清良記を紐解く会 May 2018


『清良記』を紐解く会より May 2018

三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸


 五月を持ちまして、三間史談会主催『清良記』を紐解く会は一旦お休みとなりますが、六月〜九月の四ヶ月間は、三間公民館主催『清良記』を繙くとして継続しますので、会員は是非参加の手続きをしていただけますようにお願い致します。内容は、はじめて『清良記』を勉強するという人を想定した初心者向けの構成にしていく考えですが、十月以降も三間史談会に入会して勉強してみたいという人に出会えるかもしれません。どうぞ皆で盛り上げて行けるよう宜しくお願い致します。


□「三間町誌」を紐解く③ p.134 〜 p.163

 第二編、第七章「安土・桃山時代」は、信長の京入り(永禄十一年)から秀吉が没する(慶長三年)までの約三十年間。郷土史の勉強会では織豊時代とも表現されています。

 第一節「土居清良の活躍」で特筆すべきは、「軍制」の記事で「天正九年より、岡本城が土居の枝城となり」と『清良記』に合った記述を紹介している点です。(ただ侍十二人、足軽二十人、小人二十人については出処不明。)しかし、そこまで書きながら『三間町誌』は「岡本合戦」を天正七年の事として紹介していくのですが、そこに書かれた軍法は『清良記』にないばかりか『元親記』にさえない内容と言えるものです。つまり筆者が咀嚼して空想した作話に他なりませんが、史料の扱いとして一番してはいけない事をしてしまっています。町誌は小説や漫画ではないのです。『清良記』自体が作話ではないかという批判もありましょうが、そのまま紹介をするならまだしも内容を変えてまで紹介をする必要はありません。

 例えば土居似水が亡くなる間際に述べたとする台詞も、似水ではなく清良の台詞です。なぜ話を変える必要があるのか全く理解に苦しみます。

 又、軍法を箇条書きした次の段、岡本城は真吉新左衛門が城代として守っていたという事実誤認が起きていますが、その誤認が全く酷く現れた記事がp.208「戦略の前衛基地岡本城」です。そこには『清良記』の内容の欠片もなく、『清良記』を一度でも読んだ研究者が書いたとは思えない空想があり、大変に悔しく残念に思うのです。ある研究者は「三間町誌は町費の乱費」と批難したそうですが、そう言われても仕方がないと思います。

 『清良記』の内容が真か嘘か?史実か否か?という問題と、『清良記』に書かれてある内容を正しく伝え残す事は別問題と考えるべきであり、内容をよく吟味せず、空想やまた聞きによる内容を言い広めるような事は、今後は一切やめて行かなくてはなりません。それが『清良記』の名誉の回復に繋がる大切な事だからです。


□あとがき

 『三間町誌』の悪口ばかりになっていますが、『清良記』や三間の郷土史について勉強してみたいと思った人が、一番最初に手にする本が『三間町誌』です。もし、そこに問題があれば「なんだ!」という話になります。多くの人が気付かなくても学者や研究者には問題が分かるのです。隠しておく事はできません。ここは先に自己批判です。当事者だけができるのです。以上



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by kiyoyoshinoiori | 2018-05-01 08:30 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん