。そして、一族自刃の報を聞くと意を決し、土佐に向かいます。自刃は永禄三年十月五日朝の事だったといいます。

 土佐で頼りとするのは土佐一条氏初代房家の時から家老を勤める土居宗三=土居近江守家忠です。家忠は房家の弟でしたが、宇和西園寺と土佐一条の和議があった際に土居の娘お初を娶り、土居の武功にあやかって土居姓を名乗っていました。

 清良公はいくら祖父母の考えであったとしても、もし家忠に受け入れてもらえなければ、刺し違えて死ぬ覚悟をしていましたが、その心配もなく大変な歓迎を受ける事になります。そして、一条尊家から高島に百貫の領地を与えられ、高島岡の前に居住したとありますが、高島は現在の竹島の事で、当時は事情があって領主不在の地となり家忠の預かり分となっていました。



   
大森帰城(巻六)


 尊家に忠義が認められた清良公は永禄五年七月十二日に晴れて三間大森城への帰城を果たします。時に清良公十七歳、皆が喜びの余りに転げ回る程、上も下もなく飲食を持ち寄っての宴会となります。

 翌十三日は旧領主達との接見。十四日には魂祭りを準備。それは「生ける者どもを一飯にても助けん」という清良公の願いからでした。それに一花、法田両和尚も賛同し、十五日には大森城にて三間の全ての領民に赤飯が振舞われたのでした。



   
親民艦月集(巻七)


度々の飢饉に疲弊する領民の姿を見て、清良公が力を入れた一つが農業でした。巻七は「親民艦月集」と呼ばれる日本最古の農書として有名ですが、ただ農業技術だけを求めた清良公ではありません。先ず「上農」という言葉があり、「五戒五常」を行う事を第一とした国作りをして行かれました。

第一 神祇を祭り公儀を立て法に背かず

第二 五穀を時節相応に仕付け、小作として菜園

を能く仕、妻子に菜園の取り様を教え

第三 大作とて木竹を植え実を取り家の修理し

第四 野宝とて牛馬を持ち犬猫鶏をやしなひ、猫

   は鼠をおさへ、犬は火事盗人の用心、鹿兎

をして作を荒らさしめざるため、鳥は時を

知るため

 第五 下人小供等を扶持すべき心おこたらずし

    て賄をよくし

 第六 公事喧嘩をせず

 第七 見物、色好みをせず

 第八 居所、衣食を擅にせず

 第九 氏・系図・達をいはず

 第十 猟漁りをせず


 この末五つのせぬ事をせずして、上の五つに精を強く入れ、諸事倹約を本として衆寡孤独を憐れみ、夫婦納得仕るを上農の大筋目の心持に致し候。されば上農は居所を専らにする事武家にて屈強の城廓を構えられるが如し、上分の居所は背後に山を負って、前には田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畠を押え、云々と、これらは現代の私達の生活信条にも通じており、三間の気風にしてはと思えるような内容があります。



   
清良の謀反(巻八)


 
永禄七年正月二十日、清良公の心配事は長宗我部の台頭でした。このまま一条が長宗我部に下るような事が起これば、人質を取られている清良公もまた長宗我部に下らなければならなくなります。清良公は忍びに人質の奪還を命じますが、七月六日の夜半過ぎにお初とお松を忠家の屋敷から連れ出す事に成功。七日の暮れには輿で三間まで帰り三嶋神社に匿われますが、尊家の咎めたはなかったといいます。この出来事の前の月、尊家は諫言をした家忠を誅殺しており、何かしら負い目なり思うところなりがあったからではないかと思います。

 そして、十月十二から十四日に掛けて起きた一条の番手衆との諍いが発端となり、十二月には一条軍との合戦が始まります。これが清良公初めての軍法でした。



   
鉄砲鍛冶(巻九)


 合戦となり清良が力を入れたのが鉄砲鍛冶です。永禄八年に忍び丹波と丹後の才覚で、江州甲賀薬師堂玄蕃吉久という鉄砲鍛冶の一団を十三人、三間に招き入れ、昼夜を問わず鉄砲の生産と改良を行っていきます。石城合戦では水が勝敗を握ったとも言われますが、実際には鉄砲の数が決定的な敗因だったのです。



   
一条尊家との和睦(巻十五)


 巻十三を読むと、尊家は長宗我部への疑いを持ちながら、先ずは伊予の三間を従えようと考えていた事が分かりますが、巻十五では贈り物でも張り合う清良公と尊家の関係に驚きます。そして、長宗我部の侍江村備後が土居を調略し、共に手を組んで尊家を亡ぼすなら宇和の旗頭に取り立てようと話を持ち掛けてきた時、清良公は調略に乗ると見せかけて元親への密書を奪い取り、尊家に渡して元親の陰謀を明らかにします。清良公に感謝と信頼の思いしかなくなった尊家は、全ての人質を大森城に返すのでした。                (松本)



   
人物の紹介


・土居清宗(どいきよむね)石城で自刃

      土居家十一代。清良の祖父

      入道し宗雲と名乗る。石城の城主

      妻は河野通高の孫で通頼の娘妙栄


・土居清貞(どいきよさだ)石城で自刃

      土居家十二代。清宗の嫡男

      大森城主。娘にお初、お松がいる

      末の嫡男良元が後の真吉新左衛門


・真吉清影(さねよしきよかげ)石城で自刃

      入道し雲影と名乗る。嫡男影頼も自刃

      土居清宗の次男。真吉家の家嗣だった


・土居宗三(どいそうさん)土居近江守忠家

      土佐一条初代房家の弟で筆頭家老

      土居清貞の娘お初が後妻に嫁ぐ

      前妻との間に嫡男土居治部がいる


・一条尊家(いちじょうたかいえ)土佐一条四代

      天文十二年生で清良の三つ年上

      天正十三年七月一日没(四十三)

      母大友義艦の娘、後妻大友義鎮の次女


・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)十五代

      天文八年生で清良の七つ年上

      慶長四年五月十九日没(六一)




# by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:57 | 公民館

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん