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『清良記』を紐解く会 January 2016


□『巻二十二』後半p.310~p.315

 さて、一月は昨年残した『巻二十二』の続きを紐解きたいと思います。西園寺を旗頭とする南予の領主達の婚姻関係を理解する上で大変良い史料となっている『巻二十二』ですが、清良は中野との縁組を頑なに拒んでいました。その訳は既に承知の事と思います。そして起こる八章の【三滝城】の合戦。【北の川物語】とも言われる章が含まれているのは貴重なことで、【岡本合戦】より前の合戦とされている事が分かりますが、【岡本合戦】を考える上でも非常に重要な史料と言えます。つまり、【三滝城】の合戦は、土佐が宇和を侵略して行く過程の合戦であり、その侵略を頓挫させる事になるのが【岡本合戦】という流れです。故に、もし【岡本合戦】の天正七年説が正しいとすれば【三滝合戦】は天正六年が七年でなければならない筈です。しかし、通説では天正八年(もしくは天正十一年)とされており、天正八年の事とする『清良記』の記録の方が符合しているように思われます。これは【岡本合戦】の天正九年説を裏付ける一つの史料になるものではないかと思います。


□『巻二十三』p.316~p.334

 『巻二十三』は二月から紐解きますが、先行して解説しておきたいと思います。【岡本合戦】で有名な『巻二十三』ですが、『清良記』では土佐の侍が侵入した岡本城本丸を奪還する一章だけを【岡本合戦】としており、二章からは【橘合戦】となります。そして【橘合戦】は長編の章になっており、その場に居合わせた者にしか分からないような細かな息遣いまでが記録されている力の入れようです。まさしく【橘合戦】こそが、土居の侍が最も誇りたい合戦であったのでしょう。そして、章を変えて三章に【框越合戦】。ここでは大叔父の土居似水を失っており、大きな痛手を被っていますが、土居以外の領主が誰も加勢に駆け付けなかったのは情けない事と、能寿寺の僧であった薫蔵主の口を通して語らせています。また注目すべきは四章です。ここではもう一度、薫蔵主の目から見た【岡本合戦】を描いており、なんと『巻二十三』には二つの【岡本合戦】の物語が記録されていたのでした。そのお陰で、『清良記』では合戦を多角的に理解する事ができるのです。そして、五章では西園寺公が迫目妙覚寺に来られ、軍評定となります。

  『翌二十五日早天に、西園寺殿後詰めとして出陣ありしかども、かく
  静まりたるによって妙覚寺にましまし、諸侍召し集め、まず清良の大
  功を感じ褒美せられ、西園寺家重代の長光の太刀、同刀、馬二疋、そ
  のうえ合戦場、堂の内は河野通正の領地なりしを、召し上げて土居へ
  加増し賜わりけるは、時の面目世の聞こえ、武名にかないたることど
  もなり。』

 このように【岡本合戦】を契機とし、天正九年六月より新しく土居領となったのが【堂ヶ内村】(後の土居垣内村)であったという事が分かります。天和元年に編纂された『吉田古記』では既に【土居垣内村】となっていますが、河野領であった【堂ヶ内】が【土居垣内】となったのは土居領になってからの事であろうと思われます。また、【岡本城址】と【八幡神社】が【古藤田村分】に記録されている事から、「まさか土居垣内は古藤田から分かれたのではあるまいか。」という疑問も浮かんで来るのです。このように【岡本合戦】は一つの村の誕生にまで関わっている出来事であり、当事者の多くいる土居が年数を勘違いするという事は少し考えにくいのではないかという気がします。

□おしらせ
 今年三月は『第二回清良記シンポジウム』が開催される予定となっています。主催は、宇和島市、鬼北町、松野町の三市町合同による主催。会場は近永公民館となります。ぜひ参加して盛り上げましょう。
                    文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


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by kiyoyoshinoiori | 2016-01-16 14:54 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん