カテゴリ:郷土史( 52 )


☐『清良記』を紐解く会より

 昨年十二月に松浦郁郎先生発行の『清良記』を通読・解説が終了してから一年が経ちました。今年は一月から三間町指定有形文化財の古文書『清良記』の判読・翻刻をして参りましたが、作業をする中に先駆け全文翻刻をされた松浦郁郎先生のご苦労と功績の大きさを感じた次第です。

 新年からは『三間町誌』の勉強をしながら、『清良記』が紹介されている部分の確認作業を致します。各自『三間町誌』『清良記』をご持参下さい。

 また、十二月には竹葉秀雄先生(三間町名誉町民)が昭和十年に著された名著『土居清良』が復刻・発行されます。清良公に感銘を受けた竹葉秀雄先生が、その精神を余す所なく語っており、併せて勉強して参りたい所存です。


☐『竹葉秀雄先生』所縁の地をゆく

 十一月十日、松山から来た青年三名を、竹葉秀雄先生所縁の地にご案内しました。お名前は三浦夏南(こなん)さん、三浦颯(そう)さん、三浦杏奈(あんな)さん。この三浦さん達は竹葉秀雄先生の「ひ」の心を後世に継承・発展させたいと、「ひの心を継ぐ会」をつくられました。竹葉先生の名著『土居清良』も、この会から復刻・発行されることになります。




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 道の駅「みま」で待ち合わせ、先ず向かったのが「窓峠」です。「窓峠」は『清良記』にも亀甲正著『竹葉家』にも登場する場所ですが、真下には旧宇和島鉄道のトンネルがあり、鉄道敷線に奔走した今西幹一郎や河野虎尾らは、竹葉秀雄先生の伯父に当ります。(写真①、②、③)



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 三間小学校には、竹葉秀雄先生が揮毫した「ひ」碑があります。これは、昭和四十二年度PTAと今西寛一校長が建立した明治百年記念碑でしたが、三間町が宇和島市と合併する機会に松本が再建立させたものです。その経緯は勉強会にてお話します。(写真④)


 宮野下の三嶋神社には、竹葉家・三間村塾から譲り受けた大太鼓「雷(いかづち)」があります。これは大横綱双葉山が三間村塾に寄贈しています。(写真⑤)

 竹葉家の墓所は竹葉牧場の奥にあります。左右の石燈籠には左手に「河野氏」、右手に「竹葉氏」とあります。(写真⑥)



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 竹葉家はかつて松下村塾を模範にした「三間村塾」という私塾でした。それは昭和三年頃から、竹葉先生の仁徳に惹かれた青年達が竹葉家に集まって、古事記や論語を勉強するうちに自然に塾となったもので、剣道、柔道、弓道、相撲などの武道も行われていましたが、昭和九年には「神道夢想流杖道」が正式武道となっています。竹葉家前の記念碑は、安岡正篤先生の筆によります。(写真⑦)


 三間中学校の和室には、竹葉秀雄先生の揮毫「明明徳」と双葉山の揮毫「剛健」が飾られています。この言葉は東洋思想「大学」からの出典で、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り」から来ていますが、三間高等学校にある創立二十周年記念碑にも「明徳を明らかにす」と揮毫されており、竹葉秀雄先生の人柄や信念が分かります。(写真⑧、⑨)



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 午後からは、土居中の土居家に伺わせていただきました。そこで見せていただいたのは、土居清良公の「御胸板薬師如来十二神」と土居系図「土居氏一統系傳」です。(写真⑩、⑪、⑫)

 その後、三間町から鬼北町へ向かい、まず深田の河野家、そして好藤公民館を訪ねました。旧深田村庄屋の末裔で、旧好藤村初代村長となったのが、竹葉秀雄先生の母方の祖父「河野通倫」です。

日露戦争では竹葉先生の父・秀資が戦死する不幸が起こりますが、幼い竹葉先生を守り教育したのが、母と祖母、そして深田の河野家でした。(写真⑬)

 次に向かった愛治小学校には、校訓「愛人治心(あいじんちしん)」の碑があります。この揮毫は安岡正篤先生から贈られた物です。(写真⑭、⑮)


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 そして、最後に訪ねたのが松浦健(たけし)先生です。健先生は三間中学校校歌を作曲しておられ、アコーディオンを演奏して一緒に校歌を歌って下さいました。また、訪問の為に三浦さん達も校歌の練習をしてきて下さっており、健先生にも奥様にも大変喜んでいただけました。そして、作曲に纏わる竹葉秀雄先生とのエピソードを伺いました。(写真⑯、⑰)


☐あとがき

 竹葉秀雄先生の『土居清良』の復刻・発行、そして三浦さん達との交流を持てた事は、本当に嬉しい事です。私は三間中学生時代に杖道クラブに所属しており、中学卒業から十年目に上甲一男先生と再会し「三間杖道会」と「愛媛県師友会ひの会」に入会していました。しかし、「ひの会」は二代目近藤美佐子会長が平成二十四年に亡くなられた後、翌年解散となります。その時の私の考えは、
「ひの会」が解散しようがしまいが、三間は何も変わる事はなく、難しい話は松山の先生方に任せて、私は三間で守るべきものを守ろうという思いでした。その一つが『清良記』の研究です。

今回の『土居清良』の復刻・発行は竹葉秀雄先生の命日「醒庵忌」に合わせて発行する為、少し拙速だったようにも思いましたが、今後のテキストにも加えさせていただき、三間も松山に負けぬよう切磋琢磨し、大いに勉強させていただこうと思います。

文責/三間史談会・松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2017-11-29 12:49 | 郷土史


☐『清良記』を紐解く会より


 清良記を紐解く活動は、今年の正月から宇和島市指定有形文化財「清良記三間土居旧本・巻第二十三」の翻刻を行ってきましたが、来年からは趣向を変え、三間町誌に見る『清良記』の紹介記事を確認しながら、『町誌』と『清良記』をダブルで勉強して参りたいと思います。

 尚、翻刻作業は有志で継続しますので、御志のある方は是非名乗りを上げていただければと思います。


☐「西南四国歴史文化研究会主催 梼原町研修」に参加して

 十月一日、予土交流会という事で梼原町に行って参りましたが、無医村の僻地で人口減少と高齢化率四十%超に悩んでいた筈の梼原町が、郷土の歴史と伝統文化を守りつつ、様々な国のモデル事業を牽引する自治体として復活しているという報告を耳にして大変感動致しました。

 ごみの収集は住民が行い、廃棄物を出さない燃料サイクルを実現。全ての住宅には無料の光ケーブルが引かれ、高齢者住宅と図書館を兼ね備えた施設にはドクターヘリが発着できます。

 そのような梼原町には古来より受け継ぐ津野山神楽があり、「壌一期(つちいちご)」という祈願がされていて、この世の続く限り継承せねばという強い思いがあるのだそうです。



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三間史談会主催「岡本家研修」を実施


 十月八日、三間町迫目の旧庄屋・岡本家の研修を実施することが出来ました。これは昨年の「美沼の里・産業文化まつり」をきっかけに岡本裕之氏が三間史談会に入会した事で実現した訳ですが、裕之氏が家の歴史に関心を寄せるようになったのは、木下博民先生が『岡本家の矜恃』を発刊して下さったからだといいます。

 又、池本覺先生は東京在住の岡本健氏(裕之氏伯父)と岡本家系図について発表された経緯があり、今回は特に詳しい解説を担当して下さいました。又、今回の研修で一番大きな苦労をされたのが武田利康先生でした。武田先生は岡本家庭園の測量をして下さいましたが、夏の盛りに何度も足を運んで下さり、立派な平面図と鑑賞を発表して下さいました。



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竹葉秀雄著『土居清良』の復刻について

 久松定武県政で県教育委員長を三期十二年勤められ、三間町名誉町民となった竹葉秀雄先生は、昭和十年に『土居清良』という本を著しています。これは『清良記』の解説書で、かつて三間史談会でも、故二宮虎雄先生の解説で、第二土曜日の午前に勉強をしておりましたが、この本が復刻・刊行されるという計画が進んでいます。

 中心的に動かれているのは、大森城登山でご一緒した北増穂の二宮敬和氏です。現在、二宮氏は竹葉秀雄先生の教えを勉強する「ひの心を継ぐ会」の顧問をしておられて、刊行するのは、この「ひの心を継ぐ会」からという事になります。そういう私も会員で、十月十六日には原稿の直しを手伝わせていただきましたが、現在、松山で勉強しているのは二十歳前後の若者達が中心で、今尚竹葉秀雄先生の威光が輝いている事を感じて大変な感銘を受けています。


三間三嶋神社の秋祭り

 台風一過。十月二十三日は晴天に恵まれて、無事に秋の祭礼が執り行われました。

 三間三嶋神社は、天平十年三月二十三日、伊予国主河野玉澄によって大山祇神社から勧請された三島大明神で、三間・鬼北にある神社では最も古い歴史を有しています。中世の三嶋神社は『清良記』に度々登場し、著者「水也」は三嶋神社の神官であったといいます。近代では郷社に列せられ、地域の尊崇を集める由緒ある神社です。これからも秋の祭礼がずっと続いて欲しいと思います。



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文 責・三 間 史 談 会 松 本 敏 幸



      


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by kiyoyoshinoiori | 2017-10-25 13:10 | 郷土史

はじめに


愛媛県宇和島市三間町出身で、清良記研究をしている松本と申します。この度は縁あって土佐史談会に寄稿させていただきました。私の研究主題は「岡本合戦の年数」についてです。清良記は軍記である為、批判的に解読する必要がありますが、岡本合戦時、領主の土居清良は三十六歳。合戦後に岡本城の城代となり、江戸時代には土居中村庄屋にもなる土居良伯(真吉新左衛門)は二十三歳。そして後に三間郷社三嶋神社の神主となり清良記を著す事になる土居水也(真吉水也)は十代。岡本合戦では大叔父の土居似水が討死しており、供養もあれば年数に勘違いがあるとは考えにくいのですが、清良記の岡本合戦の年数は、著された時から天正九年。しかし、それを教えてはいけないという、暗黙のルールが三間の郷土史を支配してきました。私はそれに異を唱え、郷土三間の枠を超えて同志を募って来ました。岡本合戦の年数は、高知の旁にとっても大切な筈。どうか一緒に研究していただけたらと思います。



「土佐史料に見る岡本合戦の年数批判」


松 本 敏 幸


岡本合戦が登場する最も古い文献は元親記。しかし、そこには年数の記述がなく、長元物語にもない。ところが江戸中期の土佐軍記には天正七年の記述がある一方、同時代の土佐物語は天正九年を記述している。結局、このような混乱は、元親記に年数の記述がなかった為であるが、なぜ土佐軍記は七年とし、土佐物語は九年としたのか、その理由を明確にする必要がある。


江戸中期には戦国時代の研究が盛んに行われたが、捏造や改竄も行われた。土佐国編年記事略には各文献を併記しながら岡本合戦の年数批判をしているが、その根拠となる文献は見当たらない。佐竹系図も久礼村常賢寺蔵佐竹系図は七年であるが、蠧簡集佐竹系図は九年である。最終的に龍澤寺俊派の六年の文書に名前のある山内俊光が、高岡郡多郷村加茂社の棟札では七年から親光となっている事を上げているが、到底年数を裏付ける根拠とは言えず、ただ分かるのは「何も分からない」という事だけである。


ところが土佐軍記の記述は拡大し続けて至る所に増殖を見る。遂には伊予河野家の文献が採用。それを、伊豫史談の古老が定説とした事から、愛媛県編年史は勿論、三間町まで土佐史料を用いて岡本合戦を語る始末となる。高知の旁にも怒りを覚えてもらいたいのは、愛媛県編年史に紹介されている土佐国編年紀事略の引用が、天正七年説の揺るがない根拠となるように細工されている事である。これは編集に深く関わり、また影響を与えた伊豫史談の古老に負う産物であろうが、二箇所の引用を前後入れ替えて張り合わせ、天正八年の時点で岡本合戦の年数について確認があった文書であるかのような印象を持たせている。これは宇和島市立図書館を通し、高知県立図書館から前田和男校訂『土佐国編年紀事略』を借りて、初めて分かった事であった。


しかし、ここまでして伊豫史談の古老達は清良記の天正九年の記述を抹殺したかったのであろうか。河野家の文献が七年であった事が動機であろうか。その留目を刺したと思しきが、愛媛県歴史文化博物館研究紀要第3号の「岡本合戦が天正七年に起きたことは、すでに先学の指摘するところであり、天正九年のこととする清良記の誤りは明白である」という言葉である。故に、私は怒りを覚え、誰に憎まれようともこの宣伝をやめない。本当に清良記の誤りは明白だと言えるのか?ならば天正七年は本当に正しいのか?本当に明白だとまで言えないのであれば、愛媛県立歴史文化博物館は文書を取り下げて謝罪しなくてはならない。


もう少し土佐史料を批判しなくてはならないが、先に述べたように清良記の岡本合戦の年数は天正九年であり内容は豊富。元親記は年数がなく記事は簡素であるが、二書の間に矛盾はない。故に矛盾は長元物語に始まり、土佐軍記によって拡大される。矛盾は内容だけではなく、地理的な面から言ってもおかしいが、軍記は多かれ少なかれ創作である。ここでは元親記に話題を戻す。



「元親記上

久武兄内蔵助打(討)死之事付(けたり)

   内蔵助有馬湯治之事

 去程に、この内蔵助(久武親信)と云う者は、家老頭、武篇(辺)才覚、旁比類無き者にてありしなり。之に依り豫洲中郡より南伊豫分の軍代を申付けらる。先ず豫洲何原州(河原淵)の城主一覚・西の川四郎右衛門・菅田・北の川・魚無(成)城主共内蔵助旗下へ降参す。斯りける処に、南伊与美間(三間)郷の内、城数五つあり。その内岡本と云ふ城、手合する者ありて、忍び入りて之を取る。内蔵助この城へ人数を差籠むべしとて、懸助け候処、残りの城より取出て合戦す。爰にて内蔵助打果てたり。その後は前の内蔵助の跡(後)を弟彦七(親直)に云付けられ、又内蔵助になされしなり。次に右の内蔵助、先年有馬湯治に上り、三七日入る。折節太閤様筑前殿と申せし時、御湯治なされ、内蔵助御相湯に入申す。(中略)この内蔵助と云ひし者は、万事に案深き者にて、元親卿󠄁も耻られ候ひて、残りの老どもよりは挨拶各別なりし者なり。」

(山本大校注『四国史料集』)



元親記の岡本合戦は上巻の最後に登場するが、久武内蔵助の存在を大きくした上で、過去に秀吉に会ったという話を添えている。この並びは、中巻の最後が内蔵助の弔い合戦と秀吉の軍門に下る話で終わるのに似ていて印象を重ねる。そして下巻に向かう気持ちを整えるのであろう。元親記の並びは年数順ではなく、意図して並べてある事に気付く。元親記に登場する南伊予攻めは、岡本合戦・三滝合戦・弔い合戦の順だが、清良記では、三滝合戦・岡本合戦・弔い合戦である。となると三滝合戦に登場する内蔵助が兄か弟かが気になるが、清良記では当然兄。長元物語以後の史料では弟となっているが、元親記は兄とも弟とも記述がない。その答えになるか知れないが、土佐国編年紀事略に弟内蔵助は天正十二年秋に伊予国軍代となったとある。もとより岡本合戦の次の合戦が弔いとなるのが自然であろう。三滝合戦は八年が定説となっている。その前が岡本合戦であれば七年となり、後であれば九年となる。ここに一先ずの決着を見る。



以上



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追伸、第八回「長宗我部フェス」から早や一月が経とうとしていますが、なかなか筆が進まず没稿が増えるばかりです。何事も簡単ではありませんが、精いっぱい自分の人生を生きるという事をしたいと思うています。皆様の応援をよろしくお願いいたします。松本


写真は、愛媛県宇和島市三間町土居中に鎮座する清良神社。参道の石段の上にある二の鳥居から望む境内。













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by kiyoyoshinoiori | 2017-06-12 23:06 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

 新緑の候、皆様におかれては益々ご健勝の事と思います。さて1月からスタートした『清良記三間土居旧本』の翻刻も順調に波に乗って来たように思っておりますが、毛筆で書かれた崩し字を見るにつけ、先駆けて全文翻刻を出版された、松浦郁郎先生の功績とご苦労の大きさを身に染みて感ずるところです。
 1月から5月までの翻刻はすでに会報を通して手に取っておられると思いますが、それは私一人の研究発表のようなもの。それをたたき台にして参加者全員による確認作業を行い、間違いの訂正や不明箇所の特定を行い、その上で、柚山俊夫先生にお墨を付けいただくというのが現在の取り組みです。
 そして、6月からは、東京都あきる野市在住の土居秀夫会員による翻刻がたたき台となります。行く行くは巻二十三『岡本合戦』と関連個所を収録した冊子を出版したい考えですが、私一人の作品にはしたくありません。これからは希望される方には原文コピーをお渡ししますので、『清良記』を紐解く会に参加する全員で作りあげる事業として参りましょう。


□「第八回長宗我部フェス」に参加して

 5月20日(土)は晴天に恵まれて、今年も「長宗我部フェス」に出席して参りました。今回の収穫は、主催者代表であり前高知県立歴史民俗資料館の館長、現在は高知県立図書館の館長である土佐史談会の宅間一之会長とお近づきになれた事です。会長には、土佐史談会への寄稿のお許しと、岡本合戦の年数問題について一緒に研究していただけるという約束をしていただく事ができました。しかし、それもこれも全ては私達のやる気ひとつに掛かっています。是非、皆様のご尽力を宜しくお願い致します。



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□「迫目岡本家研修」について

 三間史談会の本年度の町内研修は、迫目村庄屋の後裔で三間村の発展に大きく関わった岡本家を訪問する内容で準備を進めています。これはひとえに、昨年入会された岡本裕之会員のご厚意と感謝していますが、これまで岡本家と交友のあった池本覺先生、庭園の見立てに詳しい「三間の自然を守る会」の武田利康先生と打ち合わせながら、今までにない岡本家について学べる研修になるであろうと期待しています。



                            三 間 史 談 会 ・ 松 本 敏 幸






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by kiyoyoshinoiori | 2017-06-05 10:58 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 December 2016

『巻一』から『巻三十』までを紐解いてみると、『清良記』のメッセージは首尾一貫しています。また、『清良記』が著された動機は、『巻一』一章の最後の一節に凝縮されている事が分かります。

「ああ土居家代々の武名挙げて数ぞうべからず。
されども讃える者、そしる者、ともに不賤のたとえあり。
真にその如く片田舎に、しかも小身の侍なれば、
深山の奥のホトトギス、聞く人もなき音を書き誰にか見せん。
梅の花の散りほれたる世ともなりなん事のうたてし。
しかはあれど遼東の豕(いのこ)にやありなまし。」
(『清良記 松浦郁郎校訂』三頁)

『清良記』とは、江戸時代となり、宇和島が伊達家の治世となって三十八年が経ち、戦国時代の面影も忘れかけそうになっていた頃、三嶋神社の神主であった土居水也が、土居家の武名を後代に伝え残そうと書き上げた、戦国武将土居清良の一代記であったといえます。故に『清良記』は軍記物語であり、史実を扱うよりも、教訓としての色彩が濃く出ている事でしょう。しかし、そこには資料的価値があると言って余りある程の、生き生きとした戦国の世の息遣いが聴こえてきます。

三間史談会は、そのような『清良記』を宝とし、水也が伝え残そうとしたメッセージが何であったのかについて紐解いて行きたいと思います。

文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-12-01 16:31 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より

十月二十九〜三十日『三間町産業文化まつり』が開催されました。三間史談会は「松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展」を出展。大変貴重な展示に、来場者の中には非常に強い関心を持たれる方もおられ、戦国時代の話に花が咲きました。

やはり「清良記」といえば三間町、三間町といえば「清良記」なのです。清良記を記録し保存して行く事や、清良記を紐解き語り継いで行く事は、三間の人間が責任を持って行かなければならない事だと強く感じた次第です。来年からは三間本を紐解きながら資料作りをします。ぞうぞよろしくお願い致します。


□『巻三十』最終巻(二回目)p.403〜p.417

最良記は三十巻もの大作ですが、その最後まで渾身の力が込められており、話は多岐に渡って面白く、示唆に富み、非常にメッセージ性を含んだ物語だといえます。「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と清良公が詠んだ歌は、本当は石城で自刃すべきだった筈を、土居の家督を背負い今日まで生きてきた事への感嘆を吐露したものであったのでしょう。故や、石城の土居一族の自刃は、主人を変えて生き延びる事を恥として、名誉の死を選び、清良をして再興を託した上での事でした。巻三十には丸串城代(現宇和島城)への仕官の誘いを断るというエピソードがありますが、それは騙し討ちを恐れたからではなく、土居家の生き方や清良公が今日まで生きて来た理由とは掛け離れたものであったからだという理解をしていただければと思います。


文責/三間史談会 松 本 敏



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by kiyoyoshinoiori | 2016-11-01 21:30 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より October 2016

 清良記の紐解きを始めて早や四年、遂に最終巻となり感無量に思います。思えば【清良記を紐解く会】は、松浦郁郎先生がテレビに出演されたことから始まりました。それが平成二十五年の三月二十三日(三間町では三嶋神社の春祭りの日)、テレビ愛媛の「ふるさと絶賛バラエティー・い~よ!」でした。そして、振り返ってみれば、清良公の土佐落ちの道を訪ねる研修、岡本城登山、長宗我部まつり、今年の宇和島市役所ロビー展と沢山の思い出ができました。これも全ては、松浦郁郎先生がご苦労をされて『清良記松浦郁郎校訂』を出版して下さったお陰です。そして、いつも盛り上げて下さる皆様には、本当に感謝致します。是からこの勉強会は、宇和島市指定有形文化財である古文書の『清良記三間土居本』の紐解きにも入って行く計画となっていますが、今後ともよろしくお願いします。


□『巻二十九』余韻

 先月、二十四日は『巻二十九』を紐解きましたが、供養の丸における佐兵衛と円長坊との壮絶な殺し合い、小早川の養子となっていた元隆の自刃は、『清良記』のラスト間際に暗い影を落としています。しかし、私はこのストーリーに何か含みがありはしないかと感じられて仕方がありません。対立関係にある者の讒言によって大老が上意討ちされてしまうとは、どうしても和霊騒動を彷彿とさせられてしまうのです。また、元隆は本当に小早川の養子となり安芸で亡くなったのか謎が深まります。


□『巻三十』(最終巻)p.403~p.417

 平成二十五年五月二十八日から始まった紐解きも、いよいよ最後の巻ですが、急ぐことはありませんので、今月から年の瀬にかけてじっくりと紐解いてみたいと思います。巻三十は、巻二十九の九章「四国ことごとく京家になる事」から太閤秀吉の四国征伐後の情勢となります。『清良記』には

 「そむくべき 代をし我から そむき来て
   そむかれけりな 時や来ぬらん」と詠みて、

竹ある岸の下水いさぎよく流れける方に、昔もかかることのありけん、その名を【かくれ宿】という所に、細々と清良公の足跡を伝えています。また、巻三十には等妙寺や仏木寺の縁起、また三嶋神社の楠の云われについても述べてあり興味を引きます。その後、『清良記』は清良の庵室【かくれ宿】で、立ちつ座りつ軍物語をされる清良の姿を描いて終わりとなります。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-10-01 07:00 | 郷土史


□『清良記』を紐解く会より September 2016

 九月十二日~十六日の五日間、宇和島市役所一階ロビーにて特別展示会『松浦郁郎所蔵・清良記抄と清良記挿絵展』を開催する運びとなりました。清良記抄(きよよしきしょう)は、昭和四十八年元日~昭和四十九年九月二十一日に渡り、新愛媛新聞(日刊新愛媛の前身)で連載されたコラムですが、松浦郁郎氏所蔵の写本を利用し、昭和五十年発行となる『清良記松浦郁郎校訂』よりも早く世に出された大変稀有な連載だったといえます。
 また、連載の「はじめに」を読んで分かった事は、その写本は、松浦氏が恩師清水岩蔵氏の書写した高串本を複写した物であったこtが分かりました。『清良記松浦郁郎校訂』の作業には、清良記の三間本を高串本で校訂していくという気が遠くなるような作業があった訳ですが、三間本は三間本だけ、高串本は高串本だけで翻刻し発行すべきだったと批判する学者もいたといいます。そのような意味でも清良記抄は、高串本だけを原稿にした稀有な資料といえるでしょう。
 更に、清良記抄の写真を見ていると、『清良記松浦郁郎校訂』の挿絵に使われている三輪田俊助画と瓜二つの写真があるではありませんか。挿絵は、三輪田画伯から松浦氏に無償で提供されたときいていましたが、清良記抄の写真がモチーフになっており、もし清良記の連載がなかったら、三輪田画伯の挿絵も存在していなかったのではないかと思わされ、清良記抄が本当に稀有な存在である事を感じた次第でs。故に、九月の展示会は、今は亡き恩師の清水岩蔵先生、三輪田俊助画伯、そして、新愛媛新聞社に捧げたいと思います。


□『巻二十九』を紐解く(清良記・p.390~p.402)

 さて、三間史談会主催『清良記』を紐解く会では、毎月三間公民館にて、清良記の勉強会をしています。九月は二十四日に『巻二十九』を紐解きます。そして、ここにきて登場するのが清良の嫡子太郎重清です。「壬申年にて、今年十五歳」とあり、元亀三年(一五七二)生まれであった事、承応三年(一六五四)に亡くなったという清良記の著者水也と、同年代であった事などが分かります。元亀三年の当時、清良二十七歳。真吉新左衛門は十四歳。水也が真吉新左衛門と同一人物という説もありますが、少し無理があるように思います。土居清良の被官であり、三嶋神社の神官であったという水也が誰なのか。土居家被官の内情を記録した『巻二十九』にその正体を知る糸口があるのか。一文一文を噛み締めながら紐解いてみたいと思います。


                              文責/三間史談会 松 本 敏 幸



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by kiyoyoshinoiori | 2016-09-01 06:00 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会 July 2016

梅雨も明けたのではないかと見間違ってしまうような晴天の七月三日、西予市城川町土居地区で行われた奇祭「どろんこ祭り」に行ってきました。明治十四年頃より行われるようになったという「どろんこ祭り」は、三間を発祥とする遊興だったともいわれています。三間の三嶋神社の松浦宮司の話では、参道の東に神田があったと言うのですが、現在では見る影もありません。西予市城川町土居地区の三嶋神社では、これからもどうか大切に継承して行って欲しいと思いました。

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□『巻二十七』を紐解く p.364〜p.376

平成二十五年五月からスタートした【清良記を紐解く会】も後四巻を残すのみとなって参りました。天正十二年二月から始まる巻二十七では、織田信長の死後、勢を取り戻した長宗我部元親の元に、芝美作や魚成対馬ら辺境の武将が再び寝返って行きます。何はともあれ、元親の四国統一→豊臣秀吉の四国征伐→豊臣権勢の元で下城し帰農して行くまでの、『清良記』大詰めの物語となって行きます。

一章、土居との確執もなくなった西園寺殿は大森城へ清良を訪ね、いつにない覚悟を持って深田上城に陣を配置。土居、山田、久枝は尾坂五本松に出張して、尾坂より沢松口の柏田に柵を巡らせますが、まさしくここが土佐との戦の最前線であったと言えます。三章より始まる合戦の最中には、土居の軍師桜井武蔵を始め、善家六郎兵衛ら重鎮らが討死。かなわじと思いてもなお突いて掛かる土居の侍達。その駆け引きの妙に、勧修寺より来た加勢の侍も驚嘆したといいます。

また、巻二十七で特筆しておきたい事は、四章から六章に登場する松浦宗案に纏わる話です。松浦宗案を、実際には存在しない架空の人物と言い広める人もいるようですが、それは『清良記』全てを作り話と言っているに等しく、どのように読んでもそこまで言える確かな証拠は見られないという事を訴えておきたいと思います。この問題については、松浦郁郎先生に改めて講義をお願いしたいと思っているような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸


「以上は、7月に使用した『清良記を紐解く会』のテキストです。勉強会の中では、松浦郁郎先生に松浦宗案に纏わる話をしていただいたり、東京都あきる野市の土居秀夫氏から届いた手紙を紹介しました。また、今回は特別に『清良記』の挿絵として使われた、故三輪田俊助氏の原画を初公開していただく事ができました。この原画はデジタル化し、9月には宇和島市役所のロビー展で展示したいと考えています。」


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撮影者:松本敏幸©︎
撮影地:愛媛県宇和島市三間町宮野下(三間公民館)
撮影日:2016.7.16(土)
*この記事の文章、及び画像は著作権を放棄していません。



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by kiyoyoshinoiori | 2016-07-16 23:02 | 郷土史

□『清良記』を紐解く会より June 2016

晴天に恵まれて、五月十四日は、高知県南国市の【岡豊城址】で行われた「第七回長宗我部フェス」、十五日は、高知市長浜の若宮八幡で行われた「第五回長宗我部まつり」に参加してきました。片道三時間半を二日往復しましたが、それだけの甲斐がある郷土愛に満ちた催しでした。

「長宗我部フェス&まつり」は元親を始めとする長宗我部氏を盛り上げる町興しイベントですが、伊予国宇和郡の攻められた側としては「ぎょっ」と思われる方もいらっしゃる事と思います。しかし、高知県に足を運んでみれば、本当に慕われて誇りに思われており、かつては命を取り合った関係も、これからは共に高め合って行く事が必要ではないかと思わされました。

「あらま欲しきは師友の縁。」人が生きて行く上で大切な事は、いかに尊敬できる師や友と出逢えるかだと言われますが、今回の高知県行きでは【中島重勝氏】と出逢い、本当に良くしていただきました。中島氏は「土佐史談」の会員で、『土佐物語』の現代語訳をされたり、子供達にも分かりやすい絵本や紙芝居で郷土の偉人を紹介する活動をされています。また、スタッフの交流会にも招いて下さり、「高知県でも『清良記』の勉強をしよう」と言って下さって、本当に感動的な出逢いとなりました。


□『巻二十六』を紐解く p.354〜p.363

『清良記』が著された承応二年(一六五三)は、伊達の治世となって三十九年目。藩主が二代宗利となり、和霊神社が正式な神社として登録された頃、三間の三嶋神社神主であった著者【土居水也】が有していた情報と認識は、間違いが含まれるにせよ、当時を知る上で非常に貴重な文書と言わざるを得ません。

巻二十六の一章は、元親と信長の関係について言及しています。ここで注目しておきたいのは、「天正九年辛巳の夏の末より三好松岸と弓矢取りはじめけり」の一文と、天正十一年二月二日の記録に「去々年、元親が侍あまた清良に打たれて以後は、当国への手遣いもならず手懲りしてありしに」とある一文です。これによっても、岡本合戦が天正九年であった事、三滝合戦の後に岡本合戦が起きた事などが分かります。

さて、またユニークなのは三章から始まる「夫婦のたとえ」です。西園寺公広卿の姉にせがまれて、土居蔵人が話をしますが、夫婦は「味噌と塩」のような関係で、塩がなくては味噌の味は調わないが、塩も過ぎれば辛くなる。それはまた、君と臣の関係にも通じていると、面白おかしく物語が進んで行きます。このようなたとえ話は、当時の知恵を知るに止まらず、本当に現代に於いても役に立つ知識であり、まさに『温故知新』と合点してしまったような次第です。

文責/三間史談会々員 松 本 敏 幸 ©︎




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写真は、五月十五日「第五回長宗我部まつり」にて撮影。




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by kiyoyoshinoiori | 2016-06-17 23:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん