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【前回が『巻二十三』の一節『岡本合戦の事』で大変盛り上がり、この回では本編となる二節『橘合戦の事』を紐解きました。これらは全て五月二十四日に実施する『岡本合戦現地研修』を成功させたい為です。私の清良記にかける思いは様々ですが、岡本合戦に関する様々な誤解をなくしたいという事が最大の願いとなっています。これは、ある意味、清良記の名誉を復帰させる為の取り組みだと言えます。】

□『清良記を紐解く会』第十一回

    前回は『巻二十三』を紐解きましたが、頁数としては二頁。その他、関連のある巻二十二や巻二十四も読み、大いに盛り上がりました。このように『紐解く会』は、どんどん先に進むだけではなく、時には大事な話題について深く考察してみる事も楽しみの一つではないかと思います。これからは参加者の方々がそれぞれに理解を深め、様々な疑問や見解の発表を交換するようになれば、会は更に盛り上がる物と期待を大きくする所です。

    さて、いよいよ来月は岡本合戦の現地検証が控えておりますので、今回は『巻二十三』を全て紐解いておきたいと思います。この現地検証は『清良記の現地の検証』が目的ですので、清良記をよく読み込んでおく事が必要です。岡本合戦の資料の違いで見解が分かれるのは当然ある事ですが、『三間の郷土史愛好者が清良記に何が書いてあるのか知らない』『現地に行った事がない』では、清良記を正しく紹介する事が出来ません。これから少しづつ課題をクリアして行きましょう。


□『巻二十三』を紐解く・其の二

    さて清良公が立てた作戦はこうです。それは、土居の本隊を古藤田に置き、土佐方の旗を持たせた偽土佐勢を橘の森に潜ませて、そこに土佐本隊を誘き寄せ、待ち伏せた鉄砲隊で討ち取ろうという物。ちなみに土佐方の旗を使っての騙し討ちは、この時が初めてではなく、巻十九の十節にも登場します。所謂、土居の軍法には『夜討ち』『騙し討ち』等のゲリラ戦法が多く、大敵を相手に少数で守るには有効な手段だったと言えます。

    ところで気になるのは、どこに鉄砲隊を布陣したかではないでしょうか。清良記には『新左衛門、右京進は南の尾崎八幡の前に引き分けて、足軽その他四百五十挺の鉄砲は、橘の額に柴、笹などをかぢし段々に後高く三重に引き隠し、残り百五十挺の筒をば堂の後ろより西の井口という所までの藪の中に隠し、彼此六百挺の筒は早込めの仕掛けにて、込め変え込め変え、三度放ちて一回り、三度放ちて一回りと絶え間なく打ち続くべし』とあります。つまり土居垣内の八幡神社のある山が橘の森で、橘の岡の額は白瀧家のある東側、堂の後ろより西の井口は土居家のある西側と見る事ができます。

    そのような守備万全の中、三騎の早馬と五十の兵が本隊を抜けて、岡本城の麓、井口まで近付きます。これは岡本城本丸に侵入していた先勢と連絡を取る為でしたが、ここで鉄砲を発砲しては作戦が暴露てしまいます。清良公は家来の侍三人に古藤田から来たように登場させて、三騎の大将を討ち取らせます。雑兵は慌てて本隊へと逃げ帰りますが、この間、橘の森に隠れている鉄砲隊は一度も鉄砲を放つ事はありませんでした。清良記には、この命令の統制こそが土居方へ勝利を引き寄せた鍵であり、後々まで讃えられたと書かれています。

    その上、清良公の作戦は、本当にこのような事があったのかと驚くばかりですが、土佐本隊を目の前にして、古藤田から善家と桜井が偽土佐勢に打ち掛かり、土佐勢を演じた清良公は橘の森に駆け上がって土佐方の旗を立てます。これを味方と心得た土佐本隊は、橘の岸の下へ近付き入りて、ここで初めて鉄砲隊が火を放つのでした。清良記には、『土佐方の大将久武内蔵助を始め国吉肥前守、佐川、谷脇、依岡、和食などいう者を先として暫時が間に雑兵合わせて千余人目の前に打ち伏せ』と、土佐本隊が総崩れになる様子が描かれています。

    その直後、真っ直ぐに走り寄る一人の若武者が登場。久武内蔵助の小姓であった今藤又八郎です。主を討たれた又八郎は既に命を捨てる覚悟ができており、誰も手に負えません。そこに武者法師木ノ本円長坊が太刀打ちに駆け付けますが、牛若丸と熊坂長伴になぞらえて、戦いの様子は非常に読み応えがあります。そして後陣の土佐勢は、『大内裏松の沖』という所に引き退きます。この後、主戦場は『大内』に移つり、また框越えから加勢して来た芝の軍勢との間で『框越え合戦』が起きて行くのでした。



□平成26年4月26日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』松本敏幸(090-1320-1508)

# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-13 19:00 | 郷土史

土居清良公の命日参り

【『第一回清良記シンポジウム』の翌日、清良廟のある土居中の牛河山龍泉寺の前田和尚にお願いし、清良公の命日参りをさせていただきました。前年の二十五年三月二十三日にはテレビ愛媛の番組『ふるさと絶賛バラエティーいーよ!』に清良公の大森城と清良記が紹介され、松浦郁郎先生がテレビ出演されました。そして、奇しくも一年後の同日に『清良記シンポジウム』が行われた事。これらを清良廟の前に報告させていただきました。】

    □土居清良公の命日参り

    土居式部大輔清良…天文15丙午(1546)年1月30日、土居伊豆守清宗の三男土居清晴の三男として生まれる。幼名三郎虎松。永禄3庚申(1560)年10月16日、土佐国幡多郡一条尊家の扶持を受ける。永禄5壬戌(1562)年7月12日、三間領主として大森城へ帰城。天正15丁亥(1587)年10月下旬、戸田民部少輔政信の命令により下城。『背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん』と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔もかかる事のありけん、その名を隠れ宿という所に、細々と浅ましく庵引き結ばせて入られける。また代にありし時の下屋敷に住む。寛永6己巳(1629)年3月24日の暮れ、清良84歳。臨終正念にして往生の素懐をぞ遂げられる。本年没後386年。2028年が400回忌となる。


    □『巻二十三』を紐解く

    一、岡本合戦之事
    『天正九年五月二十三日夜は、月待ちとて』…清良記によれば、岡本合戦は天正九年の出来事。巻二十四の天正十年の記事には堂ケ内村は『去年六月よりは土居殿の御領となれり』とあり、巻二十六の天正十一年の記事には『去々年、元親が侍あまた清良に打たれて』とある。土佐方の軍記には正確な年月日を記す物はないと云われる。また清良記によれば、清良公等は毎月二十三日の暮れより大森城の本丸にある権現堂の六間の座敷に集まり、月待ち、日待ちの御講をしていた事が伺える。二十三夜の月は下弦の月で、凡そ深夜零時に昇って来、それまでは闇夜となる。注:六間は約10メートル。大森城本丸は東西に約70メートル、南北に約15メートル。


    二、橘合戦之事
    『敵は人数立つともなく、武者押しの体も見えず、味方に手引きするものあれば、先勢には城を取らせて合図の火を立て、その上、度々の軍に西園寺殿後詰めはなくて、公広の領内三分の一は土佐へ取りければ、今日の大将は我が領内なりと思い心緩くぞあらん』…清良記によれば、土佐勢は川霧に紛れて薄木表の東西二十余町、南北へ五六町の間隙間もなく進んで来るが、我が物顔で戦にもならないと油断した様子が伺える。土佐方を手引きしたのは中野豊前守通正。また巻二十二によれば、芝一族は天正九年三月より既に土佐方に寝返っており『元親より加番の武士五百余騎差し籠りて置きければ、河原渕、定延、西之川、魚成、北之川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とある。合図の狼煙は、岡本、奧野々(興野々か)、原之森(河原渕か)、奥之川、伽之森(戸祇御前山か)。


    三、框越合戦之事。
    『似水、息の下より。今はこうと覚ゆるなり、さて軍は如何し給うやと、問われければ、清良、お心安かれ、敵四千余騎にお中野、有馬よりは一騎も助け来らず、清良一手にて敵の大将三人を始め、彼此二千六百余人討切取り、その他追い散らし、味方も討たれず候』…框越えを守っていた土居似水が矢傷を負い、大内村で陣頭指揮を取る清良公の元へ運ばれる。戦局を案ずる似水に戦功を告げると、似水は安心し、笑いながら眠りに着く。似水は祖父清宗の末の弟で、清良公には大叔父の一人。


    橘合戦之事によれば、兜首八百七十五、雑兵千七百三十七、生け捕り六十八、都合二千六百八十を持って勝鬨を挙げる。大高島新蔵人の口上によれば、土佐勢は三千八百余騎、雑兵一万三千人。よって兜首の23%、雑兵の13.36%、全体では15.54%を失った計算となる。土居方は一人に敵十四人当ての軍とあるので、土居の軍勢を単純計算すると二百七十一騎の雑兵九百二十九人となる。これが前代未聞の手柄といわれ、都まで隠れなく聴こえた橘合戦の戦果だったといわれている。




    □平成26年3月24日(月)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-12 20:00 | 郷土史
【平成二十六年三月は、本来であれば『巻十』を紐解く所ですが、五月に岡本城址の現地研修を行う予定であった事から、岡本合戦について書かれた『巻二十三』を勉強する事にしました。また、三月二十三日は、鬼北町の近永公民館にて宇和島市・鬼北町・松野町共同主催の『第一回清良記シンポジウム』が開催されました。】

□『祝!清良記シンポジウム』

    この度は『清良記シンポジウム』の実現おめでとうございます。そして本当にありがとうございます。私達は三間史談会と言います。三間は『清良記』の主人公、土居清良公が誕生した地であり、戦国時代の領主、清良公を親しく誇らしく思っています。本来であれば、三間が発起し、主催となってシンポジウムをすべきであったと思うのですが、古代や中世の調査研究の著しい鬼北町に『清良記』を取り上げていただき本当に感謝の思いが致します。今後、このシンポジウムは多岐に渡って展開して行くと伺っており、益々の発展を心から期待する所です。

    また三間史談会では、毎月第四土曜日の夜七時〜九時に三間公民館で『清良記を紐解く会』を開催しています。そして『清良記』を声に出して読み、一つ一つの物語りを解説して、『清良記』への理解を深めています。会員でない方も参加していただけますので、関心ある方は是非三間公民館までお越し下さい。


□『清良記を紐解く会』お知らせ

    ① 三月二十四日(月)午前十時〜十一時『土居清良公墓参』土居中龍泉寺
    ② 四月二十六日(土)午後七時〜九時『第11回清良記を紐解く会』三間公民館
    ③ 五月二十四日(土)午前十時〜午後四時『岡本城〜橘合戦現地研修』

    (注意:予定が変更される場合があります。参加希望者は必ず会報で確認をお願いします。)


□『巻二十三』を紐解く

    『巻二十三』は『岡本合戦之事』から始まります。時は天正九年五月二十三日の夜、月待ちとて出家、山伏、諸侍、大森へ登城出仕して本丸権現堂より六間の座敷に居こぼれける。総じて毎月二十三日の暮れより、霊妙院日谷山の僧秀栄登城し、翌二十四日の愛宕講の勤めあり。とあるように、一族の供養に勤めて信心深かった清良公は、毎月二十三日の夜から翌二十四日に掛けて、月待ちと日待ちの御講をしていた事が分かります。月待ちは二十三夜の下弦の月を御仏の化身として迎える御講の事で、下弦の月はおよそ深夜零時ほどに昇って来るので、日没から月が昇るまでは闇夜となります。その闇に乗じて岡本城本丸に侵入したのが土佐の長宗我部元親の侍百騎。しかし、それは松宗の遠見番の見逃す所ではありませんでした。

    岡本城本丸に土佐勢が侵入出来たのは、中野殿の侍が土佐に寝返って手引きをした為です。故に、岡本城本丸は争って奪われたのではなく、闇に紛れて招き入れたと理解すべきでしょう。そのような岡本城の異変に一早く気付いた清良公は、東西より攻め登り、土佐勢の旗や差し物を全て奪い取ると後は取り合わず、そのまま本丸に押し込めて置くのでした。これにて『岡本合戦之事』は終わりです。つまり、都まで隠れなく聞こえた軍というのは岡本合戦ではなく、この後、二百騎の土居の侍が橘の森で三千騎の土佐勢を謀りを持って打ち破るという橘合戦の事なのです。

    第二節は『橘合戦之事』となりますが、ここが『巻二十三』のメインとなります。この時、敵は土佐勢だけではありません。既に三国を手中に収めている元親の勢いは物凄く、阿波、讃岐の侍まで加勢していたのは勿論ですが、味方である筈の西園寺の武将達までが土佐方に寝返っており、『巻二十二』の第十節を見れば、天正九年三月初めに『河原渕、定延、西の川、魚成、北の川は土佐分になりて、三間、野村境目になる』とあります。故に清良公は中野殿が土佐に内通している事を知りながら、気取られぬよう知らぬ振りをして周りの武将の加勢も西園寺卿の後詰も当てにせず、一将と二百騎のみで三千騎を相手にする謀りを講じるのでした。



□平成26年3月22日(土)三間史談会主催『清良記を紐解く会』090-1320-1508(担当:松本敏幸)

# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-11 21:00 | 郷土史
【平成二十六年二月の清良記を紐解く会は、参加者が大変に少なく、三間史談会事務局の伊井さんと二人だけの勉強会となったのですが、日本に鉄砲が伝来した時の話をしながら、かつてないくらいに盛り上がった回であったように思います。まあ、毎回盛り上がっていますからあれなんですが、人数が少ない時には少ないなりの盛り上がりがあり面白く思いました。】

□清良記を紐解く会(第九回)

    今回はいよいよ『鉄砲』が話題となります。鉄砲は度々日本に持ち込まれていたようですが、九州の種子島に伝来したのが天文12年8月。種子島の島主時尭が、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人宣教師2人から、二挺の火縄銃を二千両支払いて譲り受けます。その内の一挺を紀州根来寺の津田監物が入手。僧兵根来衆の強力な武器となって行きます。その3年後、伊予国宇和郡三間郷に土居清良公が誕生。天文15年1月30日の事でした。

    その12年後の永禄元年、九州豊後の大友が宇和郡に大寄せして来た時の事。度重なる戦の末、永禄3年9月に宇和の領主西園寺真光卿が降伏しますが、吉田の石城を守備していた土居一族は降伏を拒否。孤軍奮闘し自刃の道を選びます。清良記によれば、この時石城に所有していた鉄砲は僅か100挺。とても大友勢の物量には叶わなかったのでした。

    その後、一族から御家の再生を託され土佐に落ちた清良公は、一条兼定卿の扶持を受けて土佐国幡多郡高島を領地し、幾つもの功績を上げ、永禄5年7月に遂に三間の大森城への帰城を果たします。その清良公が強い国造りの為に力を入れたのが『農業』、そしてもう一つが『鉄砲』でした。永禄8年に江州甲賀の薬師堂から鉄砲鍛冶を招くと、周りの武将の目に触れないように研究と改良を重ねます。有名な天正9年の橘合戦では、実に600挺の鉄砲を数える事ができます。


□『巻九』を紐解く

    『巻九』は忍び頭、丹波と丹後の生い立ちから始まります。祖父は荒尾忠兵衛といい、清宗秘蔵の侍で、父大八は石城で名誉の死を共にしています。その後、丹波と丹後は三間の落人に商いの指南をしていましたが、清良公が帰城してからは忍びとしての才覚を現し、江州甲賀の鉄砲鍛冶を三間に招きます。三節は土居の侍衆が鉄砲を研究し改良して行く様子が大変興味深い読み物となっていますが、この事によって清良公は最強の鉄砲隊を備える事ができたと考えられます。

    一方その頃一条尊家(兼定)との戦は、一条と豊後勢の連携により、なかなかの苦戦を強いられていたようです。というのも河後森城主法忠(教忠)が一条尊家の弟、東小路法行の子であった為、河後森城は土佐勢を招き入れては戦を逃れ、敵か味方か分からなくなる始末。この事態に、宇和郡の領主達は西園寺卿に河後森の城主差替えを願い出ますが、西園寺卿は事を荒立てようとせず、次第に領主達が不満を募らせて行く様子が伺えます。

    また近隣の村との諍いが記事となっています。八節では、土居の中村と吉波村との間で牛を巡る諍い。九節では、周知郷との間で山を巡る諍い。またその諍いは遺恨となって乱暴を働く者が表れ、赤浜右近、白木左近の家老衆を相手取り、西園寺卿の前で申し開きをする事となります。ここで分かる事は、土居の侍は、どんな事があっても仲間を守る、どんな事があっても絶対負けないという気概がある事です。その気概と喧嘩の仕方は倣うべき事かもしれません。


□お知らせ

    さて、次回は『巻十』となるべき所ですが、特別に『巻二十三』を行いたいと思います。ここには清良記の中でも特に有名な岡本合戦と橘合戦が紹介されています。しかし、実際には清良記をよく読まないまま間違ったイメージが広まっており、清良記が紹介している岡本合戦と橘合戦がどういう合戦であったかについて、正しい知識を広めたいからです。そして今年は天正9年から432年になりますので、合戦場一帯の現地検証を『清良記を紐解く会』で行いたいと考えています。また、3月23日(日)には鬼北町主催の『清良記シンポジウム』が開催されますので、是非皆さんのご参加をよろしくお願い致します。




□平成26年2月26日(水)『清良記を紐解く会』世話人:松本敏幸(連絡先:090-1320-1508

# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-10 22:00 | 郷土史
【第8回は昨年の正月の記事ですが、今年は二回目の正月も迎える事ができ、清良記の勉強会が続けられている事に本当に感謝の思いがします。そして三年目となる今年は、長宗我部氏所縁の岡豊、長浜、浦戸を一泊二日で訪れる予定です。多くの方が参加して下さいますように宜しくお願い申し上げます。ちなみにこの回から三間史談会の回数に合わせてテキストを作っています。幡多郡青年読本は一条兼定公の放逸と土居宗三の最期についての資料ですが、清良記ではこのような不名誉な記事については扱っておらず、非常に一条家贔屓である事が伺えます。】


□清良記を紐解く会・第八回

    新年明けましておめでとうございます。昨年六月から始まった清良記を紐解く会も今回で第八回を迎えました。当会は、後継者の育成、新会員の獲得、二十周年記念事業に向けて若手に活躍の場を与えていただけるように願って実現した夜の勉強会です。三月にテレビ愛媛で大森城址と三間町の文化財『清良記』が紹介され、この時こそ清良記を紐解く勉強会をするべきと一念発起したのが始まりとなりました。これまで史実か否かという見方から研究される事が多かった清良記ですが、当会では先ず清良記に何が書いてあるか正しく理解する所からアプローチを始めています。故に清良記自体を読む事が何より大切です。毎日少しづつ何回も繰り返して清良記を読まれる事をお勧めします。そうすれば土居清良公や著者水也の心が分かって来る事でしょう。


□『巻八』を紐解く

    今回は巻八を紐解きます。巻八も様々な話題に富んでいますが、先ず話題となるのが中村に残して来た人質の奪還です。それは一条との決別を意味するのですが、なぜ清良公がそれを決断したかという理由が初めに述べてあります。それは土佐を席巻し勢力を拡大していた長宗我部元親の存在でした。もし一条と決別しなければ行く末は元親の旗下となり、大友の支配下にある宇和の旧領主と戦しなくてはならなくなる可能性があったのです。

    さて清良公は人質を奪還する為に忍者の丹波を呼んで策を巡らしますが、それが史実であるかという事より、当時の忍者が人質を奪還しようとする時どのように知恵を巡らせるのか伺い知れる貴重な話となっています。そして永禄七年七月七日の夜、お松とお初を無事に三間に連れ戻す事に成功したのでした。また清良記の記事によると、この事は一条にとっては大した問題とはならなかった事のようです。

    一条との戦の始まりは、十月十二日から十四日に掛けて土佐の番手衆との間で争いが起こり、番手を全て土佐に帰した事から始まったとしています。またこの動きを察知した法花津法宣が、島津との戦や毛利との不和で隙があった豊後から宇和の人質を取り戻す事に成功し、永禄七年十一月、宇和郡は再び西園寺家に立ち返る事になります。

    そして後半の話題となるのが清良公と西園寺家との和睦です。清良公にとって西園寺家は祖父や父を見捨てた怨みがあります。しかし、祖父や父は西園寺家への忠誠の為に死を選んだのであって、自分が西園寺家に背くような事があっては祖父や父の死が報われなくなってしまいます。そこで清良公と西園寺家の和睦の為に活躍したのが山田治元でした。山田治元は西園寺家の旗本でしたが清宗の娘を嫁にもらっており、清良公にとっては叔父の一人でした。清良公は、山田治元、有馬能信、妙覚寺の法田和尚、元成寺の一花和尚の四人に和睦を勧められ、十二月に西園寺家の娘との祝儀が調うのでした。


□幡多郡青年讀本 續(10)十七、土居宗三

    此頃、兼定卿漸く政に倦み、放逸度なし。甞て郡内平田村に遊獵し、百姓源右衛門の女お雪を見て之を喜び、妾となして平田に置く、時人嘲りて平田の入聟といふ。宗三之を諌めて日く、「此頃世上の取沙汰には君を平田入聟と呼べり。是れ實に家門の御耻辱なり。幸に宗三が諌を納れ給ひ、御過を改めらるれば御家門長久なるべし。是をしも猶お聽入なく、奇怪に思召すならば、先づ宗三が皺首討たれ候ひて、其の上御勝手に働かせ給ふべし。」と云ひければ、兼定卿大に怒り、「諌言は君臣父子の常なりとはいへ、皺首討てとは過言なり。」と刀を按じて起つ。宗三少しも騒がす、近士に向ひて日く「諸公能く聞き置かれよ。此の宗三罪せられなば、遠くは三年近くは今年の中、御運必ず極まるべし。其時後悔ありて必ず宗三を思ひ出さるべし。」と、兼定卿遂に宗三の首を落す。




平成二十六年一月二十六日(日)清良記を紐解く会・世話役  松本敏幸(連絡先:090-1320-1508)




# by kiyoyoshinoiori | 2015-04-09 15:00 | 郷土史

清良記を紐解く会の資料と活動を公開します。\(^o^)/


by 清良の菴(きよよしのいおり)さん