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『土佐史料に見る岡本合戦』

西南四国歴史文化論叢『よど』第二十号掲載論稿

『土佐史料に見る岡本合戦』

松 本 敏 幸    

はじめに

 よど第十七号、第十九号では『岡本合戦の年数問題』について筆を執りましたが、今回は『元親記』『長元物語』『土佐軍記』『土佐物語』に目を向けます。
 実は『元親記』『長元物語』には岡本合戦の年数が記述されていませんが、『元親記』は簡潔で『清良記』と内容に矛盾がないのが特徴です。内容に矛盾が見えてくるのは『長元物語』からですが、関連史料を一つ書きにして並べており、『土佐軍記』はそれを一つの物語にまとめているのが特徴です。そして、この時に初めて岡本合戦の「天正七年説」が登場するのですが、直後に発表された『土佐物語』では『清良記』と同じ「天正九年説」を採用しています。つまり、土佐には岡本合戦の年数に関する史料がなかった事が分かるのです。
そこで、今回は、なぜ「七年」という年数が登場するに至ったか、土佐史料を成立した順番に考察してみたいと思います。

第一章 元親記

『元親記』は孫右衛門正重ともいう高島重漸によって寛文八年(一六三一)に発表されていますが、この年は長宗我部元親公の三十三回忌に当たりました。

・史料①『久武兄内蔵助討死之事并蔵助有馬湯治事去程ニ此蔵助ト云者ハ家老頭武篇才覺無比類者ニシテ豫州中郡ヨリ南伊與分軍代ヲ申付ラレ則豫州川原淵城主一學西川四郎右衛門菅田登川魚成此城主共蔵助旗下ヘ降参ス斯ケル處ニ南伊與美間郡ノ内城數五ツアリ其内岡本ト云城手合スル者アツテ忍入テ取蔵助此城ヘ人數ヲ可差籠トテ掛助候處ニ残城ヨリ取出合戦ス爰ニテ蔵助討死仕ル其後前蔵助跡ヲ弟彦七ニ云付ラレ則任蔵助兄蔵助先年有馬湯治ニ上リ三七日入湯ノ折節太閤イマタ筑前守ト申シ時御湯治ナサレ蔵助恩相湯入申扨下國之後元親卿ヘ申様今度不思議之仕合ニテ羽柴筑前殿相湯ニ入申候此人ヲ能能見申ニ只人ニテ無御座候ト存候必以来ハ天下ノ主ニモ成給ヘキ人ト見申候只今迄信長卿ヘノ御奏ハ明智日向守殿一篇ニ被成候儀是非是ヨリ御分別ナサレ筑前殿ヘモ被仰通候テ可然候ハント申其後ヨリ其補ヲモ仕給シナリ此蔵助ト云者ハ萬事案深キ者ニテ元親モ恥ラレ候テ残老共ヨリハ挨拶格別ナリシ也』
(国立公文書館所蔵『元親記』より)

このように『元親記』は岡本合戦の内容が簡潔で、優秀な家老頭であった久武内蔵助が討死した程度の情報ですが、『清良記』と共通するのは南予の一部の領主が土佐方に寝返っており、岡本城には内通する者がいたという点。これは非常に重要で、寝返った時期は岡本合戦の年数を考察する重要な鍵と言えます。そして、『元親記』は負け戦の説明をするよりも、後半に続く有馬湯治で久武内蔵助が太閤になる前の羽柴筑前守秀吉に出会ったという話に重点を置いていきます。そして優秀な久武内蔵助に秀吉を褒めちぎらせて『元親記』の「上巻」が終わるのですが、これと同じ並びで印象を同じくする場面がもう一回登場します。それが「中巻」の最後に並ぶ二つの話「與州美間陣之事」と「太閤ヘ降参之事」です。先の話は久武内蔵助の弟が兄の名前を継いで弔い合戦をする話で高森城が舞台の中心となります。そして「太閤ヘ降参之事」で「中巻」が終わるのですが、「下巻」が「太閤ヱ降参以後之事」として編集されている事を考慮すれば、『元親記』は秀吉との出会いを節目に編集されている事が分かります。
ところで『元親記』には一つだけ『清良記』との決定的な違いがあり、それが岡本合戦と三瀧合戦の紹介される順番です。『清良記』では天正八年暮れに三瀧合戦が起きており、翌九年夏に岡本合戦が起こります。ところが『元親記』では三瀧合戦が「中巻」の中程に記述されているのです。三瀧合戦が問題となるのは、実はこの合戦にも久武内蔵助が登場しているからで、もし岡本合戦が三瀧合戦より前に起きていたとすれば、この内蔵助は同名の弟の可能性があり、岡本合戦が三瀧合戦の後であれば内蔵助本人という事になります。『元親記』では三瀧合戦の事を「豫州北川陣之事」と言いますが、どう紹介しているかを見てみれば、内蔵助の名前が登場するのみで、前年の岡本合戦で討死したとも弟が名前を継いだとも書かれていないのです。それに対し弔い合戦とも言われる「與州美間陣之事」には「先年久武兄蔵助不覺取所也」「弔矢ト號シ」「久武二男蔵助」と書かれていますが、もし三瀧合戦が岡本合戦の翌年なのであれば、三瀧合戦こそ内蔵助の討死に言及しなければ不自然というものです。このように『元親記』は、久武内蔵助と太閤秀吉の話で各巻の印象を整えており、岡本合戦と三瀧合戦の年数を記述せずに、その並びを時系列とは逆に紹介した可能性があるのです。

第二章 長元物語

 『長元物語』は立石正賀が萬治二年(一六五九)に発表しました。『元親記』からは二十八年が経っており、元親公の没後六十年という節目でもありました。『長元物語』は題目毎に伝承を寄せ集め、一つ書きにしてまとめる編集方法が特徴となっています。岡本合戦は「伊豫十一郡へ元親公弓箭取出の事」という題目中に四十五ある内の八番目・十三・十四・十五番目が関連記事となっています。又、それに続いて十六・十七・十八・十九番目に三瀧合戦があり、二十から二十四番目に高森合戦が並んでいますが、地元の地理と事情を知らない者が批判する事は困難だろうと思われます。似たような話がいくつもあって、それぞれに違う伝承は見知らぬ他所の出来事であり、多くの混乱や誤解が生じる原因を作ったように思います。

・史料②『伊豫十一郡へ元親公弓箭取出の事(十四番目)一、宇和郡三間の郷に、土居、金山、岡本、深田、高森、この五ヶ所、敵城道の間、一里、二里又は半道なり。その中にて岡本の城忍び取る才覚、久武内蔵介在り、陳立して、敵の存じもよらぬ大山、三日路続きたる谷峯を越え、その間に人馬の食物拵へ、煙のたゝぬ様にとて、五日の用意して、兵糧馬の飼等、小者の腰に付けさせ、竹ノ内虎之助と云ふ武辺巧者、大将にて、一騎当千の侍廿人、小者も撰びて二十人、この城へ忍び寄り、乗入らんとする所を、城中の者聞きつけ出相、散々に切あひ、突あふ。虎之助むこの弥藤次深手を負ふ。その外手負いありといへども、本丸をば乗取る。二ノ丸を敵暫く持ちかゝへ鉄炮合戦。その音を聞き、久武が陳所半道ほど隔たる所より、敵の城深田、高森を跡になして、この両城の中なる道を、諸人一騎懸にかくる。この岡本の城は、敵方の土居と云ふ人の知行くるめの城なれば、土居もこの火の手を上るを見て、岡本の城へかけ来る。土佐衆も、この城より十町計手前の坂にて、馬をのり捨て、息をつかず岡本の城へとはせきたる所を、土居清義土佐衆の来るを見て、鉄炮をふせて持ちかけ放ちければ、久武内蔵介、佐竹太郎兵衛、山内外記、三人の大将爰にて討死す。その雑兵共大勢討たれ、岡本の本丸も明のきけり。敵弥勝にのり、此辺暫く降参仕らざる事。』
(山本大校注『四国資料集』一四七頁より)

 まず『長元物語』で違和感があるのは「敵の存じもよらぬ大山」とは一体どの山なのだろうという事です。それは「三日路続きたる谷峯」とも言われていますが、岡本城の南側は「一の森城」と「二つ森」であり、大山と言えば「鬼ヶ城」を思い浮かべるしかありません。そして忍び取る才覚があるというのに鉄砲の打ち掛け合いが始まり、その音を聞きつけた久武が深田城と高森城の間の道を十町手前で馬を降り馳せ来る所を、やはり音を聞き付けた土居が岡本城へ駆け来たが、久武らの方を鉄砲で待ち伏せ、久武、佐竹、山内という三人の大将を討ち取ったとあります。話の材料は『清良記』を連想させもしますが、骨格があまりに成り立っていない印象が否めません。『長元物語』の六年前に『清良記』が発表されており、作者が『清良記』を意識して適当に話を拝借しようとしたのかもしれないとは思いますが、『元親記』になかった情報が増えており、特に討ち取られた三人の大将の内、山内は『清良記』に登場しておらず根拠が気になります。又、『長元物語』が岡本城を「土居の知行くるめの城」と記述している為、それを鵜呑みした『土佐軍記』や『土佐物語』は辻褄を合わせようと大変な混乱を来しています。 実際の岡本城は中野通政の城で、土居の城になったのは合戦の後です。それを知ってか知らずしてか、『四国資料集』を校注した山本大先生は、それに対する指摘を一切しておられません。
 そしてより大きな問題が十六番目の記事に起こります。それが三瀧合戦で、「久武後の内蔵佐大将にて」と大将久武を「後の内蔵助」として、兄ではなく弟であるように記述した事です。普通は討死した人物が次の記事に登場していれば、並びが逆と気が付く筈ですが、久武内蔵助は弟が同じ名前を受け継いでいました。『長元物語』の作者は『元親記』を読み、岡本合戦の後に来る三瀧合戦に久武内蔵助が討死した情報がない事には気が付いたでしょうが、記事の並びを時系列と考えて「後の」という言葉を追記したのではないでしょうか。    

第三章 土佐軍記

 『土佐軍記』の作者は不明と言われていますが、元禄十三年(一七〇〇)に小畑邦器によって版本されました。『元親記』の発表からは七十年、岡本合戦からは百二十年が経過しており、既に当時を知る者の手による作品でない事は明白ですが、その特徴は『長元物語』で一つ書きされた文書を張り合わせ、一つの物語にした所にあります。それは既に二次的創作と言える物ですが、岡本城へ侵入した人数が倍になる、現地の地理や事情を確認せぬまま話の辻褄を合わるなどして更に混乱が生じます。

・史料③『久武内蔵之介出陣之事 附リ討死天正七年二月、久武内蔵之介を召し、其方武略武勇ハ元親下知を加ふるに不及、数年の心労手柄を感悦する、今度伊予三ヶ国の惣物頭に被仰付ハ、其方覚悟しておさめよとの給ひなれば、久武なみだをながして悦事限りなし、近々予州へ出陣へ出陣と触れて、組与力此外に幡多郡の侍衆を加へ七千余騎にて予州へ出陣也、伊予宇和島三間郷に陣をとり、軍評定する、宇和郡土居・金山・岡本・深田・高森五ヶ所ト、敵の城一里或は一里半道隔て有、此城責取べし、先岡本の城へしのびて入て討と、久武思案して、竹内虎之介と云功者と談有りて、虎之介は岡本の城へ三日路続きたる大山有、此谷峰を通る、其間けふりのみへぬよううに食を腰に付すべしとて、侍四十人撰み、中間も撰み、四十人都合八十人にて、本丸へ乗入火をかくべし、其けふりをみて惣勢かけ付乗取給へ、此城取らば残る城々大略は降参有べしと云、久武ばかりさけすみなりとて侍四十人撰み、虎之介婿の弥藤次をはしめ、屈強の侍四十人仲間四十人主従八十人大山へ行、敵のおもひもよらぬ山よりしのび入、用心調しき時分なれば、城中のものはやく聞付出合ふせぎたゝかふ、されども本丸をとられ、二の丸へ引取り、虎之介本丸へ火をかけ焼立、鉄炮の音聞ゆ、久武陣所より今道有内の相図の事なれば、是をみて土佐勢深田・高森の城を跡になし、城の中間の細道を一騎かけに通ひ、此岡本城主岡本土佐守高森の城に居りしが、是を聞きておなしくかけ付る、城より十町ほどなる小坂にて土佐衆馬をのり捨、息をもつかず馳走る、土佐清義城より出で、土佐衆馳来る見て鉄炮をふせて打かくる、久武内蔵之介、佐竹太郎兵衛、山内外記、三人の大将討死する、諸勢下々迄で大勢打れて迯帰るに、取て岡本の城を明けて退散り、土佐衆敗軍なり、(以下略)」
(『愛媛県編年史・第五』七三頁より)

 この更に辻褄の合わない『土佐軍記』の岡本合戦が、その後の伊予の郷土史研究に多大な影響を与え『清良記』の運命を翻弄して行く事になるのですが、『宇和旧記』も『予陽河野家譜』も『愛媛面影』も『土佐軍記』の「天正七年説」と三間へ攻め入った土佐勢が「七千余騎」であった話を引用している為、『愛媛県編年史』や『愛媛県史』はその内容を定説として採用して行く事になるのでした。    

第四章 土佐物語

 高知県で重要な郷土史料である筈の『土佐物語』ですが、『愛媛県編年史』や『愛媛県史』はその内容に触れません。岡本合戦の年数問題について、何か不都合な事情があったのではないかという疑問が生じます。
『土佐物語』は宝永五年(一七〇八)吉田孝世によって著されます。『土佐軍記』の発表から僅か八年しか経っていませんが、私が思っていた通りの事が書いてありました。ここでは三瀧合戦と岡本合戦の二つを紹介いたします。

・史料④ 『(二)北の川氏の討死 同じく天正八年(一五八〇)夏、伊予国の北の川左衛門太夫は、訴訟事があって、家臣永山伯耆を岡豊へ派遣した。事の詮議をしているところに、波川玄蕃の謀反が露顕して、行方知れずに落ち失せたという知らせが入り、誰もが大騒ぎした。 北の川左衛門太夫は玄蕃の婿なので、彼も内通し同意しているに違いないという噂が立ち、詮議は後回しにされ、玄蕃の行方、北の川左衛門太夫の反逆の真偽について、取り取り様々に風説が流れた。永山はこれを聞き、主君が玄蕃殿と父子の親しみをしているので、諸人が疑うのだと思い、主君には全く野心のない事を様々に弁明したけれども、確かな証拠はないので、取り上げる人もいなかった。「こんな所に長居してはよくなかろう」永山は取る物も取り敢えず国許へ帰り、事の次第を伝えると、左衛門太夫は大いに驚き、起請文を書き、野心のない事を誓ったので、元親は不審を晴らした。「さては、虚説であったにちがいない。ああ、人の口ほど質が悪いものはない」こうして波川一族は退冶され、北の川氏は難を逃れたところに、日下の里人が一つの文箱を道で拾ったと、岡豊に持ってきた。見ると、波川玄蕃謀反の時に一条内政が同意の署名をした廻し文と、北の川左衛門太夫が波川玄蕃に内通したという要件を伝える書状であった。どうして落ちたのか、きっと、北の川氏が起請文を書いた罰であろうと思われた。 元親は、見終わって下知をした。「身中の虫、腹心の病。もし緩々の処置をすれば、後日の災いは量りしれない」久武親信五千余騎、桑名太郎左衛門三千余騎、幡多郡の人数六千余騎が十二月中旬、土佐を発って、北の川へと押し寄せた。(以下略)』
(中島重勝抄訳『土佐物語』三三七頁より)

・史料⑤ 『(七)久武内蔵助の討死天正九年(一五八一)四月下旬、元親は久武内蔵助親信を呼び出して命じた。「東伊予は存分に従えたが、西伊予には未だ帰属せぬ者が多い。国家草創の功績は武略と智謀にある。汝は二つとも兼ね備えているので、予州の総軍代に任ずる。急ぎ馳せ向かい、伊予平定の功を致せ。万事任せる。指図を仰ぐ必要はない」久武親信は頭を地に付け、畏まって申し上げた。「有り難いお言葉でございます。家の面目、身の誉れ、これに優る事はございません。一命を抛(なげう)ち、無二の忠勤を励みます。ただこの度討死致しましても、弟親直には跡目相続をさせないでください。弟は役に立たず、御家の障りとなるでしょう」後に思い当る事が多く、親信は只の人ではなかったと、皆深く感じ入った。 久武親信は手勢に幡多郡の兵を加え、総勢七千余騎で予州へ出陣した。宇和郡美間の郷に着陣して、軍評定をした。竹ノ内虎之助が進み出て申し述べた。「土居・金山・岡本・高森・深田の各城の間は各々一里ばかりで、常に助け合い、攻めにくいです。岡本城の後ろの大山を回れば三日の行程です。敵は後ろへ回ってくるとは思いも寄らないでしょう。私が忍び入り、城に火を付けます。その煙を見て、総軍駆けつけられませ。岡本城さえ取れば、残る城は手間はかかるまい。屈強の兵をお貸しいただきたい」 親信は悦び、竹ノ内虎之助・竹ノ内弥藤次に屈強の侍・中間を付け、山中に送り出した。一行は困難を乗り越え、うまく岡本城へ忍び込み、詰の段に火を付け、時の声を挙げた。城中の兵は驚き、上を下へとひっくり返った。親信は城に火の手を見て、「続け者ども」と真っ先に駆け出し、全軍が続いた。 岡本城主土居義清は高森城にいたが、土佐勢が駆けるのを見て、兵を隠し、鉄砲を伏せさせて、鳴りを静めて待ち構えた。そうとは知らぬ土佐勢が我先にと進む所へ、一斉に鉄砲を打ち込むと、久武親信を始め屈強の侍が多数討たれ、残った土佐勢も散り散りになって逃げた。忍び込んだ者達は、味方が来ず、敵が増え、大方討たれ、残った者も深手を負い、ほうほうの体で逃げ出したのであった。』
(中島重勝抄訳『土佐物語』三五〇頁より)

 史料④、⑤は中島重勝氏によって現代語訳されたものですが、『土佐物語』では三瀧合戦と岡本合戦の年数と紹介されている順番が『清良記』と同じであり、久武内蔵助は兄親信だったのです。
 『土佐軍記』は、小畑邦器が出版する前から写本が存在していますが作者は不明の代物です。版権を握っていた小畑邦器にとって『土佐物語』の存在は面白くなかった筈です。一方、『土佐物語』の著者である吉田孝世は、長宗我部国親・元親二代に仕えた家臣吉田重俊の子孫です。岡本合戦の年数を見ただけでも違いがあるという事は、『土佐軍記』が出回る事への危機感と、主君の功績を正しく伝え残さねばという使命感があったに違いありません。    

あとがき

 『元親記』が編集の都合上、岡本合戦と三瀧合戦の順番を逆に紹介した所、『長元物語』ではその並びを時系列と判断し、三瀧合戦に登場する久武内蔵助を弟親直としてしまいます。三瀧合戦は北の川氏が謀反を疑われた重大事件であり天正八年とする見解は共通していますが、『土佐軍記』は前年の天正七年を岡本合戦の年数として流布。遅れて『土佐物語』が天正九年を明記しますが、僅か八年遅れた年の差がこれ程大きな問題になるとは、郷土史料の研究は本当に面白いものだと驚かされます。




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以上

by kiyoyoshinoiori | 2019-06-20 07:59 | 郷土史

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by 清良の菴(きよよしのいおり)さん