【平成二十六年三月は、本来であれば『巻十』を紐解く所ですが、五月に岡本城址の現地研修を行う予定であった事から、岡本合戦について書かれた『巻二十三』を勉強する事にしました。また、三月二十三日は、鬼北町の近永公民館にて宇和島市・鬼北町・松野町共同主催の『第一回清良記シンポジウム』が開催されました。】

□『祝!清良記シンポジウム』

    この度は『清良記シンポジウム』の実現おめでとうございます。そして本当にありがとうございます。私達は三間史談会と言います。三間は『清良記』の主人公、土居清良公が誕生した地であり、戦国時代の領主、清良公を親しく誇らしく思っています。本来であれば、三間が発起し、主催となってシンポジウムをすべきであったと思うのですが、古代や中世の調査研究の著しい鬼北町に『清良記』を取り上げていただき本当に感謝の思いが致します。今後、このシンポジウムは多岐に渡って展開して行くと伺っており、益々の発展を心から期待する所です。

    また三間史談会では、毎月第四土曜日の夜七時〜九時に三間公民館で『清良記を紐解く会』を開催しています。そして『清良記』を声に出して読み、一つ一つの物語りを解説して、『清良記』への理解を深めています。会員でない方も参加していただけますので、関心ある方は是非三間公民館までお越し下さい。


□『清良記を紐解く会』お知らせ

    ① 三月二十四日(月)午前十時〜十一時『土居清良公墓参』土居中龍泉寺
    ② 四月二十六日(土)午後七時〜九時『第11回清良記を紐解く会』三間公民館
    ③ 五月二十四日(土)午前十時〜午後四時『岡本城〜橘合戦現地研修』

    (注意:予定が変更される場合があります。参加希望者は必ず会報で確認をお願いします。)


□『巻二十三』を紐解く

    『巻二十三』は『岡本合戦之事』から始まります。時は天正九年五月二十三日の夜、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛宕講の勤めあり。とあるように、一族の供養に勤めて信心深かった清良公は、毎月二十三日の夜から翌二十四日に掛けて、月待ちと日待ちの御講をしていた事が分かります。月待ちは二十三夜の下弦の月を御仏の化身として迎える御講の事で、下弦の月はおよそ深夜零時ほどに昇って来るので、日没から月が昇るまでは闇夜となります。その闇に乗じて岡本城本丸に侵入したのが土佐の長宗我部元親の侍百騎。しかし、それは松宗の遠見番の見逃す所ではありませんでした。

    岡本城本丸に土佐勢が侵入出来たのは、中野殿の侍が土佐に寝返って手引きをした為です。故に、岡本城本丸は争って奪われたのではなく、闇に紛れて招き入れたと理解すべきでしょう。そのような岡本城の異変に一早く気付いた清良公は、東西より攻め登り、土佐勢の旗や差し物を全て奪い取ると後は取り合わず、そのまま本丸に押し込めて置くのでした。これにて『岡本合戦之事』は終わりです。つまり、都まで隠れなく聞こえた軍というのは岡本合戦ではなく、この後、二百騎の土居の侍が橘の森で三千騎の土佐勢を謀りを持って打ち破るという橘合戦の事なのです。

    第二節は『橘合戦之事』となりますが、ここが『巻二十三』のメインとなります。この時、敵は土佐勢だけではありません。既に三国を手中に収めている元親の勢いは物凄く、阿波、讃岐の侍まで加勢していたのは勿論ですが、味方である筈の西園寺の武将達までが土佐方に寝返っており、『巻二十二』の第十節を見れば、天正九年三月初めに『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあります。故に清良公は中野殿が土佐に内通している事を知りながら、気取られぬよう知らぬ振りをして周りの武将の加勢も西園寺卿の後詰も当てにせず、一将と二百騎のみで三千騎を相手にする謀りを講じるのでした。



□平成26年3月22日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-11 21:00 | 郷土史
【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史
【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史
【この翌十二月は松浦郁郎先生には『巻七』の特別講義を依頼。その時、四十年前に作ったという貴重な清良記の校訂過程の資料を拝見。先生のご苦労がどれ程大変なものであったかを思い知った参加者でした。その後しばらく懇親の時間を楽しみました。】


□『中村行き』その後②


    先月は高知県四万十市へ『清良記』に著された土居清良公の足跡を訪ねる現地研修を行う事が出来、三間史談会の清良記研究にとって大きなステップとなりました。また『敷地軍記』との出会いで幡多郡で領地した『高島』が現在の竹島と分かり、頼りにした義理の叔父土居近江守家忠(土居宗珊)が、安並、為松、羽生と共に四天王と呼ばれ、土佐一條家初代からの筆頭家老であった事も分かりました。
    土居宗珊が執政官であった一條康政と同一人物では?という疑問については可能性が低くなりましたが、清良記が述べる『土居近江守家忠=房家の弟』という件は今後も研究して参りたいと思います。



□『巻六』を紐解く


    前回は巻五を紐解きました。不破八幡の宵宮祭に石礫が投げ込まれた事件であらぬ嫌疑を掛けられた清良公でしたが、近江守が盾となり、姉お初(北の方)が知恵を付け真犯人を挙げる事に成功。一條公は清良公に謝罪され、清良公の幡多郡での立場が高められる事になりました。
    さて、今回巻六では土居清宗の弟民部少輔清治の三男『善家六郎兵衛』が登場します。善家六郎兵衛は一之森城主深田殿竹林院真清の弟である善家備後の家継となっていましたが、周囲との生き方の違いから幡多郡に落ち延びた清良公の元へ駆け付けます。
    また巻六で注目すべきは、清良公の『帰城』がなされた事です。一條家配下における数々の謀反を鎮めて来た清良公でしたが、今回は和食九郎兵衛を討ち取った事への褒美もあり、百五十貫で本国土居に帰るか二百五十貫で幡多郡に留まるかの選択を任せられます。しかし百五十貫の領地は、宮下、石原、末森の三村で、故郷に錦を飾る事にはならず侍衆の生活もどうなるかと心配する清良公でしたが、『百五十貫が二貫であっても帰りましょう』と侍衆は心を一つにするのでした。清良公一行は永禄五年七月十日に中村を発ち、十日は若藤、十一日は川崎に泊まり、十二日の朝に須山を越えて三間の『大森城』に帰城されました。
    また帰城後は『土居似水』も清良公の元へと馳せ参じます。土居似水は清宗の末の弟で民部少輔重信といい西園寺真光の御雇となっていましたが、土居一族自刃の後は出家して『似水』と名乗っていました。こうして清良公は暫しの平和の中に領民を大切にする国造りをされて行くのですが、土居似水の生き方にしても善家六郎兵衛の生き方にしても清良公の侍衆の生き方にしても、一つ一つが同様に教訓を与える為の物語である事がよく分かります。



□次回の予定


    次回は『巻七』となりますが、いよいよ『親民鑑月集』となりますので松浦郁郎先生に特別に解説をお願いしています。また12月は年末ですので参加者を中心に忘年会を企画したいと思います。そこで次回の『清良記を紐解く会』は開始時間を(17:30〜19:30)、忘年会を焼肉闘牛にて(19:30〜21:30)で行いますので是非お間違いなく、ご参加よろしくお願いします。予定日『12月        日(    )』








平成25年11月26日(火)『清良記を紐解く会』座長:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-08 14:00 | 郷土史
【二週間ほど前に『中村行き』の現地研修を終えたばかりでしたが、帰路バスの中で羽藤明敏会長から文化祭の出展を頼まれ、現地研修を記事に伊井事務局長と二人で連日徹夜。展示物を準備したのが思い出されます。また文化祭をしながら清良記の紐解きも休みませんでした。研修を見て来たお陰で大変勉強もしやすくなりました。】


□三間史談会主催『中村行き』現地研修を振り返って


    平成22年度に現地研修をして依頼、2年も企画倒れになって来た『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修でしたが、本年度は若手に企画立案実行を任せて欲しいという提案をさせていただき、遂に『土居清良土佐に落ちらるる事』の現地研修を実現できたことは誠に感無量の出来事となりました。『清良記』は三間の宝であり『土居清良』は三間の誇る戦国武将です。その清良記に記述されている清良公土佐落ち所縁の土地を尋ねることは、今後の清良記研究にとって非常に意義のあることと言えます。

    先ず訪ねた四万十市の竹島地区は、清良公が領地した『高島』ではないかという思いからの訪問でしたが、後日に竹島にある金亀山菩提寺の和尚から竹島の史料としていただいた『敷地軍記』の中に竹島が明らかに『高島』であったことが明記されており、また『敷地軍記』の評議をした一條家の家老が土居宗珊であったことが分かり、宗珊が土佐一條家の古くからの家臣であることも確認できました。故に竹島地区は清良公とはけっして無縁な地ではないのです。

    今後の研究課題としては『土居宗珊の人となり』、また『土居宗珊と小松谷寺殿と一條康政の関係』について研究をしたいと思います。土居宗珊は一條家の筆頭の家臣であったと言われており、一方、一條康政は一條家の執政官であったと言われています。この二人は同時期の人物であり、関係がなかった筈がありません。あるいは二人が同一人物である可能性も捨てきれません。今後は『長宗我部地検帳』や『敷地軍記』を中心により研究を深めて課題の究明をして行きたいと思います。


□清良記を紐解く会『巻の五』


    今回の紐解きは先日『清良公土佐に落ちらるる事』の現地研修でも訪問した『不破八幡宮』が舞台となります。清良記では不破八幡宮の事を『中村八幡宮』と呼んでいます。不破八幡宮というのは不破村の八幡宮という意味ですが、京から土佐に下向した一條教房が京の石清水八幡宮から勧請して幡多郡の中心神社として創建したのですから、清良記が呼ぶように中村八幡宮が本当だったのかもしれません。
    さて時は永禄四年の八月十五日の中村八幡宮の祭日の前夜となる宵宮祭のこと。中村八幡宮では宵の相撲大会が開かれていました。土居の侍達も多いに活躍し大勝して気分良く清良は屋敷に帰ります。すると後に相撲大会の会場目掛けて石を投げ込む者達がおり、男も女も神主までもが血を流す怪我を負わされるという事件が起こるのでした。
   誰の仕業かとなった時、どこの誰が言い出したのか土居の侍衆が怪しいと清良にその嫌疑が着せられてしまいます。その窮地を知恵を働かせて救ったのが土居近江守家忠でした。それはその次に行われる天神の祭礼の時に清良始め土居の侍を一人も祭礼の場へは出さず、もし石を投げ込む者がいればそれを真犯人として挙げようというものです。その為には真犯人を騙さなくてはいけません。土居の侍には『八幡の神事の礫打ちと人の沙汰する由ならば、今また天神祭に思う様打つべし』等と言いふらさせる念の入れようでした。
    しかしてその結末は案の定。二十四日の晩に三十人を越える礫打ちを捕らえることに成功。その内二十六人は近江守の謀に乗せられての犯行と判断されて放免に、内五人は八幡宮の礫打ちと分かり尋問すれば、同類三人が芋づる式に明らかになり、その宿主段兵衛は東郡の元親に成敗させ、八人の者共は真犯人として八幡宮の河原に磔とせられるのでした。
    この頃はちと不吟味にて不審申し掛け候、その段御免候え。若き衆はか様の事心に掛けられては悪しく候。かく申し晴らし候えば、尊家は少しも不審残さず候、その段は安並と江州に問われ候え。此度の尊家が咎めかど合いの申し訳には、兵法、軍法、底を叩いて教え申すべし。とありて、それよりは毎日、兵法の執り行い他事なく、かようにあれば、人のかねがね思いし心も変わり、いづれも用い奉りて、清良公今は重き人になりおわします。『用いる時は鼠も虎なり、用いざる時は虎も鼠なり』と言う事、実にこの時の言葉なり。と、 この件に関しては短気で有名な兼定も清良を召して謝られたと言います。



平成25年10月26日(土)清良記を紐解く会座長:松本敏幸(090-1320-1508)

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# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-07 13:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん