今年度も前年度に引き続き『清良記を繙く』をさせていただく事となりました。前回は全体の概要について解説をしましたが今回は有名な合戦をピックアップして解説致します。
第1回目の今日は巻11、巻19、巻23の合戦の現地研修で土居中の清良神社、迫目の妙覚寺、土居垣内の岡本城で三間の地形を視察しました。
『清良記を繙く』は後3回。毎月第4土曜日の午後1時半から行います。7月は巻11、8月は巻19、9月は巻23となりますので関心ある方は是非三間公民館までお問い合わせ下さい。(^_−)−☆

第三回『清良記』・後半
元亀三年正月、清良公が一条尊家と和議を結んだ事で三間に平和な一時が訪れます。清良公には嫡子太郎重清が誕生。翌年の天正元年には先祖の供養をする為、高野山、熊野三山、伊勢神宮に参詣しますが、戦国時代の最中にあって本当に驚くべき記事ではないかと思います。しかし、その十一月に元親は遂に土佐から尊家を追い出して、いよいよ清良公と元親との決戦が始まろとしていました。
第三回は、このまま清良公の隠棲までを語りますが、全てを語り切れない事をご了承下さい。そして、またいつか一緒に勉強会できますように。
高野山参詣(巻十七)
天正元年は、永禄三年に石城が陥落して十三年が過ぎた年、清良公は先祖の菩提を弔う為に高野山に参詣する許しをもらいます。船の案内は来島飛騨守。来島氏は、来島城主村上通康の四男通総が秀吉から重用されて祖となり、後に河野氏、村上氏、毛利氏に反旗を翻す事になります。
出立は三月五日、来島の瀬戸より船を出し、道中は海賊共を打ち払いながら到着したのは「天保の津」という所。ここは現在の三重県津市と考えられます。戦国時代は信長の子信包の領地でしたが、慶長四年から十三年の間は富田信高が領地しています。
清良公が高野山で宿泊した宿坊は小田原上蔵院。上蔵院は、河野氏が伊予国人の宿坊として定めており、清良公は一族と討死した被官の為に一万本、又、病死した者の為に二千本の卒塔婆を供養し、僧房に布施をして帰路に就いたとあります。
その道中に熊野参詣、伊勢参宮を果たし、大阪には行きも帰りも逗留し、大阪の出立は六月二十日、海上日和順風良く、来島へは同二十二日の帰着となりますが、実に三ヶ月を要する旅でありました。
清良の撫民(巻十八)
天正元年は、また大旱魃と長雨を繰り返す年でもありました。四月二日から五月朔日まで雨降らず、二日から七月六日までは雨降り続くとあり、清良公が大雨の中で帰郷した事も分かります。そのような中で起きるのが飢饉です。清良公は宗案を呼び相談した上で十二月に領民に米を配りますが、その米は籠城する時に、兵糧米として備蓄しておかなければならない筈の米でした。しかし、清良公はこう言います。
「我が領民は、それぞれの家職上手にして、勇なる事は武士にも劣らず。彼ら物前にて勇み進んで敵の備えを打ち破る時は、金をして北斗を誘う如くなり。民を養う事は古の聖君、堯舜もなおやめりと言えり。懸る時を於いて民を救わずば領主たらず」と。
長宗我部元親との合戦
巻十八に拠れば、元親勢が伊予に手を下した初めは、天正二年十月まで続いた渡川合戦にて、元親に従わなかった土佐者が、元親の機嫌を取る為に河原渕口に侵入したのを始まりに、十一月二日には元親の侍大将福富隼人が河後森城を巻き詰めます。
困ったのは河原渕教忠です。尊家の時は戦わずに城を明け渡していた教忠も、此度は西園寺に後詰を願い、清良公には加勢を頼みますが、面白くないのは清良公です。
「旗頭の下知なくては、自分より計らいがたく候」と、西園寺から言われんと行かんでと返します。
そして十一月十一日が初合戦。敵大将は福富隼人と国吉刑部でした。巻十九からは山内外記が土佐の大将として登場します。山内外記は一条氏の旧臣の中では非常に評価の高い武将ですが、清良公を破る事はできず、三間は土居七口の鑓と言われます。
しかし、戦は武略だけが全てではなく、宇和郡は調略という形での切り崩しが進められて行きます。その内通者となって行くのが芝美作と一覚ですが、巻二十には「天正八年に芝美作が公広卿を欺きて、河原渕、定延、西の川、魚成、北之川、此の五カ所元親に取られける」とあり、その最中に起きるのが有名な【岡本合戦】という事になります。
輝元への加勢と信長からの調略
岡本合戦は、天正九年五月二十三日の夜に起きる戦ですが、突然起きた合戦ではありません。先ず巻二十一には、天正七年正月に西園寺公広が信長の執事楠長庵に調略されており、毛利輝元との手切れを唆されています。そして同八年に手切れとなりますが、長宗我部に宇和郡を侵略させない後盾になってくれていたのも毛利輝元だったのです。その流れで天正八年の三滝合戦、天正九年の岡本合戦が起きたと見れば、直後に起こる信長の四国攻めも理解ができるのです。一度は元親に四国を好きにさせた筈を完全に反古にして三好松岸に阿讃を与えます。
ところが歴史はどんでん返し。信じられない謀反が起こりますが、明智光秀が率いた本能寺の変です。信長は自刃し、三好は畿内に逃げて形勢は元親有利。ところが光秀は討ち取られ、秀吉によって四国征伐が成されて行くのでした。
下城(巻三十)
時は天正十五年十月下旬。清良公は「背くべき代をし我から背き来て、背かれけりな時や来ぬらん」と詠みて、竹ある岸の下水の潔く流れける方に、昔も懸る事のありけん、その名を「隠れ宿」という所に、細々と浅ましく、庵引き結ばせて入られける。嘆くべき道ならぬとは言いながら、昨日まではさも勇ましかり武士、旗下とは言いながら、六百余騎の大将、手前の士ばかりも二百余騎に守護せられし人の、いつしか今日は引き替えて、主従二十人ばかりの外は、出入りの事も無用なりとあるは、哀れとも言うばかりなり。と『清良記』は隠棲した清良公の悲しげな姿を描きます。
隠棲した後の清良公は、戸田政信や藤堂高虎などからの「丸串城代に取り立てたい」という申し出は断わって、新領主に歯向かい謀反を起こそうとする古い仲間とも組みせず、ひたすら気を静めるように説得役を買って行きますが、それは賢く振る舞って殺されたくなかったからではありません。
清良公は「古代の味方を狭めて、当代の強き方へ付き、褒美の米を受けては人の志す所なく恥ずかし」と言い、また「知行を取りて城を守るべきは政信の被官なり、知行とらで守るべきは門番に似たり」とて、遂に受けを申されざりと苦しい胸の内も漏らしていますが、このような清良公の内心は、下城する際に詠んだ歌の中に集約されています。
つまり、清良公は石城で親兄弟と一緒に死にたかったのですが、それが許されず、今日まで土居家の当代を勤めて来ました。故に、命を顧みぬ程の気概を持って、義を貫き通す生き方ができたのですが、遂にそれに背く時が来たという事なのです。(松本)
・富田信高(とみたのぶたか)
生年不詳。寛永十年二月二十九日没
秀吉の家臣。慶長四年に津藩主
慶長十三年九月に宇和島藩主
・藤堂高虎(とうどうたかとら)
弘治二年一月六日生。寛永七年十月
五日没。秀吉の家臣。天正十九年に
宇和島藩主。慶長十三年に津藩主
・河原渕教忠(かわらぶちのりただ)
生没年不詳。河後森城主
土佐一条氏の東小路家から伊予の
河原渕家に養子に入る。蕨生に蟄居
・西園寺公広(さいおんじきんひろ)
天文六年生。天正十五年十二月
十一日没。来応寺の僧だったが
還俗し宇和郡旗頭となる。
・河野通直(こうのみちなお)三十九代
永禄七年生。天正十五年
父村上通康、母宍戸隆家の。
毛利輝元の甥に当たる。
・毛利輝元(もうりてるもと)
天文二十二年生。寛永二年没
祖父毛利元就。父毛利隆元
妻宍戸隆家の娘。通直の伯父
・織田信長(おだのぶなが)清良記は将軍という
天文三年生。天正十年六月二日没
尾張国古渡城主。足利義昭を担ぐも
元亀四年には義昭を畿内から追放。
・楠 長庵(くすのきちょうあん)楠木正虎
永正十七年生。文禄五年一月没
楠木正成の子孫と自称している。
織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣
・三好松岸(みよししょうがん)父三好長秀
生没年不詳。阿波岩倉城主
別名に笑岩、咲岩、康長、康慶
織田信長、豊臣秀吉に仕えた家臣
・明智光秀(あけちみつひで)惟任日向守光秀
享禄元年生。天正十年六月十三日没
織田信長の重臣。本能寺の変首謀者
長宗我部元親を調略したとされる。
・豊臣秀吉(とよとみひでよし)戦国一の出世頭
木下→羽柴→藤原→豊臣。関白→太閤
天文六年生。慶長三年八月十八日没
天正五年中国攻め。十三年四国征伐
・戸田政信(とだまさのぶ)勝隆、氏繁、氏知
生年不詳。文禄三年十月二十三日没
豊臣秀吉に仕えた家臣。古参の直臣
天正十五年伊予に入部。圧制を敷く
第二回『清良記』・前半
清良記の前半で絶対に外せない話は「石城合戦」です。ここに戦国武将としての土居清良公の原点があると言って過言ではありません。なぜ石城合戦で土居氏は自刃の道を選んだか。自刃にはどのような意味があったか。その時に清良公に託された使命と心の内を知れば、清良記の謎、その読み解き方が自ずと理解できるようになります。
又、前半で欠かせないのが土佐の一条尊家公との関係です。清良公は土佐落ちして、一旦は一条公に仕えながら三間大森城に帰城を果たしますが、謀叛の嫌疑を掛けられて戦に突入。しかし、長宗我部氏の台頭が目に余るようになると、宇和の西園寺氏と土佐の一条氏に和議を結ばせて行きます。
石城合戦(巻三)
石城合戦では土居氏の一族郎党上臈下婢に到るまで百二十二人が自刃します。その内訳は末座より腹を切りはじめますが、大将宗雲、嫡子清貞、二男雲影、四郎清永、五郎清象、六郎清由、七郎宗明、八郎宗真、九朗宗信、宗光、清延、為友、孫二十三人、郎党四十九人、上臈下婢三十八人でした。
・辞世 大将伊豆守清宗入道宗雲大居士
柱石武門威気新 巻旗今去宝楼場
安禅只豈借山水 除却気情火自涼
・辞世 嫡子備中守清貞
挙旗法戦城 陣脚幾影名
智劔出来看 心頭日日明
・辞世 二男真吉右衛門入道雲影
長守鉄城定弱強 功成名遂別無望
南軍左祖非吾事 覚了法身此戦場
そもそも石城には天文十五年三月朔日、宇和旗頭西園寺公の懇願があって、立間、喜左方、立間尻、三百貫を領地したものでしたが、豊後大友の大寄せが始まると、永禄三年九月十一日に西園寺公が降伏してしまいます。土居氏がなぜ降伏せず自刃したかについては、巻二最後にある宗雲の言葉、また巻三の五章「石城崩れの事」にある妙栄の言葉に理由を探す事ができます。「侍は名こそ惜しまれ申し候え」という宗雲、「すべて心静かに自害して、首を敵にとられざるを高名にせよ」という妙栄の言葉からは、どこまでも名誉を重んじる土居氏の気魄を伺う事ができるでしょう。
そして、妙栄は十五歳の清良公を土佐に落として家の再興を託す提案をしますが、聞き分けないのが清良公。共に死にたいという清良公を大いに叱り、九月二十九日夜から三十日暁に掛けて、四人の家老と姉お松、小姓衆を合わせ七十余人での土佐落ちを決行させて行くのでした。
土佐落ち(巻四)
巻四の一章は「清良、土佐へ落ちられる事」ですが、すぐに土佐に出立できない清良公の姿が描かれています。そして、一族自刃の報を聞くと意を決し、土佐に向かいます。自刃は永禄三年十月五日朝の事だったといいます。
土佐で頼りとするのは土佐一条氏初代房家の時から家老を勤める土居宗三=土居近江守家忠です。家忠は房家の弟でしたが、宇和西園寺と土佐一条の和議があった際に土居の娘お初を娶り、土居の武功にあやかって土居姓を名乗っていました。
清良公はいくら祖父母の考えであったとしても、もし家忠に受け入れてもらえなければ、刺し違えて死ぬ覚悟をしていましたが、その心配もなく大変な歓迎を受ける事になります。そして、一条尊家から高島に百貫の領地を与えられ、高島岡の前に居住したとありますが、高島は現在の竹島の事で、当時は事情があって領主不在の地となり家忠の預かり分となっていました。
大森帰城(巻六)
尊家に忠義が認められた清良公は永禄五年七月十二日に晴れて三間大森城への帰城を果たします。時に清良公十七歳、皆が喜びの余りに転げ回る程、上も下もなく飲食を持ち寄っての宴会となります。
翌十三日は旧領主達との接見。十四日には魂祭りを準備。それは「生ける者どもを一飯にても助けん」という清良公の願いからでした。それに一花、法田両和尚も賛同し、十五日には大森城にて三間の全ての領民に赤飯が振舞われたのでした。
親民艦月集(巻七)
度々の飢饉に疲弊する領民の姿を見て、清良公が力を入れた一つが農業でした。巻七は「親民艦月集」と呼ばれる日本最古の農書として有名ですが、ただ農業技術だけを求めた清良公ではありません。先ず「上農」という言葉があり、「五戒五常」を行う事を第一とした国作りをして行かれました。
第一 神祇を祭り公儀を立て法に背かず
第二 五穀を時節相応に仕付け、小作として菜園
を能く仕、妻子に菜園の取り様を教え
第三 大作とて木竹を植え実を取り家の修理し
第四 野宝とて牛馬を持ち犬猫鶏をやしなひ、猫
は鼠をおさへ、犬は火事盗人の用心、鹿兎
をして作を荒らさしめざるため、鳥は時を
知るため
第五 下人小供等を扶持すべき心おこたらずし
て賄をよくし
第六 公事喧嘩をせず
第七 見物、色好みをせず
第八 居所、衣食を擅にせず
第九 氏・系図・達をいはず
第十 猟漁りをせず
この末五つのせぬ事をせずして、上の五つに精を強く入れ、諸事倹約を本として衆寡孤独を憐れみ、夫婦納得仕るを上農の大筋目の心持に致し候。されば上農は居所を専らにする事武家にて屈強の城廓を構えられるが如し、上分の居所は背後に山を負って、前には田を踏まえ、左に流れを用いて、右に畠を押え、云々と、これらは現代の私達の生活信条にも通じており、三間の気風にしてはと思えるような内容があります。
清良の謀反(巻八)
永禄七年正月二十日、清良公の心配事は長宗我部の台頭でした。このまま一条が長宗我部に下るような事が起これば、人質を取られている清良公もまた長宗我部に下らなければならなくなります。清良公は忍びに人質の奪還を命じますが、七月六日の夜半過ぎにお初とお松を忠家の屋敷から連れ出す事に成功。七日の暮れには輿で三間まで帰り三嶋神社に匿われますが、尊家の咎めたてはなかったといいます。この出来事の前の月、尊家は諫言をした家忠を誅殺しており、何かしら負い目なり思うところなりがあったからではないかと思います。
そして、十月十二から十四日に掛けて起きた一条の番手衆との諍いが発端となり、十二月には一条軍との合戦が始まります。これが清良公初めての軍法でした。
鉄砲鍛冶(巻九)
合戦となり清良が力を入れたのが鉄砲鍛冶です。永禄八年に忍び丹波と丹後の才覚で、江州甲賀薬師堂玄蕃吉久という鉄砲鍛冶の一団を十三人、三間に招き入れ、昼夜を問わず鉄砲の生産と改良を行っていきます。石城合戦では水が勝敗を握ったとも言われますが、実際には鉄砲の数が決定的な敗因だったのです。
一条尊家との和睦(巻十五)
巻十三を読むと、尊家は長宗我部への疑いを持ちながら、先ずは伊予の三間を従えようと考えていた事が分かりますが、巻十五では贈り物でも張り合う清良公と尊家の関係に驚きます。そして、長宗我部の侍江村備後が土居を調略し、共に手を組んで尊家を亡ぼすなら宇和の旗頭に取り立てようと話を持ち掛けてきた時、清良公は調略に乗ると見せかけて元親への密書を奪い取り、尊家に渡して元親の陰謀を明らかにします。清良公に感謝と信頼の思いしかなくなった尊家は、全ての人質を大森城に返すのでした。 (松本)
人物の紹介
・土居清宗(どいきよむね)石城で自刃
土居家十一代。清良の祖父
入道し宗雲と名乗る。石城の城主
妻は河野通高の孫で通頼の娘妙栄
・土居清貞(どいきよさだ)石城で自刃
土居家十二代。清宗の嫡男
大森城主。娘にお初、お松がいる
末の嫡男良元が後の真吉新左衛門
・真吉清影(さねよしきよかげ)石城で自刃
入道し雲影と名乗る。嫡男影頼も自刃
土居清宗の次男。真吉家の家嗣だった
・土居宗三(どいそうさん)土居近江守忠家
土佐一条初代房家の弟で筆頭家老
土居清貞の娘お初が後妻に嫁ぐ
前妻との間に嫡男土居治部がいる
・一条尊家(いちじょうたかいえ)土佐一条四代
天文十二年生で清良の三つ年上
天正十三年七月一日没(四十三)
母大友義艦の娘、後妻大友義鎮の次女
・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)十五代
天文八年生で清良の七つ年上
慶長四年五月十九日没(六十一)
ファン申請 |
||