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三間公民館事業・郷土史学級「清良記を繙く」第二回


    
第二回『清良記』・前半

 清良記の前半で絶対に外せない話は「石城合戦」です。ここに戦国武将としての土居清良公の原点があると言って過言ではありません。なぜ石城合戦で土居氏は自刃の道を選んだか。自刃にはどのような意味があったか。その時に清良公に託された使命と心の内を知れば、清良記の謎、その読み解き方が自ずと理解できるようになります。

 又、前半で欠かせないのが土佐の一条尊家公との関係です。清良公は土佐落ちして、一旦は一条公に仕えながら三間大森城に帰城を果たしますが、謀叛の嫌疑を掛けられて戦に突入。しかし、長宗我部氏の台頭が目に余るようになると、宇和の西園寺氏と土佐の一条氏に和議を結ばせて行きます。



    
石城合戦(巻三)

 石城合戦では土居氏の一族郎党上臈下婢に到るまで百二十二人が自刃します。その内訳は末座より腹を切りはじめますが、大将宗雲、嫡子清貞、二男雲影、四郎清永、五郎清象、六郎清由、七郎宗明、八郎宗真、九朗宗信、宗光、清延、為友、孫二十三人、郎党四十九人、上臈下婢三十八人でした。


   ・辞世 大将伊豆守清宗入道宗雲大居士

   柱石武門威気新 巻旗今去宝楼場

   安禅只豈借山水 除却気情火自涼


   ・辞世 嫡子備中守清貞

   挙旗法戦城 陣脚幾影名

   智劔出来看 心頭日日明


   ・辞世 二男真吉右衛門入道雲影

   長守鉄城定弱強 功成名遂別無望

   南軍左祖非吾事 覚了法身此戦場


 そもそも石城には天文十五年三月朔日、宇和旗頭西園寺公の懇願があって、立間、喜左方、立間尻、三百貫を領地したものでしたが、豊後大友の大寄せが始まると、永禄三年九月十一日に西園寺公が降伏してしまいます。土居氏がなぜ降伏せず自刃したかについては、巻二最後にある宗雲の言葉、また巻三の五章「石城崩れの事」にある妙栄の言葉に理由を探す事ができます。「侍は名こそ惜しまれ申し候え」という宗雲、「すべて心静かに自害して、首を敵にとられざるを高名にせよ」という妙栄の言葉からは、どこまでも名誉を重んじる土居氏の気魄を伺う事ができるでしょう。

 そして、妙栄は十五歳の清良公を土佐に落として家の再興を託す提案をしますが、聞き分けないのが清良公。共に死にたいという清良公を大いに叱り、九月二十九日夜から三十日暁に掛けて、四人の家老と姉お松、小姓衆を合わせ七十余人での土佐落ちを決行させて行くのでした。



   
土佐落ち(巻四)


 巻四の一章は「清良、土佐へ落ちられる事」ですが、すぐに土佐に出立できない清良公の姿が描かれています。そして、一族自刃の報を聞くと意を決し、土佐に向かいます。自刃は永禄三年十月五日朝の事だったといいます。

 土佐で頼りとするのは土佐一条氏初代房家の時から家老を勤める土居宗三=土居近江守家忠です。家忠は房家の弟でしたが、宇和西園寺と土佐一条の和議があった際に土居の娘お初を娶り、土居の武功にあやかって土居姓を名乗っていました。

 清良公はいくら祖父母の考えであったとしても、もし家忠に受け入れてもらえなければ、刺し違えて死ぬ覚悟をしていましたが、その心配もなく大変な歓迎を受ける事になります。そして、一条尊家から高島に百貫の領地を与えられ、高島岡の前に居住したとありますが、高島は現在の竹島の事で、当時は事情があって領主不在の地となり家忠の預かり分となっていました。



   
大森帰城(巻六)


 尊家に忠義が認められた清良公は永禄五年七月十二日に晴れて三間大森城への帰城を果たします。時に清良公十七歳、皆が喜びの余りに転げ回る程、上も下もなく飲食を持ち寄っての宴会となります。

 翌十三日は旧領主達との接見。十四日には魂祭りを準備。それは「生ける者どもを一飯にても助けん」という清良公の願いからでした。それに一花、法田両和尚も賛同し、十五日には大森城にて三間の全ての領民に赤飯が振舞われたのでした。



   
親民艦月集(巻七)


度々の飢饉に疲弊する領民の姿を見て、清良公が力を入れた一つが農業でした。巻七は「親民艦月集」と呼ばれる日本最古の農書として有名ですが、ただ農業技術だけを求めた清良公ではありません。先ず「上農」という言葉があり、「五戒五常」を行う事を第一とした国作りをして行かれました。

第一 神祇を祭り公儀を立て法に背かず

第二 五穀を時節相応に仕付け、小作として菜園

を能く仕、妻子に菜園の取り様を教え

第三 大作とて木竹を植え実を取り家の修理し

第四 野宝とて牛馬を持ち犬猫鶏をやしなひ、猫

   は鼠をおさへ、犬は火事盗人の用心、鹿兎

をして作を荒らさしめざるため、鳥は時を

知るため

 第五 下人小供等を扶持すべき心おこたらずし

    て賄をよくし

 第六 公事喧嘩をせず

 第七 見物、色好みをせず

 第八 居所、衣食を擅にせず

 第九 氏・系図・達をいはず

 第十 猟漁りをせず


 この末五つのせぬ事をせずして、上の五つに精を強く入れ、諸事倹約を本として衆寡孤独を憐れみ、夫婦納得仕るを上農の大筋目の心持に致し候。されば上農は居所を専らにする事武家にて屈強の城廓を構えられるが如し、上分の居所は背後に山を負って、前には田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畠を押え、云々と、これらは現代の私達の生活信条にも通じており、三間の気風にしてはと思えるような内容があります。



   
清良の謀反(巻八)


 
永禄七年正月二十日、清良公の心配事は長宗我部の台頭でした。このまま一条が長宗我部に下るような事が起これば、人質を取られている清良公もまた長宗我部に下らなければならなくなります。清良公は忍びに人質の奪還を命じますが、七月六日の夜半過ぎにお初とお松を忠家の屋敷から連れ出す事に成功。七日の暮れには輿で三間まで帰り三嶋神社に匿われますが、尊家の咎めたはなかったといいます。この出来事の前の月、尊家は諫言をした家忠を誅殺しており、何かしら負い目なり思うところなりがあったからではないかと思います。

 そして、十月十二から十四日に掛けて起きた一条の番手衆との諍いが発端となり、十二月には一条軍との合戦が始まります。これが清良公初めての軍法でした。



   
鉄砲鍛冶(巻九)


 合戦となり清良が力を入れたのが鉄砲鍛冶です。永禄八年に忍び丹波と丹後の才覚で、江州甲賀薬師堂玄蕃吉久という鉄砲鍛冶の一団を十三人、三間に招き入れ、昼夜を問わず鉄砲の生産と改良を行っていきます。石城合戦では水が勝敗を握ったとも言われますが、実際には鉄砲の数が決定的な敗因だったのです。



   
一条尊家との和睦(巻十五)


 巻十三を読むと、尊家は長宗我部への疑いを持ちながら、先ずは伊予の三間を従えようと考えていた事が分かりますが、巻十五では贈り物でも張り合う清良公と尊家の関係に驚きます。そして、長宗我部の侍江村備後が土居を調略し、共に手を組んで尊家を亡ぼすなら宇和の旗頭に取り立てようと話を持ち掛けてきた時、清良公は調略に乗ると見せかけて元親への密書を奪い取り、尊家に渡して元親の陰謀を明らかにします。清良公に感謝と信頼の思いしかなくなった尊家は、全ての人質を大森城に返すのでした。                (松本)



   
人物の紹介


・土居清宗(どいきよむね)石城で自刃

      土居家十一代。清良の祖父

      入道し宗雲と名乗る。石城の城主

      妻は河野通高の孫で通頼の娘妙栄


・土居清貞(どいきよさだ)石城で自刃

      土居家十二代。清宗の嫡男

      大森城主。娘にお初、お松がいる

      末の嫡男良元が後の真吉新左衛門


・真吉清影(さねよしきよかげ)石城で自刃

      入道し雲影と名乗る。嫡男影頼も自刃

      土居清宗の次男。真吉家の家嗣だった


・土居宗三(どいそうさん)土居近江守忠家

      土佐一条初代房家の弟で筆頭家老

      土居清貞の娘お初が後妻に嫁ぐ

      前妻との間に嫡男土居治部がいる


・一条尊家(いちじょうたかいえ)土佐一条四代

      天文十二年生で清良の三つ年上

      天正十三年七月一日没(四十三)

      母大友義艦の娘、後妻大友義鎮の次女


・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)十五代

      天文八年生で清良の七つ年上

      慶長四年五月十九日没(六一)




by kiyoyoshinoiori | 2018-07-21 23:57 | 公民館

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん